見たくないもの
朝一番の空気はとても心地良い。今日も始まる一日に対する期待がどんどん湧いてくる。早くから教室に集った仲間達との会話も自然と弾む。
「そういえば、ボルダリングどんな感じ?」
「誘い、ゼロ。あかんわこれは」
「だから言ったでしょ。自分から誘わないとダメなんだよ、イマドキは」
「そっかあ。こんなにキュートな女子がいるってのに、信じられない男どもだわ」
ただ黙って横にいるだけでも楽しい。栄子と美子の掛け合いは聞いているだけで気分が盛り上がる。
「しょうがないねえ……リコ一緒に行く?」
そんな時、嬉しい誘いがやって来る。気分は更に上昇した。
「行こう行こう!」
「やるね。乗り気じゃない」
「こないだ行ったらね、結構楽しかったんだ」
「えっ!?」
瞬間的に、栄子と美子の視線がこちらに集中する。
「アンタいつの間に……」
「もう、そうやってすぐ抜け駆けする。これだからモテるヤツはやんなっちゃうよ!」
すごい勢いだ。そんなにあたしが行くのがダメか。
栄子と美子の視線はあたしをロックして離さない。でも、これは一種の勘違いによって引き起こされている。早く訳を説明しなければ。
「い、いや、行ったのはおにーちゃんとだよ……」
「なるほど、お兄ちゃんか。リコ仲良しなんだっけ」
「でもさ。きょうだいでばっかり遊んでないで早く彼氏作ってお兄ちゃんを安心させてあげないと」
「それじゃあ逆に嫉妬しちゃうんじゃないの?」
「そうかもね」
二人は変なことを言う。これも有り得ないことだから否定しておかなければ。
「ないない、そんなことないよ!」
「またまたー。まあ、嫉妬してくれれば妹思いのいい兄貴じゃないの。興味なし男よりはさ」
「ほんとだよ。興味なし男ときたらほんとに恐ろしくて……まあ、想像だけど」
美子の想像を共有し、皆で笑い合う。
楽しい。
栄子と美子とのお喋りは、やっぱり楽しい。あたしにとってこの時間はかけがえのないものだ。いつまでもこの心地良さの中にいたい。
それにしても、皆彼氏が欲しいものなのか。単純に不思議に思う。あたしは確かに良く求愛を受ける。最初は照れ臭かったものの、最近はそれにも少しずつ慣れてきた。
だから恋愛を軽視出来る、だとかそういうことではない。単純に、それに積極的になる気持ちがあたしには良く分からない。
だってつき合ったら結婚するかも知れない。もしかしたら子どもだって産むことになるだろう。でも、その先には果たして何があるのか。まるで家にいなくて終いには出ていったお父さんとあんなに苦しそうなお母さんを見ていたら、それが幸せの形とはとても思えないのだ。
あたしにとって、これは少し難しい。だからせめて、お兄ちゃんには幸せになって欲しい。ボルダリングの時もせっかくいい感じだったんだから、このまま飛鳥さんと上手くいってくれたらいいな――。
「とりあえず、ムカムカしたら喉渇いた。自販機いこ」
「いこー!」
美子の提案には大賛成だ。考え事をしていたら飲み物が欲しくなる。そして、始業にもまだ少し時間がある。タイミングとしては絶妙だ。
「決まりだね。なら行きますか」
栄子も美子も、体育の授業では見られない軽やかさでドアを出る。そして、黒板の前や発表の場での姿からは想像もつかないテンポで会話を繰り広げる。ひたすらに心地良いやり取り。
「うわ、くわばらくわばらなヤツらがいるよ……」
ふと、何かに気づいたように美子が足を止める。つられて全員その場に停止した。
「ちょっとおっかないね。少し待ってようか」
栄子も美子に同調した。二人が視線を注いでいる自販機のブースに目をやると、そこには上級生と思わしき不良集団がブースを占領している光景があった。
「怖いね……」
抑え切れず本音が口に出る。彼らは皆、ちょっとでも近づけば何でもすぐに取って食うような野性を放っていた。
不意に、その中心、自販機に最も接近して飲み物を選んでいる生徒の姿が目に入った。堂に入っていて明らかに不良と分かる集団の中にあって、その生徒だけ妙にこわごわとしている。
「――!」
刹那、息が止まり掛けた。
その姿は、お兄ちゃんのものだった。
なんでお兄ちゃんがあんな連中とつるんでいるんだ。いや、この様子はつるんでいるというより、もっと陰湿な感じのするもの。
直感があたしに告げた。アイツらはきっと、敵だ。お兄ちゃんの敵。
やがて集団は買い物を済ませて引き揚げていった。僅かに見えたお兄ちゃんの顔は、悲しさと傷みで歪んでいるように見えた。
楽しくない。
お兄ちゃんがあんな目に遭っているのは、楽しくない。




