第八話
帰りたい。週初めなのに非常に疲れている。金曜は荒川の件があって精神的に疲れ、土曜は二日酔いの姉貴の看病で肉体的に疲れ、日曜はバイトで接客と重労働で精神的にも肉体的にも疲れた。んで今日からまた学校。そろそろ労組に過労申請しても受理してくれそうまである。そもそもどこの労組にも入ってないし、そんな申請があるかどうかも知らんけど。
重たい体を引き摺り、ようやくの思いで教室の扉を開ける。教室にはいつも通り静かに本を読む鈴井の姿があった。長く美しい髪と非常に整った綺麗な顔、彫刻のように完璧な姿勢で座る彼女を見るだけで、少しだけ疲れが癒された気がした。
「おはよう鈴井今日も早いな」
「おはよう。どうしたの?一瞬ゾンビかと見紛うくらい濁った目をしているけれど」
癒した分ダメージ与えても良いよねと言わんばかりの口撃が飛んできた。プラマイで言うと余裕でマイナスだな。
「疲れてんだよ。触れないでくれ」
「週初めなのにそれは大丈夫なの?学生の本分を忘れていないわよね?」
「まあ、大丈夫だろ」
「そうは見えないけど……。少し仮眠を取ったら?膝枕でもしてあげましょうか?」
「流石に遠慮しとくわ」
「そう……」
膝枕。確かに男の夢ではあるが、相手は鈴井だ。俺に多少なりとも恨みを持つこいつのすぐ側で無防備を晒して眠るなんてことをしたら、何されるか分かったもんじゃない。そもそも、提案してくる時点で罠だと容易に想像できる。ここは避けるのが吉。リスクヘッジは基本よ!
「まあ中学の時にした無茶に比べたら全然大したことないし、心配するほどのことでもないぞ」
「そういう油断が命取りになることもあるのよ。ともかく、少しでも異変を感じたら保健室に行きなさい」
「どうした?今日はやけに優しいな。悪いものでも食べたか?」
「別に……授業中に倒れられると面倒だからよ」
そう鈴井は目を逸らしながら言った。これは所謂ツンデレと言うやつでは?普段の鈴井からは想像つかない態度に、不覚にも少しドキッとさせられた。危ねー。俺がもう少し惚れやすかったら、うっかり好きになって速攻告白して、ゴミを見る目でこっぴどく振られた後、傷心のところを健に慰められてそっちの道に目覚めるところだったわ。想像しただけで吐き気がしてきた……。
「より顔色が悪くないっているけど本当に大丈夫なの?」
「ちょっと嫌な事を想像してな……。すぐ治まる」
「あなたって時々何を考えているか分からないわ……」
鈴井と話していると、教室にカラカラと静かに扉が開かれる音が響いた。この感じ、健ではないな。あいつは勢いよく開けてうるせえ声で挨拶してくるからな。俺達の他にこの時間に教室に来る奴がいるとは珍しい。俺と鈴井は条件反射的に音のした方を向いた。開かれた後ろ側の扉からは、恐る恐るといった感じで一人入ってくる。荒川だ。
「珍しいわね。彼女がこの時間に来るなんて」
「そんなに珍しいのか?」
「ええ、少なくとも私は見た事は無いわね」
「なら相当珍しいんだろうな」
「あなたという存在の次くらいには」
「褒め言葉として受け取っとく」
鈴井はほぼ毎日七時前後に教室に来ている。来れなかった日は一日だけだったそうだ。その彼女が見た事ないと言っているんだから、恐らく一度もこういったことはなかったのだろう。
荒川は抜き足差し足忍び足といった感じで教室を歩く。向かう先は……成瀬の机か。ハハーン、さては成瀬の机にイタズラする気だな?そのために早く来たのか。悪いヤツめ!
「彼女に何かしたの?」
「何でそうなるんだよ。接点あると思うか?」
「だって彼女、あなたの机の所にいるわよ?」
「いやいやまさかそんな事ほんまや!」
「古典的な反応ね」
何故俺の机に!?まさか画鋲とか仕込むとか!?つーか普通に俺の前でやるか?そもそも気付いてないとか?
荒川は俺の机に何かを入れようとしたところで、いきなりハッとして周りを伺い始めた。いや始めようとしたと言った方が正しいか。何故なら荒川が顔を上げた瞬間俺達と、いや俺と目が合ってしまったから。荒川は目を丸くして固まった。マジで気付いてなかったのかよ。
『な…な…ななな!ななななっ!』
俺をゆっくり指さして壊れたラジカセの様に『な』を連呼する。そんなに驚くか?
「なんかジョイマンみたいになってるな」
「DJ OZMAの方が近くないかしら」
「いや誰だよ」
「え?」
「え?」
『何で白峰くんがいるの!!?』
鈴井と顔を見合わせていると、ようやく状況を整理出来たのか、荒川が大きな声で聞いてきた。俺達は一瞬荒川の方を見て、すぐまた顔を見合わせる。
「ですって。何故いるの?教えてくれないかしら」
「お前は知ってるだろ……」
「そうね。では改めてもう一度聞きたいわ」
「死体蹴りはやめようか」
「なんでいるの!!!」
「うわっ!びっくりした。いつの間に近くまで……まさか組織の刺客じゃ!?」
「へ?組織?なんの事?」
「荒川さん。彼の妄言を真に受けてはダメよ」
「妄言言うな。俺なりに空気を和ませようとな」
「って、話逸らさないで!だからなんでいるの!?」
「なんでって言われてもな……」
正直に話してもいいっちゃいいんだが、成瀬と繋がりがある以上、少しだけ気が引ける。チクらないだろうとは思うけど。
「端的に言えば、新津さんの恋路を邪魔しないため、かしらね」
どう話そうか迷っていると、鈴井が先に説明した。
「なんでお前が言うんだよ」
「だっていつまで経っても言いそうになかったもの。だから私が代わりに言ってあげた。むしろ感謝して欲しいわ」
「なんか開き直ってるし……。つーか荒川はニヤニヤするのを今すぐ辞めろ。恥ずかしいだろうが」
白峰くんもそういう事するんだ〜と言わんばかりの顔に、顔どころか全身から火が出るような感覚を覚える。この教室暑くね?エアコン効いてる?
まあ勝樹が絡んでる事は言わないでくれたので、助かったっちゃ助かった。もしかしたら鈴井も勘で助け舟を出してくれたのかもしれない。意外と優しいところもあるのね。不覚にもドキッと(ry
「つーか俺の事はどうでもいい。荒川はなんでこんな早い時間に来たんだ?」
「えーっと……それはその……」
「随分歯切れ悪いな。やっぱ組織からの刺客か?」
「それ、全然面白くないわよ?」
「え?マジ?」
「えーっと…………はっ!!」
「ふふっ……バレたからにはしょうがない。そう、私こそが白峰くんを狙う組織からのエージェントだったのだ!」
「「…………」」
「ちょっとぉ!!??2人とも反応してよ!!!」
突然荒川が意味の分からないことを言い出し、反応が出来なかった。多分俺の冗談に乗ってくれたんだろうけど、突然だったのでどう反応すればいいのやら……。
「荒川さん。悩みがあるなら相談して。どんな事でも大丈夫だから」
「なんか心配されてる!?冗談言っただけなのに!?」
鈴井が荒川にやや辛辣な言葉を送る。俺以外にもお構い無しだな……。いや直接的な言葉を叩いてない分俺により億倍優しいか。
「つーか話が逸れまくってるな。本題に戻そう」
「誰のせいだと思ってるの?」
「荒川」
「なんで!?」
「それもそうね」
「鈴井さんまで!?」
「いい加減茶番も終わりにして、そろそろ本当の事話してくれてもいいんじゃないかしら」
「う……そ、そうだね……」
俺達は、というか鈴井はもう逃がさないと言わんばかりの視線を向ける。俺としては話したくなければ話さなくてもいいんだが。
「笑わないで欲しいんだけどね」
「物によるな」
「物によるわね」
「そこは嘘でも笑わないって言ってよ!もういいよ!」
荒川は俺達の言葉にやや怒りながら鞄からリボンの着いた小さな包を取り出す。そしてそれを俺に差し出してきた。
「こ、これ、この間のお礼!良ければ受け取って欲しい……」
「お、おう」
そう言われ、荒川から包みを受け取る。中身は……クッキーか?
「昨日たまたま作る機会あって、折角だから作ってあげようって思って」
「折角だからねぇ……」
「な、何その目。本当だからね!?本当に、たまたま、昨日、作る機会があったから!」
「分かったよ……。食っていいか?」
「ど、どうぞ!」
荒川の許しも得たので、包みから一つ取り出し口へ運ぶ。サクッとした心地良い食感、口に広がる甘みとふわっとしたバニラの香り。うん、美味しい!
荒川は、俺がクッキー一つを食べ終えるまでずっと俺の事をじっと見つめていた。気にしない様にしていたけど、やっぱ少し食べにくいって。
「ど、どうだった?」
俺が飲み込んだのを見計らって聞いてきた。一瞬なんて言おうか迷ったが、特に取り繕うことは無いな。素直に感想を伝えよう。
「美味いよ。凄い食べやすい」
「本当!良かった〜。ちょっと甘く作り過ぎたと思って心配だったんだよね。ほら、男の人って甘いもの苦手な人多いし。はー、安心した〜」
緊張の糸が切れたのか、荒川はめちゃくちゃ早口で捲し立てるように話す。手作りのものを振る舞うってそれだけ緊張するって事か。今度姉貴労わないとな。
「荒川さん。良ければ私も一つ戴いてもいい?」
「へ?え?あ。え?」
「勿論無理にとは言わないわ」
「あ!いや全然!全然大丈夫!食べて食べて!」
「ありがとう。では戴くわ」
そう言って鈴井は俺の手にある包みに手を伸ばす。いやちょっと待てい!
「待て待て待て。俺の許可は?」
「?」
「なんでキョトンと小首を傾げて『何言ってるの?』みたいな顔してんだよ」
あまりの可愛さに惑わされて一瞬惚れかけたけど冷静に対処する。自分の顔がいい事を存分に活かしてやがる……。
「荒川さんが食べていいと言ってくれたから食べようとしたのだけど、何か問題が?」
「なんで俺を無視するんだよ。今このクッキーの所有権は俺にあるの。だから俺の許可も必要なの。分かる?」
「あなたこそ分かっていないようね。私の物は私の物、あなたも私の物。だからそのクッキーも私の物という事になるのだけど」
「言い間違いにしても酷いな。俺の物もお前の物ってのならジャイアン理論でまあまだ分かるが、いつの間にか俺自身がお前の所有物になってるとは思わなかった」
「?何も言い間違えてないわよ?」
「尚更ダメじゃねえか!!!」
衝撃発言に思わず大声を出してしまった。いきなり声を張り上げたもんだから、荒川がビクッとしていた。俺の普段の様子からして、大声を出すなんて思わないよな。ほんとごめん。
問題発言をした本人は、口に手を当てながらクスクスと笑っていた。ホンっっっっトーに楽しそうですよね貴方……。鈴井は一頻り笑った所で、一つ大きな深呼吸をした。
「冗談よ。あなたの反応が面白くて、ついからかってしまったわ。ごめんなさい」
「冗談ならよかった。あんまりにも平然と言うから、本気で言ってるかと思ったわ。演技上手すぎだろ」
「そう?女優にでもなってみようかしら」
「おうなれなれ。お前ならアカデミー賞も余裕だ」
「ありがとう。あなたもお世辞上手ね」
別に世辞で言ったわけでも無いんだけどな。荒川も隣でうんうん頷いてるし。
「話を戻しましょう。一つ戴いてもいい?」
「そういやそんな話だったな。すっかり忘れてたわ」
「誰のせいだと思っているの?」
「荒川」
「なんでぇ!?」
「それもそうね」
「今回ばかりは絶対違うと思うよ!私さっきまでずっと黙ってたからね!?」
「それで、いいの?」
「ん?ああ、いいぞ」
「ありがとう。戴くわ」
鈴井はやいのやいの言ってる荒川を華麗にスルーし、俺の手にある包みからクッキーを一つ取る。それを口に運ぶと、騒いでいた荒川も黙り固唾を飲んで見守る。空気はさながら、お願いランキングの美食アカデミーだ。あれ何で終わっちゃったんだろうな、面白かったのに。今他局で似たようなことやってるけど。
沈黙の中、鈴井の咀嚼音だけが響く。商品開発部の人はこんな重圧の中に居たのか。実際に作ったわけじゃない俺ですらこんなに緊張しているのに、当事者になったら多分胃に穴が空いちゃう。つーかなんで同級生が試食してるだけでこんな空気になってるんだよ。鈴井の風格がヤバいわよ!
鈴井はよーく味わったあと、ゆっくりと飲み込む。喉の動きがエロい。その後、親指をペロリと舐め、笑みを浮かべた。あなたそういう事する人でしたっけ?過剰なセックスアピールは良くないわよ。
「ど、どうだった?」
「とても良く出来ているわね。美味しかったわ」
「よ、良かった〜〜〜」
荒川は安堵しその場にヘタリと座り込む。なんで同級生が試食しただけでこんなにプレッシャー掛かってんだよ。それもこれも鈴井の醸し出す風格が悪い。
「それにしても、たまたま作る機会があった……ね……」
「な、何?たまたまだよ、本当にたまたま」
「ええ、分かっているわ。たまたまたまたまクッキーを作る機会があって、たまたまたまたまレシピを教えてくれる人がいて、たまたま彼へのお礼を渡せるタイミングが重なった、と」
「ちょ、ちょっと何言ってるか分からないな〜」
「そう……。ねえ晃君、実はこのクッキーのレシピなんだけど……」
「あぁ!そーいえば用事を思い出した!じゃあまた後でね!!!」
荒川は大慌で荷物を持ち教室を出ていく。この時間に用事なんてある訳ないだろうに……。
「ちょっと意地悪しすぎたかしら」
「そうだな。からかうのは俺だけにしておけ」
「私を独り占めしようと言うの?随分と強欲なのね。ほんの少しだけトキメいてしまったわ」
「そのトキメキは恋愛的な意味では無い事だけは確かだ」
どう考えても、子供のおもちゃに対するトキメキに類するものだ。普通に怖い。
「ところで、さっき何言おうとしたんだ?」
「あなたもあなたで大概鬼畜ね。普通聞き直したりはしないでしょう?」
「気になるものは気になんだよ。まあ教えてくれないなら俺も無理に聞かないけどな」
「そうしてあげて」
どうやら荒川も俺には知られたくない様だったし、聞かない方がいいだろう。
一段落ついたので、自分の席に着く。ようやく落ち着いて朝の読書をする事が出来るな。まあ適当に話してるのもそれはそれで楽しいからいいんだけ……
『おい晃!さっきそこで荒川にクッキー貰ったんだがもう食ったか!?』
お前みたいな暑苦しい奴と話すのは御免だ。