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サマタオ  作者: 辰野ぱふ
11/22

ハク (2)

 五年前、ふいに倒れ、静養が必要になった時、やっと自分の年齢に気づき、もう若くはない自分の身体を愛しく思うようになった。

 引退などという言葉は自分の生活とは無縁だと考えていた。仕事をすること自体が楽しかったし、親族とはいえ、自分が築いてきた仕事を人に預けるのには不安があった。自分は倒れるまで中心になって働き続けるのだろうと信じていた。

 なのに、病気をしてから、考えが変わってしまったのだ。残された自分の時間を好きなことに費やし、ゆっくり過ごしたいと思ったのだ。

 まず、絵を描きたいと思った。

 絵画については、他国で建築を学んだ時に勉強したけれど、もういちど勉強し直すために、ハクは絵画教室に通い始めた。


 ハクは締め切っていた自分のアトリエのカーテンを開けた。

 すばらしい夜景だ。

 ハクは都会が好きだ。ビルの織りなす直線の空間が好きだ。このビルの世界を作ったのは自分なのだ。まずは自分の目に見えるその光景を、自分の絵の題材にしようと思っていた。それだったら、自分の住まいにいて、いつでも描くことができる。

「ほら、あなた、早くいらして。お料理が冷めてしまうから」

 外を見て、再びもの思いに没頭していたハクは、妻の声でわれに返り、またカーテンを閉めると居間への扉を開けた。

 ダイニングテーブルの中央にはバラの花が飾ってある。

 居間のカーテンは開け放してあるので、もっと夜景がよく見えた。

「あの絵の女の子は、いったいどこのだれなの?」

 テーブルに腰かけながら、妻が聞いた。

「だれって…。わからないけれど、イメージがわいてきたんだよ。夢の中に出てくる少女といったらいいのかな」

「おかしな話ね。うちには男の子しかいないのに。あれはきっと孫のミイが少し大きくなった姿なのね?」

「そう…。そんなところかな」

 ハクは言葉を濁した。それについてはハク自身、不思議だった。自分を突き動かしてキャンバスに向かわせたのは、自分の中に生まれた、まったく現実とは関係のないイメージだったのだから。

 人に説明するのは難しい。孫娘、と思ってもらえるのなら、それでいいだろう。

「とても静かでステキな絵ね。あなたの想像力だけで描いているなんて、すばらしいことだと思うわ」

 妻が、ワイングラスに赤ワインを注ぎ、乾杯というように軽くグラスを掲げた。

「今日はね、オリーブオイルでお魚を焼いてみたの。年取った身体には、お魚のたんぱく質がいいんですって。オリーブオイルもね、純度の高い物だから、身体にいいと思うわ」

 ハクがグラスに口をつけようと思った時、グィーーン、グィーーンと空を切り裂くような音が耳に入ってきた。

 この建物のガラスは防音のとても厚いガラスなので、外の音はほとんど聞こえないのだが、戦闘機の音はそれを通して耳に届いてくる。

「あら、いやね。食事中なのに。音楽でもかけましょうか」

 妻は静かなクラシックミュージックを流した。

 農村部にある飛行部隊から戦闘機が敵地に向かって行く。ハクの住む都心部は、通過経路には入っていないはずだが、迷ったのか、あるいは作戦の一つなのか、ときどきここの空もかすめていくことがあるのだ。

 この国は戦いを始めて、活気づいている。

 この戦いで地方も活気づき、豊かな生活を望む人が増えれば、ハクの会社では仕事がさらに増えるだろう。ハクの生活はさらに豊かになるだろう。

 現在の戦いの前線になっているのは小いさな国で、かつてハクが勉強をしに行った国だ。 ハクの住んでいる都心部は、国の経済の中心部で、ふだんはあまり戦いをしているという実感がわかない。まるで戦いをしている国とは思えないほど、平和で、賑わっている。

 テレビやラジオでは戦地の様子を伝える放送が主になっているし、志気を高めようと勇ましい音楽や映像が始終流れている。

 だが、もうハクは戦い自体には興味が持てなかった。

 ハクはとにかく今の絵を完成させたかった。

「うちの子や親戚の子、孫たちは戦地に送りたくはないわ」

 妻はそう言い、ハクも「そうだね」とつぶやいた。

 ハクの家族が充分に生きていける富はすでに貯えてあったし、技術などは後継者にちゃんと受け渡している。子どもや孫の代までも充分豊かに暮らせることだろう。

 兵士になるのは、だいたい貧しい農村の若者たちだと聞いているから、ハクの家族や、つながりのある者が戦地に駆り出されることもないだろう。

 自分の子どもたちや孫たちは戦地に送りたくはない。それはハクも思っていることではあったけれど、でも本人たちが望めばそれもしょうがないだろう。この国のためになることなのだ。そういう選択もあるだろう。

「できれば、送りたくないけれど、国のためだったらしょうがないね」

 ハクは自分の思いを正直に妻に伝えた。

「でも、私はいやだわ」

「行かなくてすめば、それでいいいけどね」

 それで、二人の間にはあまり話すことはなくなって、静かに音楽を聴きながら、食事を続けた。

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