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ちりあくたー  作者: 今井孝太朗
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独りの白を染める声

 四時限目の終業チャイムが鳴る頃になっても、わたしは震えが抜けずにいた。人を、初沢先輩に怪我を負わせてしまった。自責の念に押し潰されて、自席から立ち上がることもできない。授業もまるで耳に入らず、時間だけが経過していた。


 クラスメイトは各々、購買へ向かったり机を合わせてお弁当を開いたりと賑わい出している。とても何かを口に出来る気分ではない。これから先、わたしのすること全てが、初沢先輩から奪ったものだと感じてしまうだろう。今頃彼女は友達とお昼ごはんを食べているはずだった、午後の授業を真面目に受けるはずだった、部活に打ち込むはずだった、最高の思い出と共に巣立っていくはずだった、高校生としての思い出を抱いて大人になっていくはずだった。


 人生には岐路がたくさんある。時に間違えた選択をして大きく道が歪んでしまうことも。だけどそれは、自分が選びとった道だから、飲み込んで跳ね除けることができる。もし、自分の道を外部から掘削されて台無しにされてしまったら、それを許して回り道することができるだろうか。きっとできない。できたとしても、それはもっとずっと大人になってからだと思う。


 地蔵のように椅子に張り付いて、どれくらい経っただろう。まだ昼休みになってから三分。このまま体感時間だけが伸びていって、放課後までに一生を終えてしまいそう。


 相手が誰だから、その如何にかかわらず罪の重さは同じだけれど、初沢先輩だけは、彼女にだけはぶつかりたくなかった。わたしは、新入生歓迎会で演劇部の寸劇を見た時から心を奪われていた。自分以外の何かになる、そういう意味では、演劇はわたしにとって理想の居場所のように感じたから。終演後、いてもたってもいられなくなって、ルーズリーフにびっしりと感想を書いて渡しに行こうとしたくらいだった。結局客観的にみて気持ち悪すぎるから、部室の前をしばしうろついてから引き返した。あのルーズリーフはどこへやったっけ。


 演劇部の三人は、わたしを一介の不審人物にしてしまうくらい輝きに満ちていた。身の振りひとつで、一迅の風が吹く。発する言葉で無が縁取られ、可視化する。実際の距離、客席とステージが果てしなく遠く、それでいて懐まで踏み込まれるような、奇妙な感覚。鼓膜の振動、網膜の投影、違う。心が震え、記憶に焼き付けられる。


 あそこには世界があった。メーター法では表せない、限りなく広く、どこまでも深い世界が。無限と形容するにふさわしい、何かが生まれる場所。その深淵に浸かった時、人はあらゆるかたちに姿を変えて戻ってくる。わたしは、その甘美な変容にいつでも心を奪われる。地に這いつくばるわたしを、どこへでも連れて行ってくれる。想像の中と変わらない場所へと。


 それだけに、わたしは自分が許せない。

 

 これから生まれようとしている可能性をひとつ、絶やしてしまった。


 この罪は、わたしの世界をひとつ潰したところでは、(そそ)げない。もう二度と、わたしが空想の世界へ閉じ籠もらない誓いを立てたとしても、過去となった事実は消すことはできない。事実、こうしてまたわたしはあれこれと思いを巡らせる。授業に身が入らない。学生として正しいあり方すらも保てない。わたしの選択は、全て逃避に繋がっている。


 こんなことだから、未だに初沢先輩以外の、演劇部のみなさんに謝罪のひとつもしにいけない。絶対昼休みになったら、誠心誠意、徹頭徹尾謝ろうと思っていたのに。結局わたしは、自分が傷つくことを極度に恐れ、何もできない臆病者だ。今は自分を可愛がっている場合ではないのに。死なないと治らないのは、なにも馬鹿だけではない。これからもわたしは変わらない。これからもわたしは変われない。


 


 もう、帰ろうかな。どこに。具合が悪くなってきた。先輩はもっと悪い。また逃げるの。そう。


 やっと動けた、席を立てた。逃げるときは動くらしい。ここまでくると笑えてくる。鞄に出すだけ出した筆記用具と教科書を詰め込む。ずっしりと重い、いつも以上に。履き違えた自尊心と罪の意識を抱えてたっぷりとふくらんでいる。


 クラスは依然として、わたしなどお構いなしにざわついている。わたしがいようが帰ろうが、気付きもしないし気にしない。生まれてこの方、必要とされたことはない。あっても、クラス委員だとか、みんなのやりたくない役職を引き受けるときだけ。だから、ここでいなくなっても大丈夫。だれにも迷惑はかからない。わたしを呼び止める人は、いない。


「どこへ行くの、花町京子さん」


 教室が静まり返った。思い思いに団欒に勤しんでいた群衆は、背景となり、わたしと声の主だけを浮き彫りにする。


「ちょうど立ち上がってくれて、教室で大声出す手間が省けた」


 調子はごく穏やかなのに、地平の彼方まで抜けていきそうな、芯のある声。わたしを射抜いて離さない、研ぎ澄まされた眼差し。一点の揺らぎも紛れもない、凛とした立ち姿。下級生の垣を分けて今、目の前にいる。


 手首を掴まれる。親愛の証ではない、むしろ縛めるように。その人が黒く豊かな長髪を掻き上げた、空気が花開き、鼻腔を包む。喉が萎縮し声が出ない。近くで見ると、記憶よりも幾分大きく、可憐に見えた。


「私は演劇部部長、鐘杜美咲(かねもりみさき)


 わたしの心を奪った人。


「ちょっと部室まで、顔貸してくれる?」 

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