MISSION 6 ブルー
小汚いアパートの前には、不釣り合いな新品のスポーツカーが一台停まっていた。ブルーは車体に寄り掛かり煙草を吹かしながら、携帯電話を弄っている。
「何やってんだよ、こんな所で」
俺が声をかけると、ブルーは携帯電話を仕舞い煙草を足元に投げ捨てた。
「俺だって、男と遊びたくなる時もあるさ」
ブルーは吐き捨てるよう俺に言った。街燈の明かりでもその表情に自嘲の色がある事が見て取れた。
「最悪の趣味だな」
ポケットに手を入れ、鍵を探しながらブルーの横を通り過ぎようとする。
「待てよ」
まだ傷の癒えない右腕を、ブルーが強く掴んだ。
「いい酒を置いている店を見つけたんだ。一杯ぐらい付き合えよ」
その顔から、自嘲も冗談も消えていた。
真っすぐな誠実さだけがそこには見えた。
その日俺は、初めてこいつの表情を見た気がした。
ブルーの車に連れて行かれた先は、今の俺には場違いな場所にあった。
高級住宅街の、洒落たバー。相変わらず上下ジャージの俺が入れるかは不安だったが、店ごと貸し切られていたおかげでその心配はなくなっていた。
間接照明だけの店内と、真っ黒なベストを着た初老の男性が、店の雰囲気をより落ち着いたものにしている。
俺とブルーはカウンター席に一人分の椅子を開けて座った。その一人分のスペースが、俺達の距離だった。
「何にする?」
「お前の奢りだよな?」
「貧乏人にたかるほど、性格の悪いつもりはないな」
皮肉交じりの返答で、俺の財布からは一円も出ない事を確認すると、俺はグラスを乾拭きしていたマスターを呼びつけた。
「この店で、一番高いウィスキーをくれ。ストレートで」
「かしこまりました」
この空間をブルーと共有する事は気分が悪かったが、それでも高い酒が飲めるのは嬉しかった。酔う為ではなく、味わうための酒。
「ったく……じゃぁ俺は、一番安いバーボンの水割りで」
「生憎、最高級の物しか残っていません」
笑顔でそんな事をしれっと答えるマスター。亀の甲より歳の功とはよく言ったものだ。
「商売上手だな、マスター」
「貸し切りにした分、元を取らねばなりませんので」
目の前のマスターに比べると、ブルーが表情豊かな人間に見えて仕方なかった。
「わかった、俺の負けだ。それを頼むよ」
ブルーに小さく礼を述べると、マスターは棚から酒瓶を二本取り出し俺達の前にそれぞれ置いた。
俺は乾杯もせずにそれを口に一気に含んだ。
角のとれた滑らかさと舌に染み込む甘さが広がる。
頭まで染み込むアルコールのおかげで、俺の口がいつもよりも軽くなる。
「話があるんだろ。早くしろよ」
ショットグラスに注がれたウィスキーを少しずつ飲みながら、ブルーが俺をここに連れてきた本当の理由を催促する。
「世間話する余裕もないのか?」
「知らなかったよ。金持ちのお坊ちゃんに世間話ができるとはな」
「僻むなよ貧乏人」
「話が無いなら、俺はこれを延々と頼み続けるけど」
美味い酒だ。つい最近まで飲んでいた物とは比べ物にならないほどに。どうせこいつの奢りなら、一瓶まるごと飲み切ってしまいたいぐらいだ。
「わかった、本題に入るよ」
観念したように、ブルーは酒のグラスをテーブルに置いた。
そして、上着の内ポケットから見覚えのある封筒を取り出した。
「そいつはさっさと閉まってくれ」
病院で見た時と変わらない、金が入った封筒。見たくも関わりたくもなかった。
「駄目だ」
頑ななのは、ブルーも変わりはなかった。
「同情か? それとも施しのつもりか?」
「違う。お前はこれを受け取る義務がある」
義務。その言葉の意味が解らない。こいつから金を受け取らなければならない理由など、どこにもない。
「受け取る代わりに、俺に何かをしろってか」
取引のつもりなのだろうか。
だが今更、こいつは俺に何を求める? この金と同じ価値を持った見返りが、俺から手に入ると思っているのか?
「……お前は、ひき逃げの犯人が誰だか知っているか?」
しかし突然こいつが言い出したのは、俺の予想とは関係のない物だった。
「手がかりも証言も何も無い。事件は迷宮入りだってよ」
まともに動かせない右手を見ながら、俺は唾を吐き出すように言った。
「馬鹿につける薬が無いって言うのは、本当の事だな」
仰々しく頭を振りながら、ブルーが言う。
「……何を知っている?」
「いいか、この国の警察はそんなに間抜けじゃない。タイヤ痕に監視カメラ、全部検証すれば簡単に犯人なんて見つけられる。だけど、そうしない」
グラスの氷を揺らしながら、淡々と語り続ける。
「……まさか」
「警察は間抜けな犬じゃない。ただ、尻尾を振るのが上手いだけだ」
そしてもう一度、俺に封筒を差し出した。
「口止め料ってことか」
一瞬ブルーの目の奥が曇ったが、すぐに相変わらずの薄ら笑いに変わった。
「あぁそうだよ。まさか跳ね飛ばしたのがお前だとは思わなかったけどな」
「警察に言っても無駄か……」
目の前の男は、ネイチャーレンジャーのブルーであると同時に、日本一の金持ちの一人息子でもある。
持っている者の差が多すぎた。
「そう言う事だ」
「個人的にお前を訴えたらどうする?」
「おいおい、お前が弁護士を雇えるのかよ」
何もできやしない。わかっている。最初から勝負にすらなっていない。
義務、という言葉が思い出される。俺がこいつの車に引かれた以上、受け取らなければいけない。受け取らなければ、別の方法で俺を黙らせることがある。
初めから選択肢などなかった。
金を受け取るというのは、俺にとって最善の道だった。
目の前に置かれた封筒を掴み、俺は乱暴にジャージの中に突っ込んだ。
「お前はやっぱり、頭が良いよ」
納得したようなブルーの顔も台詞も、俺には皮肉にしか映らなかった。
「マスター、同じのをもう一杯くれ」
「少々お待ちを」
言葉どおり、すぐに二杯目の酒が目の前に置かれる。
口に含んでも、さっきよりも味が落ちているようにしか思えなかった。
いやな敗北感だけが口の中に残る。
どんなに美味い筈の酒でも、気分が悪ければ味わえなんてしない。
「それでお前は、わざわざ俺に金を払いに来たのか?」
「いや……」
そう言いかけたところで、ブルーはまだ残っていた酒の残りを飲み干した。
「そうかも知れないな」
氷だけが残ったグラスを揺らしながら、ブルーは静かにそう言った。
「何だそれ」
「わからないってことだよ。自分自身がさ」
「俺はもう帰るぞ」
用も済んだようだったので、俺はマスターに軽く礼を述べ、席を立ちあがった。
「ほらよ、タクシー代」
ブルーが財布から五千円札を一枚取り出し、俺に差し出す。
「いらねぇな」
そのまま出口まで向かって歩いていき、扉を半分ほど開けたところで俺は振り返った。
「タクシーなんて、大嫌いだ」
そう言い残して、二度と来る事はないだろうバーを後にする。
ブルーの笑い声だけが聞こえてきた。