MISSION 8 変身
人が行き交う交差点を、目的地に向かって歩いて行く。
皆下を向き、それぞれの場所へ歩いて行く。
誰も俺を見てはいない。
俺は誰も見ていない。
――孤独だ。
こんなにも人がいるのに、こんなにも呼吸をしているのに。
誰も同じ時間を共有していない。
そんな事をぼんやりと考えていると、さゆりさんから渡された小型の無線機から音声が聞こえた。耳の穴にすっぽりと入り、呟くだけで向こうにも声が聞こえる。
「ホーッホッホッホ、聞こえるかしら紅一?」
その声は俺の知っている物だった。
真っ黒なスーツに身を包んでいた時に、何度も耳にした甲高い笑い声。
まさかこんな所でこんな風に耳にするとは。
全く、世の中って言うのはどうなるかわからない物だ。
「あぁ、うるさいぐらいだ」
マイクの感度が良すぎるのか、単純に向こうの声が大きいのかは知らないが、彼女の声が耳の奥でまだ響いている。
「作戦内容は覚えているわね?」
「さんざん聞かされたからな」
真昼に流れていた人間関係がドロドロのドラマを見ながら決めた、今回の作戦。
作戦自体はいたってシンプルだ。
俺みたいにただ仮面を渡された戦闘員……ほとんどがアルバイトという事らしいが、そいつらが目的地の少し手前で一斉に変身し、周囲から人を引きはがす。そうするだけで、自然と奴らが、ネイチャーレンジャーがやってくる。
解りやすく言えば俺達はただの餌だ。実際に奴らとまともに戦闘ができるのは、ミアが用意する怪人達だ。なんでも虫や動植物に怪しい光線を浴びせるだけでああなるらしい。
ちなみに俺はその話を聞いて以来、未知のエネルギーに関して突っ込むのを止めた。
「まぁせいぜい、時間稼ぎでもして頂戴」
高飛車な声が、耳の奥に響く。鼓膜が破れそうなほど、痛い。
「一つだけいいか?」
「何かしら?」
作ったような声。彼女には似合わない芝居がかった台詞。
「さゆりさん、その服恥ずかしくないの?」
あの露出狂でも御免こうむるような衣服を思い出しながら、俺はさゆりさんに聞いてみた。
無線機越しに、沈黙が伝わってくる。
「……今はもう作戦中です、ばかっ!」
そう言い残すと、彼女は無線機の電源を切ってしまった。
それでも、よかった。またさゆりさんの声が聞こえたから。
鞄からマスクを取り出し、見つめる。
窪んだその眼が、俺の顔を映す。
今俺を見ているのは、この無機質な仮面だけだった。
構いはしない。今の俺にはそれで十分だ。
マスクを取り出し、顔に近づける。
名乗りはいらない。
その必要はない。
「変身」
ただ一言そう呟くと、俺の体を真っ黒な戦闘服が包んだ。
周囲がざわつく。
悲鳴が上がる。
人々が逃げ惑う。
当然だ、街のど真ん中に悪の戦闘員が現れたのだ。
まるでリハーサルでもやっていたかのように、人々がどこかへ消えていく。
――その光景は、あまりにも滑稽だった。
別に俺達は、一般市民に危害を加える気はない。せいぜい大声を張り上げて驚かせるぐらいだ。
それなのに彼らは、絶対的な悪と刷り込まれた俺の姿を見るなり逃げていく。
心の底から虚しさが湧き上がってくる。
守ろうとしていたのは、こんなにも馬鹿な生き物だったのか。
自分の目で確かめようともせず、言われた通りの反応だけを繰り返していく。
逃げ切れさえすれば、誰かが助けようとしてくれる。
俺は大きな溜め息をつくと、自分の右腕を確認してみた。
ギプスの感触は消え、拳を握ったり開いたりしても痛みは全くない。アキラの言っていた事はどうやら本当だったらしい。
「行くか……」
指定された場所に向かって、俺は走り出した。
他の戦闘員の奇声が、そこには響いていた。
ビルで囲まれたスクランブル交差点は、黒い影に覆われていた。注意して周りを見てみると、一般人らしき人はもう見当たらない。これで人的被害が出る事は無さそうだ。
ビルに張り付けられた大きなモニターでは、速報で俺達の活動が報道されている。灰色の空を見上げれば、ヘリコプターが音を立ててやって来た。
プロペラの回転する音が近くなる。
高度を下げ、ビルの上に立つ人影にカメラのピントを合わせる。
モニターにカサブランカの姿が映る。大きく胸を張り、高笑いを浮かべる彼女に、さゆりさんとしての面影は無かった。
画面の色が、一気に変わる。
先程まで露出狂の女性を映していたモニターが、綺麗な三色の人影を映す。レッド、ブルー、ピンク。それぞれの色のジャケットを着た三人組が、車が無くなった車道を真っ直ぐに走ってくる
。
俺の仕事は、もう半分以上終わっている。一般市民はもういない。もうすぐ怪人が現れる。
後は適当に三人に突っ込んで、吹き飛ばされればそれでいい。
――頭では理解している。
後は適当に退却して、家に帰ればいいだけという事を。
一度変身されてしまえば、もう後は殴られるだけという事を。
それなのに、俺は拳を強く握りしめていた。
「出たなカサブランカ!」
交差点につくなり、レッドがビルのはるか上に立つカサブランカに大声を上げる。相変わらずうるさいやつだ。
「あらぁ? また性懲りもなく来たの?」
モニターのスピーカーから、カサブランカの声が聞こえる。どういう仕組みになっているのか一瞬だけ気になったが、どうせ未知のテクノロジーのおかげなので考えないようにした。
「しつこいのはあんた達でしょうが! この若作り!」
今度はピンクが叫ぶ番だ。
若作り、という言葉がこの場所には不釣り合いで笑ってしまう。
「わか……あんたみたいな普段から化粧の濃い女に言われたくないわよ!」
一瞬だけさゆりさんに戻ったカサブランカが、顔を真っ赤にして大股で地団駄を踏む。確かにモニターに映る彼女の顔はバッチリと口紅やアイシャドウが引かれている。
もっとも普段の彼女には、化粧やお洒落なんて無縁のものなのだが。
「うわー、レッド、あの人僻んでるわよー」
ピンクがカサブランカを指さし、クスクスと笑い声を上げる。
知り合いが笑われる姿は、見ていて気分のいい物では無かった。
「自分だって化粧濃いのにな。ブルーもそう思うだろ?」
嫌味たらしく笑うレッドが、ブルーに同意を求めて肩を叩く。ブルーは思いつめたような表情を浮かべるだけで、レッドの呼びかけに答えなかった。
「おいブルー?」
レッドがもう一度ブルーの肩を叩く。
ブルーは一瞬驚いたように肩を震わせ、ゆっくりとレッドの顔を見る。
「……悪い、何の話だ?」
疲れたような笑顔を浮かべ、ブルーはレッドに尋ねた。
「しっかりしろよな」
景気のいい音とともに、レッドがブルーの背中を強く叩く。
「お前たち……やっておしまい!」
いい加減頃合いだろうと判断したカサブランカが、俺達に指示を出す。
――さぁ、戦闘開始だ。
目の前を戦闘員達が投げ飛ばされていく。
いくら戦闘員のスーツを着たとしても、特別な訓練を施されている彼らには勝てるはずもなかった。
それは、戦闘員が所詮一般人だからだ。個人の戦闘能力は余りにも差が開いている。
加えて、奴らは連携が素晴らしく取れている。乱暴に束になって突撃しても勝てる相手ではない。
しかし、それでいい。
人払いと時間稼ぎのために雇われている俺達は、奴らとまともに殴り合う必要はない。
身の丈以上をやる必要はない。
与えられた事をこなせば、約束された額が手に入る。
頭ではわかっている。
自分のしようとしている事がどれだけ無駄であるかを理解している。
けど。
だけど。
それでも。
――無理だった。
心臓の音は加速していく。
握りしめた拳は開きそうにない。
気がつけば、俺は地面を強く蹴っていた。
目の前の三人は油断している。たかが戦闘員と侮り、変身しようとさえしない。
勝機はある。勝てる見込みは、万に一つ以上だ。
今の俺には、それだけあれば十分だ。
戦闘員の流れを見て、ターゲットを決める。
一対一で挑まなければ、確実に負ける。目標を確実かつ迅速に仕留めなければ他の二人からの追撃を貰ってしまう。
三人の動きを良く見て、相手の位置を把握する。
まずは、ピンクを一撃で仕留める必要がある。
あの三人の中で一番戦闘能力が低いのはピンクだ。
女性を蹴り飛ばすことに抵抗はない。
当然だ。
俺は今悪の組織の一員なのだ。
真後ろに吹き飛ばされていく戦闘員を盾にして、前へ前へと進んでいく。
チャンスを伺う。ピンクの視界から俺の姿を消える瞬間を狙う。
3、
2、
1。
今だ。
右足の裏をしっかりと地面につけ、滑るように体全体を回す。
つま先から伝わっていく回転が、宙に浮かせた左足を振り上げる。
足首に、鈍い感触が伝わる。
俺が放った回し蹴りは、見事にピンクの頭に命中した。
瞬間、彼女は糸の切れた人形のようにその場に倒れこむ。
その時、世界が変わっていくのを俺は感じた。
一瞬にして、世界は音を失くした。
戦闘員の奇声も奴らの掛け声も、一瞬にして奪われた。
その光景に。
目の前の現実に。
ただの戦闘員に、ヒーローが破れたという結果に。
誰もが息を飲んだ。
誰もが目を疑った。
俺が、変えた。世界を、常識を。たった一瞬で。
足を下ろし、今度はレッドとブルーに向き合う。
――まだ、やれる。
心の中で小さく呟く。
夢を諦め、世界のどこかでむせび泣くには、まだまだ時間がありそうだった。
「レッド、変身だ!」
一早く状況を整理したブルーが、レッドに指示を飛ばす。
「こんな奴らごときに……」
「いいから早くしろ! そいつは……強い!」
渋るレッドにブルーが言い聞かせる。全く、嬉しい事を言うじゃないか。
「わかったよ! 変身!」
「させるかぁ!」
レッドに向かって、真っ直ぐと拳を突き出す。
届け。
こいつが変身し終わる前に。
――当たれ。
まだ勝機があるうちに。
脇腹を、強い衝撃が襲う。耐え切れず、俺は数メートル後方まで吹き飛ばされた。
先に変身し終わったブルーが、ビームガンを俺に撃っていた。
あと数センチだった。
それだけで、届いた。
体制を立て直し、レッドに向き合う。
手遅れだった。既にこいつの体は真っ赤なスーツに包まれていた。
時間切れだ。勝機は完全に失われた。
「う、ん……」
意識を取り戻したピンクが、その場に立ちあがる。
「ピンク、大丈夫か!?」
それに気づいたレッドが、彼女の元に駆け寄る。
「ちょっと油断しただけ……」
蹴られた部分を押さえながら、ピンクが立ち上がる。
ますます状況は悪化していた。
いつのまにか、残っている戦闘員は俺一人。
どうすればいい? どうすればこの状況を打開できる?
「貴様ァッ!」
レッドの容赦のない拳が俺の顔面に飛んでくる。
ガードが間に合わず、頭が割れてしまいそうな衝撃が頭を揺さぶる。
もう一度、吹き飛ばされる。口の中には鉄の味が広がっていた。
「よくもピンクを!」
突進してくるレッドを、一筋の光が襲う。
振り返れば、新しい怪人を連れたミアがもうそこにいた。
「逃げろ!」
ミアの叫び声が聞こえるより早く、俺は全速力でその場から逃げ出していた。
「待て!」
「おーっと、お前らの相手はこいつだ!」
「フガーッ!」
不細工な怪人の叫び声も、今だけは頼もしく思えた。