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HADAL ZONE  作者: 佐久 満
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新横須賀

エウロパ小史


 西暦二二〇〇年代初頭、人類は火星に続いて木星に植民し、勢力を拡大し続けていた。地球と月、火星を支配しているのはELM連邦とよばれる国家群だった。二二三五年、エウロパの植民地にいた松田綾は、奇妙な夢を見る。深海で巨大な甲殻類の先住民に、ある提案をされる夢だった。やがて夢は現実となる。サルタンと名乗る先住民と契約した綾はマクスウェルの悪魔と同じ能力を獲得する。サルタンは巨視的量子効果によって核融合発電を行う。無尽蔵のエネルギー源を得た綾はやがてエウロパ独立運動の中心人物となってゆく。西暦二二三八年、エウロパを含むガリレオ衛星とタイタンは連邦からの独立を宣言する。独立勢力はキルヤ同盟と呼ばれた。



 何も見えなくなっていく。

 水深三十メートルを超えると、周囲は急に薄暗くなり視界は青一色になる。青は黒に徐々に変わってゆき、百メートルを超えると完全な黒に変わる。見えるのは宇宙服のライトが照らすガイドロープのみだった。

 水深二百メートルまで降りると、ガイドロープの先端についているアンカーウエートが見えた。松田綾まつだあやはそこで降下を止めた。

 ヘルメットのバイザー越しに見えるのは闇だけだ。ガイドロープにぶら下がって、綾は待ち続けた。

 突然、水が泡立つ音が聞こえた。細かな泡が彼女の身体を覆ってゆく。

 やがて綾の身長よりも大きな腕が見えた。サルタンだ。

「待たせたな」

 ヘルメットを通して低い声が頭の中に響いた。

「いいえ、そうでもなかったわ」

「上の様子はどうだ?」

「いい天気よ。そっちはどう?」

「問題ない。今日は何をするのだ?」

「発電よ。電力が必要なの」

「いいだろう」

 声が答えると、綾の靴にサルタンの身体が触れた。その硬い殻を通してサルタンの力が流れ込んでくる。

 綾はその力に身を委ねた。

 遠く離れた木星軌道上の発電プラントでは、チャンバー内温度が急上昇を始めていた。


 西暦二二三八年七月。エウロパは夏だというのに、凍えるような寒さだった。

 綾は空を見ていた。雲一つ無い空には七つの太陽が輝いている。そして天空の半分は木星が占めていた。

 彼女は第一キルヤの新東京にいた。メガフロートの海岸線が目の前に広がっている。今日は彼らの姿は見えない。深海に移動しているのかもしれない。

 メガフロートは五芒星の形をしていて、綾がいるのはその先端のひとつだった。


 こうしたメガフロートは三つあり、それぞれ第一、第二、第三キルヤと呼ばれている。現在エウロパにある陸地はこれで全てだった。エウロパの表面は海洋で覆われているのだ。


 綾はまぶしそうに目を細めた。今日の太陽配置はめったにない位置で、七つの太陽が全て見える。木星に隠れて、全てが見えない日の方が多いのだ。全天に太陽を配置するには、同盟の電力供給はまだ不足していた。

 リフレクターの位置調整のためには、自分が再び深海へ潜るしかなかった。連邦はリフレクターの運用にも注文をつけてくる。交渉は難航していた。

 それでも、と綾は考えた。

 時間はかかったが、ここまで築くことができた。同盟は彼らからの自由を手に入れたのだ。


 綾が新東京の自分の部屋でテレビを見ていると、ノックする音が聞こえた。デ・ルカ中佐だった。

「また、候補が見つかりましたよ」

 中佐はそう切り出した。

「そう」

 綾は興味なさそうにうなづいた。中佐はテレビの教育番組を見たが、何も言わなかった。デ・ルカ中佐は軍人らしくがっしりした体格をしている。木星の重力で鍛えられたに違いなかった。黒い髪が同盟軍の軍帽からはみ出している。

「今度はどこ?」

「タイタンです」

「タイタン? あそこにはドームが二つしかなかったはずよ」

「新横須賀ですよ」

「それでその子はいくつなの?」

「十三歳です」

「十三……両親といるの?」

「いえ」

 綾は中佐を見たが、顔からは何の感情も読み取れない。

「ランドリー工場です」

「ひどい話ね」

「……そうですね」

「今は二十三世紀よ。それじゃ前世紀どころか、二十世紀だわ。新横須賀の市長は誰なの?」

「さあ……調べましょうか?」

「お願い」

「すぐに出発しますか?」

 デ・ルカ中佐はそう言うと立ち上がった。

「もちろんよ」

「宇宙機の準備をしてきます」

 中佐は部屋を出て行った。


 タイタンの空は暗くて、メタンの雨が降っていた。綾は宇宙機の外気温モニターを見つめた。温度は百二十ケルビンだった。第一キルヤに比べると、あまりに寒い。こんな場所に次のプラグが現れるとは、まったく思えなかった。しかしそれをいえば、第一キルヤも始めはそうだったのだ。暗く、寒い氷の星だった。それが今は水の惑星になっている。木星と、七つの太陽に照らされて。そう考えるとようやく気分が晴れてきた。ここも変わればよいのだ。時間はかかるまい。

 タイタンには植民ドームが二つあるだけだった。それぞれ連邦と同盟が設置したものだ。そして極低温の環境が、両者の対立を一時的に棚上げにして緩衝地帯、DMZとして機能していた。


 新横須賀には空がない。

 桐山加奈きりやまかなは空を見たことがなかった。生まれたのは新横須賀のプラントで、燃料プラントには窓は必要無かったからだ。十歳になるとカプセルから出て、プラントにあるランドリー工場で働くことになった。

 それから三年が経った。カプセルは植民ドームの新横須賀にあるが、窓などあるはずもない。一度もタイタンの空を見ないまま、彼女の生活は続いていた。

 その夢は、始めからいつもと違っていた。いつものように、工場のプレス機に向かって十二時間勤務した後、泥のような眠りの中でそれは起こった。視界は一面の青で薄暗い。しかし、暖かくて快適だった。

「お前の力を借りたい」

 ふいに声が聞こえて、大きな影が目の前を横切った。不思議と恐怖は感じなかった。

「あなたは誰?」

 加奈が問いかけると声は答えた。

「プラグが必要なのだ。あの娘を助けてほしい」

「……いったい何の話をしているの?」

「そこから出してやろう。悪い話ではないはずだ」

「確かに、わたしはここから出たい。何をすればいいの?」

「お前の能力が必要だ。それは記憶と、時間に関する力だ」

「記憶と時間?」

「そうだ。記憶とはおそらく、選択の集合体だ。それは量子的世界にも適用できるはずだ」

 加奈には理解できない。彼女は黙って聞くしかなかった。

「一人目のプラグに教えてもらうといい。彼女なら、お前に分かるように説明できるはずだ」

「何を言っているのか分からないんですけど」

「……いずれ分かる」

 目を開くと狭いカプセルの天井が見えた。一週間も眠り続けて目が覚めたような気分だった。身体に力が満ちていた。

 そうして彼女はサルタンの力を借りることになった。


 新横須賀に一つしか無いホテルに着くと、綾はスーツケースを置いてテレビをつけた。連邦の番組では大したニュースはやっていない。チャンネルを変えると教育番組が映った。

「今日は量子消しゴムの実験をしてみましょう」

「先生、量子消しゴムって何ですか?」

 生徒が質問した。教師は実験台にある装置の解説を始めた。確かに、量子消しゴムは教育番組にはうってつけの簡単な実験だ。特殊な装置はいらないし、手順自体は子供にでもできる。

「用意するのはレーザーポインターとスリット、偏向フィルターとスクリーンです。この実験ではまずレーザーをスリットで分けてから、スクリーンに映します……」

 教師はスリットを通過したレーザーをスクリーンに映した。鮮やかな干渉縞が現れる。

「それではここで偏向フィルターで片方を隠してみましょう」

 教師が偏向フィルターを置くと、干渉縞は消えた。

「これは何を意味しているのでしょうか」

 さらに教師が追加の偏向フィルターを斜めに挿入すると、再び干渉縞が現れた。

 番組では一般的で当たり障りの無い説明が流れている。少し考えれば、その説明に納得することなどできないはずだ。なぜ光子は、偏向フィルターが置かれたことが分かるのだろうか? そしてどうして、追加すると干渉縞は復活するのだろう? なぜ不確定性原理は破れているのだろうか?

 やめさせなければ。綾はそう思った。連邦では知らない。あの世界がどんな嘘で大衆を欺くかに興味はなかった。しかし、ここは同盟の勢力圏なのだ。真実を流さねばならない。光子はボソンだから量子消去が可能なのだ。これがフェルミオンならそう簡単ではない。

 こうした事実をここでは隠したりしない。知識は力であり、全てのメンバーで共有されるべきものなのだ。

 新横須賀に着いたその日のうちに、中佐は加奈を連れて部屋に戻ってきた。綾は簡単な面談をして、中佐の話が真実だと確認した。プラグの候補は加奈以外にも二人いて、総勢五人で翌日エウロパに戻った。

 一週間後、新横須賀市の市長は更迭されて、同盟の労働条約は改正された。


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