MISSION 1 薄暗い部屋の中で
「なぁ兄ちゃん。俺さ、アンタの顔どっかで見たことあるんだけど……」
後ろに乗った酔っ払いが、へべれけになりながらそんな事を言う。
全く、酔っ払いの相手は楽じゃない。
「気のせいですよ」
何度も尋ねられた事なので、それの対処法はもう頭の中にしっかりとできている。
とぼける事だ。
過去の栄光も全て忘れて、この白いクラウンの運転に専念する事。
それだけが、俺に残された唯一の手段だ。
「そうかぁ? いやいや違う、本当にアンタの事どっかで……」
ネクタイを鉢巻のように縛った間抜けなサラリーマンが足りない脳味噌を捻り答えを探す。
見つけないでくれ。
俺のことなんて、忘れたままでいてくれ。
「……あぁ、思い出した!」
サラリーマンがそう言った瞬間に、俺の体から嫌な汗が噴き出してきた。
今はもう、人に誇れる生き方なんてしていない。今月の水道代さえ払える見通しもない、路傍の石になってしまった。
忘れてくれ。
誰にも聞こえないように、俺は心の中で願った。
「あんたブラックだろ? 何とか戦隊のブラックじゃねぇか!?」
「よく似てるって言われますよ」
苦笑いを浮かべながら、俺は酔っ払いの言葉に答える。
自分の口から出たのは嘘だった。
眩しかった過去の栄光は心の中にしかない。それで十分なのに。
どうしてまた、それを掘り返すのだろうか。
「ハッ、俺の眼は誤魔化せないぜ? なんせ息子がアンタの大ファンだったからな。アンタが出てる映像、一緒になって見てたんだぞ?」
「……お客さん、酔ってますね。待ってて下さい、もうすぐ着きますから」
ハンドルを握る手が汗で滲む。アクセルペダルを踏む足は震えている。
昨日と同じ目で、俺を見つめないでくれ。
バックミラーで酔っ払いの表情を盗み見る。
――あぁ、そんな目だ。
期待と尊敬と羨望が籠った、輝いた少年の目だ。
「おっかしいなぁ、世の中には似てるやつがいるもんだな」
「自分に似てる人間が、世界には三人いると言いますしね……ほら着きましたよ」
そんな会話を続けていると、目的の家に到着した。どこにでもある、ありふれた一戸建て。リビングを覆うカーテンの隙間から、暖かな光が漏れていた。
こんな酔っ払いにでも、終電過ぎの駅で捕まえた中年にも、帰るべき暖かい場所があった。
俺にはもう、そんな場所はない。
「4120円になります」
メーターに表示された金額を機械的に請求する。酔っぱらいは不満そうな顔をしながら、五千円札を財布から取り出した。
「……なぁ兄ちゃん」
何かを思いついたのか、突然男は表情を明るくさせた。
「どうしました?」
「あんたが偽物だってわかってるんだけどよ……息子の為にさ。サイン、書いてくれないか?」
馬鹿な男だ、と俺は思った。
俺の名前に、もう価値なんて無い。ヒーローを首になった男が、求められる世界などない。
「……それでいいんですか?」
「たまには子供の前で恰好つけさせてくれよ、え?」
男は胸を張り、照れくさそうに笑った。
その笑顔があまりにも自信満々だったので、俺はとうとう折れてしまった。
「そう言う事なら」
適当なメモ帳とボールペンを取り出し、サラサラと自分のサインを書いていく。
最後にこれを書いたのは、何時だっただろうか。
「じゃぁな兄ちゃん! ありがとよ」
俺が書いた紙をひったくると、酔っぱらいは千鳥足で一軒家に向かって歩き出した。
「あ、お釣り!」
運転席から身を乗り出し、今にも倒れそうな男を呼び止める。
「サイン代だ、とっておけ!」
そう言い残すと、彼は玄関の扉を開けた。
「……ったく」
小銭をポケットにねじ込み、ギアをローに入れる。
星が消えた空が覆う駅前に向かって、俺はアクセルを踏み込んだ。
アパートにつくのは、仕事がある時は明け方の五時ぐらいになってしまう。正規雇用ではない俺は、週に三回程度しか働いていない。
いや、『働けない』と言った方が正しいのかもしれない。
こんな不景気だ、資格も学歴も無い人間がまともな職にありつける方が稀だ。
台所に乱雑に置かれたウィスキーの瓶を手に取り、俺はテレビのスイッチをつけた。BGMとしては力不足だが、気を紛らわすにはちょうどいい。
ビンの蓋を開け、舐めるように口に含む。
安い酒だが、贅沢は言ってられない。
『芸能最速ニュース! 本日9月17日、ついに桧原樹の待望のニューシングルの発売日です! 番組では桧原さんから……』
テレビには、よく見知った顔が写っていた。
桧原樹。
天地戦隊ネイチャーレンジャーの、元『春風のグリーン』だ。
夢の為に、地位も名誉もかなぐり捨てた男が、今その夢を叶えて歌を歌っている。
希望の歌を、勇気の歌を。声が枯れるまで何度でも。
同じ場所に立っていたのに、同じ夢を語り合えていたのに。
俺はどこで、何を間違えたのか。
戻れない昨日の景色が、目の前に広がって行った。
「あのさ……相談があるんだけど」
作戦室のテーブルで、あの日俺は樹に呼び出された。いつも笑っている奴だったから、俺は相談をされたという事に心底驚いていた。
「なんだよ急に。忙しいから手短にな」
ただ、信頼されている事は素直に嬉しかった。
正直に言えば、俺は五人の中でも浮いていた。
他の四人とは年齢が三つ以上も離れていて、話が噛み合わない事は度々あった。
物の見方や考え方が、こいつらとは違うんだと何度も思った。
それでも、樹だけは俺にも気さくに話しかけてくれた。
まるで本当の兄のように慕ってくれた。
「大丈夫、すぐ済むよ」
樹がパイプ椅子に腰をかけ手を組んで考えこんでいたので、俺は壁際に置かれた自動販売機から缶コーヒーを二つ買った。
プルタブを開き、生温いコーヒーを飲み込む。雑味が残った苦さが口いっぱいに広がる。
「お前も飲むか?」
もう一本を樹に差し出す。
樹はすぐに首を縦に振らなかったが、差し出した手をしばらくそのままにしていると、観念したように苦笑いを浮かべて受け取った。
スチール缶が開けられる音が、二人だけの会議室に木霊する。
「にがっ……これブラックじゃん」
一口コーヒーを飲み込むと、樹は不満そうに言った。
「なんだよ、緑茶の方が良かったか?」
俺はからかうように笑いながら、コーヒーを胃袋に流し込む。
手に持った缶の色は、俺と同じ色をしていた。
「はいはい、有り難く受け取りますよ」
拗ねたようにそう言うと、樹は喉を鳴らして勢いよく缶の中身を飲み込んだ。
軽くなった缶をテーブルの上に置き、身震いをしてげっぷをする。その姿は、無邪気な子供そのものだった。
「……子供の頃からの夢が、俺には二つあってさ。一つは、こうやってヒーローになって平和を守ることだったんだ」
まだ暖かさが残る缶を握りながら、樹は語り始めた。
「俺達は地味な色だけどな」
「まぁね。だけど俺はそんなに嫌じゃないよ。確かに地味な役回りだけど……誰かがやらないといけない役だし、ヒーローってことには変わりがないからね」
「そうだったな」
樹の笑顔に、俺の心は少しだけ救われた。
同じ所に誰かがいて、そのことを誇りに思っているのなら、笑ってそこに立っていられた。
例えそこが、日の当たらない場所だとしても。
「話を戻すけど、もう一個の夢はさ」
大きく息を吸い込んで、樹は言葉を吐きだした。
「歌手に、なりたいんだ」
その突拍子のない夢に、俺は飲んでいたコーヒーを噴き出してしまった。
飛び散った黒い液体が、真っ黒なジャケットにしみこんでいく。
「汚いなぁ」
「そりゃ誰だって噴き出すだろ? 天下のネイチャーレンジャーが歌手になりたいなんて言えばさ」
肩を竦めて、樹の夢を一蹴しようとする。
「俺は本気だよ」
だけどその試みは、樹の真摯な眼のせいで失敗した。
「最近思うんだ。今の生活は楽しいし、充実もしている。だけど心のどこかで……どこかで、叫ぶんだ。『本当のお前は、一体どこにいるんだ』ってさ」
自分の胸を叩いて、樹は青臭い台詞を恥ずかしげもなく言ってのけた。
「……俺には解らないよ。一つ夢を叶えたなら、それだけでいいじゃないか」
一つも夢を叶えられない奴なんて、見回せばどこにでもいる。
そんな人間の目には、樹の相談はどれほど羨ましく映るだろうか。
「本当にそう思ってる? それとも全部忘れたの? 子供の頃にあった沢山の夢をさ」
その言葉は、俺の心に突き刺さった。
「俺は……」
必死に否定の言葉を探しても、思い浮かんだのは子供のころの景色だった。
まだ一日が随分と長かった頃に広がっていた、幾つもの未来と可能性。
どこまでも続いていた、小さな故郷。
――その頃の夢はまだ、胸の中に残っている。
「やっぱりあるじゃん。そういう目をしてるよ」
俺の心情を察したのか、樹が微笑む。
幼さもあどけなさも、もう消えていた。
「お前には、一生勝てそうもないよ」
その表情でついに俺の意地は消えてしまった。こいつの夢はもう笑い飛ばせなくなっていた。
「俺にも教えてよ。子供の頃に見た、未来の自分を」
「そうだな、俺の夢はさ……」
テレビ画面には、アコースティックギターを持った樹が希望の歌を歌っていた。
振り向けばいつもあいつがいたのに、今この時は画面越しでしか見えない。
スポットライトの当たるステージと、ゴミや洗濯物にまみれた部屋の違いは歴然としている。
どこで俺は間違えたのか。
自分の道を、夢を。
どうしてあいつだけが、日のあたる場所に立っているのか。
酒を一気に口に含み、テレビの電源を消す。
ジャージに着替え布団に潜っても、なかなか睡魔は襲ってこない。
頭に染みるアルコールでも、心に残る黒い感情を消してはくれなかった。