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ちりあくたー  作者: 今井孝太朗
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灯火

 わたしの三歩先をゆく鐘杜先輩の背中は、華奢でしなやかな実際とは裏腹に、たくましく、真っ直ぐ伸びている。これが廊下ではなくランウェイだったとしたら、観衆の視線を釘付けに出来るのではないかと思うくらいに。どんな立ち振舞いをしていても、絵になる人はいる。正確に言えば、絵にする方法を、先輩はわかっているんだと思う。

 

 人間は普通、もっとがさつに動く。骨格にそった楽な姿勢で。それを矯正し、意識せずに続けるのは並大抵のことではない。この歩くという所作ひとつとっても、鐘杜先輩の日々の研鑽が垣間見える。それだけのことを、彼女はやってきた。それを披露する日を、待っていた。それをわたしが。

 

 鉛を括った鎖が絡み付いたみたいに、足取りが重くなる。胸が罪の重さに押し潰されて呼吸も細くなり、今にも切れそうで、頭が酸欠寸前の浮遊感に包まれる。どうして背負うことも出来ないくせに、危険を冒してしまったんだろう。なんの責任も持てないくせに、気持ちよくなろうとしたんだろう。わかってたのに。力のない者が望みを持っては、夢を見てはいけないとわかっていたはずなのに。一瞬の出来事が、今後全てをモノクロはっきり決めてしまうことも。わたしは演劇部の人達の春から、青を奪ってしまった。もう、塗り直せない。


 少し小さくなった先輩の背中に気が付いて、わたしは慌てて歩を進めた。溢れてしまった雫を器に戻すことは出来ない。そしてそれを拭うことも、わたしには出来ない。だけどここから、今だけは逃げてはいけない。なにも変えられない、だけど、今わたしが立つべき舞台は、先輩達の目の前だ。どんな敵意や憎悪を向けられたとしても、眼を逸らしてはいけない。少し鐘杜先輩の背中が大きくなった。


 やがて、わたし達は部室の前へと辿り着いた。鐘杜先輩が、ドアノブを捻る。耳障りな音を立てて、ドアが軋んだ。先輩が目線だけで、わたしに入るよう促した。失礼します。自分でも驚くほど小さな声だった。咳払いして唇を舐めてみたけど、二の句は告げなかった。


 中には、パイプ椅子に腰掛けた初沢先輩と、仁木先輩がいずれも無言でこちらを見ていた。殺風景な部屋だ。入り口から見て逆U字型に並べられた長机と本棚と、ブラウン管のテレビが隅にあるだけ。背後で、ドアの閉まる音が。ここはもう、異界じみた圧迫感を多分に孕んだ密室だ。思わず生唾を呑んだ。


 初沢先輩が、わたしに座るように促した。彼女の傍らにある松葉杖を、見ないふりして、わたしは着席した。皺が寄るほど、スカートの裾を握りしめている自分がいる。全く体から力が抜けない。このまま黙っていても、しかたない。わたしは立ち上がった。


「この度は、初沢先輩のみならず、演劇部の皆さん全員に多大なご迷惑をおかけしました」


 喉が痒くなるくらいに震えた声だ。


「わたしにはどうしても、償うことはできません。ですが、謝らせてください、何度でも」


 わたしは、つま先に額を当てに行く勢いで、頭を垂れた。そうしたいと思った。


「一丁前に謝罪はできるんだ」


 はじめに答えたのは鐘杜先輩だった。わたしはもう一度、頭を下げた。動物は本能的に、自分より圧倒的に驚異的な存在を前にすると降伏するようにできているみたい。


「もう頭あげて、別に謝ってほしくて来てもらったわけじゃないんだよ」


 初沢先輩の言葉が思いもよらず、反射的にそちらを向いた。謝ること以外に、わたしにできることがあるのだろうか。


「そうだな、とりあえずもう座ろうか。少し話がある」


 仁木先輩に言われるがまま、わたしはよろよろと腰を下ろした。話って、もしかして、これから警察に連絡するだとか、先生が呼ばれたり、そういう話だろうか。


「言っておくけど、私はまだ賛成してないからね」


 鐘杜先輩が頬杖を着いたまま、投げやりに言い放った。だけど目線は、わたしを捉えたままだ。睨んでいるというよりは、観察しているような。


「美咲はちょっと黙ってて。京子ちゃん、今朝のことをもう一度思い出してほしいの」


 今朝のこと、それが何を指すかはわかりきっている。できれば思い出したくもない、悲劇そのもの。わたしが眼を閉じたばかりに、幕も閉じてしまった。


「そう、京子ちゃんは眼を閉じて、歌ってたんだよね。その時何を考えてた?」


 あの時、考えていたことは、なかったと思う。一番自然で、何も纏わずに、それでいて全であるような、わたしだけの世界と時間がただあった。もっと言えば、限りなく無意識で、かつ内面でだけは何かが擦り合うように研がれていくような、感覚。自閉の極限だった。


「つまり、何も、外のことはわかっていなかった?」

「はい、わたしはわたしのことしか、わかっていなかった、それで、だから」


 初沢先輩は神妙な面持ちで頷いた。彼女に目線を送られた仁木先輩も、得心いったようにうん、と唸った。鐘杜先輩は相変わらずおし黙っている。


「そう、それならいいの」


 初沢先輩がゆっくりと立ち上がった。杖を手に取り、こちらへ歩み寄ってくる。わたしも起立した。


「おかしな話だけどね――」


 初沢先輩は、半ば笑っているような調子で、切り出した。


「そんな君のことが、あたしは気になって仕方がないんだ」


 それは好意的な意味で受け取っても、いいのだろうか。


「どうだろう、その閉じ込めた自分の中身を、誰かに見せてみるつもりは、ない?」


 わたしの、中身。そんなものはなくて、からっぽだから誰にも心を開けなくて、だから開いて見せるものなんてあろうはずもない。


「違うよ」


 初沢先輩は、首を振った。


「何もないなんて、本当に空っぽの人間なんて、いないんだ」


 その言葉は、わたしのすべてを包み込むようなあたたかさに満ちていて。


「まだ、知らないだけだよ、見付け方も、見せ方も」


 なにもないはずの、わたしの心のどこかを、そっと撫でるように滑りこんできた。鳥肌がたつのはなぜだろう。きっと、この世界より、わたしの中に灯る火が熱いからだ。その温度差に、追いつけないから。


「もう眼を逸らさなくてもいい、そこから出たがっている何かを、認めてあげていいんだよ」


 どうしてわたしは、頬を濡らしているんだろう。なにもないところからなぜ、溢れてきてとまらないんだろう。


「病院で少し話したとき、わかっちゃったんだ」


 初沢先輩は、右脇に挟んでいた松葉杖を、左脇に持ち替えた。


「あなたも、“なにか”になりたいんだって」


 何かが、壊れてしまう。これ以上彼女の言葉を聞いていたら、奥の奥底に埋めていたものが、眼を覚ましてしまう。それはとてもいけないことで、わたしを今よりももっとわがままにしてしまうもので、わたしを嫌われ者にしてしまう。思い出してはだめ、望むことは、希望は同じだけの苦痛に変わってしまう。だから何も、何も感じずに、植物みたいに、風になびいて、雨に濡れて、暑さに萎れて、それでいいはずなのに、どうして涙が止まらない。どうして止まってくれないの。


「だから、あたしの代わりに――」

「言わないでッ!」


 気が付いたら、叫んでいた。こんなに大きな声が出たのはいつ以来だろう。耳を塞いで、眼を真っ赤にして泣き濡れながらガタガタ震えているわたしは、それは無様だ。だけど、こうしないと、わたしはまた裸になってしまう。着込んだ言い訳や欺瞞や、歪んだ価値観を取り払ってしまったら、この凍えそうな世界と剥き身で対峙することになる。怖い、わたしはそれが、とても怖いんだ。そうなったら、それからは温もりを探す旅になる。決して手の届かない火を求めて、彷徨うことに。それだけは、嫌だ。


 突然、霧が晴れた。掻き乱れた心の軋む音が、止んだ。肩を周る右腕、初沢先輩の掌が、わたしの髪を撫でている。最後に誰かにこうしてもらったのは、いつだったろう。肌を通じて、温もりが、感情が、染み込んでくる。わたしの鎧が、剥がされていく。だけど、ちっとも寒くない。鳥肌も、いつの間にか失せていた。


「あたし、どうしても見たいんだ、美咲の最後の作品」


 さっきよりもずっと近い声が、頭の中をこだまする。


「ステージの上に立つ美咲と仁木くんを、もっともっと夢を、見ていたいんだ」


 初沢先輩の腕が、力強くわたしを掴んだ。


「そして、本当の京子ちゃんを」


 本当の、わたし。


「これはお願い、何の強制力もない、あたしの心からの願い」


 わたしの、願い。


「もう一度だけ言うよ」


 そんなこと、ずっと前から、わかっていたはずなのに。


「あたしの代わりに、舞台に立って」

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