塵と役者
わたしは部室へ戻るなり、勢い良く窓を開け放った。温い風ではあるけれど、吹き込んでくれるだけ幾分マシだ。少しでも早くシャツを乾かすため、ぱたぱた裾を振る。この運動で生まれる熱と汗が風に勝っている気がしなくもない。拉致があかないから、制汗剤を塗りたくることにしよう。いつでも鞄に持っておくのが女子の嗜みです。
「お、いい匂いするな」
仁木先輩が戻ってきた。わたしは制汗剤を手渡す。仁木先輩がタオルに顔を埋めながらありがとう、とふがふが言った。
「おひとりですか?」
「ああ。美咲達もじきに戻るよ」
「待ちくたびれてたんですよ?」
悪い悪い、と仁木先輩は脇に制汗剤を塗りながら言う。彼のどこに謝意を見い出せばよいのだろうか。
「ただ、これからうちはもっと面白いことになるぜ。くたびれる暇もないくらいに」
どうして、わたしの疑問に答えが返ってくることはなかった。仁木先輩はいつもホントのところを優しい顔で薄皮に包む。わたしは汚い大人フェイスと呼んでいる。いつもこうやってはぐらかされるんだ。
「俺が与える先入観なく、花町自身の感覚でものを見てほしいからさ」
「そう言いながらまたその顔してる」
「だって出まかせだもの」
「ほらあ」
先輩はけたけた笑っている。どうして生きている時間が二年ばかし短いだけで、こうもやり込められてしまうのだろう。仁木先輩はこうしておどけて見せることも多いけど、すごく落ち着いていて、どこか遠くを見詰めるような目をしている。むしろ、そうしすぎないようにふざけているようにも見える。
「おい、投げるって言った――」
仁木先輩の声に気が付いた時には、もう遅かった。先輩が投げて寄越した制汗剤を取り損ねて、鞄にぶちまけてしまった。こればかりは、さすがの先輩も平身低頭で謝ってきた。大丈夫です、拭けばいいだけですしね。
「ただ、台本が汚れていないか心配ですね……鐘杜先輩にもらったものなので」
「律儀な子だよ。多分美咲は怒らないけど、汚れていたら俺から謝っておく」
確かに、鐘杜先輩なら「印刷するだけだし、いくらでも新しいのやるよ」なんて言いそう。だけどあれは、鐘杜先輩が使っていたもの。だから価値がある、代え難いお守りになる。それを汚すなんて、とても罰当たりだ。
結論から言うと、台本は汚れていなかった。ひいていた汗が、どっと噴き出す。暑いからではなくて、むしろ血の気が引いて肌が冷たい。
「どうした、やっぱり汚しちゃったか」
それよりも、もっと恐ろしいこと。教室に戻らなきゃ、机の中を見て、あとはどこだろう。なんてこと、なんてことなの。
「――ないんです、台本」
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連れ立って部室への帰路についた美咲と薫は、風を逆巻いて駆け抜ける京子とすれ違った。二人が声をかける間もなく京子の背中を見送っていると、遅れて葉が現れた。
「あいつ、また使いっ走りさせられてんの?」
「すごい剣幕だったね、何かあったの仁木くん」
葉は髪をぼりぼりと掻きながら、ことの経緯を説明した。
「そんなことで校内駆けずり回ってたのか」
「美咲のこと尊敬してるんだよ、可愛いじゃない」
「――ただ、腑に落ちないとすれば」
葉が重々しく口を開き、言葉を切った。一同も頷く。
「あいつが台本なくす訳ないな」
「毎日一緒に寝てるって言ってたよ……」
「要は、普段から肌身離さず持ってたってことなんだよ」
三人の間に、緊張が走った。美咲が何か確信めいたものを眼に宿しながら切り出す。
「――ヤられたな」
「でも、京子ちゃんみたいないい子が」
「だからこそ、大人しい子ほど、そういう対象になったりするだろ」
美咲と葉が溜息を吐いた。薫は信じたくない、といった様子でわなわな唇を震わせている。
「どうする、美咲」
葉が美咲へ目配せする。美咲はまたひとつ大袈裟に息を吐いた。
「葉、あいつがクラスでいざこざ起こした時、見てたんだろ」
「ああ、不利な口論になっているところを誰かに庇われてた」
京子がちえりと舌戦を繰り広げる一部始終を、葉は目撃していた。京子が体操着を取りにいったきり中々部室へ戻らない為に様子を見に行ったのだ。
「ぶつかった相手の名前、わかる?」
「確か――ち、ちえり、とか呼ばれてたかな」
そう、美咲はそれだけ呟いてひとり歩き始めた。美咲の突飛な行動に驚いた葉と薫は一拍遅れてついていく。
「美咲、何かわかったの?」
薫の問いかけに、美咲は答えなかった。
「なんとか言えよ、どこへ向かってる」
「行けばわかる」
美咲は短く言葉を吐き捨てた。美咲のただならぬ気配に、葉と薫は黙らざるを得なかった。
美咲に導かれるまま、一同が辿り着いたのは体育館だった。景気よく練習をするバスケ部員も意に介さず、美咲はコートを突っ切った。葉と薫はぺこぺこと頭を下げながら続く。
バスケットボールの弾む音が止み、美咲も足を止めた。美咲の視線は、目の前のゴミ箱に落とされている。
「まさか、ここにあるっていうのかよ」
美咲は肯定の代わりに、袖も捲らずにゴミ箱へ手を突っ込んだ。そのゴミ箱は、体育館のモップがけをした後の屑を捨てる場所だ。煙のような粉埃が舞った。それが髪や制服に振りかかることを意にも介さず、美咲は手をまさぐる。
「――相変わらず、悪趣味な奴だよ」
美咲がゴミ箱から引きぬいた手には、折れ曲がり、埃にまみれた京子の台本が握られていた。薫が悲鳴じみた声を漏らした。
「こんなところに……ひどいよ」
薫がハンカチで台本を拭おうとしたところを、美咲が制した。美咲は自分の太腿に台本を打ち付けて埃を払った。スカートにも白粉が乗る。
「そんな、美咲が汚れ無くたって」
「いい。これで、このままでいい」
それだけ言って、美咲は踵を返し、体育館を後にした。それから少し遅れて、再び館内に怒号と足音が戻った。
「あいつは――花町の宝の地図はどこを指してた」
「教室に台本を忘れたか見てくる、とは言ってた」
丁度いい、美咲は大きな瞳をギュッと細く張り詰めた。
「行こう――、“ご挨拶”だ」
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人間は、とてつもなく混乱していたり、困ったことがあると無意識に祈ってしまうらしい。
どこを探しても、台本が見付からない。自分の机にも、ロッカーにも、忘れ物保管所にもどこにも。
わたしは自分の席に腰掛けて、ただ呆然としている。どうして、疑問が飛び交う。お願いします、次もう一度机の中を見たら台本がありますように――もう四回はやった。この世には奇跡も魔法もないらしい。薄暗い鉄板の囲いの中には、皺の寄った2週間前の学年便りしか入っていない。
何度思い出しても、部室へ行く前に台本は鞄に入れた。本に足が生えるほど現実はファンタジーではないし、未来でもない。だとすれば、考えたくもないけど、他の誰かが。
時間はあった。みんなでランニングをしている間、鞄は部室に置き去りだ。部室の鍵はかかっていなかった。誰でも、わたしの鞄に手を伸ばすことはできた。
今冷静に立ち返ってみると、さっきまでは聞こえていなかった声、くすくすと抑え気味の笑い声が。こちらに向けられた視線、無遠慮な、嘲笑うような眼差しが。
ちえりと目があった。きゅう、と彼女の唇が意地悪げに歪んだ。全てが繋がった。
確かに、わたしは彼女から好かれていない。わたしも喰ってかかったから、目をつけられていてもおかしくはない。だけど、だからといってわたしの台本を盗るような真似までするだろうか。あの一件が、そこまでわたしを貶める理由になるんだろうか。
わからない、だから、確かめなくちゃ。どう考えたって、もし仮に、ちえりがわたしの台本をどうにかしたにしても、白状するわけがない。証拠がなにもなく、わたしの憶測に過ぎないからだ。むしろ、これを言及してしまえば、彼女にわたしを敵視する大義名分を与えることになる。はじめから、わたしの負けは決まっている。
それが、どうした。
わたしは変わりたいと思った。今度は絶対に、好きなことから逃げないって。
いつだって、自分のやりたいことを、ありのままにしようとすれば誰かが邪魔をする。誰もが杭を打ち込むハンマーを持っている。頭を他より高く出した時点で、総叩きに遭う。歯痒い現実。
だけど、その代え難い仕組みに穴を空けた人だけが、次の舞台へ上がれるんだ。何度打たれても打たれても、その痛みに耐え抜いた者だけが、何かに成れる。
わたしは成るんだ、わたしだけのわたしに。好きを好きだと言えるわたしに。
「あの、わたしに何か用ですか」
ちえりの前に立ち、切り出した。取り巻きがどっと湧いた。
「は、アンタに用なんてあるわけないでしょ」
「ずっとこっち見てたから」
「自意識過剰も大概にしてよ、もう女優気取り?」
「サインならいつでも受け付けてるよ」
ちえりは口が立つ。それに、数の有利もある。だからって気圧されてはいられない。
「ほら、部活あるんでしょ。早く行けば」
「まだ行かない」
「またペンキ屋さんにでもなりたいの?」
ペンキ屋さん今度は赤お願いしまーす、取り巻きが下品な声で囃し立てた。
「確かめたいことがあるの」
「他に足りない色とか?」
「あなた、部室に来た? わたし達のいない間に……」
ちえりは明らかに気分を害したようだ。鬱陶しい蝿を見るような表情。
「なにそれ。なんでアンタ達の部室に行くわけ?」
「なくなったの、わたしの大切なものが」
「アタシになんの関係が?」
ちえりは強気だ。今現在、わたしがしていることは言いがかりで、ちえりはそれがわかっている。
「大体さ、台本がなくなったとしてだよ、どうしてわたしが盗ったことになるのか教えてほしいね」
そうそう、取り巻きが相槌を打った。
「わたし、盗られたなんて一言もいってないよ」
ちえりの表情が曇る。
「わたしは部室に来たか訊いただけ」
一歩、詰め寄る。
「なのにどうして、わたしのなくしたものが台本だってわかったの?」
明らかに、ちえりの目が泳いだ。
「授業中まで台本読んでるの見りゃ、大事なものがそれだってことくらい誰にでもわかるでしょ」
「そうだね。じゃあ、もしよかったらなんだけど」
わたしの勝ちだ。
「一緒に、台本探してほしいの――ちえりちゃんならきっと見付けてくれると思って」
ちえりは、絶対に断れない。自分がそんな陰湿なことをしたとバレれば、クラスでの印象も悪くなる。だけど、ここで折れて台本を持ってきてくれれば、クラスメイトの失せ物を見付けた親切な人になれる。
「お願い、ちえりちゃんにしか頼めないの――きれいで、みんなから愛されてるちえりちゃんにしか」
探してあげたらー、取り巻きがおずおずと切り出した。そうだよねー、かわいそうだよねーと他も続く。ちえりは聴こえるか聴こえないかどうかくらいの舌打ちをして、頷いた。
「花町ちゃん、一緒に探そっか!」
ちえりは絵に描いたような笑顔を貼り付けて、わたしにそう言った。
「その必要はない」
闖入者、鐘杜先輩だった。どうしてか、埃まみれの格好で、手に台本を持っている。クラスメイトが先輩の登場に黄色い声援をあげた。一年生の中でも存在が知れ渡っているらしい。
「モノはここにあるし、クソ野郎もそこにいる」
鐘杜先輩の声は低く、寒風のような鋭さだ。ふと目を教室の外へやると、仁木先輩と初沢先輩もいた。みんな駆け付けてくれたんだ。
「あら、鐘杜先輩じゃないですか! 花町ちゃんも台本見付かってよかったね!」
ちえりは白々しい表情を浮かべ、飄々と語り始めた。
「どうしたんですかその格好、どこにあったんです台本は」
「あんたが絡んでると聞いて、すぐわかったよ」
鐘杜先輩はわたしに台本を手渡した。
「体育館の――よりにもよって舞台に一番近いゴミ箱。悪趣味なあんたらしいよ」
「アタシの顔に泥塗るなら他所でやってくれる、塗り屋はペンキだけで結構」
ちえりも笑顔を装ってはいられなくなったようだ。二人はほぼ、おでこがぶつかりそうな程の距離で睨み合っている。
「美鈴、あんたよりそこの根暗の方が賢いみたいだな」
「あの小娘は私以上の馬鹿だよ」
「だったら早く、賢い大人らしく事を丸く収める方向へ進めてくれませんかねぇ」
騒ぎになったらアンタも困るだろ、とちえりは言った。鐘杜先輩はそうね、と短く返した。
「あんたの化けの皮剥いで辱めても、揉め事で部活停止とかじゃ割にあわないもの」
「じゃあどういうつもりだよ」
鐘杜先輩は、ちえりを押して引き離すと、ポケットに手を突っ込んだ。咄嗟にちえりも身構える。
「……なんのつもりだ」
鐘杜先輩が取り出したのは、ほんの紙切れ。手書きの、チケットだ。わたしたちが学園前に気分出す為に配ろうと言っていたもの。
「まだ焼き増しもしてない原本だ、あんたにやるよ」
「おちょくってんの? 誰が行くかよ」
この行動はちえりの逆鱗に触れたらしく、今までで一番恐ろしい形相が浮かんだ。一方鐘杜先輩は澄まし顔だ。
「私を見に来いと言ってんじゃあない、もっと面白い奴がいるかもよ」
そう言って先輩が目配せした先には、わたしがいた。過剰評価も甚だしい。今すぐここから逃げ出したくなってきた。
「あんな根暗のド素人が? 冗談」
「冗談みたいなことが起こるのが舞台だろうが」
鐘杜先輩、本気で、言っているの。わたしに、期待をしてくれているの。もしそうだとしたら、わたし。
「ああわかった、笑談にもならない悪い冗談をじっくり見てやる」
「言ったな」
「言ったよ、このちりがみ分くらい価値のあるもの見せてちょうだい」
ちえりは受け取ったチケットを乱雑にポケットへ押し込んだ。これで満足だろ、いけよ、とばかりにちえりは手を払った。
「こっちは堂々と挑んだよ。あんたも、もう埃っぽいやり方は控えな」
鐘杜先輩が、制服の埃を払った。教室が少し煙たくなる。不思議とギャラリーの表情は晴れ晴れとしている。どんな行動でも決まってしまうのが鐘杜先輩なのだ。
「二度とうちの“部員”に手出すんじゃねえぞ」
「願ってもない、あんなのに構っても時間の無駄だもの」
ふたりはそのまま数秒視線を絡ませて、息を吐くと同時にそっぽを向いた。そのままわたしの方へ向き直った先輩が、息を呑んでいる。
「なんで泣いてんだよ」
「え、わたし、泣いてますか?」
自分でも気が付かないうちに泣いていたらしい。意思に関係がないから、止めようもなく、ただただこぼれ落ちてくる。
「なんだ、そんな怖い顔してたのか」
「違うんです、多分わたし、嬉しくて――先輩がわたしのこと、部員だって言ってくれて、それが」
やっぱり馬鹿だ、鐘杜先輩が笑った。先輩は手招きして初沢先輩を呼んだ。
「な、台本拭かなくてよかっただろ」
初沢先輩からハンカチを受け取ると、鐘杜先輩はわたしの涙を拭ってくれた。少しだけ、その手が震えていた。
「行くよ、稽古の時間大分喰っちゃった」
背中をポンと叩かれる。いつだってこれがスタートの合図。わたし達は意気揚々と教室を後にした。
「鐘杜先輩、ありがとうございました」
「別に。こういう陰湿なことが嫌いなタチでね」
先輩は唇を齧りながら節目がちに言った。頼りがいのある言葉とは少し似つかわしくない表情だ。気にかかることは、いくつかある。
「ねえ先輩、知ってたんですか、ちえりのこと」
「まあ、碌でもない奴だってことくらいは」
先輩の顔には、これ以上訊くなと書いてあった。
「それに、“みすず”って呼ばれてた」
「――その話はもうするな」
それだけ言うと、先輩はさっさと一人で先へ行ってしまった。仁木先輩と初沢先輩の手がわたしの頭に乗っかった。気にするな、そっとしておけ、って言ってるみたい。
先輩たちは、わたしを仲間はずれにしようとはしていない。きっとこれは、踏み込むべきではない領域なんだと思う。誰もが、心に柔らかい場所を持ってる。
だけど、わたしは知りたいと思ってしまう。最低だとも思う。でも、わたしを部員だって言ってくれたから、仲間だから、全部わかりたいって思うんだ。
涙は止まった。ハンカチは初沢先輩の、落ち着くいい匂いがする。この涙の染みがいずれ乾くみたいに、わたしの中にあるもやもやも消えてくれたらいいのに。
「あんまり考えこむなよ、切り替えていこう」
「そうそう、もう本番までよそ見している暇はないよ!」
先輩方の言うとおりだ。わたしに足りないものは心で埋める。その心がいつまでも湿っていては、なにも燃え上がりはしないんだ。手の中の台本に目を落とす。大分汚れちゃったけど、まだ読める。大事なことが、見えない文字で書いてある。
「台本、よかったね」
「はい、もっと大切になりました」
「美咲も言ってたけどさ、花町も部員なんだから俺達を頼っていいんだよ」
わたしは、とてもあたたかい人達に囲まれている。わたし今、しあわせ。とてもしあわせだ。
「ともあれ、無事に花町も台本も戻ってきてよかったよ」
仁木先輩と初沢先輩が、わたしの両隣から肩を組んできた。
「おかえり、演劇部へ」




