今のわたしに出来ること
「ようこそ、演劇部へ」
ようこそ。わたしを受け入れてくれる、言葉。誰かにこんな言葉をかけてもらえたのは、いつぶりだろう。内向的盲目になって、自分をなくしてからは、きっとなかった。たった一言。これだけで、この言葉に出会えただけで、わたしの全てが報われたように思えてしまう。人を救うのに、あれこれ複雑な仕掛けや飾り付けたものは必要ない。気持ちのこもった言霊がほんの、手に収まるくらいの一握りあればいい。これなら、取り零さずにすむから。ずっと、大事に掌で包んでいられるから。
この幸せな時間が、いつまでも続けばいいと思う。だけどまだこれは、やっと掴んだ糸口のほんのはしっこで。これからまだまだ、未だ見ぬ世界が待っていて。そう考えるだけで胸が高鳴って止まらない。わたし自身が追い付けないくらいに。だけど、追い付いていかなくちゃ。わたしが、わたし達が目指すのはもっと先のステージだから。ずっとわたしが来るのを待っていてくれた、なりたいわたしの肩を叩いて、ありがとうって、ごめんねって言いたいんだ。
わたしは渡された台本に眼を落とした。テレプシコラ。これが、題。なんのことだかわからないけど、どこか神秘的な響き。
「イイ線いってるよ、それは神話に出てくる歌や踊りの女神様のこと」
わたしが怪訝な顔でいたのを察してか、初沢先輩が補足してくれた。そして、さわりだけでも説明しておこうか、と付け加えた。
「ある大きな劇団が舞台なんだけどね、そこでは一年に一度、最優秀の女優を表彰する祭典が行われるの。その頂点に立った者が、“テレプシコラ”の称号を賜う」
最も優れた者だけが冠することを許される、神の名。それで、それで。
「主人公は、その栄誉に憧れる少女」
聞き入ってしまう。その少女の行く末が気になって仕方がない。
「だけど、夢を叶えるためには、現テレプシコラと板で対峙しなければならない」
それはそうだ、皆、誰よりも輝きたいと思うなら、光を遮る壁は超えていかなくてはならない。ぶつかって、よじ登って、向こう側の景色を見るまで。
「その現テレプシコラは、美咲。主人公と歳も近いけれど、類稀な才能を持っている絶対的な存在」
鐘杜先輩にはぴったりの役だと思う。もっと言うと、彼女にしか演じきれないだろう。仁木先輩はそもそも男の人だから別として。
――あれ。演劇部は、三人。男が一人で、女が二人。鐘杜先輩は女王さま。だったら、初沢先輩の、もといわたしの役は、まさか。
「そのまさかだよ」
鐘杜先輩が呆れ顔で肯定した。
「夢見る少女は――この物語の主役は、花町京子、あんただ」
目眩がした。頭に血が昇って、耳の中がぼうっと鳴る。嚥下しきれない現実。わたしが、演劇どころか、何かと矢面に立つことを避けてきたわたしが、主役。分不相応すぎるし、現実離れしすぎている。藻も草もない鉢で飼われた金魚みたいに、言葉にならない声が泡になる。わたしには、そんな大事な役を預かる資格も実力もないのに。
「馬鹿か。そんなもんハナから期待してない。あんたに求めてるのはそんなことじゃない」
鐘杜先輩が眉間に皺を寄せた。
「出来ることもするべきことも、未熟なあんたには一つしかないんだ」
初沢先輩は変わらず微笑んでいる。仁木先輩は、もっとうまく言えんのかね、とひとりごちた。わたしに出来ること。たったひとつだって見付けられやしない。先輩たちに追い付くどころか、遥か先をいく後ろ姿すら米粒みたいに小さく見える。どうすれば、何をすればいいんだろう。なにもかもが初めてで、手探りの手を伸ばすことすら恐ろしいわたし。もう逃げたくなんかないのに、染み付いた弱さが鎌首をもたげる。
「泣くほど、やってみたかったんだろ」
心の底から湧いてきたそれに、嘘をつかない方がいい。鐘杜先輩がわたしにくれた言葉。そうだ、わたしが信じられなくて、誰が信じてあげられる。本当のわたしを、誰が見付けてあげられる。嘘で塗り固められた世界を壊して光を見せてあげられるのは、自分だけなんだ。
「だったら、“ここ”で埋めてみなさいよ!!」
鐘杜先輩が拳で、自分の胸を叩いた。
「あんたにとって、私達も、思い描く理想の自分も果てしなく遠い。だけどね、それを悲観しているようじゃ脚は前へと進んではくれないんだ!!」
脚を踏み鳴らす。鈍い音が、床板に吸い込まれて消えた。
「花町京子、ここから溢れ出す全てをぶつけてみろ! 私を少しでも揺らしてみろ! それを出来るかもしれないのが、あんたの唯一持てる気持ちって武器なんだ!」
気持ち。演劇がやりたいという気持ち。自分を変えたいという気持ち。初沢先輩に報いたいという気持ち。他にも、まだまだたくさんある、わたしの無数の気持ち。わたしの中にある、良いも悪いも全部。外へ出たがっているもの全部、ぶつければいい。ぶつけてもいい。わたしがわたしであることを、叫んでいい。わたしはここにいる、誰のものでもないわたしがいるってことを、認めてほしい。向こう側を見てみたい。わたしだけの地平、空、海、世界を。
「ぶつけますよッ!!」
鐘杜先輩は、わたしに最初の一歩を踏ませてくれた。その恩を返したい、舞台を成功させたいという気持ち。これもわたしがだけが持てる、気持ち。
「たくさん失敗します、迷惑もかけます、脚が二本じゃ足りないほど引っ張ります!」
だけど。
「もう嘘はつかないって、変わりたいって思ったから」
だから。
「わたしにこの役を、やらせてください!!!」
そう、成るんだ。誰も、わたしすらも知らないわたしに。