稔萊のアクトレス
こんなにも滾るのは、いつ以来だろう。小さい頃、初めて衣装を着て舞台に立った時、いや、それ以上。この感覚を知ってしまったら、もう戻れない。
今までの記憶は全て、はるか後方に置き去りにされ、モノクロになった。今だけが現実、今だけが無限。視界に溢れるあらゆる彩が、眼に深々と突き刺さる。全てが私を刺激する。踊らせろ。もっと私を満たせ、どこまでも足りぬ乾きと、達成の蜜で私を。他に何もいらない、あらゆる視線を、私だけのスポットライトにしてやる。
テレプシコラは、私だけの役だ。
花町には悪いが、勝たせてもらう。台本上の筋書きは、花町が新たなテレプシコラになって夢を叶える結末になっている。だけどこれじゃ、つまらないよな。
選んでもらうんだ、本当のテレプシコラはどちらか。
本番まであと二日。本来なら波風立てずに、稽古で得たものをそのまま出し切るだけだ。けどもう、私たちは退けないところまで来てしまった。そうだろ、花町。
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「台本を二通りにする、本気で言っているのか」
案の定、葉は驚いた。今日のミーティングは荒れそうだ。もっとも震源地は、私の真下だが。
「ああ。勝負するなら、明白な結果が必要だ」
「投票でもするの?」
薫が具体的な案を出してきた。この子は、私の性格をよく知っている。もう止まれないことも、止まる気すらないことも。
「いいや、もっとわかりやすい形がある」
花町に視線を投げ掛ける。お前なら、わかっているだろう。一番“燃える”方法が。
「――歓声」
イイ線だ。机に拳を叩きつけ、立ち上がる。
「私たちどちらがテレプシコラにふさわしいか、決めるのは観た人たち」
「――鳴り止まぬ拍手を勝ち得た方が」
「――そうだ、永劫、脳髄に焼き付く喝采を向けられた者が」
テレプシコラだ。
「わかった。その結果次第で、オチだけ変わるってことだな」
「そう。それだけなら、今から付け足してもイケそうでしょ?」
「あたしは、美咲と京子ちゃんの決めたことなら構わないよ」
全会一致だ。実はもう、修正版の台本は書いてきた。そう大きく変わることはない、二日あれば覚えられる。薫は、ナレーションが変わるから気を付けてね。
「ほら、花町。お前の台本だ」
花町は、少し間を置いて、台本を受け取った。ぱらぱらと斜め読みをすると、花町は台本を閉じた。
「これ、読む必要あるんですか」
花町は、顔に誰が見ても明らかな疑問符を貼り付けて、首をかしげている。この土壇場で何を言っているんだ。
「だって、もともとの台本と変わらないですよね」
花町は、据わった眼のまま、口角だけ上げた。鳥肌が立った。熱いのに、寒い。なんだこの威圧感は、本当にあの、小娘なのか。
「わたしが勝つんだから」
私の中の何かがキレた。お前に私が殺せるのか、花町。最後の一パーセント? 馬鹿げてる。こいつは私を、限界を超えて本気にさせる。百が上限なんて、誰が決めたんだ。いいよ、お前がその気なら、受けて立つまでだ。
「穴が空くまで、読み込んでおけよ小娘」
気が付けば、私たちは互いの額を擦り付けて、瞳の炎を燃やし合っていた。
「負けて泣く時は、演技じゃなくていいんだからな」
勝ちたい。ただ、それだけ。私が私であること、それを証明する。未だに夢に見る、埃まみれの舞台着。塵を焼き払うのは、他でもないお前の炎だ。傷がどうした。そんなもの、自分から縫い目を剥いでやる。互いに、血も涙も汗も、流し尽くそう。
感謝する、花町京子。お前は強い。お前の情熱が、私の心を揺さぶった。自然と笑みがこぼれる。同等と認められる存在、これがあることがこんなに悦ばしいなんて。愛しいよ、花町。お前がいれば、私はもっと輝ける。
「わたしが泣くとすれば、それは、嬉しい時だけ」
花町は、さっきまでの表情を解いて、心底幸せそうに笑った。そういえば、初めて部室に来た時は、泣きじゃくってたっけ。
「あの日、あの時、この場所で決めたんです。泣くほどやってみたいことを、見つけた時に」
変わったな、花町。たったの二週間と少し。お前は、生まれ変わったよ。何度も、辞めさせるか迷った。こいつの打ち込みすぎる性格は、常に挫折と背中合わせだからだ。私と同じ轍は、踏ませたくなかった。
けれど、私は薫と約束した。必ず成功させるって。私は、自分の過去を花町に重ねて逃げることを辞めた。お前がいたから、私も変われたんだよ、花町。
「演劇好きか、京子」
花町は、京子は、今にも零れそうな涙を瞳に溜めて、頷いた。もう泣きそうじゃないか。
「だって、名前――」
そんなことが、嬉しいのかよ。変な奴だ。
「どうなんだよ」
京子が眼を擦り、もう一度頷いた。
「好きです」
京子の指先が震えている。わかるよ、これからが楽しみで仕方がないんだよな。私もだ。何かが皮膚を突き出して、溢れてしまいそうになる。
「わたしは演劇が、大好き。この部が、みんなが、わたしを強くしてくれた。転んでも起きる方法を教えてくれた」
そんなこと、教えたっけなあ。今となっては、遠い過去のように思えるんだ。私はただ、私のためにやってきた。お前もそうだ。お前は他でもない、自分の力でここまで来たんだよ。
「だから今度はわたしが、劇を観てくれたみんなに、希望を与えたい。好きを、もっとたくさんの好きで、輝かせたい」
願わくば、神みたいなものがいるのなら、京子に変わらない心を与えてやってほしい。だが、人生に永遠の絶頂はない。いずれ必ず、何かに負け、何かを諦める時が来る。
だったらせめて、私が引導を渡してやろう。それが、先輩の私があげられる、せめてもの愛情だ。私は、間違いなく勝つ。だけど京子なら、何度でも立ち上がる。そう信じられるから、そう信じさせてくれたから、私は全力を出せる。
自然と、手が前に差し出された。京子もそれに倣い、互いの手を強く握った。
「――演ろう、京子」
「はい、美咲先輩――」
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私たちは稽古を終え、それぞれの帰路についた。今日は私が薫を送る日だ。
「思い返せば、あっという間だった」
薫が、ぽつりと、独り言のように切り出した。本当に、怒涛の三週間だった。人生において、ほんの短い期間。だけどこれはきっと、最期に瞼を閉じるその瞬間まで、鮮明に思い出せるだろう。
「これで、終わる。あたしたちの演劇部が」
薫の震えた声。耳を傾けるものは、私だけ。
「終わっちゃう、終わっちゃうんだ」
薫は空を仰いだまま、一筋の涙を流した。私たちの三年間が、全て溶け込んだ雫。
「舞台、立ちたかったよ」
ずっと、押し殺していた薫の本心。その言葉も、涙も、私に止める術はない。
「京子ちゃんも、自分の不運も、恨んでない。それは本当なの、でも」
私は泣かない。ずっと、薫に甘えてきた。私が今度は、胸を貸すんだ。
「薫、付き合ってほしい場所がある」
薫は、黙って頷いた。薫の手を引いて、私は懐かしい場所へ向かうことにした。
いろんなことが、あったね。三人共、演劇をちゃんとやるのなんて初めてで。私は先走るし、薫はアガリがち、葉なんて棒読みもいいところだった。数え切れないくらいの大根をおろして、織ろしてきた。
最初は部室もなくて、二年で空きが出来るまで校舎裏や公園、カラオケでまで稽古してた。夏は暑いし、冬なんて喉が締まるし最悪だった。
けど、常に充たされてた。葉がいて、薫がいて、それが世界の全部でよかった。小さな場所で、部活の中で、湿った私にはちょうどよかった。
だけどそれじゃあ、もう駄目だ。薫は、私をまた舞台へ連れ戻してくれた。葉は、ずっと私を待っててくれた。二人の優しさに報いるには、今までの私じゃ足りない。
だから、さよならしにいこう。ずっと心にかけていた錠を外して、弱い私と。
「ここ、懐かしいね」
薫がすん、と風の香りを嗅いだ。青臭い、名も知らぬ草。粒の粗い砂場に、塗装のまばらな遊具。私たちが昔稽古場にしていた公園。
「ここに来ていた頃の演技は、思い出したくもないね」
薫が自嘲気味に笑う。ここの雑草より、誰の眼にも留まらない実力だった。
「最後に、思い出巡り?」
「それもあるな、まず小山に登ろう」
私たちが舞台に見立てて使っていた、滑り台付きの小山がある。少し高い場所にいると、自然と身が引き締まるからちょうどよかった。薫を背負い、ゆっくりとてっぺんに向かった。
「重くない?」
「あの頃より七キロも痩せたんだろ、軽いもんだよ」
頂上、と言ってもほんの小さな山だけれど、とにかく着いた。薫を座らせて、松葉杖を取って私も戻った。
「こんなに、狭い公園だったかな」
「変わったんだとしたら、私たちの方だな」
今は、何故かずっと、遠くの景色に眼が向く。かつて不揃いな草原に落としていた眼は、遠くのビルを突き抜けて、地平線へ。
「これからも、変わっていくんだよね」
薫は、三角座りをした膝に顔を埋めた。少しの期待と、不安。私も薫も、どうなっていくかわからない。だけど、信じられることはある。
「私がどう変わっても、何度生まれ変わっても、薫が一番の友達だ」
わかってる、と薫が顔をさらに埋めた。
「ここに連れてきたのは、プロポーズのため?」
「若干、それに近いかもな」
あー、あー。よし、声はまだまだ出る。
「薫を、今日だけお姫様にしてやるよ」
薫の手を取って、立ち上がらせる。薫の気持ちには、ずっと気付いていた。部の誰よりも、薫の台本は読み込まれ、ぼろぼろだった。今日は全部出していい。悔しさも、哀しみも怒りも、全部私が受け止める。
「ブザーはいらないな、テレプシコラ」
おかしな気分だよ、薫。まるで二つの時が絡み合って、一本の糸になるみたいだ。私たちが過ごした時が、三年間が、この瞬間に流れていく。
観衆はいない。照明も、音響も。二人だけだ。だけど聴こえる、肌が感じる。
おい、薫の出番はそんな長くないだろ。私も長尺使うぞ。
お、今のセリフ結構いいかもな、今から台本に付け足そうか。冗談だよ。
いいよ、もっと歌って、笑ってよ薫。なんで泣いてんだよ。
え、私もか。どうしてだろうな、なんでこんなに楽しいのに、泣いてるんだろうな。不思議だな、不思議だよ。こんなんじゃ、演技にならないよ。
「終わっちゃう、終わってしまうよ美咲」
「嫌だ、嫌だよ薫」
私たちの泣き喚く声は、きっと今までのセリフのどれよりも大きかった。お互いの制服に涙も鼻水もくっつけて、ただひたすら、泣いた。泣き疲れて、歩く気力もなくして私たちはその場に寝転んだ。
「これはどっちの勝ち?」
「どっちも負けだ、途中で演技を放棄してたしな」
勝ち負け以前だったね、と薫は笑った。二人でいるといつも、馬鹿げた結果で落ち着いてしまう。それが楽しくて仕方がない。ひとしきり笑って、薫は身を起こした。
「――次は、勝ってね」
薫は、勝負において私と京子どちらの敵でも味方でもない。京子は役の、私は心のバトンを渡された。離すものか。これを未来に繋げるのは、他でもない親友の私だ。この重さに、尊さに、私は報いる。
「ああ。これでやっと、やっと――」
今なら、当時のちえりの気持ちもわかる気がするんだ。ライバルにすぐ後ろまで迫られる焦燥、恐怖。けれど私は振り返らない。後ろ髪を鷲掴みにされても、見せ続けるのは背中だ。持ち続けるべきものは誇りだ。
私はもう鈴じゃない、人の心を強く打ち鳴らす鐘だ。
「埃まみれの私とは、さよならだ」




