絆火
瑠満ちゃんと走りに走って買い出しを終え、先輩方のもとへ戻れたのは出発から三十分後だった。
こってり絞られるかと思ったけど、案外三人ともさっぱりした反応だった。
「まあ、クラスの手伝いがあったなら何も責められる謂れはないだろ」
「そうですけど」
仁木先輩が額の汗を拭っている。まさか、もうランニング終わってますか。
「なんでちょっと嬉しそうなの、あんたも混ぜてもう一回行くんだよ」
そんなに甘くはなかった。
「最初だから三周でいいよ、とにかく完走しな」
「外周って一周で何メートルですか?」
「千メートル」
キロメートルじゃないですか。
「ガタガタ言うな。別に速く速くを目指してる訳じゃないんだから、呼吸を意識してスタミナを底上げする気持ちでやればいい」
そう言われると簡単そうに聞こえるけど、既に買い出しで走ったあとにはこたえる。それに、わたしが遅れれば遅れるほど、また先輩を待たせることになる。実際は自分のペースで流すことはできない。
「一応タイムは測るけどね、漫然と毎日続けてもつまんないでしょ」
どう走るか、その姿勢に強制力はない。おそらくどれだけ遅く走っても、誰も苦言を呈したりしないと思う。自分で立てた目標を達成できるかどうか、如何にして自分に勝つか、それが求められている。
「いいところに気が付いたな。それがわかったら身体伸ばして開始だ、初沢に背中押してもらうといい」
仁木先輩の指差した先で、花壇の囲いに腰掛けた初沢先輩が手を降っている。初沢先輩からは、もう部室で目についた違和感は滲んでいなかった。相変わらず心を裸にするお母さんみたいな笑顔だ。
「よし京子ちゃん、筋イジめちゃうぞ」
「お手柔らかにお願いします……」
わたしは脚を広げて地面に腰を下ろした。初沢先輩がわたしの肩に手を掛ける。わたしは今まで、初沢先輩ほど手が温かい人に出会ったことがない。
「はい押すよ、身体前に倒してね」
「はい」
初沢先輩の手に力がかかる。わたしの額が地面に着いた。
「これでいいですか?」
「いや京子ちゃん、お手柔らか以前にめちゃくちゃ身体柔いじゃん」
初沢先輩がけらけら笑っている。多分これくらいなら生まれた時からできましたよ。
「身体が柔らかくて器用なのは、それだけで才能だよ。結局演劇は、どれだけイメージと実際の動きを近付けるかを考え続けるものだから」
身体の使い方、を知るのが大切だと初沢先輩は言う。
「待って京子ちゃん、深呼吸してみて」
初沢先輩が、わたしの肩甲骨とお腹あたりを触りながら真剣な声色になった。何かおかしいんですか。
「ある意味おかしい、のかも。自然に腹式呼吸できてる」
「それはいいことなんですか?」
もちろん、初沢先輩は太鼓判を押した。
「肺だけに空気を溜めてしまうと、喉と肩が持ち上がって無駄な力が入るし、負担がかかるの。みんなはじめはこれを矯正していくことが多いよ」
初沢先輩はわたしから手を離すと、膝を背中側に負って仰向けに倒れるよう指示した。ちょうど頭が、正座している初沢先輩の膝の間に収まった。
「京子ちゃんはその過程いらないかもね、もうけた」
「わたしも、役に立てる?」
「役にも立つし舞台にも立てるよ、大丈夫」
初沢先輩におでこをつつかれる。眉間のあたりがむずむずする。
「なんでだろう、京子ちゃん見てると、妹を思い出す」
「似てるんですか?」
「少しね。顔とか仕草というよりは、在り方が」
先輩が伏し目がちに頷いた。睫毛、長いんだな。どうしてどこか、哀しそうなの、とは訊けなかった。
「逆の脚もやろっか、そろそろ美咲が待ちきれなくなる頃だ」
初沢先輩がいつもの笑顔に戻った。
少し首を傾けてみると、腕組みしたまま指をとんとん弾ませている鐘杜先輩が見えた。怖すぎる。
「美咲は普通の人とは違う時間割で生きてるからね」
「ついて、行けるのかな」
どうだろう、初沢先輩は視線を宙へ送った。
「美咲は本当に凄い、目標にしたいのはわかるけど」
あのストイックさとか、自分だけの価値観があるのは格好良いと思う。自信が持てるってだけで、わたしにとっては眩しくて、憧れてしまう。
「あたしたちが成れないものってわかる?」
「外国人の役、とかですか?」
確かに外国語は全然ダメだ、初沢先輩は吹き出した。
「それは他人だよ、京子ちゃん」
「役って全部、ある意味他人じゃないんですか?」
そうなんだけどね、と先輩は頷いた。
「どれだけ別のものになろうとしても、結局それはどこまでいっても自分なんだと思う」
「だったらどうして、わたしたちは演劇をするんでしょう」
この疑問の答えは、きっとないんだと思う。あるとしても、自分で見付けるしかなくて、自分で信じるしかない。初沢先輩が言いたいことは、そういうことなのかもしれない。
人はどこまでいっても、自分のことしかわからない。どれだけ長く、密な時間を共にしようと、相手の想いを感じようと、それがどんなものかを判断するのは自分だから。突き詰めえても、相手と九割九分九厘重なったとしても、必ずそれを考える自分が残る。
でも、知りたいと思う。出来ないことなんてわかりきっているのに、人は誰かを全部理解し、して欲しいと願う。そして幾度となく傷つき、打ちひしがれていく。その行動と演劇は似ている。相手を、役を知ろうとその立場に翻り、成りきってみることに、答えや終わりなんてものは、ないのに。
だけど、それはとても楽しいんだ。未知であるということは、無限だから。その先に希望があるかもしれないと思えるから。希望に出来るのは、自分だから。
「いいえ、今の質問はナシにしてください」
「うん」
薄く、初沢先輩が微笑んだ。わたしは寝心地のいい膝から頭を上げ、立ち上がる。
「いってきます」
ジャリ、と靴底が鳴る。
「部室でも言ったけどね」
初沢先輩の言葉を、背中で受け止める。
「京子ちゃんが、京子ちゃんのために。代わりなんて、いないんだから」
どうしてこの人は、こんなにも胸に染みる言葉を紡げるんだろう。水底の澱も、淀みも全部掬い上げてくれるんだろう。
今、顔を見せたくない。笑いながら、泣いてしまいそうな、ちぐはぐな顔。だからわたしは、振り返らない。初沢先輩は、わたしのそんな気持ちも全部わかった上で、きっと後ろで笑ってる。
「お待たせしました、花町京子、走ります!」
二人の先輩のもとへ駆け寄る。本当に待ったよ、と言わんばかりの二人の笑いが迎えてくれた。
「宣言しなくてもみっ……ちり走ってもらうからね」
「美咲のペースに合わせたら死ぬぞ」
「は、花町京子、ほどほどに走ります!」
また、鐘杜先輩の平手打ちが背中に飛んできた。それがスタートの合図。わたし達は駆け出した。
背中は全然痛くない。つっけんどっけんな態度だけど、鐘杜先輩は乱暴なわけでも、気性が荒いわけでもないんだと思う。むしろ、どこか優しさを隠そうとしているような。
「絶対歩くなよ小娘……」
やっぱり、勘違いだったかもしれません。鐘杜先輩は、耳打ちだけを残して、遥か先まで一人駆けていった。わたしとの差を、見せ付けるかのように。
でも、ここではじめから勝てないと、並べないと思って何になる。わたしには、さっきの言葉が違う意味に思えてきたんだ。
「絶対、私に喰らいついて離すな」




