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HADAL ZONE  作者: 佐久 満
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hadopelagic

「まだ続けるつもりなのか?」

「いけないかしら」

「君のことを考えて言っているのだ。このまま続ければ、命の保証はできない。君はプラグとしての使命を十分果たした、とわれわれは考えている」

「私にはそうは思えないわ」

 綾は不満そうな表情を浮かべた。彼女の顔をサルタンは直接見ることはできない。しかし、当然ながら、そんなことは問題ではなかった。

「君は、自分が人間であることを忘れている」

「あなたこそ、現状を理解しているとは、私には思えない」

 こうしている間にも連邦は次の手を打ってくる。引退など、およそ綾には考えられなかった。

「周囲の状況が安定しているとは言いがたいことは、理解している」

「いいえ。理解していないわ」

 あなたたちはやつらのやり方を知らないからだ。先の大戦で、それはサルタンにも分かったはずだと思っていた。これはほんの一時の平和にすぎない。キルヤ同盟はまだ誕生したばかりなのだ。

「君の性格は理解しているつもりだが」

 サルタンの声に変化はなかった。いつものように彼の声には人格らしきものは感じられない。人間ではないのだから当然なのだが。

「今回はわれわれの意見を重視してほしい。このままでは戦況に支障が出る。プラグが多いほど量子的効果が期待できるのだ」

 権力を独占するのはよくない。サルタンは遠回しにそう言っているように思えた。

「もうエアが無くなるわ。今日は帰る」

「分かった」

 綾は強引に会話を終わらせた。ガイドロープをつかむと海上で待っている部下に指示を送った。ロープが引き上げられると、サルタンは下へと潜っていった。


 海面に出るまでの間に、綾はサルタンの力の源について考えていた。それは松田機械と呼ばれていた。

 松田機械は計算しない計算機である。チューリングマシンとの違いは、無限多重決定性とランダム性という特徴を持つことだ。そのため、チューリングマシンのような意味での計算はできない。二十一世紀後半に東京大学の松田聡教授によって提案されたこのオートマトンは、一時期学会で注目された。クラスBQP以上の計算能力を持ち、P≠NP問題の解決に役立つと考えられたからだ。しかし思うような成果を挙げることはできず、忘れ去られることになる。

 松田機械が再び注目されるのは、二百年が過ぎた後のことだ。それも地球ではなく、エウロパだった。氷の海の中で、それは発見された。しかも意識を持ち、自らをサルタンと名乗った。

 サルタンの組織はエウロパの氷から発見された。遺伝情報から身体は復元され、わずか三十日でサルタンはエウロパに復活した。サルタン絶滅の年代ははっきり分からないが、おそらく数億年前と推定されている。もしそれが正しいとすれば、長い間氷の海で待っていたことになる。人類がエウロパに到達し、自らの身体を復活させる時を。

 そして綾はサルタンと取引した。その時のことははっきり覚えている。


 まだ氷に覆われたエウロパの海で、綾はサルタンと話していた。

「木星の大気については、どのくらい理解している?」

 サルタンの声が聞こえた。

「詳しくないわ。説明して」

「木星の直径は地球の十一倍だ。体積は千三百倍はある。太陽になり損ねた惑星といわれる所以だ」

「それで?」

「大気組成は水素とヘリウムで九十八パーセントになる。表面温度はおよそ百ケルビンだ。そして重力は表面で地球の二倍だ。ここまで言えば、分からないか?」

「……悪いけど分からない」

「大量の水素が、これだけの高圧下で存在していれば、ボース・アインシュタイン凝縮が起こっているだろう」

「金属水素のことを言っているのね。量子的効果が期待できると?」

「そうだ。巨視的トンネル効果が期待できる。われわれがアクセス可能だということだ」

「アクセスしたら何か変わるの?」

「そうだな。とりあえず、この星の氷を全て溶かす。われわれの住める星にする。まずは、そこからだ」

 サルタンの声には全く変化がなかった。明日の天気は晴れだというのと、同じ調子で話している。綾は驚いて何も言えなかった。

「……本気で言ってるの?」

「もちろんだ。プラグの協力が必要だが、エネルギーの調達は問題ではない。君が条件を飲めば、すぐにでも実現可能だ」

「……私が条件を飲めば」

「そうだ。取引がしたい」

「取引……何の話をしているの?」

「悪い条件ではないはずだ。われわれは君の望みを知っている。望みをかなえよう」

「私の望みを知っているって言ったの?」

「そうだ。君にアクセスするまで時間がかかったが、理解するのには時間はかからなかった」

「条件があるのね。どんな条件なの?」

「われわれは、自分の身体を取り戻したいのだ」

 サルタンはそう言うと沈黙した。

 その日から全ては始まった。あの日たまたま、綾が海に潜ろうとしなければサルタンの記憶は眠り続けていただろう。西暦二二三五年のことだ。あれから三年経った。そして今は第一キルヤにいる。

 綾は軽い目眩を感じた。過去を振り返るには早すぎる。目標は遥か彼方にかろうじて望めるにすぎない。

 そこまで考えた時彼女は海面に達し、思考は中断された。


 暗闇にいると、ベッドで寝ているのか海の底にいるのかはっきりしない時がある。光の中にガイドロープが見えて、ようやく海にいるのだと悟った。

 サルタンと綾は話をしていた。

「巨視的トンネル効果」

「何だ」

「巨視的トンネル効果について教えて」

 綾の質問にサルタンは面倒そうに答えた。

「いいだろう。エヴェレット解釈は分かるか?」

「それくらいなら」

「トンネル効果から説明しよう。原子の世界では量子力学的効果が無視できなくなる。例えば半導体だ。半導体はトンネル効果を利用している。このトンネル効果は、超えられないエネルギー障壁を不確定性原理によって電子が超えることで起こる。こうした量子的効果をマクロの世界でも起こすのだ」

「それが巨視的トンネル効果なの?」

「そうだ。そのためには多世界解釈が前提になる。なぜなら、コペンハーゲン解釈では波動関数は収縮してしまうが、収縮していない波動関数を重ね合わせることで、トンネル効果が起こるからだ」

「……」

「そしてこれが可能なのはフェルミオンに限定される」

「フェルミオン?」

「そうだ。ボソンではだめだ。だから木星なのだよ。ヘリウム3が大量にあるからだ」

「木星ならば、可能だっていうことね」

「そうだ。レゲット・ガーグ不等式の破れは実証されている。巨視的実在性が保証されない以上、不可能ではない」

「シュレーディンガーの猫を思い出したわ」

「最近のボルン・インフェルト理論の発展を見てみるがいい。確率的実在性を受け入れるなら、猫の生死は問題にはならない。猫は可能性の集合にすぎない。猫が存在しない可能性も含めてだ。それが確率だ」

「猫が観測されるまでは」

「そうだ。観測されれば世界は分岐する。さらにいえば、状態ベクトルの時間反転対称性はユニタリー性によって実現される。ユニタリー変換とは、観測したい物理量、たとえば位置や運動量にあわせて、適当な基底をとることだ。ユニタリー変換によって観測にかかる物理量はエルミート演算子になる。巨視的実在性が保証されないということは、(巨視的レベルでも)時間反転対称性が保存されるということだ。つまりユニタリー性が保存されている。この事実自体が多世界解釈の根拠になる」

「それはつまり、波動関数が収束していないといいたいの?」

「われわれの計画に対する、理論的根拠としては十分だ」

「ねえ……前から思っていたの。エルミート演算子は行列なのよね?」

「いうまでもない」

「行列として表現される原子なんて、実在しているといえるのかしら?」

「それこそが実在性の本質だ。世界は一見、反ユニタリー性を持つように思える。だが今は、この状況を利用することだけを考えればいい」

 綾はサルタンの言葉を理解しようとして黙り込んだ。

「ユニタリー性を保存することで、トンネル効果を起こすのね」

「……君は心身問題について知っているか?」

「悪いけど、専門外だわ」

「意識の問題は波動関数の収縮と関係がある。ボルンの規則がどこから来るかは、いまだに議論されている。しかし、われわれの存在はどうなる? 君は説明できるか?」

「あなたに説明してもらいたいんだけど」

「……われわれには説明できんよ。何か説明できる可能性があるとすれば、それはこの星の海にしかあるまい」

「確かに、あなたたちの存在はミステリーだわ。でも何か説明する方法があるはずよ」

「ないよ。強いて言えば、君の能力はサイコメトリーと呼ばれる種類のものだ」

「そうなの?」

「そうだ」

 サルタンはどことなく楽しげに答えた。

「他に説明できるかね? われわれは君たちの言葉でいえば、亡霊にすぎない。それがどうして君の夢に出てくるのか?」

「……」

 綾は答えることができなかった。

「この星の海はわれわれの記憶を蓄えていた。そして君がそれにアクセスした。われわれにできる説明は、それだけだ」

「……海が記憶していたって言うの?」

「そのとおり。君は量子消去の実験を知っているか?」

「知らない。あなたはなぜ知っているの?」

「君以外にも素質のある人間はいるのだよ。君ほどの能力はなくてもね。われわれは君たちがこの星に来た時から、記憶に干渉していたよ。そして学習したのだ」

「……驚いたわ」

「明らかに、ボソンには記憶する能力がある。そしてそれは消すことができる。だがフェルミオンならどうだろう。光子と同じようにはいかない。しかしいずれにせよ、何らかの記憶は存在する。それがスピンなのか、他の量子数なのかは分からないがね」

「海の記憶に私がサイコメトリーでアクセスした、そう言いたいのね」

「君の能力がサイコメトリーなら、他の利用方法があるかもしれない」

「利用方法……」

「そうだ。記憶とはなにか? それは情報だ。量子的情報にアクセスできるなら、操作することもできるかもしれない。情報とは熱エネルギーなのだ。そして、記憶とは選択の結果だ。記憶が波動関数を選択するとは言えないだろうか?」

「さっぱり分からないわ。何を話しているの?」

「マクスウェルの悪魔について調べるのだ。シラードのエンジンについても。われわれが協力すれば、できるはずだ。ヘリウム3はすぐそばに大量にあるのだから」

 そこで目が覚めた。指がベッドのシーツをつかんで、部屋にいると気付いた。

 サルタンはあの時そう言った。間もなく綾のサイコメトリーは巨視的トンネル効果によって開花し、エウロパの氷が海に変って、人々は彼女の言うことを信じ始めた。

 今頃こんな夢を見るのはなぜだろう。こういう夢には意味がある場合が多い。何かの兆しかもしれない。綾には思い当たることがあった。プラグが出現するかもしれない。これまでもこうした偶然に助けられてきたのだ。

 コルティナの部下にたまたま物理学者がいて、彼が松田機械の論文を読んでいた。そうした偶然が重なって、同盟軍は組織された。この夢もそうした偶然の一つかもしれない。

 綾は起き上がるとデ・ルカ中佐を呼び出した。



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