青の炎
呼ばれた気がしたんだ。追い付いてこい、喰らい付いてこいって。
わたしはこれまで運動なんてしたこともなくて、徒競走もずっとドベだった。既に仁木先輩もずっと前を走っている。でもこれは、ランニングだ。わたしがこの後、ずっと全力疾走出来れば、誰よりも速いはず。絶対にそれは不可能だってことは、子供でもわかる。
「だけどそれは、挑戦しない理由にはならない!」
ほんの一瞬でいい、鐘杜先輩に追い付いて、たった一言返せたらいいんだ。
大きく息を吸う、身体全部が風船になったイメージ。これからの無呼吸状態に耐えられるように。前傾姿勢、少しでも前へ、体重を乗せて。
後は、奔る。
風だ、髪を、肌を、通り過ぎていく。普段は纏わり付いてくるだけだったもの。それをかなぐり捨てて、前へ、掻き分けて、先へ。
爪先が、地面へ食い込む確かな感触。弾かれるように、わたしの身は進んでいく。これなら、追い付けるかもしれない。
仁木先輩の背中が、もうすぐそばまで迫っている。このまま、追い抜く。
「待て、花町」
仁木先輩が振り向きもせず、わたしを制した。少しペースを緩めて、先輩と横に並ぶ。どうしてですか、わたしは少しでも速く走って、遅れた分を取り戻したいんです。
「それは建前だろ、案外負けず嫌いなんだな」
仁木先輩は、鋭い。ふたつしか歳が変わらないのに、わたしよりずっと大人だ。
「わかるよ、美咲も煽ってきたもんな。だけど今は違う」
でも、このままじゃどれだけ速く走っても追い付けないくらいの差がつく。今から詰めていかないと。脚が棒になっても走らなきゃ。
「脚がどうこうの前に、過呼吸かなんかでぶっ倒れるぞ」
「だけど」
落ち着いて、今の状態を考えてみろ。仁木先輩は言った。
「思ったよりずっと、息が切れてるだろ。大体男の俺に着いてきてるだけで十分無理してるんだ。それより速い美咲に着いて行くのが無理なのわかるだろ」
「でもそれは、挑戦しない、理由には」
ああならないさ、仁木先輩は意外にもあっさり認めた。
「“今は”待てって言ってるだろ。挑戦者にはそれなりの戦い方がある」
仁木先輩は、わたしの身体の心配をして止めてくれているんだと思ってた。
「こちとら、ずっとあの勝ちたがりと一緒にいるんだ。止めても無駄な奴の区別くらいつくよ」
全部を見透かされているようで、気恥ずかしい。さっきは失礼な態度をとってしまった。
「いいよ。それより、美咲に追い付く方法だ」
仁木先輩は、俺について来い、と言った。
「外周は、大体カーブで三百ずつ、直線で二百ずつくらい」
「直線でヨーイドンするんですね?」
それでは遅い、と先輩は言う。
「ラストスパートは美咲も本気を出す、そこからこっちも開始じゃ追いつけないんだ」
「てことは、もっと、前」
仁木先輩は頷いた。
「さっきも言ったけど、美咲は俺より速く走ってる。いくら美咲でも無理してる、疲れてるんだ」
仁木先輩の言いたいことが、わかりかけてきた。
「美咲は一番にゴールしたいから、最終周、本気の直線前は力を溜める」
「じゃあ、わたしのスパートは直線前のカーブ」
「そうだ」
方法はわかった。だけど、そうするには、鐘杜先輩より長い距離を全力疾走しなくてはならない。かなり不利だ。
「不利だとか無理だとか、それは挑戦しない理由にはならないんだろ?」
「そうでしたね」
仁木先輩が笑った。わたしも。
「俺達は三周目から徐々にペースを上げて、美咲との距離を百メートル以内にキープする」
それ以前に、これからずっと俺に着いてこられそうか、と仁木先輩は懸念した。
「多分、無理なんです。仮に出来たとしても、スパートの体力なんて残ってない」
「だろうな」
そうわかっているのに、どうしてわたしはやろうとしているんだろう。そして、仁木先輩は背中を押してくれるんだろう。最初から無理だとわかっているから、泳がせてみようと考えている。仁木先輩はそんな冷たい人間ではないはず。
「心に才能の灯を持つ人間は、我儘なんだよ」
「わたしも、そうだって言うんですか?」
少なくとも俺はそう思う、と仁木先輩は首を縦に振った。
「そして俺は、その我儘をきくのが満更でもない物好きで――」
自嘲気味に仁木先輩は唇を歪めた。
「お前のこれからが楽しみで仕方ない、演劇部の先輩だ」
ようこそ、最初にそう言ってくれたのは、思い返してみれば仁木先輩だった。彼は、上級生としてではなく、演劇部の先輩として、わたしの背中を押してくれた。
「初沢と舞台に立てないこと、残念でならない。本人も、美咲も、気丈には振る舞っていても納得はできていないだろう」
だけど、仁木先輩はためらいがちに続けた。
「期待せずにはいられないんだ、花町の可能性に」
「そんな、わたしは大それた人間じゃないです」
「今は、そうかもな」
これからは、違う、のかな。わたしは、変われるのかな。なりたい自分に、近付けるのかな。
「だけど、その灯を絶やさない限り、可能性は消えないよ」
灯。わたしの中にある、あたたかく、あるいは熱い気持ち。みんながくれた火種を集めた、わたしの大切なもの。
「その灯には色がある。代え難い、心の燃料によって色が付く」
わたしの、色。心の色。それは自分ではよくわからない。仁木先輩には、見えているんだろうか。
「美咲は、大きく燃え上がる真っ赤な炎を持っている。自分を焦がしてしまうくらいの」
仁木先輩の言葉には、含みがある。わたしの知らない、なにかが滲んでいる。それを今訊いてしまうのは、きっといい結果にはならない。知りたければ自分で、鐘杜先輩の心に飛び込んでいくしかない。
「花町のは、まだ小さな、弱々しい灯」
わかってる。まだわたしは、幼く、何も知らず、力もない。このろうそくほどの灯を消さずに守ることが精一杯。どうすれば、美咲先輩のような大きな炎を持てるだろう。
「美咲を目指す必要はないよ」
初沢先輩にも、言われたことだ。それは、どうしたって鐘杜先輩には敵わないから諦めろ、という意味ではない。わたしは、わたしのために、わたしらしくあること。これが大切なんだ。
「俺からあれこれ言っても、その灯に生木の葉をくべるようなものだな。心が煙で燻されて、大事なものが見えなくなる」
ただ、ひとつだけ最後に言っておく、仁木先輩はわたしの目を見た。
「その小さな小さな灯、青の種火を絶対になくさないでくれよ」
「それは、どういう――」
「赤の炎を焼き払えるのは、それよりも熱い、青の炎だけだ」
わたしが真意をはかる前に、仁木先輩は頭を入れ替えてしまった。
「――少し話し過ぎたな、行こう」
仁木先輩が脚の回転数を上げた。わたしも慌ててついていく。
みんながみんな、少しずつ、心に何かを隠してる。時折炎のつくる影が、心のカタチを浮かばせる。それを遠巻きに観察しつつ、ぼんやりと全容が掴む、なんてしている時間はない。怖くたって、火傷したっていい。わたしは直接見てみたい。熱くないって強がりたい。
わたしに必要なのは、みんなの炉を開けること。心の扉を開けること。
その扉は、きっと重い。だけど、叩き続けるしかない。
人の心を動かすのは、錠を開けるのは、情熱だけだから。




