1.水中の話
一週間後の朝。
神凪高校2年3組の生徒はイキイキと過ごしていた。
ホームルームが始まる前だけあって、休み時間のような空気になっている。
そんな中、出席番号36番矢野口恭也は、一人席に座ってスマホを眺めていた。
髪の毛をイジりながら、どこか哀しそうに溜息を吐いている。
「オ~ッス恭ちゃん!」
突然両肩を掴まれ、恭也は仰天した。
慌ててスマホを両手で覆い隠す。
「なんだ、一喜か」
「へへへ!恭ちゃんビビりすぎだろ!」
出席番号16番滝川一喜は、ケラケラと笑っている。
恭也と一喜は、親友という関係だ。
「ところでスマホで何見てたんだ?」
「内緒」
「何だよそれ~。気になるじゃんか。もしかして出会い系か!?出会い系なのか!?」
「なんで出会い系なの?ていうか違うよ」
「はぁ~。俺も彼女欲しいなぁ~」
一喜は両手を後頭部に回してそう言う。
そのタイミングが重なるようにして、教室の扉が開く。
「………えっ?」
教室に入ってきたその生徒を見て、恭也は少し驚いた。
「……恭ちゃん、あの娘って」
「うん………」
出席番号10番九重里桜。
金髪ショートに赤いメッシュが印象的な女子生徒だ。
制服を着崩し、スカートを折り、カーディガンを腰に巻いている。
彼女はサボりの常習犯で、教室にいることは滅多になかった。
そのためか、クラスメイトの何人かも話を止め、里桜に注目している。
「……」
目線に気づいた理桜は、恭也と一喜の方に近づいてきた。
剣幕に圧されたのか、一喜は一歩下がる。
それには気にせず、理桜は恭也に向かって口を開いた。
「あのさぁ」
「……何?」
「アタシの席、どこだっけ?」
理桜は困った表情を浮かべている。
何日も登校していないせいか、自分の席を忘れてしまったようだ。
「あぁ、それなら窓際の3列目だよ」
「そっか。ありがとう」
理桜はお礼だけ言うとすぐさま自分の席に向かった。
「九重さんだっけ?何かヤンキーって感じだけど美形だよな~」
一喜が呑気に呟く。
そんな独り言を聞き流し、恭也は廊下側の一番前の席に目線を向けた。
そこは、一週間前に事故死したクラスメイト、出席番号32番三日月万桜の席だった。
“タンッ!”
プールの岸に、出席番号3番魚住栄太は思い切り手を置いた。
コーチのタイムを聞きながら、栄太はプールから上がる。
「魚住、もう少しで新記録が出そうだ。調子を崩さずにいこう」
「はい!」
元気良く返事をし、栄太は向かいの岸に戻る。
神凪高校のプールは室内に設置されている。
そのため栄太達水泳部は、秋や冬でも練習をすることができるのだ。
現在水泳部員達は、タイムを計測しているところだ。
他の部員が次々と泳ぎ終わり、再び栄太の順番が回ってきた。
「位置について。よ~い───」
ホイッスルの音と同時に、栄太はプールに飛び込んだ。
得意のクロールでどんどん前に進んでいく。
(よし!調子いいぜ!この調子──────)
息継ぎをし、顔を水中に入れた時だった。
プールの真ん中に、何かがいた。
両目が無い、大きなサメに似た化け物だ。
身体の表面は暗い黄色をしている。
(なっ……何だあれ!?)
化け物は栄太を見るなりゆっくり口を開く。
その大きさは、化け物の体の三分の一程を占めていた。
赤茶色のものがこびり付いた、鋭い歯が剥き出しになっている。
(うっ…うわぁああああああ!!!!)
計測中なのを忘れて、慌ててプールから飛び出す。
コーチや他の部員が唖然とする中、プールサイドを走る。
それから更衣室に入り、隅で震え出す。
(何だよ何だよ!何なんだよあれ!ヤバいって!絶対ヤバい!!)
「魚住!大丈夫か!?」
突然様子がおかしくなった栄太を心配し、コーチが更衣室に入ってきた。
栄太は自分が見たものを話す。
「化け物が!プールの中に化け物が!!」
「化け物?そんなものはいなかったが……」
「ででででも!確かにいたんですよ!俺さっき食われそうになったんですよ!ホントなんですって!」
「お、落ち着け魚住!」
コーチは栄太の両肩を掴む。
「……魚住、今日はもう帰って休め」
「コーチ……」
「きっと疲れてるんだ。疲れで幻覚を見るってのはよくある話だからな」
「……何だ……幻覚かぁ」
「まぁ、そういうことだ。気をつけて帰れよ」
コーチはそれだけ言い残し、更衣室から退出した。
他の部員の指導に戻ったようた。
「はぁ……。俺、そんなに疲れてんのかなぁ……」
栄太はポツンと椅子に座り、水泳帽を取った。
コーチに言われた通り、栄太は制服に着替え、帰路を辿っていた。
体の方は、寧ろ健康そのもの。
まだ泳ぎ足りないくらいだった。
「自分の体は自分が一番解ってるとか言うけどなぁ。幻覚とか言うし、やっぱ精神的なもんなのかなぁ…」
後からしてみれば、幻覚というのには納得がいく気がした。
冷静に考えると、プールの中に化け物がいること自体現実離れしている。
「あり得ねーよなぁ。あんな化け物がプールにいるとかなぁ。見た目が完全に架空のモンスターだったしなぁ」
そう呟いていると、帰り道の途中にある橋を通り掛かった。
「おっ、魚いるかな~」
栄太は橋から川を見下ろした。
水位は腹部の高さまであり、ちょこちょこ魚影が見える。
「カワムツか?あれ。あんなの見えなかったらもっと泳げたと思うんだけどな~」
栄太は水泳が好きだ。
幼稚園の頃から習っており、中学高校では全国大会にも出場しており、将来はオリンピック出場も考えている。
今までの栄太の人生は、水泳と共にあったと言っても過言ではない。
「………」
栄太はボーッとしながら川を眺めている。
競技としてだけでなく、何かに行き詰まった時にも気分転換として泳いでいた。
泳ぎ足りないだけに、どこかモヤモヤしていた。
そんな時─────────
『ボーッとしてていいの?』
突然耳元でそう囁かれた。
どこか聞き覚えのある女性の声だった。
我に帰った栄太は振り返ったが、誰もいない。
不思議に思いながら、再び川に視線を移した。
「!!??」
栄太は仰天した。
川には、プールで見たあの化け物が泳いでいたのだ。
化け物は栄太の方に顔を上げ、ゆっくり口を開く。
プールにいた時よりも大きく開いており、どこか嘲笑っているように見えた。
栄太は慌てて橋から逃げ出した。
「栄太どうした?体調でも悪いのか?」
「えっ!?あ、あ~いや?別に?」
夕食時、栄太は父親からそう聞かれ、適当な返事をした。
「そうか?ならいいけどな~」
父親はそう言いながら、肉じゃがに箸を伸ばす。
正直のところ大丈夫ではない。
プールに続き、川にもあの化け物がいたのだ。
例え疲れから来る幻覚だとしても、気味が悪い。
(あんなの2回も見るなんてなぁ)
そう思いつつ、栄太は白米を口に入れる。
化け物の姿を思い浮かべると、食欲はあまり湧かなかった。
明日今まで通り水泳を楽しめるかどうか、不安になっていた。
「栄太、お水いる?」
「う、うん、お願い!」
母親がガラスのコップに水を入れて渡す。
栄太はコップを受け取り、水を飲もうとした。
「!?」
違和感を感じ、栄太はコップを見た。
透明である筈の水が、急に暗い黄色に変わった。
嫌な汗が流れる。
そんな異常があるにも関わらず、栄太はコップから目が離せなかった。
暗い黄色のものが下降していくように見え、今度は赤茶色ののギザギザしたものが映った。
それが開くと、中には赤黒くヌラヌラした軟体動物のようなものが動いていた。
「うおっ!!」
それが化け物の牙と舌だと解り、栄太は慌ててコップから手を離した。
コップの中身が全て零れる。
テーブルにできた水溜まりが、化け物の姿を映していた。
「うっ……うわぁあああああああああああああああ!!!!!」
父親と母親が呼び止める声を無視し、栄太は自分の部屋に逃げ込んだ。
ベッドに入って毛布をかぶり、ガタガタと震える。
(ヤバいって!マジヤバいって!何なんだよあれ!何で俺のところに出てくるんだよ!)
気づけば恐怖で涙が出てきていた。
ただ幻覚だと信じたいところだが、ここまで来るとそうとは思えなかった。
「栄太!」
「栄太?どうしたの?大丈夫?」
心配した父親と母親が部屋に駆け込んでくる。
「か、母ちゃん父ちゃん!今は一人にしてくれ!頼むからぁ!」
栄太は体全体を毛布で包み込んだ。
両親は互いに心配そうに顔を見合わせ、やがて静かに部屋から出て行った。
「ハァ……ハァ……。ふざけんなよ…。何なんだよマジで…。何で俺がこんな目に遭わなきゃなんねぇんだよ……!」
昨日まで何の恨みも買うことなく、高校生活を満喫できていた。
水泳だって調子が良かった。
正体不明の不気味な化け物に付け回される理由が解らなかった。
“♪♪♪”
突然スマホの通知音が鳴り、栄太は体をビクつかせた。
「なっ……何だよ…」
栄太は部屋中を警戒しながらベッドから降りる。
机の上に置いてあったスマホを手に取り、機動させた。
港から撮った海の写真が待ち受け画面として現れる。
“ユラァ……”
「!!?」
何の前触れもなく、スマホの画面が波紋を描くように揺れた。
「まっ……さか…!!」
危険を察知し、栄太はスマホから手を離して飛び退く。
しかし遅かった。
小さなスマホの画面から、あの化け物が巨大な口を開けて飛び出してきた。
「うっ───────────────」
叫び声が上がる間もなかった。
化け物は栄太の首を喰い千切った。
大量の血が噴水のように吹き出し、天井や壁を赤黒く汚していく。
倒れた栄太の体を中心にして、血溜まりができた。
化け物は舌で鮮血を舐め取り、栄太の体に齧り付く。
“ガリッ……ガリッ……………ゴリッ……”
肉だけでなく、骨まで噛み砕いている。
化け物は口の中の物を味わい、満足すると、床に落ちていたスマホの中に戻っていった。
部屋には大量の血痕だけが残っていた。
九重里桜
今作主人公。少し無気力でグレている。
矢野口恭也
親切で、人が良い雰囲気。
滝川一喜
恭也の親友。
三日月万桜
事故死した生徒。
魚住栄太
水泳部。水泳が生きがいだった。