22.やつれた話
翌朝6時。
万桜は目を覚ますと、体を起こした。
目の前にあったのは、机の上に開かれた数学の問題集とノート。
どうやら自習をしているうちに、いつの間にか机に突っ伏して寝てしまっていたようだ。
灯りも点けっぱなしだ。
「………大丈夫なのかな……私……」
万桜は額に手を当てて呟いた。
自身もまさか、寝落ちしてしまうとは思っていなかった。
「お前が寝るために机を買ってやったのではない」。
もし父が今の光景を目にすれば、きっとそう言うことだろう。
少しベッドで横になろうかと、万桜は椅子から立った。
しかし、そこでバランスを崩してしまった。
万桜は両手を床に着いて倒れた。
「…………気持ち悪い」
頭がぼんやりし、重く感じた。
瞼も気を緩めれば、すぐに落ちてしまう。
それに、髪の毛を触ると少しベタついていた。
思えば昨日は風呂に入っていなかった。
現在の服装も制服のままだ。
「シャワー、浴びてこようかな……」
学校が始まるまで、まだ時間がある。
万桜は着替えを持って浴室に向かった。
廊下には誰も居ない。
今頃キッチンで家政婦が朝食を作っている頃だろうが、万桜は無視して進んだ。
洗面所で服を脱ぎ、浴室に入る。
浴室の鏡で、万桜は今日初めて自分の顔を見た。
昨晩父に殴られた左頬が腫れていた。
「………」
万桜は一度、自身の左頬に触れる。
少しヒリッと痛みが走った。
しかしそれに気にすることなく、万桜はシャワーを浴び、体の汚れを落とした。
温かいお湯で目も覚めた。
浴室から出て、タオルで濡れた体を拭き、着替えようとした。
「……えっ?」
万桜は呆然とした。
洗面所に置いておいた筈の、着替え用の下着が無くなっていたのだ。
「何で…?ちゃんと持ってきた……筈……」
万桜は頭を抱えた。
着替え用の制服はちゃんとある。
無いのは下着だけ。
どちらも持ってきた記憶があるのだが、その時は寝ぼけていたため、忘れていた可能性もあった。
「持ってくるの……忘れてたのかな…………」
万桜は首を傾げた。
狐に摘ままれたようだった。
結局洗濯籠に放り込んでいた、前に穿いていたものを穿くことにした。
制服も着て、万桜は洗面所を出た。
自室に戻る最中、秀一と出会した。
「へぇw出来損ないでも早起きするもんだなw」
「……おはよう、兄さん」
「は?暗ぇ奴だな黙れやw」
「……」
万桜は何も言い返すことなく、自室に向かった。
秀一はニヤつきながら、そんな万桜の姿を目で追っていた。
家政婦に見送られ、万桜は家を出る。
それから学校に着くのはあっという間だった。
昇降口にて、靴を上履きに履き替えようと、自分の靴箱を開ける。
「えっ……」
万桜は思わず声を漏らした。
中に上履きが入っておらず、代わりに一枚の紙が入っていた。
万桜はその紙を取り出してみる。
『学校来るな死ね』
『ガリ勉ガチキモいw』
『キモすぎて草』
紙にはそのようなことが書かれていた。
ふと視線を感じ、万桜は入り口側の靴箱の陰を見た。
そこで乃愛が嘲笑いながら、万桜にスマホを向けていた。
見つかったことに気づくと、乃愛は笑い声を上げた。
万桜は紙を靴箱に入れ、靴下のまま昇降口から離れる。
その後来客用のスリッパを借り、教室に向かった。
結局上履きは清掃時間に、ゴミ捨て場で見つかった。
一日というものはあっという間だ。
時刻は夜22時。
今日もまた塾が終わり、家路に着いている。
今回塾の授業で難問が出され、万桜だけが解けたという出来事があった。
講師に褒められたが、万桜自身、何故だか嬉しくはなかった。
ただ愛想笑いをするしかなかった。
そんなことを思い返していると、昨日の公園に着いた。
「……」
寄り道がいけないことは解っている。
それを破って昨日父に殴られたのだ。
それでも、万桜は公園に入っていった。
思っていた通り、ブランコに里桜が座っていた。
万桜は里桜の顔が見たかった。
「九重さん……」
「んっ…、あっ、万桜」
里桜は万桜の方に手を振った。
万桜も手を振り返す。
「今日もここにいたんだね」
「うん。ていうかほぼ毎晩かな。気に入ってるんだ。ここ」
「そうなんだ…」
お互い昨日よりは少しスムーズに話せるようになっていた。
そんな中、万桜は浮かない顔をする。
「万桜?どうかしたの……?」
「……うん。…九重さんごめんね。今日は帰るね」
「えっ?帰るの?」
「うん……ごめんね…………」
そう言うと、万桜は公園の出口に早足で向かった。
本当はもっとここにいたかった。
里桜と話していたかったが、今度は父に何をされるか解らない。
故にここにいる訳にはいかなかった。
「待って!」
里桜が追いつき、万桜の腕を掴んだ。
この状況に、万桜は驚く。
「九重さん?」
「送ってく」
「えっ……」
「ほら、一人じゃ危ないだろうからさ……」
「あ、ありがとう……」
里桜に突然送っていくと言われ、少し動揺する。
しかし万桜にとっては、この日一番嬉しいことだった。
それから万桜は、里桜と一緒に歩き始めた。
「本当にありがとう。送ってくれて……」
「いや、そんな……気にしないで。……何かさ、今の万桜、一人で帰せないっていうか……」
「えっ?そんなに?」
「……だってさ、…万桜、何かやつれてるし、……左頬腫れてない?」
「やつれてるって……。私、そんなに酷い顔してる?」
「してる。てか、誰かに殴られた?」
「いや、そんなことないよ……」
「マジ?」
「本当。…本当だから……」
「……そう」
里桜はこれ以上踏み込んでこなかった。
万桜は左頬に触れてみる。
今の自分は、心配される程酷い顔をしているらしい。
自分でも解らなかった。
実は他の人達も内心、里桜と同じようなことを思っていたのかもしれない。
「……そうだ。九重さんは今日何してたの?」
「えっ?アタシ?」
「うん。今日も学校来てなかったし………」
「あ~……。……寝てたかな…」
「ね、寝てたの?」
「うん。まぁ……何か眠たかったし………」
「フフフ…。何それ……」
そう言ったところで、万桜はハッとした。
自分が久々に笑ったことに気づく。
驚きと同時に、少しおかしくなった。
「フフフ……」
「万桜?どうしたの?」
「ううん。何でもない」
「何それ」
不器用な感じではあったが、里桜もまた笑った。
このような話をしていると、あっという間に万桜の家に到着した。
「ここが万桜の家?」
「うん」
「そうか。じゃあここまでだね」
「……あの、九重さん」
「何?」
「明日も……会えない?」
「構わないよ」
「本当!?」
「うん。あと、“里桜”でいいよ。呼び方」
「そ、そっか……。じゃあ、またね、……里桜」
「うん。またね、万桜」
万桜は名残惜しそうに笑い、家に入った。
「……」
残された里桜は、ふと来た道を振り返る。
その道の先は暗く、はっきり見えない。
しかし……。
「……誰かいた?」
万桜と一緒に歩いている最中、里桜は何者かに尾けられている気がしていた。




