世界の変わる音がした
教室に向かうにつれ、部室では忘れていた喧騒が戻ってくる。興味があろうがなかろうが、否応無しに情報が目から耳から流し込まれ、立っているだけで疲れてくる。もちろん、わたしだって学園祭が楽しいものであるとはわかってる。誰だって高揚するし、してもいいのがイベントごとだ。
だけどどうしても、わたしは無機質なガラス越しに景色を見ている気がしてしまう。みんなが何か、本質の上澄みだけを掬っているように見えてしまう。その理由は、今さっきわかった。
わたしの一番好きなこと、楽しいことが、みんなとは違うからだ。
わたしは演劇が好き、表現することが好き。この気持にずっと蓋をしていたから、満たされなかった。自分にとっての最上がわかっていながら、それを追いかけなかったから、全てがつまらなく見えたんだ。
ほんの短い間ではあったけれど、わたしは初めて演技をした。その快感に震えた。これを超える悦が他にあるだろうか。背景に溶け込むだけだったわたしが、初めて色を持った。
世界は自分の目で見るもの。わたしが変われば、世界が変わる。今はわたしと演劇が世界で、他が背景だ。
廊下の真ん中を歩くのは、いつ以来だろう。わたしは何に、誰に遠慮して生きていたんだろう。真っ直ぐ前を向いて歩いていれば、言わずとも人は道を開けてくれる。簡単なことだった。自分の居場所は、歩く道は自分でつくればいい。ただそれだけ。主張し続けることが必要だった。時にぶつかり合うことを恐れない覚悟があればさらにいい。
教室に戻ると、わたしがはじめから存在していなかったような当然さで学園祭準備が進められていた。うちのクラスはジュースの出店担当だったはず。看板の色塗りや、値段表のポップをみんなで一心に作っている。ちょうどいい、体操着だけ持ってさっさと出ていこう。誰もわたしには気が付かないはずだ。
「あ、花町さんどこいってたの?」
刷毛を持った女生徒に捕まった。そうだ、わたしは背景じゃなくなったのを自分で忘れていた。ところでこの人の名前はなんだっけ。
「ちょっと部活の方の用事で」
「え、部活やってたの」
佐々木さんが目を丸くした。今日から始めたんです、とは言い出せないけど、入学当初から入部していたとしても知っているはずがない。
「もう、鈴木だよわたしは」
「ごめんなさい」
鈴木さんのブレザーの襟には、学級委員のバッジが着いている。広いおでこに通った鼻筋、溌剌とした発声。身の振りや身体的な特徴からこの人が責任感旺盛で、これからわたしが学園祭準備に参加していないことについて言及してくるのは目に見えていた。
「花町さんも色塗りとか手伝ってよ、みんなで作った方が楽しいよ」
それはそう。わたしも彼女のように明るくて、周囲から信頼される要素があればあの輪の中で微笑ましい共同作業をしていたと思う。
「でも今更混ざるのは、ちょっと嫌だな。みんなわたしのこと知らないだろうし」
「そうかもね。でも何事にも必ず最初の一回があるでしょ? それが今なだけだよ」
鈴木さんの語気には、わたしを責めたり、逆に情けに似た感情で引き入れようとする気配がない。それに言っていることも手放しに頷ける。わたしと違って、魂のかたちが前向きの矢印の人なんだ。
「わかるよ、でも部活の先輩に呼ばれてるから」
「そっか、部活の用事ないときは来てね?」
屈託のない笑顔。どこかむずかゆい。鈴木さんは絶対いい人なんだと思う。わたしみたいなのとは交わることもないのだろうけど。
「待ちなよ花町」
わたしと鈴木さんの会話の一部始終を見ていた女子が、わたしを呼び止めた。目の細長い、狐みたいな風貌をしている。いつも数人で固まってつまらない愚痴や陰口で盛り上がっているような奴だ。
「せっかくルミが入れてあげるって言ってんだからやったらいいでしょ」
聞いていたのなら、わかるでしょ。これから部活の用事があるし、鈴木さんもそれで了解して終わった話じゃない。
「ルミはあんたのことも考えて声かけたんじゃないの、陰キャラだけ仲間に入れないのが可哀想だから」
周りの女子が吹き出した。
「それより、みんなそれぞれ働いてるわけよ。部活の用事はわかるよ、じゃあなんで四限目からいなかったのさ。先輩もその頃はクラスの手伝いしてたでしょ、きっと」
痛いところをつかれた。今この時はまだしも、部室でひとり台本を読んでいた時間は、クラスメイトにとってサボり以外のなにものでもない。
「でさ、ちょうど青のペンキが足りなくなった」
いいぞ、と囃し立てる声が聴こえる。こんなことに構っている暇はないのに。全ての時間を演劇のために充てなきゃいけないのに。今まで誰もわたしと関わらなかったくせに、どうしてここで邪魔してくるの。
「みんな、刷毛持ってる。持ってないのはあなた」
「予算」と書かれた封筒から二千円を取り出し、彼女が続ける。
「買い出し頼むよ、これでサボりの分はチャラでいいでしょ」
使いっ走り、ここから近くのホームセンターまで往復四十分はかかる。そんなに先輩方を待たせる訳にはいかない。何としても逃れたい。
「待って、状況わかってないの?」
嘲笑うような調子だ。
「もっとハブになるのか、買い出し行って適当に今のまま浮いてんのか選べっつってんだよ」
許しがたい侮辱だ。どっちを取ってもずっと軽んじられ、昼休みの下世話な話題の贄になるだけの選択肢。
「何やってるかはしらないけど、どうせその部活でも毒も持てないハブでしょ。根暗はどこ行っても必要となんてされないんだよ、うん」
「ちょっとキツくなーい?」
「ちえりヤバ、ウケる」
口々に取り巻きが調子をつける。何がわかる、わたしの、演劇部のみんなの想いの何が。
「懸けてるものも、背負ってるものも違うんだ」
感情が、お腹の底で渦を巻く。演技の時とはまた違う意味で、心をぶつけたくなる気持ち。
「わたしが根暗だろうが友達いなかろうが、それはどうでもいい、なんて悪く言っても」
ちえり、と仲間に呼ばれていた彼女に一歩詰め寄る。彼女はまさかわたしが反論するとは思っていなかったらしく、多分に動揺の色を滲ませた。
「必要とされているのかなんてことも、実際はわかってない」
だけど、初沢先輩がわたしに演劇をやろうと持ちかけたのには、理由がある。鐘杜先輩と仁木先輩が、また来いと言ったのにも。わたしを受け入れてくれたこと、人員不足でやむを得ない状況だったからにしろ、わたしはこの上なく嬉しかった。
また一歩、ちえりに踏み寄る。
「だけど、わたしを、先輩たちを見たこともない人が、知りもしないうちからわかったような口を利くのは絶対に許さない」
だったらまず、わたしから始めようか。
「わたしは咏桜高校演劇部、花町京子だ!」
これは役ではない、演技でもない、わたしだけの言葉。わたしだけの名前、存在。
「テメェに名乗る名なんてないけど、この雰囲気、どうしてくれるわけ」
ちえりの声は、強がってはいるけど震えている。周囲を味方につけようという算段だ。実際教室は静まり返っていて、どう見ても突然わたしが憤慨し大声を出した厄介者。
「このくだらないものを作る空間の話だったら――」
「花町さん」
言い切る前にわたしの手を取り言葉を遮ったのは、鈴木さんだった。
「この鈴木瑠満が、花町さんと一緒にペンキを買ってきます!」
鈴木さんがぴんと挙手した。一同は明らかに脱力し始める。
「また花町さんがサボらないよう、監督役なのであります」
さらにおどけて見せた。拳を固めていたちえりも、溜息混じりに笑みを浮かべ、雰囲気もいくらか和らいだ。
「わかったよ、ルミには敵わないなまったく」
ちえりは看板の脇に座ると、何事もなかったかのように仲間と談笑し始めた。他のクラスメイトも、途切れた時間を繋ぎ直し作業へ戻る。鈴木さんのある種のカリスマ性によって、壊れた雰囲気は修復された。
「鈴木さん、あの」
「いいよ、ついてきて」
手を引かれるまま、わたしも教室の外へ。
「確かに、青春をかけた部活と比べたら、クラスの催しなんてつまらないかもね」
人垣を抜けながら、背中越しに鈴木さんが呟いた。わたしはとんでもないことを口走りかけていた。激情に駆られたとはいえ、全てをぶち壊しにしてしまうようなことを。
「でもね、みんながみんな、何かに全力を注ぐ喜びも辛さもわかっているわけじゃない」
わたしより少しだけ小さな背中。なのにその中にとても広く、あたたかなものが収まっているのがわかる。
「普通のやつも、普通なりに悩んで、普通なりに納得して割りきって、全力で普通やってるのさ。それも生き方で、頭ごなしに否定しちゃダメ」
「わたしも普通だよ、いや、それ以下かも」
階段を降りきって、下足入れに着いた。鈴木さんが振り返る。
「ううん、すごいよ、花町さんは」
そう言い切った彼女の瞳は、一点の曇りもない晴れ空のように透き通っていた。
「あれだけ不利な状況で、自分の一番大事なものを表明した」
それが正しいかは別としてね、と鈴木さんは付け加えた。
「ホームセンターから学校までの往復時間は四十分」
鈴木さんが外靴を床に放り、コトンと音が鳴った。
「聞かせて、演劇のこと。そして花町さん、ううん――」
鈴木さんが首を振った。
「京子ちゃんのこと」
胸の中でたゆたう感情に、角砂糖がひとつ落とされ、溶けていく。甘く、やわらかな実感。
鈴木ルミ、彼女は、わたしを知りたいと言った。名前で、呼んでくれた。名前は命の次に与えられる、大切なもの。
音やあてる字が同じだっとしても、それに込められた意味や願いは、自分だけのもの。漠々と広がる世界の中で、たった一点を座標付けるもの。それを言葉にしてもらえることは、わたしという存在を、認めてくれたということ。
「ルミちゃん、わたしも、そう呼んでいいかな」
口に出さずには、いられなかった。こんな断り、必要ないんだと思う。
「変なこと訊かないでよ」
鈴木さんは、気恥ずかしそうに頬を掻いた。
「あたりまえじゃん」
ルミちゃんの顔は、夕景を背にした影になっていたけれど、関係ない。
全てを朱く染める夕焼けより、わたしだけに向けられた笑顔の方が、何倍も眩しいから。
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美咲によって京子の迎えを命じられた葉は、一人で美咲と薫が待つランニングコースへ戻ってきた。美咲が京子を待つのに業を煮やしたのだ。
「なんで一人よ?」
美咲は訝しげに葉へ尋ねた。薫も不安げに葉の顔を見詰めている。
「ペンキの買い出しだってよ」
「そんなの他の奴にやらせればいいのにあいつは……」
仕方ないよ、葉は満足気に呟いた。
「“友達”に誘われちまったんだからさ」