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MISSION 3 正義の味方




 足が伸ばせるぐらい大きな湯船に肩まで浸かると、自然と口からは声が漏れていた。その声を聞いたのか、脱衣所で洗濯機を操作する彼女が笑い始めた。


「湯加減はどうですか?」


 薄いプラスチックの戸を挟んで、彼女は決まり文句を言う。


「丁度いいぐらいだよ」


 だから俺も当たり障りのない答えを返した。


「このジャージ、お洗濯しちゃいますね」

「いや、いいよ。自分の家でやるから」


 この綺麗なマンションを泥だらけのジャージで徘徊するのは気が引けるが、それでも今それを洗濯機に入れられるわけにはいかない。


「そんなこと言って、どうせ明日になっても洗わないんじゃないですか?」


 出来の悪い家族を叱るみたいに、彼女が優しくも高圧的な言葉を俺に投げかける。

 俺は小学生か、と思いついつい頬が緩んでしまう。


「そこまで気を使わなくたって……」


 しかし洗濯をするというのは、気を使うとか使わないとかではなく、もっと単純な問題である。風呂上がりに着る物がないという、至極単純な問題。


 もしかすると彼女は気付いてないのだろうか。


「もう駄目です。もうついでに洗濯機の中に入れちゃいました。ついでに下着も」

「あー……」


 言っておけばよかった、と俺は後悔した。

 後悔先に立たず、とはよく言うものだ。ご機嫌な洗濯機のモーター音は低いうなり声を上げ始めていた。


「なんでそう、あなたは残念そうな声をするんですか」

「いや、風呂上がったら何を着ればいいのかなって」


 戸を隔てていても、洗濯機の前に立つ彼女の沈黙が伝わって来た。

 久しぶりの風呂に浸かって気分はいいはずなのに、どことなく気まずい。


「……どうして先に言ってくれないんですか!」


 とうとう彼女は声を張り上げ俺に抗議を始めた。


「普通気づくだろ!?」


 焦る彼女とは対照的に、俺は落ち着いて思っている事を口にした。

 それから、彼女は案外抜けてるところがあるんじゃないのかとどうでもいいことさえ思い始めた。


「あわわどうしよう、まさかブラックさんに裸にうろつかれるわけにはいかないし……」

「コンビニとかでも売ってるから、ちょっと買って来てもらえる? 金は俺の財布から」


 今度は、俺が沈黙する番だった。


 そもそも雨にぬれたのは、コンビニでまともに傘を買う余裕さえなかったからだ。

 確か財布に残っているのは300円ぐらいだった。


「しまった、金無いんだった……」


 それだけならまともに下着さえ買う事も出来ない。

 俺は服が乾くまでのぼせずに風呂に入っていられるかを真剣に考え始めた。


「あの、私買って来ますから! どうぞそのままごゆっくり!」

「悪いな、いろいろ世話になって」


 服まで世話になっては申し訳ないとは思いながらも、今は人の好意に甘えたかった。


「構いませんよ、好きでやってることですから」


 肩書を無くしてから、いやもっと前からだろう。

 最近の記憶じゃどこを探しても見当たらない、人の優しさに触れていたかった。






 敵の女幹部の甲高い声が街中に響く。目の前には敵がいる。

 そして、横には仲間がいる。


 いつの事だっただろうか。思いだせない。


「ほーっほっほっほ! お前たち、やっておしまい!」


 奇声とともに突撃してくる戦闘員達を、仲間たちが簡単に倒していく。


「邪魔だな」


 この声は、ブルーの声だ。マスクを被っていようがいまいが、その表情が崩れた事はない。


「くそっ、やっぱりこいつらじゃ役に立たないか……」

「どうしたどうした! そんなんで俺達に勝てると思ったのか!」


 レッドの声が聞こえる。純真さと熱い心を持った男だが、俺はこいつが苦手だった。


「ええい、さっさとアレを出しなさい!」

「合点承知!」


 女幹部の横にいるのは、やたらと背の低い自称宇宙人の少女だ。

 その容姿はヒーローとしては闘う気の失せる物だったが、行動がいちいちえげつない。


 例えば罠を仕掛けたり、地雷を埋めたり。


 二人の合図で、煙の中から今日の怪人がようやく姿を現す。

 どうせなら、戦闘員なんて使わずにさっさと怪人を使えばいいのにといつも思ったものだ。


「私は台所からの使者、コック・ローチだ!」


 消える煙の中から捉えた姿は、いつものようにろくでもないデザインだった。


「あたしむり。あのデザインマジでむりだから」


 ゴキブリを模したその姿に拒否反応を示すのはピンクだ。

 いつもレッドとベタベタしていて、必然的にこいつも苦手である。


「まぁまぁ、ちゃっちゃと片付けちゃおうよ」


 そんな喧しいピンクを宥めるのはグリーンの変わらない優しい声だ。

 五人いる。

 揃っている。その筈なのに、俺は言葉にできない疎外感を感じている。


「そうだな……いくぞ皆!」


 レッドの声に号礼に、各々が声を張り上げる。




 聞こえない。

 俺の声だけ、どこにもない。






 いつの間にか眠っていた。風呂で眠るなんてまるで老人みたいだったが、事実だから認めざるを得ない。


 懐かしい夢を見た。

 過去の日常の風景だ。


 当たり前にある毎日だったのに、いつの間にかそれは夢になっていた。


 いつだって手が届いた。触ればそこにあった。

 今はもう届きはしない。ここからじゃ遠すぎる。


 風呂のお湯を掬い、顔を洗う。気分が晴れはしないが、体の疲れはもう取れていた。


「ブラックさん、まだ入ってますか?」


 脱衣所から聞こえてきた声のおかげで、俺ははっきりと意識を取り戻した。


「あぁ、そろそろ上ろうと思ってたよ」


 どれほどの間風呂に入っていたかは解らないが、少なくとも体中に溜まった汗を流しきるぐらいには時間が経っていたようだ。


「ちょうどいいタイミングでした。着替え、ここに置いておきますからね」

「何から何まで悪いな」


 湯船から立ち上がり、干してあったタオルで体全体を拭く。


「あの……この後ってお時間ありますか?」

「今日ぐらいはあるよ」

「でしたら、少しお話でもしません? 紅茶でも淹れておきますね」

「コーヒーの方がいいかな」


 折角なので、飲み物もリクエストしてみる。


「ありません」


 返って来たのは、彼女のそつない返事だった。

 久々に美味いコーヒーが飲みたかっただけに残念で仕方がない。

 

 その割には、彼女の声は笑っていた。






 彼女が用意してくれたのは、下着だけでは無かった。大手のスーパーの袋の中には、ちょうどいいサイズのジーンズが一枚入っている。値段はたったの千五百円。ここまでは頼んではいなかったが、下着でいるわけにもいかないので有り難く穿かせていただいた。


 適当なタオルで髪を拭きながら、居間のソファーに腰を掛ける。しばらくすると、台所からティーセットをトレイに乗せて運んできた。


「はいどうぞ」


 上品なティーカップに淹れられた紅茶は、真っ白な湯気と独特の香りで溢れている。


「あぁ、ありがとう」


 一口飲んだだけで、高級な葉を使っている事がわかる。安物のティーパックじゃ出せない風味が舌に広がる。それに、淹れ方も上手なのだろう。たまには紅茶も悪くない。


「……今さらだけどさ」


 そういえば、まだ確認してない事がある。普通なら、一番初めに聞きそうなことだけれども。


「はい?」

「名前、まだ聞いてなかった」


 ――その瞬間、部屋の空気が凍りついた。

 正確にいえば、彼女の表情が落胆と驚きの色で塗りつくされた。


「覚えて、ないんですか?」


 今にも泣き出しそうな声で、彼女は呟いた。


「え、知り合いだっけ……」


 まずい、非常にまずい。

 確かに人の顔の覚えはいい方じゃない。

 だから俺が忘れているのも当然だ。


「ちょっと待って、今思い出すから」


 ただ、彼女には圧倒的な特徴がある。

 それは、タートルネックのセーターでこれでもかと言わんばかりに強調された大きな胸部だ。そこを手掛かりにしていけば、必ず彼女と出会った記憶に行きあたるはずだ。


「もしかして、昔よく行ってたクラブのホステスとか?」

「違います」

「わかった、中学校の時の同級生だ。髪染めていて先生によく怒られてた」

「たぶん違うと思います」

「じゃあ……風俗の子?」

「違います! どうしてさっきからイメージの悪い人ばっかり出てくるんですか!?」


 あまりにも失礼な尋ね方をしすぎたからだろうか、彼女はすごい剣幕で怒り始めた。


「いやほら、俺の人生でこんな天然っぽい人なんていたかなぁと思って……」


ガラスを割った子供みたいに、俺は適当に思い浮かんだ言い訳をあたふたしながら応えた。


「まぁ確かに、普段ブラックさんとお会いしてる時とは全然雰囲気が違うかもしれないですけど?」

「じゃぁ……よく行くコンビニの店員さん?」


 当てずっぽうで答えてみたものの、彼女が溜め息をつくだけだった。


「違いますもういいです、当ててもらおうとした私がばかでした」


 何となくこのまま当てられないのは悔しかったので、俺は思いつくままに女性の知り合いを羅列する事にした。


「あと誰がいるかな。ピンクは絶対に違うし、あとは敵の女幹部の……カサ……何だっけ?」

「カサブランカです」

「そうそう、あとはそいつぐらいしか知らないな。知り合いってほどじゃ」

「あってます」


 俺が言い終わる前に、彼女は言葉を遮る。


「はい?」


 突然の出来事だったので、俺は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。


「カサブランカです」

「何が?」

「私がです」


 話がよく見えない。


 敵の女幹部のカサブランカと、目の前の彼女。その接点は見当たらない。

いや、あった。一番大事なところを見落としていた。


――それは、大きく張り出した彼女の胸。


拘束具のような際どい衣装から見えたその胸も、大きかった事は覚えている。


「……胸ばっかり見ないでください!」


 その大砲のような大きな胸を、彼女が両手で胸を隠し体を逸らす。


「いやだって、そこぐらいしか共通点がわからなくて」

「そんなことないですよ! ほら、ほら! メガネを取ったら同じ顔じゃないですか?」


 メガネを取り、彼女が顔を近づけてくる。正直に言うと、カサブランカとは化粧の濃さが違いすぎて差がよくわからなかった。共通して言えることといえば、二人とも顔立ちが整っているということぐらいだろうか。


「似ているといえば似ているけど……それにしても性格が違い過ぎるだろ」


 甲高い叫び声をあげ戦闘員をゴミのように使役する女幹部と、公園にいたゴミのような男にお茶を出す女性では、あまりにも性格が違い過ぎる。

 別人と言ってもいいだろう。


「それは……認めます」

「本当は俺をからかっているだけだろ? 俺が元ブラックだからって」

「違います本当です!」

「どっちだよ!」

「ごめんなさい!?」


 急に大声を出されて驚いたのか、彼女が咄嗟に両手で頭を守った。

 そんな反応をされてしまうと、心の奥から罪悪感が湧き上がってきたので、俺は一旦溜め息をついて心を落ち着かせた。


「仮にあんたがカサブランカだとしよう。でもそれをどうやって証明してくれるんだ?」

「わかりました、そこに座っていて下さい」


 彼女はそう言うと、奥の部屋に歩いて行ってしまった。

 紅茶のカップが空になる頃には、彼女は一つのダンボール箱を抱えて戻って来ていた。

 机の空いたスペースにそれを置き、中身を掴んで思いっきり広げる。


「どうですか!?」


 確かにそれは、見覚えのある衣裳だった。真っ赤なベルトだけで繕われたような、露出ばかりの衣装。見ているこっちの方が恥ずかしくなるような、そんな衣装。


「それ見る度思うんだけどさ」

「はい?」


 自信満々に衣装を見せつける彼女に、俺は長年の疑問を彼女にぶつける事にした。


「恥ずかしくないの?」


 そう聞くと、彼女はすぐに顔を赤くして衣装を勢いよく段ボールに仕舞い込んだ。


「と、とにかく、これで私がカサブランカだって証明できたと思います!」


 そう言いきると、彼女は段ボールを脇によけ、残りの紅茶を飲みほした。


「それで」


 空になったカップを覗き込みながら、俺はゆっくりと口を開いた。


「それで……どうして俺を助けたんだ?」


 場の雰囲気が重苦しくなる。楽しかった空気はどこかへ吹き飛んでしまった。


「ただの親切……っていうわけでも無いですね」


 衣装が入った段ボールを見ながら、彼女が呟く。


「あなたに、お願いがあります」


 彼女が足を組み直し、真っ直ぐに俺を見つめる。嘘も偽りもない、真摯な眼差しで。


「俺に出来る範囲なら」


 そして彼女は息を大きく吸い、はっきりとした口調で言った。


「私達の仲間になって下さい」

「それは……」


 言葉に詰まる。


 彼女の願いをはっきりと理解できたから、余計に次の言葉が言い出せない。


 ――わかっている。


 ここで首を縦に振れば、少なくとも今よりはマシな生活になる事が。

 元の肩書にとらわれずに、また一から全てを始められることが。


 ――わかって、いるのに。


「それは、出来ないな」


 首を縦に振る事だけは、どうしてもできなかった。


「お給料だってちゃんと支払いますよ? それにブラックさんだったらすぐにでも」

「待遇の問題じゃないよ。ましてや、恩を仇で返したいわけじゃない」


 身振り手振りを交えて丁寧にしてくれる説明を言葉で遮る。


「だけど、俺はさ」


 俺はその場から立ち上がり、玄関へ向かって歩いて行く。

 彼女は座ったまま俺を目で追うだけだった。


「まだ、正義の味方でいたいんだ」


 振り返らずにそう言い残すと、俺は彼女の部屋を後にした。






 雨はいつの間にか止んでいたが、相変わらず空は雲で覆われている。

 冷たい風が首元に触れて初めて、彼女の部屋にジャージを忘れた事に気が付いた。


 正義の味方。


 子供の頃に追い駆けていた、大きな空。

 捨てられない。捨て切れない。ビルに囲まれたこんな場所では、見えるはずもない。

 目線を下ろし、自宅に向かって歩いて行く。一歩一歩がやけに思い。


 俺の横を、一匹の猫が通り過ぎて行った。毛並みはボサボサで痩せこけ、おまけに片耳が無いと来ている。夜のように真っ暗なはずのその毛並みは、泥にまみれ、ただ汚らしいだけだった。


 人に媚びれば、餌ぐらいは貰えるだろう。かわいい声で泣けば、屋根のある場所で寝られるだろう。


 それだけの価値があるのに、どうしてお前は魚の骨を誇らしげに咥えていられるのか。


 俺にはわからない。

 お前の望みが、幸せが。


 また一歩、俺は足を踏み出す。


 ――重い。真っ直ぐに歩けそうもない。


 進んでいく。また一歩、前へ。


 ――辛い。今にも膝が折れそうだ。


 進めない。大切なものは、もう見つけたのに、

 夢は、そこにあるのに。

 見えない。進めない。誇らしげに歩けない。


 歩いている感覚がなくなる。

 足は動いている筈なのに、同じ場所を延々とまわり続けているようだ。


 とうとう俺は、小石に躓き転んでしまった。

 立ちあがれない。

 その気力はどこにもない。


 車のライトが、もうそこまで迫っているのに。




 立ちあがれない。

 この場所から。

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