MISSION 4 先立つもの
視界が捉えたのは、白い色だった。
白い天井、白いカーテン、白い人々。
神経質なまでに塗りつくされた景色が病院だと結論を下すのに、あまり時間はかからなかった。
右手を伸ばし、ナースコールのボタンに手をかけようとしたところで、俺は気づいた。
手が上がらない。真っ白なギプスで固定されている。
自分が事故にあったと思いだすには、それなりの時間を要した。
左手でナースコールを押そうと試行錯誤していると、医者と看護婦がタイミングよく部屋に来てくれた。
ガリガリの医者と太った看護婦の話によると、俺は一日中寝ていたらしい。
俺を跳ね飛ばした車はそのまま何処かへ逃げ去り、誰かが救急車を呼んでくれたらしい。
怪我その物は、全治二週間で済むらしい。
骨にひびが入っただけで、検査に異常さえなければ明後日にでも退院できるとガイコツみたいな医者が約束してくれた。これも体を鍛えていたおかげだと風船みたいに膨らんだ看護婦は笑ったが、俺は眉一つ動かさなかった。
部屋の机には、見舞いの品が置かれていた。
なんでも長髪で眼鏡の女性が置いてきたらしい。思い当たる人物は一人しかいなかった。
警察の事情聴取があり、きっかり四時間後に行われるらしい。
人から聞く話ばかりなので、今一実感はわかない。
必要な事だけ述べた対照的な二人を、ベッドの上から見送る。
暇を持て余して果物を手に取って眺めていると、よく知った人が訪ねてきた。口髭が特徴的なその人は、世話になっているタクシー会社の社長だ。社員からの評判は、正直言って悪い。
「大丈夫かい? ニュースでやってたよ」
彼はいやらしい笑みを浮かべて、適当なパイプ椅子に腰を掛けた。
「どうせ三面記事でしょうね」
「全治二週間だって?」
医者から聞いたのか、詳しい期間を口にする。
「すいません、ご迷惑をおかけして」
謝罪することしかできない。この人に言える事もいうべき事も他にはない。
「構わないよ。どうせ」
籠に入った果物中から断りもなくバナナを一本もぎ取り、皮を剥いてかぶりつく。動物園のゴリラによく似ていた。
「どうせ、もう来なくていいんだから」
背筋が凍る。言葉が出ない。
首を、切られた。必要とされなくなった。
「二週間だっけ? その間何もできない人に、車の運転してもらうってわけには……ねぇ?」
「待って下さい、俺は」
まだ働けます、と言いかけたところで、社長は俺に無理やり封筒を掴ませた。
「ハイこれ、退職金。少ないけど包んでおいたよ」
その言葉を残して、社長はどこかへ行ってしまった。
まただ。
また俺は、必要とされなくなった。
皺だらけになってしまった封筒には、一万円札が七枚入っているだけだった。
十日働いて得られるだけの売り上げが手に入ったのだから、まだマシかも知れない。
それでも、別の不安がすぐに頭によぎる。
これからどうすればいい?
何をしていけばいい?
どうすれば生きていられる?
固定された右腕に目を移す。この腕で働ける仕事はない。
体を動かす方が得意な俺には、この枷はあまりにも重すぎた。
もう一度、封筒の中身を確認する。中身は変わらない。
「おはようございますブラックさん。……誰か来てたんですか?」
もぎ取られたバナナを見て、彼女が俺に尋ねる。
「勤め先の社長がね。これだけ置いて帰って行ったよ」
ベッドの上にぞんざいに置かれた封筒を見せびらかせる。
「なんですかそれ?」
「退職金。これでまた無職になっちまったよ」
部屋の中を重たい沈黙が包む。
それもそうだ、職を失った人間にかける言葉なんてそう簡単には見つからないだろう。
「何か、果物食べますか?」
そんな空気に耐えられなくなったのか、彼女は席を立ち色とりどりの果物で溢れている籠から何か一つ取りだそうとしていた。
「そうだな……林檎がいい」
真っ赤なそれを指さすと、彼女はどこからか果物ナイフを取り出し、皮を剥こうとしたところで手を止めた。
「ウサギさんにしましょうか?」
「いいよ、普通で」
笑ってそう答えると、彼女も微笑みながら手を動かし始めた。
ナイフが皮を剥く音だけが、静かに部屋の中に響く。
自分のこれからの事など忘れてしまいそうなぐらい、穏やかな時間がゆっくりと続いた。
「事故の状況は覚えてないんですか?」
一通り皮をむき終わった林檎に、今度は切れ目を入れていく。綺麗に八等分された林檎は、どこからか取り出された紙皿の上に置かれた。
本当、用意のいい人だな。
「あんまり……いや、一つだけ覚えている」
皿の上から林檎を一つ摘み、口に入れる。
「猫がいたんだ。汚くて痩せていて……片方だけ耳がなくて。これうまいな」
「事故そのものには、関係なさそうですね」
「それもそうだな」
二つ目の林檎に手を伸ばし、また口に入れる。
果実なんて食べたのはいつ以来だろうか。
「ところで……ブラックさんって保険に入ってるんですか?」
顎の動きが止まる。
頬をいやな汗が伝わる。
指先が一ミリも動かない。
「入ってないんですね」
責めるような彼女の視線から逃れたくて、俺は窓の外の景色に目を移した。
風に揺れる木の葉や白い雲が、小さな事など忘れさせてくれそうだった。
くれそうだった、というだけだった。
「犯人がわかってないから……治療費は俺が払うんだよな」
突きつけられる現実。
先立つ者は必要だ。この封筒の中身以上の金額だと、払えない事になる。
「そうなりますね」
当然と言わんばかりに、彼女が首を縦に振る。
最悪だ。
ただ道を歩いていただけなのに、頼んでもいないのに、勝手に金を巻き上げるなんて。
これならまだ暴力団の方が良心的ではないのだろうか。怒りの矛先が、見えないのだから。
「いくらぐらいかわかる?」
「うーん、十万円ぐらいじゃないですか?」
詰んだ。完全に詰んだ。
家賃、食費、光熱費。どれかを切りつめても三万円は浮きそうにない。
借りるあてなんて、元からない。
「無いんですか?」
「ある訳ないだろ……」
天井を見上げても、ただ白い色で塗りつくされているだけだった。ぶら下がっている蛍光灯でさえ、俺を嘲笑っているかに思えてくる。
「あ、そうだこれを使えば!」
先ほど俺が見せた封筒に彼女が飛びつく。
「さっき数えたけど、七枚しか入ってなかったぞ」
「どうするんですか?」
「どうしようか……」
会話が途切れる。
ただ時計の針だけが動いていく。
解決法は思いつかない。
そろそろ何もしないのも飽きてきたので、俺は窓から見える木の葉の数を数え始めた。
こうしていればきっと、嫌なことなんて忘れられるだろう。
「わかりました」
それからどれほど時間が経っただろうか、彼女はゆっくりとそう言った。
「私にだって少しは責任があるでしょうし……一番悪いのは、ひき逃げした犯人ですよ? だから、私が肩代わりしてあげます」
「待て、それは」
悪い、と言い終わる前に、彼女は顔を近づけて来た。
あまりに顔が近いので、喉から出ようとしていた言葉は生唾と一緒に飲み込まれた。
「その代り! 私の仕事を手伝ってください!」
「……その話は、昨日しただろう」
彼女との昨日の会話の続きはしたくなかった。また重苦しい空気になるのは嫌だったから。
「違います、そっちの方じゃないです」
「は?」
「私、こう見えても売れっ子の漫画家なんですよ!」
彼女は立ち上がり、ご自慢の大きな胸を張った。
警察の事情聴取があると言うと、彼女は急いで病室を後にした。
さすがに国家権力には弱いらしい。
医者の言った通りに事情聴取が終わり、その後に待っていたのは精密検査のフルコース。写真一枚撮られるごとに入院費がかさむと考えると気分は悪くなる一方だった。
それから味気ない夕食を終え、今後の事をぼんやりと考えていると、面会時間はとうに過ぎているのにまた俺に訪問客がやって来た。
今度の客は、出来れば会いたくない人間だった。
久しぶりに会っても雰囲気は相変わらずで、何を考えているかわからない。
「よう、随分な格好じゃないか」
開口一番、ネイチャーブルーは俺の姿を見てそう言った。
「……何だよ」
こいつと会話を楽しむ気力なんて無くなっていた。
「睨むなって。折角昔の同僚が訪ねてきたんだ」
俺をなだめようとして微笑みを作るも、心の奥から笑っているようには見えない。見下しているようにさえ見えてくる。
「そう思ってるのはお前だけだ」
これ以上こいつの顔を見ていると苛立ちが募る一方なので、俺は寝返りを打って背中を向けた。
「邪険にするなよ、ほら」
俺にブルーが一つの白い封筒を差し出す。その厚みは社長が持ってきた物とは比べ物にならない。中身はきっと、同じものだろう。
「なんだこれ」
「見舞金だよ。入院中は色々必要だろ?」
「断る」
こいつらに俺の人生を振り回されるのはもううんざりだ。
これ以上、関係性を持っていたくない。
「なんだよ……あぁ、そういうことか」
部屋を見回したブルーが、何かに気が付くと封筒をポケットにしまった。
「何が」
「別に? ただ、お前にも花をくれる人ぐらいはいるんだな」
そんなんじゃない、と言いたかったが、これ以上こいつと会話したくなかったので俺は黙っている事にした。