最悪
「よお、虎太郎ちゃん!」
始業前。教室は昨夜のテレビや本日行われる授業内容の話が至るところで交わされ、実に騒々しい。
そんな中で俺をダイレクトに呼ぶ声があった。それはどこか良くない色を含んでいるような声だ。
「や、やあ……儀我くん……」
とりあえず返事を済ませる。声の持ち主である儀我は席の目の前までやって来て仁王立ちした。
儀我は笑っている。俺の目には、そこに爽やかさは欠片もないように映った。あまつさえ、薄汚ささえ感じるような邪悪な笑みがそこにはあった。
「お前、昨日珍しく本屋の前歩いてたな。何やってたんだ?」
瞬間、心臓の鼓動が一際大きくなる。
迂闊にも昨日の行動が目撃されてしまっていたようだ。まさか長野の跡をつけていたなどと言えるはずもない。どうにか誤魔化すしかない。
「べ、別に、何も……」
「ま、あそこを歩いてるだけじゃ誰も何とも思わんよな。けどなあ虎太郎、俺は見ちまったんだよ。お前がコソコソと誰かの後ろをつけてるのを。誰だと思う。分かるよなあ。自分でやってたことなんだからよ?」
儀我の薄気味悪い笑みは色濃くなっていく。
気がつけば、席の周りは儀我の取り巻きに囲まれていた。誰の顔も切り取って貼りつけたようにニヤニヤしている。
「お前が追っかけてたの、長野だったな。そうだろ?」
「――!」
儀我はヘラヘラとした不気味な顔を俺にぐっと近づけてくる。
俺は愕然とした。周囲の人間に怪しまれないよう細心の注意を払って行動したつもりだった。しかし儀我のこの様子では全くの無意味だったということになる。
とにかく反論しなければ。あれはあくまで偶然、そう見えただけ。まずは自分に言い聞かせてから言語化する。
「い、いや、それは……」
しかしそれは失敗に終わる。言葉が上手く出ない。恐怖で喉が震えている。
独り言ならスラスラと出てくるのに、どうして人を相手にするとこんなにも拙くなるのか。相手がヤンキーの集団であることを考慮してもここまで冷静さを欠いてしまう自分に不甲斐なさを感じる。怖い。悔しい。いつも心の中では『コイツら』呼ばわりしている連中なのに、実際に凄まれると何も出来ないこの現実が悔しい。
「やっぱりそうか」
儀我の笑みは卑しさが増した。思わず背筋が凍るほどの薄ら笑い。
「最近怪しいと思ってたんだよな。ずーっと長野のことばっかり見てるんだもんな。そんなにあの変人が気になるのか?」
違う。お前の言う『気になる』と俺の『気になる』は意味合いが全く違う。だから勘違いするな。
心の中では雄弁になる。しかしそれが外に吐き出されることはない。喉も思考も、内にこもってばかりで相手に伝えるという作業を放棄してしまっている。
「黙ってちゃ分からんなあ。何か言ってくれないと」
儀我の声はだんだんと剣呑な雰囲気を増している気がした。
この外道に分からせたいことはたくさんある。しかし体の機能が思うように働かないのだから仕方がない。
周囲の人間は誰もこの状況に見向きもしなかった。右も左も自分の話をすること、またはグループの会話に入り込むことで精一杯だった。それはプラスに捉えればこの窮地を誰にも悟られずに済んでいるということだが、逆に言えば誰も助けてくれないという絶望を表現してもいる。
「じゃあ虎太郎ちゃんは長野を気になってる、ってことだな」
「ち、ちが……」
それは違う。俺はただ、彼女の奇行に興味があっただけ。それ以外の感情などない。ましてやコイツが押しつけたがっている男女の情など。
だから否定しなければ。そう思うのに、喉はやはりまともに働いてくれない。
「いいじゃん、青春じゃん。応援してやるよ」
応援する気などさらさらないようなにたりとした笑みを見せつける。それに呼応するように取り巻きが大袈裟に囃し立てる。
儀我とその取り巻きは、一人残らず俺以上の体躯を誇っている。コトが荒立てば、たった一発のパンチでのされてしまうだろう。
いや、一発で済めばまだマシだろう。仮にそこから代わる代わる殴打され続けたらどうなってしまうか。想像するだけで痛く苦しい。
否定、反論。それを目指して戦っていた心までもが、ついに沈黙してしまった。俺は何も言い返せず、ただ黙って震えながら、全てを受け入れてしまった。
「オッケー、頑張っていこうぜ虎太郎ちゃん!」
「ダイジョブだって、ゼッテー上手くいくからさあ!」
取り巻き達は明らかな嘲笑の目をしていた。その高笑いは周囲の賑やかなお喋りと特別違和感なくミックスされる。しかし、俺にとってそれは完全な悪意でしかない。
やがて始業のベルが鳴る。全ての会話が中断され着席の音が響き渡る。
「また後でな、虎太郎ちゃん」
いかにも機嫌良さそうに手をヒラヒラさせて、儀我達も席に着いた。
絶望。一言で表現するならそれしかなかった。
儀我のあの顔。あれはもう、完全に俺をいじめの対象にするつもりの顔だ。無尽蔵の寒気が体を襲う。何か言い返せれば、もしかしたら防げたかも知れないのに。
「では今日はテストを返却する」
教壇に立った大槻が開口一番言い放ったその言葉は、俺の心に更なる暗雲をもたらした。
教室中が期待と不安に包まれるのをよそに、俺の中で不安のゲージが一瞬でフルチャージされた。追試扱いとなった数学以外も基本的に感触は悪い。その見たくない結果をこれから突きつけられるのか。
「次、三島」
大槻の声で教壇へ向かう。答案を受け取る手が震える。何食わぬ顔を懸命に演出し、どうにか自席へと辿り着いた。
恐る恐る答案を確認する。その点は低い。言うなれば、赤点。
「ひでえ……」
思わず愚痴が溢れる。何ということだ。答案を投げ捨てて頭を抱えたくなる。『そこそこ』でいるという俺の計画が無残に崩れ落ちる音がする。しかしまだ、誰にも見られなければ望みはある。隠し通して生きていくしかない。
「おいおい虎太郎ちゃん、とんでもない点数取ってんなあ!」
そんな俺を背後から轢き殺そうと重戦車のような声がやって来た。振り返ると、儀我が思い切り俺の答案を覗き込んでいた。
「これじゃあ俺より低いじゃねえか。マズいんじゃないのかそれは」
儀我は自らの答案を摘んで宙で遊ばせた。その隙間から点数がチラリと見える。こともあろうに俺の二倍はあった。見たくなかった現実。危惧はしていたが、まさか本当に実現してしまうとは。
儀我の声を聞きつけたのか、まるでハイエナのように取り巻きが寄ってくる。
「虎太郎ちゃん、マジかよ。しっかり頼むぜ!」
「ガリ勉君だと思ってたら案外気が合うヤツか、これは?」
馬鹿丸出しの下品な声で煽られる。最悪な気分なのに何も言い返せない。
更に、岩陰に隠れている淀んだ気配がここぞとばかりに俺に覆い被さってきた。それは、周囲のクラスメート達の気配に他ならない。俺には分かる。何食わぬ顔をしているこいつらは皆聞き耳を立てている。そして安心している。下には下がいると。最悪だ。これだけはどうにかして避けたかったのに。
「おい、回答するぞ。お前ら席に着け」
大槻の声が場を制する。しかしこれはあくまでクラス全体に向けられたもの。俺だけを助けに来たものではない。
「虎太郎ちゃん、勉強がダメならせめて恋愛はちゃんとしねえとな?」
「それとも逆か。恋愛で勉強に手がついていなかったのかな?」
最高の煽り文句を置土産に不良グループは席へ帰っていった。去り際に、別れの挨拶と言わんばかりに平手でその溢れる力を俺の背中にぶつけていく。一発一発が息を止めてくるレベル。
その瞬間、俺は悟った。例え反論したところでこの力に叶うわけがない。反論しようがしまいが、どちらにせよ袋小路だったのだと。
その日から俺の日常は変わった。
今まで波風を立てることなく無難に過ごしてきた日常。懸命に守ってきた領域。『目立たない』ようにしてきた自身。しかしほんの少しの食い違いが、避けて通りたかった連中に土足で侵入されるきっかけとなってしまった。
儀我をはじめとした不良グループは、俺に弁当や飲み物を買わせたりするようになった。周りから見ればそれは仲の良いグループ内で行われるただのお使い行為のように見えるだろう。
しかし俺にとってはれっきとしたいじめでしかない。
お使いで済めばまだ良い。そう思ってただ黙って任務を全うした。そうすればそれ以上の奉仕を求められることは辛うじてなかったからだ。
本当は悔しい。こんなこと、許容出来るはずもない。しかし、許容しなければどうなってしまうかは絶対に考えたくなかった。




