好きを好きだと言うために
「――あたしの代わりに、舞台に立って」
わたしが、舞台に。初沢先輩の代わりに。わたしが、彼女の居場所を奪う。そんなことが許されるはずはなくて、それなのに先輩は、自らその場所を譲ろうとしている。それはなんのため。舞台を実現させようとする責任感か、それともわたしに分を超えた重荷を背負わせて償わせるつもりなのかな。
それは違う。初沢先輩の声が、指先から伝わる優しい熱がそう告げている。そんな次元の低い感情で、先輩は動いていないんだ。これはもっと、情熱だとか誠意がさせるものではないもっと大きくて、深い愛の世界。仲間に対して、脚本に対して、部活動に対して、自分に対して……そして、わたしにすら向けられた、愛の鼓動。かつてこんなにも、胸を貫くものがあったろうか。自分が劇に出られない悔しさ、わたしへの恨み、部員に対する罪悪感、それらを全て呑み込んで余りある、初沢薫という名の泉がわたしの乾いた心を潤すのだ。どこまでも、濯われていくのだ。
応えたい。初沢先輩が託した全てに。
だけど、首を縦に振るだけのことが、重たい頭を重力に従わせるただそれだけのことが、出来ない。初沢先輩は全てを差し出した。あらゆる負の感情を押し込めて、毅然として。わたしは、そんな人を目の前にして、まだ臆するの。まだ、裸になれないの。
決別したい。この弱さから、狡さから。だけど、怖い。仮に代役を引き受けたとして、わたしみたいな人間に務まるかわかったものじゃない。かえって、ぶち壊しにしてしまうに決まってる。だったら、初沢先輩だけじゃなく鐘杜先輩と仁木先輩の思い出さえも汚してしまうなら、はじめからやらないほうがずっといい。
「でもさ、もう聞こえてるんでしょう?」
聞こえてないです。聞こえてはいけないし、耳を傾けてもいけないんですよ、初沢先輩。わたしの心の声なんて、ありません、だから聞こえる訳もないんです。
「あたしには聞こえるよ、痛いほど。あたしよりずっと速く、大きな音を立ててる鼓動が」
これは、突然そんな話を振られて、驚いたからで、決して興奮したり、胸を踊らせたからではないんです。そんなこと、誰かを不幸にした後に転がり込んだ幸運を喜んではいけない。
「それはドアを叩く音。胸につかえて出たがっている感情が、必死にそれを訴えている音」
そうだとしたら、わたしはどうすればいい。本当の自分というものをたった一時、坂道を下る間だけ起こしただけで、こんな惨事を引き起こしてしまったのに。
「あたしの代わり、なんて言い方が悪かったね」
そう、わたしは誰の代わりにもなれない。わたしなんかじゃ、一割だって埋められないし、近付けない。
「京子ちゃんが、京子ちゃんのために。それでいい。何も背負わなくて、いい」
何も背負わない。簡単そうに見えて、それはとても難しい。というより、不可能だと思う。この世界には、しがらみが多すぎる。身動きすればするほど傷を負う茨の園だ。
「だけど、好きなんでしょう」
それはそう。誰にだって好きなことのひとつやふたつ、ある。だけど誰もが好きをそのまま貫けるかと言ったら、そうではない。普通の人が言う、趣味や娯楽としての、興味があるというだけの「好き」だ。
「歌に入りきって人にぶつかるのが普通だとしたら、相当イカれてるよ。それにね――」
鐘杜先輩が溜息まじりに漏らした。初沢先輩が何かを察したようにわたしを離し、一歩退いた。鐘杜先輩が立ち上がる。
「舞台に立てば、それは花町京子であり、そうでない存在に変わる」
鐘杜先輩がわたしの前に立った。こうして向き合ってみると、迫力が普通の人とは桁違いだ。
「人はどれだけ凡庸であろうが、その人間性の如何に関わらず何かに成れる」
凡庸、わたしを示すためにあるような言葉。そんなわたしでも、変わりたいと、何かになりたいと思っても、いいのかな。
「自分の中に何もないだって、だったら薫はあんたに何を見てここまで連れてきたんだ」
鐘杜先輩の声に力がこもる。それだけ、初沢先輩を信頼しているんだ。だから、今わたしを試しているんだ。わたしの中にある何かを、見定めようと。
「あんたは薫に、本当の自分を見せていいと言われた。人は誰かに、ありのままを認めてもらえることが一番嬉しいんだ。だから、溢れだして止まらなかった」
鐘杜先輩が、自分の頬を指で上から下へ撫でた。
「あんたの――花町京子の心の底から湧いてきたそれに、嘘をつかない方がいい」
嘘。わたしを覆い尽くして見えなくさせたもの。わたしが着膨れしているもの。言い訳に言い訳を重ね、逃げ続けて、それを嘘とも感じなくなったわたし。わたしこそが、嘘。嘘が脚を生やしている。嘘が、さも当然のように生きている。もうこれ以外の生き方なんて、わからない。
だけど、これはきっと、わたしに残された最後のチャンス。
憧れて憧れた、本当になりたい自分を探せる場所へと向かう、最後の。
輝いている人達に憧れて、羨んで、人真似ばかりが得意だった。だけどそうしているうちに、周りに合わせているうちに、自分というものが如何にちっぽけかわかってしまった。
はじめは、周りの人達も面白がって付き合ってくれた。だけど、アイドルの振り真似だったり、そういうちょっとした芸はすぐ飽きられる。わたし自身が本当はつまらない、個性のない人間だとわかると、すぐにみんなは離れていった。昔の話だ。
友達とお揃いで買ったピン留めが、いつの間にかわたしが真似して我が物顔でつけていると言われた時もあった。猿真似ばかりの人未満の存在でしかなかったわたし。誰もわたしをわたしとして見てくれない。わたしは、誰にもわたしをわたしとして見せられない、見せ方が、わからない。
「そんなわたしでも、いいんでしょうか」
噛み締められた奥歯が、きゅっと音を立てた。握りしめた拳が、緩んでくれない。
「わたしも輝きの中へ、舞台へ立ちたいと思っても、いいのでしょうか」
爪が掌に食い込んでいるけど、ちっとも痛くない。
「やりたいことを、やりたいと言っても、いいのでしょうか」
違う。わたしのことは、わたしにしか決められない。誰がなんと言おうが、答えはわたしの中にある。だからこれは、問うべきことではない。
「わたしは、何の経験もなくて、初沢先輩の穴を埋められるわけでもなくて、これから迷惑しかかけられない、どうしようもなくて、平凡で、そんな人間で」
だけど。
「やりたい! わたしは、演劇がやりたいです!」
もう、止まれない。
「弱い自分を振り払って、好きを好きだと言うために!!!」
しばしの静寂。肌がピリつくような、羞恥と後悔の念が押し寄せてくる。だけど、みんなの表情は柔らかく、むしろにこやかなくらいで。仁木先輩が三度、手を打ち鳴らした。初沢先輩はふっと微笑んだ。鐘杜先輩はハッと息を吐いた。
「私はあんたが薫にしたこと、許しちゃいないよ。けどね」
鐘杜先輩は吐き捨てるようにそう言って、自分の鞄に手を突っ込み、冊子を取り出した。
「あんたの最初の感情表現、届いたよ」
差し出されたのは、台本だった。これは夢への片道切符だ。これを取ったら最後、わたしはもう、戻れない。二度と、偽りの安寧へは。
「自分がない、結構。だったら必死に、こいつがボロボロになるまで読み込んで探してみな。そして成るんだ。それだけが、できることなんでしょ」
今ここが、わたしにとってのゼロ。始まりで、終わり。今までの自分と、さよならする時。不安で心細くって、自信なんかはもちろんなくて。
だけど、それでも、いいんだ。心の底からそうしたいと、自分で決めたことなら、いい。わたしの哀しみも喜びも、全部わたしのもの。わたしの、わたしだけの人生がある。
この広い世界で、わたしが何をしようと、それは世界にとって誤差にもならない。でも、わたしは変わろうと思う。世界が気が付かなくたって、お天道様がそっぽを向いたって、照れ屋な月が雲に隠れたって、わたしはここにいる。わたしだけがそれを信じられる。それを見ていてくれる人達が、できたから。
「花町京子……わたしは、花町京子です!」
深々と頭を下げた。今回は謝罪ではなく、運命を共にする相手への敬意の礼。
「知ってるよ」
仁木先輩が吹き出した。
「ようこそ、演劇部へ」




