9.赤ん坊の話
時刻は21時。
学校の制服に着替えた里桜は、更衣室を出た。
ハンバーガーショップは午前0時まで経営しているが、まだ未成年の里桜はこの時間に上がる。
「やぁ里桜ちゃん。お疲れ!」
通路をたまたま通り掛かった店長が、里桜に声を掛けてきた。
40代の男性で、ダンディな雰囲気を醸し出している。
「お疲れ様です」
「いつも助かってるよ。接客も上手くなってるじゃないか」
「ありがとうございます。でも笑顔作るの疲れますね」
里桜は頭を掻き、苦笑した。
「あはは。君面接の時も仏頂面だったからなぁ」
「……そんなアタシを雇ってくれてありがとうございます」
「いやいや、気にしないで。それじゃあもう暗いから、気をつけて帰るんだよ」
「はい。お疲れ様です」
「お疲れ~」
里桜は店長にペコリとお辞儀をし、ハンバーガーショップを出た。
笑顔を作らなければならないのは辛かったが、店は家にいる時よりも居心地は良かった。
夜中の9時とはいえ、繁華街にはまだチラホラと人がいる。
まだ灯りが点っているが、里桜は足を速める。
「あ”ーーーーー。あ”ーーーーーー」
壁に頬を擦り付けている男性がいた。
「おぎゃぁあああーーーーー!!!」
赤ん坊の被り物をし、発狂する男がいた。
“カラカラ……カラカラ………”
中型犬のミイラをベビーカーに乗せて進む中年女性がいた。
里桜は彼らの行動全てを無視した。
ここ隠神市では狂った人間がよく見られる。
そのような者達は大抵危険なため、自ら関わりに行く者はまずいない。
里桜もまた、彼らを相手にしないようにしていた。
しかし繁華街から出る直前で、里桜は足を止めた。
「あっ……里桜………」
繁華街の入り口には、萌花が立っていた。
彼女は息絶え絶えで、両目からは涙が出ていた。
「萌花……?」
「り…里桜………。里桜………」
「萌花、落ち着いて…」
里桜は膝から崩れ落ちた萌花に寄り添った。
「どうしたの?何かあった?」
「………あ……赤ちゃんが……」
「赤ちゃん?赤ちゃんがどうしたの?」
萌花の体は震えていた。
ガチガチと歯が打ちつけ合う音がしていた。
萌花が何かに怯えていることは明らかだった。
「ねぇ萌花、しっかり……」
「ッ!」
突然萌花は体をビクつかせた。
「い……いや………いやぁああああああああああああああ!!!」
萌花は里桜を突き飛ばし、繁華街の方に走って行った。
「ちょっ、…萌花!」
里桜は萌花の後を追うために立ち上がる。
その時背後から、微かに赤ん坊の泣き声のようなものが聞こえてきた。
振り返ってみたが、誰もいなかった。
繁華街の人気の無い路地裏。
萌花はそこに座り込み、耳を塞いで震えていた。
「何でよ……。何でウチがこんな目に……」
嗚咽を零しながら、小さく呟く。
それが起こったのは20分程前。
その時萌花はラブホテルから家に帰っている途中だった。
「……ん?」
前方から小さな影が近づいてきていた。
萌花はそれを目を凝らして見た。
「えっ……!?」
それは1人の赤ん坊だった。
服を着ておらず、血塗れになっている。
両目は黒く、血涙を流していた。
「おぎゃー…おぎゃー………」
赤ん坊は産声を上げながら、四つん這いの状態で萌花に迫ってくる。
「えっ!?ちょっ、…はっ!?」
赤ん坊を不気味に感じた萌花は、一歩後退る。
ここで背後に違和感を感じ、萌花は振り返った。
「……ッ!?」
後ろにも、赤ん坊が2人いた。
前にいる赤ん坊と同じ姿をしており、泣きながら萌花の方に近づいてきている。
「い、いや……来ないでよ!」
萌花は赤ん坊が1人しかいない前方に向かって駆けだした。
幸いにも赤ん坊のスピードは遅く、容易に振り切ることができた。
その勢いのまま走り続け、気づけば住んでいるマンションまで辿り着いていた。
「はぁ……はぁ………。何なのよあの赤ちゃん達……」
普段萌花は、赤ん坊という単語を聞くだけでも気分を悪くしていた。
それなのに、先程萌花に向かってきた赤ん坊達からは不気味さしか感じなかった。
「はぁ……。ウチが何したってのよぉ……?」
萌花が文句は言いながら、マンションに入ろうとした。
その時……。
「おぎゃー……おぎゃー………」
2人の赤ん坊が、マンションの扉をすり抜けてきた。
血に塗れた体。
血涙が流れる黒目。
寒気を感じる程に不気味な泣き声。
先程見た赤ん坊と同じだった。
「きゃああああああ!!」
萌花は悲鳴を上げ、扉から離れた。
赤ん坊は萌花の方に向かってくる。
「何なのよアンタ達!?」
恐怖で涙目になった萌花は、赤ん坊を怒鳴りつけた。
すると、それを合図にしたかのように、頭上から泣き声が聞こえた。
目線を上げると、1人の赤ん坊が落下してきていた。
「えっ────────」
その赤ん坊は地上にいた2人のうちの1人の背中に落ちた。
落ちてきた赤ん坊の首はあり得ない方向に曲がり、クッションとなった赤ん坊の背中は谷の形に折れ曲がる。
1人を残して、赤ん坊は動かなくなった。
「えっ!?……えっ!!?……」
突然落ちてきた赤ん坊に、潰された赤ん坊。
萌花は頭の中の整理がつかなくなっていた。
足元まで近づいてきた無事な赤ん坊に気づけない程に。
“ピクッ”
「!?」
倒れた2人の赤ん坊の指が動いた。
それから、その2人が動きやすい四つん這いの状態になるまですぐだった。
落ちてきた赤ん坊は、首の骨が折れた状態で。
クッションにされた赤ん坊は、背骨が折れたまま、腹を擦りながら動き始めた。
「あっ………あぁ………………」
萌花は呆気に取られ、動けなくなっていた。
そんな彼女の左脚に、冷たい感触が伝わった。
見下ろすと、無事だった赤ん坊が左脚に抱きつき、萌花の顔を伺っていた。
「いやぁああああああああああああああ!!!」
萌花は脚にくっついた赤ん坊を蹴り飛ばし、マンションから逃げ出した。
その後繁華街の入り口で里桜と出逢うも、聞こえてきた赤ん坊の泣き声を恐れ、里桜を置いて逃げてしまった。
そして今に至る。
「………赤ちゃん、もう居ないよね?」
萌花は壁に手を付いて恐る恐る起ち上がる。
一度耳を澄ませてみた。
今のところ、赤ん坊の泣き声は聞こえてこない。
「逃げ切れたかな?……もう、大丈夫だよね?」
今頃里桜が自分のことを捜していることだろう。
いつまでも隠れている訳にはいかないため、萌花は路地裏から出る決心をした。
【本当に助かったと思ってる?】
「ヒィッ!?」
急に耳元に女性の声が聞こえた。
萌花は慌てて路地裏の奥の方を振り返った。
黒い影が、歩いて萌花に近づいてくる。
それは徐々に人の形になっていった。
「あっ……アンタは……………」
萌花は自分の目が信じられなかった。
彼女の目の前に現れたのは、三日月万桜だった。




