この瞬間より、疾く。
わたしはわたしに成る。この演劇部で、学園祭の舞台で。
「それでいい。張り合う相手が腑抜けじゃつまらないからね」
鐘杜先輩が、やっと笑顔を見せてくれた。満面の、というよりは、所謂不敵な笑みってやつだけど。しかめっ面でもきれいだけど、やっぱりこういう顔の方が好きだな。
「盛り上がっているところ悪いけど」
仁木先輩が腕時計に眼を落としながら切り出した。もう昼休みが終わるらしい。部室に来てから三十分近く経っていたらしい。わたしにとっては一瞬の出来事だった。午後からは学園祭の準備時間が二限分与えられている。わたしは特に役割もないし、暇だな。あの、賑やかで和気藹々とした雰囲気は肌に合わないし。
「とりあえずお開きにしようか。京子ちゃん、放課後また部室に来てね」
初沢先輩がわたしに手を振った。誰かとまた会う前提で別れるのは、どこか照れくさい。こういうのも、久しぶりだ。心配しなくても、次がある。居場所が、帰ってくる場所ができたんだ。
「そうだ。花町、放課後は体育ジャージ持って集合な」
はい。返事はしたけど、仁木先輩の言葉の意味がよくわからなかった。まさか運動するの。どうしよう、わたし俊足の亀と同じくらいの速さでしか走れないし、球技も体操も何もかもダメなんです。
「……がんばろう」
仁木先輩が苦々しくこぼした励ましの言葉が、かえって不安を煽ってくる。わたし、どうなっちゃうんだろう。でもだからって、避けては通れない。人前に立つのだって、大きな声を出すのだって、演劇に関わることは全部苦手だ。
だけど、居心地の良い場所にだけ留まっていられるほど、甘くはないんだ。変えたいって思うなら、今ある基準を全部壊していくつもりでぶつからないといけない。パクチーだって食べられるようにならないと。
「それは絶対違うぞ」
普段とは違う素から栄養を摂ることで、細胞からの変化をですね。はい、やっぱり違いましたごめんなさい。
「なに馬鹿みたいなこと言ってんの、早く行くよ」
鐘杜先輩に背中を叩かれた。そうだ、急いで教室に戻らないと。先輩、台本って頂いてもいいんですか。
「いいよ、あげる。もう全部覚えてるし、いくらでも印刷できるから」
いくら自分で書いたからって、丸暗記することって簡単じゃない。やっぱり鐘杜先輩は遠い存在だ。神様に愛されているみたいに、なんでも上手くこなすんだろうな。例え間違ったとしても、きっとそれを正解にしていく人だ。才能と、それを支える努力を怠らない人間性の持ち主なんだ。追いすがるには、どうすればいいだろう。
決まっている、残り三週間、使える時間を全て注ぎこむ。それでカタチになるとは思っていない。そんなに簡単なことだったら、誰も努力などしない。だけど、カタチにしなくちゃいけないんだ。わたしの持てる全部をぶつけるんだ。それがほんのちっぽけなものだったとしても、それがわたしに出来ること。
「……飛んでるな、意識」
「もういい、先いこう」
チャイムの音が聞こえて面を上げたら、先輩方はもう部室を後にしていた。またやってしまった。もしかしたら話しかけられてたのに無視しちゃってたかもしれない。だったら申し訳ない。
どうしよう、学園祭準備時間の教室に戻っても、ますます変な浮き方をするだけだ。わたしには何も仕事が割り振られていないし、だからといって誰かと駄弁って時間を潰すこともできない。そもそも、ああいう浮ついた雰囲気が苦手なんだ。
それに比べて、部室は落ち着く。窓を開けてみると、柔らかな風が頬を撫でた。夏が終わろうとしている、一番心地のいい季節。生徒たちの賑わう声が、風にのってかすかにここまで届いてくる。普段はよく思えないものでも、こうして離れてしまえば耳当たりのいいものだ。小鳥の囀りや、虫の音のように、わたしのいる場所の静けさを際立たせてくれる。この部屋で、どれだけの物語が生まれ、どれだけの思い出が刻まれてきたのだろう。
特に風水だとか霊的なものを信じている訳ではないけど、ここで過去に思いを馳せることで力をもらえる気がする。わたしも、物語の一部にしてもらえる気がする。
台本を読もう。少しでも、前に進みたい。鐘杜先輩が三年間過ごした部室で、彼女からもらった台本を開く。なんだか不思議なきもち。
全てのページに、折り目がついている。書き込みや汚れはないものの、全部のページを何度も何度も開いたことがわかる。鐘杜先輩がどれだけ読み込んできたのかが、手に取るようにわかる。少し毛羽立った表紙や紙面の下側、どんなふうに台本を持ってたのさえも伝わってくる。わたしがもらったのは、インクの吹きつけられた紙束ではなくて、彼女の想いだった。応えなくっちゃ。
「京子ちゃん、京子ちゃんったら!」
初沢先輩が、わたしの肩を揺すっている。こんなに早く戻ってくるなんて忘れものですか。
「窓の外をご覧なさいな」
初沢先輩が指差す方へ顔を向けると、眼の奥に染みこむような紅い夕陽が首をかしげていた。今何時ですか。
「もう四時だ、俺の時計と花町の感覚のどちらがおかしいかによるけど」
だったら、わたしは二時間もここにいたってことなのでしょうか。
「私らに訊かれてもわかるか、なにしてたのよ」
鐘杜先輩が溜息まじりに肩を落とした。少し台本に目を通しておこうと思って、それから、気付いたら今になってました。
「二時間も地蔵みたいに台本持って立ってたってことか」
「この愚直なかんじ、“イイ”でしょ?」
目を丸くした仁木先輩とは対照的に、初沢先輩が何故か自慢気に笑んでいる。
「へぇ、面白いじゃん」
鐘杜先輩が腕組みしたまま、顔を伏している。小刻みに長い髪が揺れて、光沢がうねる。
「――どこまで覚えた」
肌がピリつくのは、何故だろう。鐘杜先輩の視線がわたしを射抜くのがはっきりわかる。その瞳は、どこか野性的な光を孕んでいる。
「いいえ全然、自分のセリフだけでやっとでした」
二時間で台本を見切るなんて到底無理で、出来たとしてもそれはきっと、勘違いだと思う。記憶に留めたうえで、心に落としこむまでは覚えたうちに入らない、と思う。
「大丈夫、時間はまだあるよ。これからゆっくり急いで覚えていけばいいからね」
俯いたわたしを、初沢先輩が励ましてくれた。強くて、気高い人だ。わたしを仲間に引き入れてくれただけじゃなく、いつでも味方だって思わせてくれる。この優しさに、心に、救われるだけじゃいけない。わたしも強くなる、なって、恩返しするんだ。
「待て初沢、ちゃんと聞いてたのか? 花町もなにしょげてるんだよ」
仁木先輩が明らかに狼狽した様子で声を荒げている。
「花町、いまの、自分のセリフだけでやっとってどういう意味だ――?」
仁木先輩の言葉の真意がわからない。初沢先輩も顔を青くしている。どうって、言葉通りの意味です。全力で入ってみたけど、自分の役を何とか自分として考えて、セリフを覚えるので精一杯でした。
「自分のセリフ、全部覚えたっていうのか」
「はい」
覚えた、というのは少し違うかもしれない。この主人公なら、こんな時きっとこう話す、こう動く、それを考えてみた。台本が、既にセリフがあるから答え合わせは出来る。少しづつ擦り寄っていくように、自分とこの子を入れ替えていくように。
部室は静まり返っていた。仁木先輩と初沢先輩が息を呑んでいるのがわかる。また変なことをぺらぺらと話してしまったかもしれない。また気持ち悪がられちゃうのかな。
「ハッ、ハハッ」
鐘杜先輩の高笑いが、静寂を切り裂いた。髪を振り乱す勢いで、目に涙を溜めて大笑いしている。やっぱりおかしなこと、言っちゃったんだ。
「――やっぱりあんた、面白い」
鐘杜先輩の言葉に、笑いに嘲けりはない。ただ、本当に面白いと思っているんだ。
「その様子じゃ、体操着取りには行ってないな?」
鐘杜先輩が長机のキャスターロックを外し、部室の隅に寄せた。パイプ椅子もほとんど蹴り飛ばすような勢いで机と一緒に追いやる。
「本当は、稽古の前は走ったりしてんだけどさ」
鐘杜先輩が、ポケットから赤いヘアゴムをとり出し、髪をひとつにくくった。室内の空気が密度を上げる。先輩の、喜々とした波動が伝わってくる。わたしに真っ直ぐと向けられた瞳には、火が灯っている。心臓が高鳴る。前に彼女らの舞台を見ていた時と同じ、いやそれ以上のトキメキが胸中を満たし、脳をシビれさせる。わたし、ここにいるんだ。生きているんだ。この鼓動が、全てを実感させてくれる。
「もう我慢できない」
「はい」
疾く、疾く、疾く。
「演ろう」