MISSION 2 遭遇
目を覚ませば、もう昼の二時だった。
厚い雨雲のおかげで、カーテンの隙間から洩れる光は少ない。
寝起きの俺を襲ったのは、言いようのない空腹感だった。
どうせ仕事がないので、酒で胃袋を誤魔化すという手段もあったが、その酒も残りが少なくなっている。
どのみち、買い物には行かないといけないらしい。
観念した俺はジャージのポケットに家の鍵を押し込み、歯も磨かずに家を後にした。
家を出て二分後には、俺は傘を持って来なかった事を後悔し始めていた。
空を覆う灰色の雲は今にも雨を降らせそうだ。
しばらく歩いていると、近所の公園から子供たちの楽しそうに遊ぶ声が聞こえていた。どうやら子供たちには、雨雲なんてものは見えないらしい。
ふと公園に目をやると、ガキ大将らしき少年が滑り台の上に仁王立ちし、膝をついた子供に石を投げつけていた。その少年を取り囲むように、少年少女が立っている。
一人を除いて、彼らは皆笑っていた。楽しそうな声は止まない。泣き声は聞こえない。
「バーカ、そんなもんゴミだよゴミ!」
ひときわ大きなガキ大将の声が、離れている俺の耳にも届く。
よくある事だ。
弱い者を踏みにじる事で、自分の強さと存在を認識する。
それでも子供だから、まだ自分が何をしたいのかは理解していない。
だから、根本的な解決法なんて無い。
子供のいじめなんてものは、そんなものだ。
大人が首を突っ込んだところで何も変わらない。
そう自分に言い聞かせて、コンビニに向かって歩き出した。
コンビニで適当な菓子パンといつもの酒を会計に持っていけば、傘を買う余裕が無くなっていた。
無情にも降り出した雨は止みそうもない。
俺は溜め息をついて覚悟を決めると、そのまま今来た道を引き返した。
サンダルを撥ねる水が素足に染み込む。
いつもこうだ。
選んだ道はいつもどこかで途切れている。
どれだけ順調に見えても、誰かがやって来て全てを台無しにする。例えば夢を歌うミュージシャンとか。
同じ道を通ったせいで、さっきの公園の前にまた来てしまった。
子供の姿はもういない。
ただ一人を除いては。
膝をついて、涙を流している子供がいた。
石を投げられたせいで、着ていた服はボロボロになっている。
どうにもならない。できる事は、一つもない。
俺は歩幅を広げて、公園の横を通り過ぎる。
そうだ、それでいい。
――大体俺に何ができる?
怪人を殴り飛ばせるだけの力はもう無い。使い道に困り果てていた預金の残高は、今月の家賃を払えば三桁しか残らない。ピンチになると駆けつけてくれた仲間は、俺を裏切った。
「っぐ……ぇっ……」
声にならない子供の嗚咽が、雨の音に混じって聞こえてくる。
どうせ何も出来ない。
それぐらいはわかっている。
もう正義の味方では無い筈なのに、俺の足は泣き声のする方へ向かっていた。
「おい、風邪引くぞ」
公園で膝をついている少年に声をかけても、彼は立ち上がろうとはしなかった。
バラバラに千切れた紙切れを必死にかき集めている最中だったので、俺もしゃがんでそれを手伝った。
雨は止まない。
濡れたTシャツが背中に張り付き、嫌な感触だけが残る。
「……ありがとう、ございます」
顔を上げずに、少年は弱弱しく礼を言った。
「大事な物なのか?」
一つ一つの紙片をつまみ、少年に手渡していく。散らばった量から考えると、せいぜいノート一枚程度の大きさだろう。真っ白な紙に書かれたミミズの張ったような字が雨で滲んでいる。
「はい、お父さんが僕の為にって。それで今日みんなに自慢したら……」
「いい父親だな」
最後の紙片に手をつまみ、よく見てみていた。
――間違っていた。
それはノートではなくメモ用紙だった。紙の左端には、自分が勤めるタクシー会社の社名とロゴが緑色のインクで印刷されている。
一見すると模様にさえ見えるそれは、自分の書いたものだった。
「……こんなもの、ただのゴミだ」
少年を虐げた子供たちの行動は正しい。
価値がない物をこれみよがしに見せつけられて、不愉快にならない人間はいない。
「どうしてそんなこと言うんですか? ブラックは僕の……」
少年は顔をあげ、俺の顔をまっすぐ見つめた。
そして気付いた。気付いてしまった。
「ブラック? ブラックだよね!?」
淀んでいた目に、光が戻る。
彼の眼には哀れな男が写っていた。
「違う」
「あの、握手……」
土で汚れた俺の手を掴み、少年は子供らしい愉快な笑顔を浮かべた。
やめろ、そんな顔をするな。
俺はもう正義の味方じゃない。
ただの屑だ。
捨てられた紙片と同じだけの価値しかない。
「触るな」
その手を、俺は払いのける。
ポケットから紙片がこぼれ、水溜りの中に沈んでいく。
「帰れ」
俺がそう言うと、少年は一瞬戸惑ったものの、悟ったような顔をして公園を後にした。
途中で振り返り、行儀よく頭を下げると、走ってどこかへ消えてしまった。
どこを、間違えたのだろうか。
何を、間違えたのか。
バラバラになってしまった俺のサイン。
もう、価値なんてものはない。
当然だ、俺はもうヒーローじゃない。
地面にこびり付き、泥にまみれ、風が吹いても吹き飛ばないようにするのが精いっぱいだ。
ただの人だ。
肩書きと一緒に価値を失った、ただ一人の人間だ。
水溜りに浮かぶ紙片は、自分その物だ。
降り続ける雨は、止みそうもない。
地に落ちる水滴が空から来たのか、それとも自分の目から溢れたのかなんて、誰も気にはしない。
そう、誰も。
俺を見てくれる人なんて、ここには誰もいない。
気がつけば、俺はその場に膝をつき地面を強く叩いていた、
すまない。
謝罪の言葉が頭を埋め尽くす。
すまない。
誰に、何に? どう謝ればいい?
すまない。
自分自身に、俺が今ここにいる事を。
声にならない嗚咽を吐き出して。
謝罪する。
自分の罪、それは何もできなかった事。何もしてこなかった事。
ヒーローという肩書に満足して、何一つ変わろうとしなかった事。自分自身を誤魔化し続け、本当の夢を心のどこかにしまい込んだ事。
多すぎた。
自分の今の境遇に納得するには、思い当たる事が多すぎた。
なのに、どうして。流れる涙は止まらないのか。降り続ける雨は止まないのか。
「くそっ、くそっ!」
泥になった地面を拳が強く叩く。そんな事をしても何一つ変わらないと知りながら。
――夢が、あった。
幼い頃に追い駆けた、どこまでも続く青空のような広大な夢。
小さな公園のジャングルジムの上で手を伸ばした、あの夢。
終わりも、限界もない。どこまでも続いていく。ただ青い空はビルを超え山を越え、地球の裏側まで続いている。
そう、信じていたのに。
あの空に届くと、信じていたのに。
自分ならできると、いつまでも思っていたのに。
忘れたからだろうか。
忘れたふりを、続けすぎたからだろうか。
俺は誰もいない公園で、声にならない叫び声を上げた。
雨は止まない。青空は見えない。
その筈なのに、体をに当たる雨だけは止まってくれた。強く地面を叩く音は、ビニールに弾かれる無機質な音色に変わった。
「そんな所にいたら、風邪引きますよ」
女性の声がした。地面と紙片しか写さなかった俺の目が、女性物の靴を捉える。
「いいんだ、俺は」
顔を上げる気力なんてもう無い。出来る事なら、このまま消えてしまいたかった。
女性は体を屈め、地面に散らばった紙を一つ拾い上げた。
「あなたの物ですか?」
「そうだ」
それは、俺だ。
俺自身だ。
拾い上げる価値も集められる価値もない、自分自身。
俺が世間に認められた、過去の証明。
「……大切な、ものですか?」
「違う」
大切なものじゃない。
大切にしてはいけない。
罰であり、罪だから。拾い集められ、また価値をつけられてはいけない。
自分の罪が、許されてはいけない。
なのに、その女性は散らばった紙屑を一つ一つ拾い上げていった。
止めてくれ。そんな事はしないでくれ。
許さないでくれ。俺に何かを期待しないでくれ。
「どうぞ、ブラックさん」
「違う!」
紙屑で満たされた彼女の両手を、俺は思い切り払いのけた。
違う、違う違う違う。
それは俺の名前じゃない。俺をそう呼んではいけない。
許さないでくれ。期待しないでくれ。
言葉にならない俺の願いは、彼女には届かない。
散らばった紙屑を、彼女はまた集め始める。
「私、ブラックさんのこと好きだったんですよ」
白い紙を拾いながら、彼女は言葉を続けた。
「ファンだったんです。そりゃあ確かに、五人の中では一番地味で一番人気が無かったですけど?」
あぁこの女、随分とはっきりと言ってくれるじゃないか。
そう言えば、ファンレターの数が一番少なかった事を僻んでいたりもしただろうか。
「だけど闘っている時の姿とか、名乗りを上げて変身する姿は、一番格好良かったですよ」
もう一度、俺に両手が差し出される。
拾い集められたそれに、過去の輝きはもう無い。
いつかのように、子供の注目の的になる事なんて無い。
それでも、それでもだ。
それは確かに、自分自身だった。
確かに歩いてきた、自分の証拠だった。
誰も価値はくれないだろう。
誰も認めてはくれないだろう。
だけど自分だけは、それを持ち続けなければいけない。
例え泥にまみれていても、例えバラバラになったとしても。
俺だけはそれを、手放してはいけない。
「ありがとう」
小さく礼の言葉を述べて、俺はその紙屑を受け取り、ぞんざいに自分のポケットへ詰め込んだ。
「もう、そんな乱暴でいいんですか?」
「いいんだよ、これぐらいで」
俺は立ち上がり体中についた泥を払いながら言う。
それから初めて、この親切な女性の顔を見た。
特別美人って訳じゃない。だけど緩やかなウェーブがかかった栗色の長い髪と、大きな丸い眼鏡が優しそうな雰囲気を醸し出していた。
服装だってそう、派手すぎないタートルネックのセーターとロングスカートは彼女によく似合っていた。
「もう、体中汚れてますね」
「いいよ、叩けば落ちるだろうし」
肘や膝には泥が染み込んでいたが、洗濯をすれば簡単に落ちそうだった。
「でも体の冷えは取れないんじゃないんですか?」
「あー……まぁそうかな」
俺は照れ臭そうに頬を掻きながら曖昧に答えると、彼女はくすくすと笑い始めた。
「私の家、ここから近いんですよ。それに結構いいところで、お風呂なんてすぐ沸くんですから」
そう言うと、彼女は強引に俺の腕を引っ張り歩き始めた。