自業自得という言葉がある
小鳥のさえずりが聞こえる。朝明けの穏やかな光が部屋にゆっくりと入ってくる。視界も明るく、室内の装飾品は電気の力なしで全て確認出来る。それはつまり、現状が朝であることを示している。
しかし、その情報を信用するにはいささか早い気がした。冷静に考えると少しおかしい。なぜなら俺の眼前にあるのは勉強机に開かれた教科書とノート。そして俺自身は椅子に座っている。この状態から察するに、昨夜俺は机に突っ伏して寝てしまったという仮説が成り立つ。一方で、就寝時における正しい作法はベッドへの潜伏だ。俺は事実、これまで毎日そうしている。その行為が行われていないということは何か変ではないか。
やがて思考は物的証拠の存在に着目した。今が朝であることを証明出来る何かがあれば良い。そして、この部屋にはそれがある。俺は机上の置き時計を確認した。
表示は午前七時。やはりそうだ。間違いない。タイミング良く電池が切れている、などという不具合が起きていれば話は別だがそう都合の良いことは起こらないだろう。
従って、今ここに、現在が朝であるということが証明された。
「……おはようございます」
ぼそぼそと誰にともなく挨拶をする。寝起きの声では恐らく何を言っているか分からないだろう。しかし問題ない。この部屋には俺以外誰もいない。独り言である以上誰かに聞かせる必要はないのだ。
机上のノートに目を向ける。白紙だった。
「ほう、新しいページに突入しようとしたところで力尽きちまったか……しかし俺ってば、やっぱり偉いよ。何だかんだ言ってやる時はしっかりやるんだからさ。ほら、前のページにはぎっしりとその痕跡が……」
独り言を継続し、おもむろに一つ前のページをめくろうとする。しかしそれは叶わない。
なぜなら、開いていたのは先頭のページだから。
ふと、場を取り繕うように配置されたノートと教科書の更に奥、机の端に目を向ける。そこには乱雑に投げ捨てられた漫画が一冊。
これらの物品を確認したところで昨夜の記憶が蘇ってくる。俺は、テストに向けた直前の対策を始めようとしたところでたまたま漫画を手に取り、なおかつ偶然にもハマってしまい、そしてそのまま眠りに落ちてしまったらしい。
「バッカヤロ……!」
僅かにあった眠気も完全に吹き飛ぶ。つまり現状はテストへの対策がまるでなされていないという状態。寝起き状態ながらも頭に血が上っていくのを感じる。
「マジかよ……くそったれが……」
頭の血はイライラへと変わる。怠惰の情動に流された昨夜の自分にただ腹が立つ。
しかしこうなってしまった以上、早めに学校へ向かい少しでも埋め合わせをしなければならない。過去最高のペースで支度を整え、部屋を飛び出す。
「虎太郎、ご飯は?」
「いらねー!」
母さんの制止を振り切り、蹴破る勢いでドアを開け放つ。走ればバス停までは一瞬だろう。何本か前のバスならば余裕を持って座れるはずだ。そこで復習の時間が取れる。
「なっ……」
しかし、眼前には予期せぬ光景が広がっていた。いつもの通学路である家の前の細い通りに先客がいる。
道に誰もいなければ間違いなく走ったが、何せ人がすれ違うのにも苦労する細道だ。追い抜くのは億劫。ならば大きな道に出るまで我慢して後ろを歩くしかない。変に近づき過ぎないよう、大きな間隔を空けてスタートする。その間、意識はテストに向けることにした。
本日行われる科目は数学。暗記やまぐれが通用しない、実力主義の世界。ひたすら公式を体に染み込ませ、本番でも同じように解くことが最重要課題だ。
こうして情報を整理すればするほどそれがいかに昨夜行っておくべき行為であったかが明確化する。その結果出力されるのは溜め息しかない。
しかし、結果などやってみなければ分からない。運良く簡単な問題ばかり出題される可能性もあるのだ。その時に少しでも解けるよう今からでも準備する。それでもきっとまだ遅くはない。教科書に載っている例題をひたすら解けばまだ望みはある。
あれこれ思考を巡らせていると、ふとあることに気づいた。
歩いていて気持ちが悪い。足の進みが遅い。
その原因はすぐに分かった。スマホでも弄っているのか目の前を俯きながら歩いている一人の女子生徒、その歩くスピードが遅いためだ。それにつられる形でゆっくり歩かされているのだ。
しかし、だからといって追い抜きはやはり難しい。彼女のペースは絶妙なところを突いている。全力で歩けば追い抜けるものの普通に歩いたらしばらく並んでしまうであろう、絶妙なライン。もしも抜きに掛かるのなら統率の取れた手と足の動きを用いて心拍数を乱れることのないよう固定化し、すれ違いざまに息など吹き掛けてしまわないよう、生唾など飲み込んでその音を聞かれてしまわないよう口の中をカラカラにしておいた上で一気に、そう、まるで競歩選手のように華麗なるオーバーテイクを決める。そんな技術と胆力が必要。
脳内で検証した結果、それらの行為はリスクとリターンが合っていないと断定された。この場は我慢して名も知らぬ彼女のペースに合わせてゆっくりと歩く。昨夜の躍動するロングスカートがまだ頭に残っているためか、眼前の標準的なスカート丈はやけに新鮮に映る。ハッキリと見える白い大腿部の裏面が眩しい。目を細めて棚からのぼたもちをじっくり味わう。
しかし、そんな眼福を得てなお、イライラは徐々にチャージされていく。水中を歩くような感覚の継続。
永遠にも感じるそんな時間は、やがて終わりを告げた。我慢の甲斐あって無事バス停まで辿り着くことが出来た。しかもタイミング良くバスが到着する。悪いことがあれば良いこともあるらしい。こうやって状況は好転していくのだろう。悠々と乗車し車内を見渡す。
「えっ……」
好転は、幻だった。
時間帯から考えて幾分かの余裕があるはずの座席がなぜか空いていない。それどころか、立っている乗客さえいる。これでは吊り革を掴んで揺れに耐えるしかない。教科書を広げるなど不可能。
チャージせずに済みそうだったイライラはやはり溜まっていく。これでは数本前にした意味がない。先んじて座席を確保し、その貴重な朝の時間を睡眠に使用している乗客に腹が立つ。惰眠を貪ることと勉学に充てること、どちらがより尊いことか誰にでも分かるはずだ。有り体に言えば、寝ていないで速やかに席を譲って欲しい。
だらしなく晒されている寝顔をひたすら睨んでいると、バスが停車した。最後尾の乗客が降りていく。
荒んだ心に光が差す。人が降りたということは、その分空席が出来たということ。このペースで乗客が減ってくれればいずれ座れるようになるだろう。むしろ、今空いた席に座ってしまっても良い。いや、座るべきだ。
衝動に突き動かされる俺の足はしかし、向きを斜め四十五度程度変えただけでその動きを終了させた。空席の前に立っているサラリーマンが予期しない行動を取ったからだ。
座らない。遠慮しているのか、つり革を掴んだまま棒立ちの姿勢を崩さない。目をつぶっているわけでもない。席が空いたことには確実に気づいているはずなのに一向に座る気配を見せない。
もしも俺が当事者なら、あるいはすぐ隣にでも立っていれば、恐らく遠慮なく座っただろう。しかしこの距離から座りに行くのはどうしても気が引けた。
それでいて、フラストレーションは最高潮に達しそうだった。何せそんなことをされては、今後席が空いたところで座りづらくなってしまう。気を遣っているようで逆効果になっている行為に違いない。
これには他の乗客も納得がいかないのではないか。俺は困惑しているであろう周囲の顔色を悟られないよううかがった。
俺は驚愕した。
猫も杓子も、一様に同じ顔をして突っ立っているだけだった。そこからはいかなる感情も汲み取れない。まるで、ただ出勤するだけのロボットの集まり。
狂っている。完全に。有り得ない。心からそう思った。
だってそうだろ! イライラしなきゃウソだろ!
どうしてどいつもこいつも平気なツラしてやがるんだ! 本当に人間か、お前ら!
この連中と同じ空気を吸っていたらこちらまでロボットになりそうだった。俺はただバスが早く学校に着いてくれることをひたすらに願った。テスト直前の復習に少しでも多く時間を割けるように。
長い祈りの時間。俺の願いを聞き入れてくれたのか、バスはついに学校へ到着した。時計を見ると、到着時間は時刻表より五分遅かった。またもイライラを溜めそうになったが、疲れてしまったのでそれは止めておいた。
それよりも優先すべきことがある。俺は教室へ急いだ。少しでも良い点に近づくための最後の時間。
「あれ……」
瞬間、体が妙な違和感を察知する。普段は感じることのない虚脱感。
緩む手を強く握ろうとする。しかし上手く行かない。なぜか体に力が入らない。風邪だろうか。いや、それにしては風邪特有の倦怠感とは違った感覚だ。
その答えは腹の虫が鳴ることで唐突に分かった。
朝食は毎日欠かさず行っている日課そのもの。しかし今朝は朝食を抜くというイレギュラーが発生した。つまりそのせいで体は悲鳴を上げているのだ。まさかこの日々のルーチンの有無がその後の活動にこうも影響するとは知らなかった。
「クッソ、なら止めてくれたっていいじゃん……」
知らず知らず、空腹によるイライラは母さんに向いていた。あの時もっと必死になって朝食を勧めてくれていればこんな思いをしなくて済んだのに。あらゆるシチュエーションでイライラが忙しなく溜まっていく。しかし、溜まるイライラとは逆に腹は減っていくばかり。ようやく自席に着いても虫が鳴き散らして集中出来ない。
そうこうしている内に、テスト一分前。




