心の帳の向こう側
晩夏の候とはいえ、身体を動かせば汗が噴き出してくる。外周三周目の最終コーナーを迎えようとしているわたしは、シャツが絞れそうな程に発汗し、消耗している。まとわりついてくる髪の毛が鬱陶しい。
「花町、いけるか」
仁木先輩がわたしの顔を覗き込む。そんな訊き方は今更ないんじゃないですか。
「わかってるくせに」
乾いた笑いが漏れた。心臓のポンプは限界を迎えて胸を突き破りそうだし、いくら息を吸ってもまるで足りない。脚も鉄芯が通ったように、ギシギシと張っている。誰がどう考えたって限界だ。
「先輩はただひとこと、“いくぞ”って言ってくれればいいんです」
「ハッ」
もうわたしの身体は悲鳴を上げている。だけど、脚は止まらない、意識はまだここにある。わたしを動かしているものはもう物理や解剖学や、そんな頭で捏ねた理屈じゃないんだ。
わたしは拳で、胸を叩いた。
「足りないのなら、“ここ”で埋めるんだ!」
仁木先輩が、心底愉快そうに笑い、前に向き直った。
「花町」
「はい」
同時に、息を大きく、大きく吸い込んだ。
「――いくぞ」
視界に銀粉が舞った。噛み締めた奥歯が軋む。聴こえるのは、自分の鼓動と、通り過ぎる風の音だけ。
先行する仁木先輩との距離が開いていく。このままでは鐘杜先輩に追い付くどころか、仁木先輩の厚意にも応えられない。
風を、もっと。わたしの小さな灯は、強い風で立ち消えてしまうかもしれない。だけど、もっと、わたしを燃え上がらせる風を。儚げに揺らめくだけの、弱いわたしを、燃やして。
不思議だ、身体が軽い。意思と切り離されたところで、脚は前へと運ばれる。わたしが止まれと命じても、力尽きるまでこの身体は前へと押されていくだろう。わたしの自我が、液状に溶けて血管に乗り、体内を巡る。先へ、先へ行けと、血が、細胞が沸き踊る。
わたしが拡散する。冴え渡る感覚、世界がわたしの網に絡み合う。この網を手繰り寄せれば、他が全てついてくる。距離が、縮まる。もっと近くへ、引き寄せる。
仁木先輩を、抜いた。
小指の先ほどにしか見えなかった鐘杜先輩の輪郭が、鮮明に。
わたし、息、吸ってるかな。足りない、まるで足りない。顔がカッと熱くなる。目に滑り込んでくる汗を、拭う時間すら惜しい。
鐘杜先輩が、振り向いた。
鐘杜先輩は、少し動揺したように目を剥いて、その後キュッと口角を上げた。
カーブを終え、最後の直線に差し掛かる。鐘杜先輩は唇を結び直し、前を向いた。
気が付くと、叫んでいた。一歩、一歩と鐘杜先輩との距離を詰めていく。もう少し、あと少し。ぼんやりと、ゴール地点の昇降口と佇む初沢先輩が見えてきた。およそ、百メートル。
鐘杜先輩、言いたいことがあるんです。
わたし、部室に入ったのも初めてで、台本も今日受け取ったばかり。
だけど、わたし、やっと好きなことに、向き合えそうなんです。自分と、戦えそうなんです。
追い掛けてもいいですか、目標にしてもいいですか。
わたし、鐘杜先輩に認めてほしい。今あるこの思いを、演劇が好きだって気持ちを。
わたしのことを、仲間と思ってくれますか、演劇部にいてもいいと、認めてくれますか。
あなたの横に並んでも、いいですか。
わたし、本気です。本気、なんです――。
「花町ッ!!」
仁木先輩の、声。風が止んでる。わたし、地面を見てる。もう少しで、肩を掴めそうなくらいまで迫っていた鐘杜先輩の背中。どうして伸ばした手は、虚空を切る。鐘杜先輩、何故こっちを向かって来てるんだろう。わたしが止まれば、離れていくはずなのに。
「花町、聴こえるか、頭打ったりしてないよな!」
聞こえてます、一体何が。
「いきなり倒れたんだよ、脚がもつれてたように見えた」
「もう少し、だったのに」
「今はそんなことはいい、どこか痛むか?」
胸が苦しいのと、膝が少し。わたしは水難事故に遭ったような息遣いをしながら、身体をなんとか仰向ける。
「擦り傷だ、血は出てるけど、腫れたりはしてない」
仁木先輩は安心したのか、大きく息を吐き脱力した。鐘杜先輩は短く息を吐き、いかっていた肩をおろした。どこからか、地面を硬いもので叩く音が近づいてくる。
「馬鹿ッ!!!!」
松葉杖を脇に抱えた初沢先輩が、平素からは考えられない剣幕で怒鳴った。他の先輩両名は、石のように固まった。初沢先輩はわたしに歩み寄ると、傷口にハンカチをくくってくれた。
「どうしてこんな無茶をしたの」
声の調子はごく平坦で、底冷えするような重い震えを帯びていた。
「鐘杜先輩に、追い付きたくて」
初沢先輩は、きつく握りしめた拳を地面に打ち付けた。
「美咲、ロクに運動したこともない子を煽って無茶させて、どうするつもり」
鐘杜先輩は腕組をして押し黙っている。
「仁木くんも、あなたがついていながら制してあげられなかったの?」
仁木先輩は、項垂れた。
「京子ちゃん、全部で美咲を目指す必要はないって、言ったじゃない」
初沢先輩の声は、湿り気を帯びて、揺れていた。
「もし大怪我したら、演劇出来なくなるのよ。せっかく好きになったのに、どれだけ望んでも叶わなくなるんだよ」
初沢先輩は、自分の足首を抑えながら、悲痛な言葉を絞り出した。今にも泣き出しそうな先輩を前に、わたしは何も言葉が出てこなかった。遅ればせながら、自分の愚行を恥じる気持ちが湧いてきた。
「そんな想いをするのは、あたしだけで十分だよ。京子ちゃんの気持ちは嬉しい。けど、あたし達の気持ちに応えようとした結果、あなたが苦しむことになったって、意味ないじゃない」
初沢先輩が、わたしの手を取り、背中を起こしてくれた。同じ目線で、真っ直ぐ先輩はわたしを見詰める。
「約束して、もうこんな無茶しないって」
初沢先輩の手に、力が篭もる。わたしの身を本気で案じてくれていることが、伝わってくる。こんなにも優しく、気持ちのある人を怒鳴らせてしまった。今わたしが持ち得る言葉では、お詫びに適うものがない。
普通なら、ここで平身低頭謝って、二度と心配はかけないと誓うだろう。だけど、わたしの我は、膝を擦りむいたくらいじゃナリを潜めはしなかった。まだ腹の底で、何かが渦巻いている。
「無茶せずに、同じことが出来るようになれば、いいんですよね」
わたしはそっと初沢先輩の手をほどいて、小指を差し出す。
「約束します、先輩――」
何周目でスパートをかけるか、どうペースを配分するか、そんな策も考える頭も必要ない。わたしが強くなればいいんだ。全部を全力でやっても、負けない自分をつくればいいんだ。
「もう二度と、“無茶”はしないって」
それが無茶かどうかは、わたしが決める。今からやろうとしてること、これからやらねばならぬこと、誰にも無茶とは言わせない。
「本当に、約束だよ」
初沢先輩の小指が、わたしのに絡む。
「はい」
やっと、初沢先輩が元の笑顔を向けてくれた。もう二度と、これを曇らせてはいけない。ずっと、内側から萌えるような微笑みをたたえて、わたしを見ていてほしい。
「戻ろっか、京子ちゃん、保健室行かないとね」
空気に柔らかさが戻り、忘れていたわたしの疲労どっと溢れかえってきた。なんとか立ち上がったのはいいものの、膝が抱腹絶倒している。
「花町、肩――」
仁木先輩が言い切る前に、鐘杜先輩がわたしの腕を自分の肩に回した。わたしが驚く間もなく、先輩は歩き出す。わたしもつられていく。
「ここで話している時間はない、そうだろ」
鐘杜先輩は、わたしが怪我をして、また稽古までの時間が伸びることに腹を立てているわけではない。この一見冷血じみた言動にも、意味がある。
「はい、早く練習したいです」
鐘杜先輩は、表情を変えずに鼻を鳴らした。
「いい根性してるじゃん」
「先輩ほどじゃ、ないですよ」
わたしたちの足取りが、やけにぎこちないのには、二つ理由がある。
ふらつくわたしを先輩が支えているから。そして、鐘杜先輩の脚も、疲れきっているから。
先輩も、全力で走り終えた後だから、本当は座り込んで水でも飲みたいはずなんだ。だけど彼女は、一切の弱みも疲れも見せず、わたしの先輩として、高い壁としてあろうとしてくれている。
「なに笑ってんの、元気なら肩貸さないよ」
「やっと横に並べて、嬉しくって」
今はこれでいい。だけどいつか、必ず自分の力だけで立って、もう一度彼女の隣へ。
「やっぱりあんた、馬鹿だ」
鐘杜先輩は、素っ気ない口調とは裏腹に、どこか満足気で。
「だけど、ひとつのこしか出来ない大馬鹿の大真面目が、世界を変えることもある」
鐘杜先輩は、緩んだヘアゴムを解き、豊かな髪を風に放り出した。
「ただの馬鹿で、終わるなよ」
陽光を受け煌めく帳の隙間から見えた笑顔は、きっと気のせいなんかじゃない。次の瞬間には、いつもの毅然とした表情の鐘杜先輩に戻っていたけど、初めて目にした彼女の歳相応の表情は、わたしの網膜に焼き付いて離れなかった。




