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冷ややかな彼女

 突っ伏す俺の顔をもし覗き込むことが出来れば、実際にそれを目にしたクラスメートは恐らく皆何も言えなくなるだろう。きっとそれくらい、今の俺の顔は酷いものに違いない。だからせめて見られないよう額を懸命に机に密着させる。

 有り体に言えば、ヤバい。真に切羽詰まった状態とは恐らく現状のようなものを指すのだろう。残り数十秒で何かをしようとしても恐らくパニックになるだけだ。だからこうしてただただ寝た振りをする。

 こうすれば俺のイライラが外に漏れることはない。あわよくば余裕と捉えられ、周囲に無言のプレッシャーを与えられるだろう。それにより皆の点数が降下すれば、結果として平均点が下がってくれるという状況も期待出来る。

 あるいは俺という存在そのものがクラス中の意識から消えているか。悲しいが、恐らくそのパターンの方が可能性は高いのだろう。

 やがて開始のベルが鳴り、問題用紙と答案用紙が渡ってきた。

 問題を見た瞬間『ほれ見たことか』と声に出してしまいそうになった。答えられそうな問題が、ほぼない。しかも科目は数学。想定通り、選択式ではなく自力での計算が求められる問題ばかりだ。当てずっぽうで答えを書いたところで正解することなど不可能である。

 ふざけんなコラ! 解けるわけあるかこんなもん!

 と叫びながら、答案用紙を細切れにしたい。

 あるいは四分割でも良い。もしくは紙飛行機にしても楽しそうだ。今は問題用紙と答案用紙があるから、その両方とも実現可能だ。

 などと夢想するが、現実にそんなことが出来るはずもない。考えてみればこのシャーペンの音が全てを支配する真空のような世界で、急に立ち上がり答案用紙を狂ったように破り捨てるなどどれほどクレイジーでどれほど滑稽な行為か、イメージするとすぐに分かる。

 名前を書いた上から答案用紙を両手で摘んでみる。この手の片方を下に引けば紙切れはあっという間に真っ二つになるだろう。無理だと分かっていても、そのシーンはどうしても魅力的に映る。思わず口元が歪むが、右も左も問題用紙と答案用紙に必死になって向かい合っている顔ばかりだ。俺がどんな顔をしようが気づくはずもない。

 ふと、最前列の席に座る髪の長い少女が目に入った。

 長野飛鳥。先日、とんでもない行為をしでかしたあの女だ。

 彼女が視界に入った理由は良く分からない。椅子に掛かってなお余る長い髪が気になったのだろうか。しかし、それならいつも目に入っている。今この瞬間において、なぜか彼女の後ろ姿は俺の視線を引きつけた。

 その時、彼女はおもむろに立ち上がった。

 声が出そうになるのをすんでのところで堪えた。トイレに行く風でもなく、ただその場に立ち上がった。テスト中に席を立つなど常軌を逸した行動という他にない。

「どうした、長野」

 担任の大槻(おおつき)も異変に気づいた。状況に気を遣ってか、声のボリュームを最小まで落として歩み寄る。

 それでも狭いこの空間で異変に気づくなという方が無理だった。皆は次々に顔を上げる。教室にはざわついた空気が流れ出した。

 必然的に皆の注目は長野に集まる。彼女はそれを受けてもなお微動だにしない。そもそも先頭の席なら、背後から注がれる好奇の目など気づかなくて当然かも知れない。しかし彼女の認識の有無はどうあれ視線の雨は止むことはない。

 周囲が騒然とする中、彼女は答案用紙を手に取る。


 次の瞬間、天高く掲げたそれを真っ二つに破り捨てた。


「ええええっっ……!?」

「長野お前、な、何を――!」

 思わず口に出して叫んでしまったのは俺だけではない。大槻の怒声が、そしてクラス全員の驚愕の声が教室中に響いた。

 刹那、間近からも何かが破れるような音が聞こえた。

「ん……?」

 自分の手元を確認する。そこには、今まさに長野が行ったものと同じような答案用紙の残骸があった。

 マズい。驚いた拍子で起こった完全なるミスだった。高鳴る心臓の音を聞きながら、手元を確認するために下げた視線をもう一度そろりと上げる。

 視界が捉えたのは、怒りの火が点った大槻の目だった。

「お前まで何をやっとるか……」

 地割れのような低い声が内臓を揺らす。声色からボルテージの上がりっぷりを察することが出来る。

「……長野と三島、ちょっと来なさい。すぐに代理の先生を呼ぶからお前達は続けてテストを受けるように」

 声量を極小ボリュームに戻した大槻は静かに俺と長野を教室から退場させるや否や、窓からどこかへ合図を送る。すると代理の試験官がたちどころにやって来た。

 改めて教室から出てきた大槻は無言で俺の腕を強く掴む。長野も一緒に別室へと連行された。代理を呼ぶ手際の良さやなるべく音を立てないように教室を後にする辺りはさすが生徒思いで知られる男だ。

 しかし、そんなことを気にしている余裕はなかった。

「お前達二人は一体何をやっているんだ!」

 別室に着いた途端、烈火のごとき怒声が飛んできた。

 あまりの恐怖に身がすくむ。教師の怒りをダイレクトに受けるのは随分と久し振りだった。

「す、すいません……」

 俺はただ謝ることしか出来ない。情けないことに声も震えてしまっている。

「長野は一体どうしたんだ。急に席を立ったと思ったら答案用紙を破るなんて、尋常な行動とは思えんぞ」

 大槻は更に声を荒らげる。基本的には優しいこの教師が女子生徒に対してさえここまで怒っている光景を見るのも稀だ。

 しかし事の発端である彼女は、現状をまるで意に介していない様子だ。その堂々とした立ち居振る舞いは少し羨ましくも映る。やがて彼女は怒り狂う大槻に対してゆっくりと口を開いた。

「確かに、良くないことではあるわね。次から気をつけるわ」

 長野の態度は、とても罪を犯した者が取っているものとは思えない。あまりにも他人事のような回答。

 おいおい長野さん、それって大丈夫なのか……?

 心の中で叫ぶ。自分が怒鳴られた時のものとは異なる冷や汗が噴出する。

 そしてそれは大槻にとっても想定外の対応だったらしい。苦虫を噛み潰したような、しかしそれでいて反応に困ったような微妙な表情を見せた。

「と……とにかく、この件は内申に響かせるからな。それとお前達には個別で追試を受けさせるから覚悟しておくように!」

 大槻の下した宣告は、当然と言って良いものだった。

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