夢の中で醒める夢
喉が乾いて仕方ない。全身の皮膚が粟立ち、毛が逆立つ。寒くも怖くもないのに、関節がけたけた笑う。空気に触れている箇所が痛いくらいだ。聞こえるのは、鐘杜先輩の声と、もっと大きな自分の鼓動だけ。そろそろ彼女の声すら聞こえなくなってしまいそうな早鐘だ。今わたしは、全身で自分と、鐘杜先輩を感じてる。有象無象のはびこる世界の中、たった二人だけが切り取られ確立されている錯覚。
わたしはここにいる。もっと感じたい、もっと示したい。今が、はじまりと無限のゼロ。これからわたしは何でも出来る、何にでもなれる。あまりの興奮に、空気すら喉をつかえる。疾く、疾く、疾く。
「じゃあ、あんたの一番最初の出番からやろう。入団面接のシーンだ」
その言葉を受けて、仁木先輩が空気椅子をはじめた。鐘杜先輩も尊大な所作で腕を組み、仮想の椅子に腰を下ろす。
鐘杜先輩の眼の色が、もう変わっている。先程までの、彼女自身としての感情は鳴りを潜め、新たに劇団へ訪れた少女を値踏みする勝者の眼差しだ。既に、始まっているんだ。
わたしは深く、長い息を吐いた。わたしは、テレプシコラ――女優の頂点を目指す少女。あらゆる障害も、試練も超えていける、希望を心に宿した少女。少しずつ、彼女がわたしに歩み寄ってくる。あなたはわたし、わたしはあなた。今手を取り、ひとつになる。
「――君は今、中学校の卒業を控えた身だね」
口火を切ったのは仁木先輩。彼は劇団の責任者、という役回りだ。
「高校、大学と進学して普通の人生を、普遍的な青春を謳歌する気はないのかい」
その声色は、重みが乗っていて、本当に才気溢れ敏腕を振るう中年男性のそれにしか聞こえない。
「こう言ってしまうのも憚られるが、君のことを考えると賛成はし難い」
演技だとわかっていても、この言葉は深く胸に食い込む。わたしのことを知りもしないで、まだ言葉も交わしていないのに、何故そう言えるのかと。自然と拳に力が入る。
「何故か。君はレールから逸れるには早すぎるし、こちらのレールに乗るには遅すぎるからだ」
そんなこと、やってみなくてはわからない。わたしを見て、わたしのデータが載っている紙切れではなく、わたしの眼を。底に映る心の輪郭を。
「テレプシコラになりたいと、資料にはそう書いてある。他の者も一様にそうだ、それが生半な道ではないとわかってはいるね」
はい。一言だけ返事をした。この二文字に、全ての意思を込めて。
「うん、初めて演劇を見たのが二ヶ月前で、たちまち魅了されたともあるね。だから確認したんだ、もしかしたら君がテレプシコラを嘗めてかかっているのではないかと」
違う。わたしは、演劇が好き。好きになった。ほんの二ヶ月前から始まったことかもしれない、何も積み上げてこなかったかもしれない。だけど、この気持に嘘はなくて、これからも嘘にするつもりはない。だからここへ来た。この気持を、誰かに否定など絶対にさせはしない。
「周りの人達は、愚かしく思うでしょう」
気が付いたら、立ち上がっていた。セリフはなぞらなくても、この胸の奥から湧き出てくる。演劇がしたい、テレプシコラになりたい。この渇望が潤うまで、わたしは進み続ける。そんな強い感情が、導いてくれる。
「ですが、わたしはこの道を軽んじたことなど一度もありません」
だって、この気持が、わたしにとって一番大切なものだから。
「遠回りしたくないんです。この夢に向かって真っ直ぐ真っ直ぐ真っ直ぐ」
もう他の選択肢なんて、見えない。
「そうしないと、絶対に叶わないから」
想いや願いはカタチが見えない。だからこそ、言葉にして、行動するしかない。今放った言葉は、わたしという存在がひとつしかないのと同じ、わたしだけが持てる銀の弾丸だ。これで人の心を撃ちぬけないのなら、テレプシコラなど夢のまた夢。
しばしの静寂が訪れた。このシーンはここでは終わらない。まだわたしのセリフがあったはず。他の役のセリフはまだ覚えていないから、確証はないけど、どこかおかしい。
「……次、葉のセリフでしょ」
興ざめした表情でこぼしたのは、鐘杜先輩だ。彼女はもう演技をやめて床にあぐらをかいている。
「すまん、呑まれた」
仁木先輩は申し訳なさそうに、その場にへたりこんだ。自己嫌悪に襲われているらしい。
「大体なんで空気椅子はじめたわけ!? 太腿攣るかと思ったわ!」
「景気よく全部片してくれたのはお前だろうが」
確かに、三人で雁首揃えて空気椅子のまま真面目くさった顔をしてたのは面白かったかも。
「そんな顔もするんだな」
仁木先輩は、わたしの顔を見て満足気にしている。わたしだって、楽しければ笑いますよ。
「いい顔してるってことさ、それに演技も初めてとは思えなかった。つい鬼気迫る雰囲気に言葉が詰まったよ」
仁木先輩は立ち上がると、初沢先輩にも話を振った。
「あ、うん、すごかった、圧倒されちゃったよ、うん」
初沢先輩は、どこか上の空みたいだ。
「あたし、先に下降りてるね」
止める間もなく、初沢先輩は踵を返し、そそくさと部室を後にしてしまった。どうしたんだろう。
「どうして男ってのはこう、気がきかないのかね」
鐘杜先輩が伸びをしながら毒づいた。仁木先輩は溜息に後悔の念を乗せている。
「私たちも降りるよ、花町は体操着取ってきな」
それだけ言い残して、鐘杜先輩も退室した。続いて仁木先輩も立ち上がり、わたしに一言ごめんな、とだけ言った。
わたしは、この三人のことを、何も知らない。どういった馴れ初めかも、どんな食べ物が好きなのかなんて簡単なことすらも。わたしはまだ、外の人間だ。
だけど、一つだけ共通していることがあるとすれば、全員この演目を成功させたいと思っていること。これだけは確かで、信じられる。
これから先輩たちを深く知っていこうと思うなら、演技でぶつかるしかない。社交辞令や建前を排した、感情同士のぶつかり合い。これが、あと三週間で本当の仲間になるための唯一の道だ。
わたしはもっと知りたい。彼女らの演技を通して浮かび上がる、核のようなものを。そして、わたしもそれを見てほしい。花町京子という存在を、器の中にあるカタチないものの真ん中を。
わたしはもう逃げない。自分の役と一緒に、成長するんだ。鐘杜先輩がつくって、初沢先輩がくれたこの役を、死なせはしない。
これは、わたしがわたしになる物語。
わたしの人生の主役は、わたししかいない。