魂の絶壁登り
ボルダリングとは、最近話題を呼んでいるスポーツの一種のことである。
人工的に作られた壁面を、これまた人工的に設置された突起を辿って頂上まで登っていくという競技だ。その競技性は意外に高いらしく、決められたルートをどう攻略するかという道筋の採択から小さい突起に掴まるための細かい技術まで、体力だけではない様々な素養を必要とする。
という知識をとりあえず直前にネットで調べ、俺は莉子と一緒に待ち合わせの場所であるスーパーを訪れた。
スーパーには人が溢れている。今が正午過ぎということもあるのだろう。しかし平日のみならず土曜日でもこれほどの客足があることには少々驚いた。何せ普段立ち寄らない場所だ。しかしながら、こういった自分が知らないところにも人の営みというものはしっかりと存在するらしい。
「おにーちゃん、ちゃんと着替え持ってる?」
「ああ、一応揃えた」
室内競技であるボルダリングは靴を会場でレンタルし、自前のスポーツウェアを着用の上で取り組むのが一般的らしい。そのため着替えは必需品と言える。
あるいは隣の莉子のように、予めスポーティーな服装をしておけば問題ない。着替えという煩わしい手順を踏まずに壁面に向かうことが出来るというメリットがそこにはある。
「あたしなんか予備の着替えと帰りの服まで抜かりないよ。どう、キマってるでしょ?」
ゴキゲンな様子でくるりと一回転してみせる。
莉子はご丁寧に帽子まで装着していた。まるでこれからウォーキングをする人の格好のように見えたが、着合わせがバッチリ決まって初心者のクセに経験者のような雰囲気を醸し出している。これがデキる人間の一端というヤツなのだろう。
「ああ……いいんじゃないか」
生意気な妹に対して悪態の一つでもついてやりたかったが、欠点が見つからないのでそうもいかない。出来の良いきょうだいを持つとこういうふとした時に劣等感に苛まれるから堪らない。
「あ、飛鳥さん来た」
莉子は突如として、力強くも軽やかに手を振り出す。その向き先を目で追うと、確かに長野の姿があった。
「こんにちは」
涼やかな空気が待ち合わせ場所に流れ込む。長野はスーパーには場違いなほど凛とした雰囲気を纏い登場した。
そしてその格好もまた上品さ溢れるものだった。制服がそのまま私服になったかのような白のロングスカートは、その長い黒髪やトップスの軽やかさと合わさってまさに淑女といった趣を与える。
「こ、こんにちは……」
その完璧な身なりに圧倒されつつも、どうにか挨拶を返した。
そして、やがてその違和感に気づく。長野の服装はどこをどう見てもこれからスポーツをしに行くものには見えない。着替え用の鞄を持っているのかと全身を見回しても、そんなものはどこにもない。
つまり長野はこの淑女の服装で壁面を登るつもりでいる、という予想が成り立ってしまうが果たしてそんなことが有り得るのか。
「飛鳥さん、着替えはないんですか?」
コミュニケーション強者の実力だろう。立ち入らねばならないが俺ではどうしても立ち入れない領域に莉子は平然と踏み込んでいく。
「着替えは持っていないわ。必要なものなのかしら」
長野からはぶっきらぼうな答えが返ってきた。
はい、長野さん。着替えは必要なものなのです――突っ込みはつい心の中だけで行われてしまう。長野は本当にこの格好でボルダリングをやるつもりでいた。というよりもむしろ、この様子ではどうやら長野はボルダリングがどういったものなのかを知らないようだ。
「飛鳥さん、ボルダリングは壁を登るスポーツなんだから運動用の格好じゃなきゃいけないんですよ。ねえ、おにーちゃん?」
「あ、ああ……」
莉子の言う通りだった。長野の服装ではボルダリングは行えない。
まず、危険だ。動きやすい格好であることはこの競技の前提条件と言える。カジュアルであればあるほど、必要な各種動作に制限が掛かってしまうだろう。
また、仮にこの服装で実施したならば、周囲の人間に不穏な空気を提供することになる。この山岳の城や海沿いのカフェが似合いそうな服がゴツゴツとした壁面を力強く登っていくのだ。どう考えてもアンバランスである。
そして、下界の者達がその姿を見上げるとどうだろう。日頃薄布で覆われていて姿を現すことのないスカートの中身という未知のエリアが白日のもとに晒されることになるのだ。ましてや長野のスカートはロングタイプだ。あられもない姿をもろに晒すのではなく、見えるのか、見えないのかというモラトリアムのようなもどかしさを観衆へ与えることになる。これはもう、屈強な漢達は居ても立ってもいられなくなるのではなかろうか。
瞬間、激痛が足の甲から全身を駆け抜けた。
「痛った――!」
思わず声を張り上げる。足の甲を踏みつけることで針の刺すような痛みを俺にもたらした犯人は、隣に立つ莉子だった。
「おにーちゃんゼッタイ今エッチなこと考えた」
「な、なにいってんだ……」
咄嗟に反論するも、語尾が弱くなってしまう。莉子は恐怖の象徴のような目で睨みつけてくる。どうして分かったのか。これが女の勘というものか。
「飛鳥さん、あたしがスペアの着替え持ってきてるから使ってください。格好はちゃんとしておかないと会場にはよくない輩がいますから――」
莉子は再度、念押しのごとく一睨みしてくる。思わず首がすくむほどの迫力がそこにはあった。
「じゃ、そろそろ行きましょー!」
俺の怯えを置き去りに、発案者である莉子の元気な掛け声でパーティーは集合場所から出発した。
しかし、勇んで出発したは良いものの、ボルダリングの会場はスーパーから歩いて五分程度といういわゆる近場だ。そこまで気合いを入れて進撃することでもない。莉子と長野のやり取りを聞いているだけであっという間に現場へ到着した。
二人を観察していると、色々と見えてくるものがあった。まず、長野の方は相変わらず無愛想だが丁寧に受け答えをする。そして莉子は、すっかり長野になついたようだった。出会ってまだ二日目だというのに大したものだと素直に感心する。
「さあさあ、やってみましょー!」
莉子の号令と共に、準備を終えた俺達三人は壁面の前に立った。
壁面にはいくつか種類があり、それぞれ角度が異なっていた。中には九十度を超えているものもあり、そこには二の腕に見たことのない筋を作って黙々と突起を掴んでいく熟練者達の姿があった。
「あたしたちはこの初級者コースにしましょう」
莉子が指差したのは数ある壁面の中でも比較的角度が穏やかで登りやすそうなものだった。初心者三人が最初にトライするからには当然だろう。近くまで移動し、用意されているベンチに腰掛ける。
「じゃ、あたしからいきます!」
莉子はそう言うや否や颯爽と壁面に駆け寄り、一つ目の突起を掴む。
さすがに発案者だけあって、早く体験したくてウズウズしていたのだろう。機敏な動きやいつの間にか揃えているウェアがその本気度を示している。
そんなことを考えている間に莉子は二つ目の突起、そして三つ目の突起と手際良く進んでいく。まるで経験者のような身のこなしだ。
「へっへー、ゴール!」
頂上のゴールスポットを両手で掴んだ直後、大胆にも飛び降りにより地面へと戻ってきた莉子は振り向きざまにVサインを作ってみせた。その身軽な様子には体力の消耗は一切見られない。すぐにでもテイクツーを行えそうだった。
「次おにーちゃんやってみてよ」
元気な莉子に背中をグイグイと押され、壁面の前に立つ。
ボルダリングはコース毎に決まった突起を掴まねばならない。事前にある程度の筋道を立てておき、それに沿って進んでいくのが攻略の肝だ。
ということを頭では理解しているつもりでも、実際に間近で見上げると勝手が違った。こうも壁面から近いとルートを見つけるのも一苦労である。とりあえず、莉子が辿ったルートと同じものを選択することにした。
「こ、これは、結構、キツいな……」
一つ目の突起から二つ目の突起を掴んだ時点で早くも頭がパニックを起こす。腕に掛かる負荷、狭まる視界、そして意外に遠い地面が脳内状況を更に悪化させる。
「だ、だめだ……」
まだ床が近く、飛び降りるのに造作ないタイミングで諦めることにした。
「おにーちゃん、はやすぎ!」
物理的な圧迫から解放され安堵に包まれた体を、莉子の金切り声が刺す。
「お前、よく上まで行けたな……」
「へへん、すごいでしょ。じゃなくておにーちゃんがだらしなさすぎなのよ!」
莉子はそう言うが、運動が苦手な者にとってこの競技は例え初級でも困難極まりないものだということが、今の一太刀でハッキリと分かった。
「ささ、飛鳥さんもやってみてくださいよ!」
そそくさと道を譲り、コミュニケーション強者らしく手際良く長野を壁面へと立たせる。
長野は無言でしばらくの間コースを眺めた。莉子から借りた服はいささか窮屈そうで特に胸部周りは自己主張が強くなっているが、それでもどこか優雅さが漂っているのは高い人間性能の表れなのだろう。
やがて長野はおもむろに右腕を持ち上げ、赤色の突起を掴む。莉子と俺が掴んだ突起とは違うものだ。そこからすぐにもう一つの突起を掴む。ゆるりとした動作で、着実に眼前の障害を攻略していく。
「すご……おにーちゃんとは比べ物にならないね」
「おいおい……まあ……そうだな」
莉子の煽りに反論する余地はなかった。長野は窮屈そうな服装もなんのそのの見事なボディバランスを見せつけている。力強い動作の一つ一つに上品さが備わり、見ている者を魅了する。周囲のプレイヤーも手を止めてその所作に見入っていた。
しかし、ほどなくしてその手は止まる。次なる目的地である赤い突起の位置は上手く体勢を整えなければ届かない場所にあった。
「オイオイ、あそこは簡単に届かない石だろ」
「立派なもんだが、ここで終いだろうな」
熟練者達のひそひそ話が聞こえる。逆を言えば今日ルールを知ったばかりの人間がその境地まで達するのはかなりの功績に思える。
立ち止まった彼女は今何を思っているのか――そんな俺の考えをよそに、長野はゆっくりと、右腕を壁面と垂直になるように目一杯引いた。それを見て周囲のざわめきが大きくなる。普段の光景にはない姿勢なのだろうか。
次の瞬間、俺は自分の目を疑った。
長野は振り上げた腕を壁面に叩きつけ、まず場内に盛大な打撃音を鳴らす。続けざまに、反動により一瞬の間宙に浮いた足で壁を痛烈に蹴り飛ばし、そのまま見事な宙返りからマットへの着地を披露した。
「マジかよ……なんてことしやがる……」
「スゲー!」
会場には悲鳴と歓声が入り混じったカオスな騒々しさが溢れる。
「ちょっとお客さん、困ります!」
周囲のざわめきをかき分け、慌てて店員が駆け寄ってきた。
「負傷者が出る恐れがあるのでそういったことは控えてください!」
努めて冷静に注意しているが、その顔からは血の気が引いていた。相当危険な行為だったのだろう。
「そうなのね。今後気をつけるわ」
長野は何事もなかったかのように髪を一つ撫でた。ほんの少しの手ぐしで髪は元通りの纏まりを見せた。
ちょっと待ってください長野さん。とんでもなくデンジャラスですその対応は――思わず心の声さえも引きつってしまった。
「おにーちゃん……」
か細い声と共にジャージの裾が引っ張られる。振り返ると莉子が小さな体を震わせていた。
「おにーちゃん、飛鳥さんって……こんなヒトなの……?」
気づいたか。そうなんだぞ。とんでもなくクレイジーなんだ。
思念は喉元で止まる。莉子視点では捉えられないであろう長野の一面を出来れば言葉で説明したかったが、結局俺は小さく頷くことでしかそれを表現出来なかった。
「ボルダリングというのは難しいものなのね」
店員の注意が済んだのか、長野が戻ってきた。涼しげな顔はイエローカードを出された直後とは思えない。
「そ、そうみたい、だね……」
もはや相槌しか打つことが出来ない。きっとこの女子は強靭な鋼の心の持ち主なのだろう。
ジャージを握る力がより強くなるのが分かった。どんなことでもズケズケと言うあの莉子が、すっかり怯え切っている。
「飛鳥さん、スゴいです。カッコよすぎですっ!!」
と思っていたら、どうやらそうではなかった。良く見ると震えているのは手だけで、目はむしろ輝きを増している。
莉子はその後も長野の一挙手一投足に感動しきりだった。意識したのかどうかは定かではないが長野もそれ以降、問題行動を起こすことはなかった。
かくして突発的に開かれたボルダリング会はどうにか平穏無事に終了することが出来た。




