ハク (1)
イエローオーカー、マリゴールド、ビリジャン、エメラルドグリーン、コバルトグリーン、ライトグリーン、リーフグリーン。
買い足した油絵の具のチューブを並べ、それを少しずつパレットに絞り出していく。
緑の豊かな色を表現したかった。
だから、緑のいろいろな色を集めてきた。
若い芽が木々から今芽を吹き出したようなところ。緑の香りが匂い立って伝わってくるような、木々の息づく感じを表現したい。
中心にいるのは、静かに眠る少女。
少女は、大きい金色の犬にもたれている。
ハクの頭の中では、はっきりと絵の構図ができあがっていた。その女の子のことを思うと、心が穏やかで優しくなる。その平穏で静かな雰囲気が出せたらいい。
ハクは、パレットの上で絵の具を混ぜてみて、キャンバスに一筆一筆、絵の具を置いていった。
筆がキャンバスに触れる瞬間、気持ちが高揚する。次の色、次の色、と筆は止まることなく、ハクは絵を描くことに没頭していく。
これほどまでに、はっきりとした形で何かを描きたいという思いが心の中からわき出てくることは、初めてのことだった。だからドキドキしていた。
色を選ぶのも、ほとんど迷わず、描く質感、たとえば犬の毛並みなども手に取るようにわかる。
なぜだろう?
いま、そのモデルが目の前にいるように、生き生きとその様子が頭の中に浮かび、それを形にしたい。したくてたまらなくなる。
「あなた、ずいぶんとご熱心ね。夕食の支度ができましたよ」
妻がアトリエの扉を開けて、言った。
ハクは筆を置き、ぐっと伸びをした。
ハクは五年ほど前に仕事から引退した。
今までの仕事はひとり息子と親族の子どもたちにまかせて、自分はときどき助言を与えるような立場になった。
息子は結婚して、孫娘のミイはそろそろ一歳になる。
でも自分の絵に描いている娘はこの孫娘ではない。もう少し大きいし、実際に出会った娘でもない。だれなのかわからないけれど、はっきりとした存在感がある。
絵を描きたいというのは幼い頃から、ずっと抱いていた夢だった。
でも、ハクの子ども時代には、芸術家を目指すなんていうことは、生活からかけはなれた馬鹿げたことだった。国全体がもっともっと貧しかったし、ハクにとっては、親を助けて働き、家を豊かにすることがまずだいいちだった。
ハクはとにかく豊かになりたくて、働き、働き、働いてきた。働けば働くだけ生活が豊かになった。国の経済力もどんどん伸びる一方で、やりがいがあった。ハクはとにかくひたすら走り続けてきた。
若い頃には勉強をするゆとりもなかったけれど、最初の仕事で得、貯めたお金で他国に渡り、レストランなどでアルバイトをしながら、建築の学校に通い、友だちも作った。
その経験をすべて生かすことができた。自分が投資したものすべてが役に立っている。
この国に戻って来た頃は、ちょうど都市の開発が始まった時で、次々に大きなビルディングが建設されていた。ハクの得たものはすぐに役に立ったのだ。大手の建築会社に入り、メキメキと出世していった。そして独立して自分で会社を作り、またどんどんビルを建てて行った。ハクの作った建築物はこの国の象徴となり、依頼がつぎつぎと舞い込んだ。
依頼者の希望に合う店もいくつもデザインした。他の国の建築関係の雑誌や書籍を買い集めて参考にした。今までこの国にはなかった、豪華でぜいたくな感じのする店をたくさん作った。
豊かになった人たちが増え、ぜいたくな住居、生活を望む人が増えた。そういう人たちが求めるような、新しい住宅作りにも取り組んだ。
今までこの国にはなかったようなデザインの部屋、洗練されていて優雅な気分になれる住宅をたくさん提供してきた。
色調を統一して地味な色合いの落ち着いた部屋を作ったかと思うと、明るいパステル色を基調にした部屋も作ってみた。そのどれもが、大ヒットとなった。つぎつぎにアイデアが出てきて、止まらなかった。
自分で描いたものを具体的な色や形にするのは楽しい作業だ。
ハクは売れっ子の建築家としてずっと走り続けてきた。求められれば、レストランの経営について、店のスタイルや構想も提供したし、お店で出す料理のメニューのアイデアまでも提供した。仕事は増えるいっぽうだった。眠るひまもなく、休むなどということは考えたこともなかった。
美しい妻、よく勉強する聡明な息子に恵まれ、自分の親戚、妻の親戚にも仕事を提供し、一族で豊かになり、何人かは、国外に出てそれぞれに自分の好きな道を進んでいるし、何人かは同じビルディングに住んでいる。もちろんハクが設計したビルだ。
ハクの住まいはその最上階。大きなガラス窓で囲まれていて、街が一望できる。
金銭的に豊かになると、心も豊かになってくる。世界の絵画を買い集めてみたし、この国の若い芸術家を育てようと基金を設立して、芸術面で貢献しようと尽くしてきた。
ほんとうに充実した人生だった。




