欠けたピースのゆく宛は
鐘杜美咲と仁木葉は、病院へ担ぎ込まれた薫からの連絡を受け、授業もそっちのけで彼女の元へと駆け付けた。
待合室のソファに腰掛けた薫の、ギプスで固められた足首を見て、美咲は血の気が引くような、沸き狂うような矛盾した感覚を覚えた。薫の傍らにある松葉杖を見て、美咲は事の重大さを聞くまでもなく認識した。
「……いつ頃治る見込み?」
美咲は、その問いに意味がないことを重々理解していた。だけどもし、大層な包帯の割に大したことのない怪我だったとしたら。か細い望みを込めてそう尋ねることしかできなかった。
「少なくとも一ヶ月は絶対安静。完治なら二ヶ月はみないといけないって」
美咲の胸中に、鈍重なもやがかかった。美咲が部長を務める演劇部は、三週間後に学校祭での公演が決まっている。杖の補助なしには歩行も困難となった薫の参加は絶望的であった。彼女らの部に、余剰要因はいない。美咲と薫と葉、三名の小規模な部だ。学校祭への参加を取りやめざるを得ない。
「ごめんね、わたしにはもう、“成れ”ないや」
静まりかえった待合室に、薫の言葉が浮かんで消えた。足首を恨めしそうに見詰める薫の瞳が、僅かに湿り気を帯びた。美咲は唇を噛み締め、宙を仰いでいる。葉が重々しく口を開いた。
「自転車とぶつかった、て言ってたな。何があった?」
「言葉通りの意味だよ、避ける暇もなかった」
美咲が怒りを露わにし、薫に向き直った。
「そいつはどこにいる、今どの面さげて生きてんだ!」
病院だぞ。葉が美咲を制した。薫は苦笑する。
「やっぱり学校へ行かせて正解だった、この場にあの子がいたら美咲がぶん殴ってたね」
学校、という言葉に葉が反応した。
「まさか、うちの生徒なのか?」
薫は首を縦に振った。美咲の瞳孔がきゅっと収縮した。
「名前は? “ご挨拶”しなくっちゃ」
「訊いたって怪我は治らないよ」
「加害者を庇い立てする気?」
加熱する美咲を遮って、葉が口を挟んだ。
「今大事なのはそんなことじゃない。俺たちはひとつ決断を迫られている」
一呼吸置いて、葉が切り出す。
「俺達の幕を、ここで下ろすか」
美咲と薫も息を呑んだ。
「それとも、代役を立ててでもやりきるか」
二人の沈黙が、愚問であったと葉に告げた。三年間、三人だけでやってきた。今更、他人の介在する余地などありはしない。
「そうだな、例え代役が見付かるにしても、三週間でモノになるわけもないか」
「でも」
薫が二の句を紡ぐ。
「あたし、美咲が書いたあの話、好きだな。絶対誰かの眼に触れてほしいと思ってる」
「ありがたいけど、照明をやってくれる人見付けるだけでも苦労したんだよ。今更誰がイチから演劇なんて」
そう言いながらも、一番口惜しい様子なのは美咲であった。全てをぶつけるつもりだった。集大成を、見せ付けるつもりだった。
「もし、代役にアテがあるとしたら?」
薫は、何かを思い出したように面を上げると、不敵な笑みを浮かべた。
「まだ詳しくは話してなかったよね、あたしがこうなった根本的な原因を」
「何が言いたい?」
葉が訝しむように会話を掘り下げる。
「二人とも、周りの景色や音を感じないくらいに、何かに集中したことはある?」
「は? 英語の書き取りとかでハイになって手が勝手に動く、みたいなやつ?」
美咲は薫の真意をはかりかね、機嫌が傾いた。
「そんなかんじ。極限の集中状態をいつでも引き出せるってあり得ると思う?」
「無理だろう、一流のスポーツ選手でも一握りしか持ち得ない才能だ」
だよね、と薫はひとりごちた。
「歌ってたんだよあの子。それはもう気持ちよさそうに、まるで世界に自分がたった一人みたいに、自由に」
「はっきり言ってよ、話が見えない」
ごめん、と薫ははにかんだ。ただならぬことに気が付いて興奮している、と付け加えた。
「あの子なら、あたしを轢いたあの子なら、三週間で物語の本質に至るかもしれない」
葉はようやく得心いった様子で、なるほど、とだけ呟いた。美咲は頓狂な声を上げた。
「まさか、加害者を代役に推そうって言うの?」
「あたしだって本意じゃないよ。ただ、このただならぬ出会いの意味を知りたくなっただけ」
葉は、薫の確信めいた眼光の根源に興味が湧いた。
「その子の名前は、クラスは」
「葉、あんたまでこんな馬鹿げたこと――」
葉が美咲の肩を掴む。
「お前を見出して、信じてくれた、この道に引き戻してくれたのは初沢だろ。他でもないあいつの言うことなら、少し信じてみたくなった」
美咲が葉の手を払い、わかった、わかったと憤りながら鞄を引っ掴んだ。薫もゆっくりと、杖を頼りに立ち上がる。
「はじめに会いに行こうとしたのは美咲なんだよ。行こうじゃない、“ご挨拶”に」
薫は慣れない松葉杖の扱いに戸惑いながらも、凛とした面持ちで美咲と視線を通わせた。
「行こう、あの子に――花町京子に会いに」