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なにかを超越したなにか

 俺は即座に振り返る。声の主はすぐ後ろに立っていた。

 驚き以外の感情がない。それは今朝、俺を見詰めてきたあの女子生徒に他ならなかったからだ。

「ち、長野、さん……」

 あの時思い出せなかった名前は、なぜか今すんなりと出てきた。

 他に比肩するもののない長い黒髪を持つだけでなく、これまた他の女子生徒にない、今時珍しい丈の長いスカートをなびかせ、長野飛鳥(ちょうのあすか)はそこに立っていた。

「ど、どうしてこんなところに……」

 そして何よりも、ただ意外だった。まさか長野がこのような俗っぽい場所に顔を出すような人間であるとはつゆほども思わなかったからだ。

 物静かでクラスでは目立たない存在だが、とにかく真面目で不良の遊び場など知らない、というのが彼女のあるべき姿のはずだ。確かにそれが真実かどうかは分からない。同じクラスになってまだ月日はそれほど経っていない。会話を交わしたこともない間柄である以上、知らないこともあって当然だ。

 しかしそれが例え俺の勝手なイメージだとしても、少なくとも通い始めて随分経つこのゲームセンター内で彼女を見掛けたことなど一度もない。

「三島くん」

「は、はいっ……!」

 俺の混乱した脳内の様子など知るはずもなく、長野は平然と呼び掛けてくる。その透明な声に思わず背筋が伸びる。

「その手は一体どうしたのかしら」

「え……あっ……!」

 迂闊だった。俺は手を振り上げたまま固まっているというあからさまに妙な体勢で面識の浅いクラスメートに目撃されてしまっている。

「えと、これは、その、あの……」

 言い訳しなければならない。ただゲーセンで格ゲーをやっている、というだけならまだ平気な顔でいられる。本当ならそれすら秘密にしたいが背に腹は代えられない。とにかく『筐体を叩く』などという野蛮な行為に走ろうとしていたことを知られるわけにはいかない。仮に言いふらされでもしたらクラスでの俺のイメージが百八十度変わってしまう。

「そ、その……ストレッチを、ちょっと……」

 咄嗟に閃いた理由は何とも苦しい。しかしなりふりかまっている場合ではない。どんな力業だろうとこの行為は隠し通す必要がある。

「……そう」

 長野は変わらぬ調子で短い声を発しただけだった。その声を聞いて心の中で一安心する。どうやら俺の苦し紛れの言い訳に騙されてくれたようだ。これでひとまず最悪は免れたことになる。

 ただ、その目が何かを察したような色を持ったことに僅かな違和感を覚えた。

 直後、やはり一本調子のまま彼女は言葉を重ねた。

「あなた、イライラしているのね」

「へっ……?」

 思わず間の抜けた声を出してしまった。

 彼女の言うことは、あまりにも簡潔に、あまりにも的確に、俺の心を狙い撃ってきた。

「え、い、いや……そんな……」

 逃げ切れたと思っていた。しかしそれは勘違いだったようだ。心拍数が急激に上昇していくのが分かる。冷房が効き過ぎて逆に寒さまで感じるこの店内においてなお体温が上がる。試合中にかいた脇汗は、ここに来て更なる量を分泌していた。

 早く次なる一手を――懸命に脳内で理由に適したワードの検索を掛ける。しかし、その結果が返ってくるよりも彼女の言葉が飛んでくる方が先だった。

「それにしては、随分とせせこましいわ」

 ふわりとやって来たその言葉は、すぐには理解出来なかった。

 一体何がせせこましいのか。必死に脳内で意味を解析していると、彼女はゆっくりと歩み寄ってきて正面から俺の両肩をむんずと掴んだ。

「えっ、ちょ、ちょっ……」

 いきなりの出来事に何も抵抗出来ず、あっさりと席を立たされてしまう。

 ワケが分からない。何を考えているか察知することも出来ない。言葉にせよ態度にせよ表情にせよ、とにかく彼女の心情を探る情報がない。

 俺の動転を知ってか知らずか、彼女はおもむろに明後日の方向に歩き出した。

「ち、長野さん……?」

 帰るのか。それなら今の突拍子もない行動は一体何だったんだ――そんな思考を遮るかのように彼女は振り向いた。

「三島くん」

 通りの良い、凛とした声が響く。この騒々しい空間でもその声はハッキリと聞こえた。俺、および筐体から数メートル程度離れた先でこちらを見据え、彼女はまっすぐ立っている。

「見ていて。あなたが本当にイライラするのなら――こうするべきなの」

 抑揚のない声でそう言った、次の瞬間。

 彼女は突如として全力で走り出した。

 向かう先は俺、ではなく筐体。距離はほんの一瞬で詰まる。

 理解が追いつかない。発声も出来ない。棒立ちになる俺の横をすり抜け。


 長野飛鳥は、力の限り、筐体を蹴り上げた。


「え、ええええええええっ――!?」

 パニック。一言で表現するならそれが最も相応しいように思えた。

 俺は反射的に彼女の手を取って駆け出していた。一瞬で店外へ出て、店との距離を必死に離す。

 走りながら今起こった出来事を脳内でひたすら反芻する。彼女は筐体を蹴りつけ、倒した。筐体は見たことのない高さで宙に浮き、激しい音を立てながら横倒れになった。

 そんなことを可能にした脚力もさることながら、それ以上に、彼女の行動そのものが異常だった。

 筐体を蹴り倒すなどいくら何でもやり過ぎとしか思えない。間違いなく事件だ。それに、そもそも彼女がここまでする必要性も分からない。思い返せばまるで手本を示すと言わんばかりの口振りだったが、ただ俺がイライラしていただけなのになぜこんなことをしでかしたのか。

 思考が混濁したまま疾走を続けていたら、いつの間にか人気のない公園まで辿り着いていた。ゲームセンターからはかなり離れることが出来たが、今頃店員が慌てふためき警察へ通報しているかも知れないと思うと寒気がする。

 額の汗を拭おうと腕を持ち上げる。しかし、何かが付随している感覚がする。腕を確認すると、握った手がそのままであることがようやく分かった。

「あっ……ご、ごめん……!」

 すぐに手を離した。こんな状況にあっても異性と手を繋ぐという行為は恥ずかしいらしい。疲労や焦りとは別の意味で心拍数が上がる。

 しかし、そんな思いとは裏腹に目の前の相手は全くもって無表情のままだった。

「どうかしら」

「え……い、いや……」

 どう、と言われてもどう答えれば良いのか分からない。長野は依然として涼しい顔をしている。俺はもう倒れ込みたいくらいの疲労度なのに。

「ど、どうして、あんなことを……」

 それでも俺は懸命に言葉を絞り出した。巻き込んだのか巻き込まれたのか、それすらももはや曖昧。せめてあの行為の意図を知らないと、ここから先に進めない。

「良い、三島くん。そういうことなのよ」

「え……」

 意味が分からない。ここに来て会話が成立しない。激しい呼吸の乱れを必死に整えながら、キャッチボールの術を探ろうと頭をフル回転させる。

「ところで、私の家はちょうどこの辺りなの」

「え、それって、どういう……」

「送ってくれて助かるわ。また明日学校で会いましょう」

「ちょ、ちょっと……待って……!」

 彼女は何の答えも示さないまま、優雅な足取りで公園を後にした。その瞬間緊張の糸が切れ、俺は芝生の上に倒れ込んでしまう。

 長野飛鳥。一体彼女は何者なのだろう。

 これまで生きてきた中で大なり小なり様々な怒りの表現方法を見てきたが、筐体を蹴り上げるという行為は初めて目にする。しかも、顔色を微塵も変えずに蹴った。まるで蹴るのが当然と言わんばかりに自然に蹴り上げた。

 考えても考えても、この出来事はまるで一つの夢か何かに思えた。しかし体に残る疲労は本物。

 謎は頭に残留し、体はただただ回復を待つばかりだった。

 見上げた空は赤く染まり、闇が訪れるのをただただ待っていた。

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