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MISSION 11 それぞれの昨日、それぞれの明日




『只今、留守にしておりますので、ピーッという発信音の後に、お名前、ご用件をお伝え下さい』


 無機質な機械音が、公衆電話の受話器を通して俺の耳に届く。


「もしもし俺だ、ブラックだ」


 角が曲がった名刺を見ながらブルーに連絡をしてみたが、生憎の留守で本人には伝わらなかった。


「あの話なんだけどな……わかってる。いい話だってのはわかってるんだ」


 ――思い出す。


 ヒーローとして活躍していた自分の姿を。

 仲間と共に闘った、あの日々を。


 輝いていた。

 今よりもずっと。


 笑っていた。

 過去よりも、ずっと。


「だけど」


 輝いている。

 今よりもずっと。


 笑えるだろう。

 過去よりも、ずっと。


「だから、さ」


 俺の夢は、俺が追いかけてきた夢は、まだここにあるから。


 胸の中に。

 心の中に。


「やっぱり俺は、レッドになりたいんだ。ブラックじゃなくてさ」


 俺は、笑う。

 俺が馬鹿だからだ。


 楽な生き方を捨て、みっともなく夢を追いかける道を選ぶ俺が。

 だけど、後悔はない。

 自分が決めた生き方だから。


「じゃあな光。また酒でも奢ってくれ」


 色ではなく、名前で呼ぶ。もう俺達に色は必要ない。


 俺は、俺だから。

 ただ、それだけだ。






 休日の街は、人で賑わっていた。ふざけ合い笑いながら進む学生達、寄り添いながらゆっくりと歩く恋人たち。先走る子供を諌め横になって進む家族。


 俺は違う。今、一人だ。


 相変わらずのジャージで、一人信号が青になるのを待っている。

 そもそもなぜこんな事になっているか。それは紛れもなく俺のせいだった。


 まずいけなかったのは、起床時間だ。疲れが溜まっていたのか、それとも単に寝起きが悪かっただけなのか、とにかく気がついて時計を見ると、昼の一時だった。


 諦める事は肝心だ。それに今日は、日曜日だ。そんな日ぐらい休みを貰ってもいいだろう。もっともさゆりさんに許可は取ってはいないが。


 ブルー……光から受け取った資金には、まだ余裕がある。だから、たまにはどこかへ遊びに行くのもいいだろう。


「しかし……」


 信号が青になり、堰き止められていた水が流れ出すように人が歩き出す。俺はその場に立ち止り、手で日差しを遮りながら太陽を見ていた。


 一人でどこかへ遊びに行くというのは、案外暇な物だった。それに美術館や映画館のような一人で時間を潰せるような場所は人で埋め尽くされていた。


 肩がぶつかり、信号が点滅している事に気づく。走れば間に合うような時間だったが、俺は諦めてその場に立っていた。目の前を、子供達が走っていく。元気なことだ。そう思いながら、彼らを見ていた。


 どこからか、トラックのクラクション音が聞こえる。

 急ブレーキのせいで、タイヤ痕がアスファルトに塗りつけられていく。

 少し遅れて、誰かの悲鳴が耳に届く。


 危ない。

 でも、もう遅い。


 片側二車線の道路を挟んだ向こう側で置きかけている事故には、どんなに走っても間に合わない。


 わかっている。

 間に合わない事は、もう。


 だからどうした?

 それが何だ?


 地面を強く蹴って、走りだす。

 トラックが目の前に迫る。


 遅い。俺の動きが、気がつくのが。

 手を、伸ばす。

 届かない。子供の手に。


 目の前に、子供を抱えた男性が飛び込んでくる。




 俺はその場に立ち尽くして、何もできなかった。

 間一髪、トラックが俺達の目の前を通り過ぎる。運転手は止まろうともせず、そのまま車の流れに紛れて言った。


「大丈夫かい?」


 子供を抱えた男が、優しい声で尋ねる。


「……ハイ」


 期待と尊敬の籠った眼差しをその男に向け、子供は小さく頷いた。


「あ、レッドだ!」


 一人の子供が、その男の名前を呼ぶ。


「本当だ、レッドだ!」


 彼の周りには、いつの間にか人だかりができていた。

 居場所はない。そう感じる。

 俺はレッドとは目線を合わさず、逃げるように交差点を後にした。


 居場所はない。


 歩く速度が速くなる。気がつけば走っている。

 誰も俺を振り返らない。気付かない。

 逃げる。


 ただ、自分の家に向かって。




 カーテンを閉め、布団にもぐる。何もしたくはない。やる気になんてならない。

 俺に、居場所なんて無いのだから。

 この世界はもう俺を必要となんてしてないから。


 価値がない。

 どれだけ努力したとしても、どれだけ夢を思っても。


 価値はない。

 この自分に、その努力に。結果が無ければ、誰も認めてはくれない。


 自分は自分で、他人は他人だ。

 それは、わかっている。

 だけど、この広い世界で自分の場所がどこにも無いのは、ただ辛いだけだった。






 部屋の呼び鈴が鳴る。

 布団から出る気はない。嫌だ。動きたくない。

 寝がえりを打ち、はだけかけていた布団を頭からかぶり直す。


 寒い。肩が震える。

 嫌だ。人に会いたくない。


 顔を見られたくない。会話をしたくない。ふざけ合うのも笑い合うのも、今の俺には苦痛でしかない。


 このまま一日が終わればいい。このまま、一生が終わればいい。

部屋の呼び鈴が鳴り続ける。

 聞こえない。

 聞きたくない。


「紅一さーん! いないんですかー!?」


 さゆりさんの間の抜けた声が聞こえる。部屋のドアを叩き続ける音がする。


 あの人は、馬鹿だ。


 俺のことなんて気にしなければいいのに。

 こんな所になんて、こなくてもいいのに。

 覚悟を決め、布団から起き上がる。体の震えは少しだけ消えていた。


「おはようございま……」


 ドアを開けると、さゆりさんが目を丸くして俺を見る。

 不思議に思った俺は自分の体に目をやる。そして気付いた。自分が今、パンツ一枚しか身につけてない事に。


「悪い、すぐ着替えるからそこで待ってて」

「助かります」


 行儀よく頭を下げるさゆりさんをその場に残し、部屋の隅へ適当な衣服を探しに行った。


「もうお昼過ぎてますよ? 電話番号も知らないですし、心配になっちゃって」


 さゆりさんの声が、扉越しに聞こえてくる。


「電話、持ってないんだ」


 彼女の言葉に、俺はそっけなく答えた。


「携帯もですか?」

「ああ、必要ないから」


 電話なんて、親しい人とセールスマンの無駄話に付き合うための物だ。友人なんていなくて、セールスマンに払う金は一円も持ち合わせていない俺には必要ない。その上、持っているだけで金を取られるなんて、ろくな物じゃない。


「ごめん、待たせた」


 着替えを終えた俺は、財布と家の鍵だけをポケットに突っ込み、玄関まで早歩きで向かった。


「本当ですよ。……体、どこか調子悪いんですか? 顔色良くないですよ」

「これは生まれつきだよ」


 口元を緩めながら、さゆりさんに言ってみる。上手く笑えた自信はない。


「だったら、今日のお仕事手伝えますよね」


 腰に両手をあて、威張るような仕草でさゆりさんが言う。


「多分、ね」


 スニーカーを履きながら、俺は小さく頷いた。






「そこをそうして……そうそう、良い感じです」


 さゆりさんの指示に従って、うだつの上がらない高校生の髪の毛の色を、真っ黒なインクで塗りつぶしていく。所々インクが重なり合いムラだらけになってしまったが、何とか枠の中に納める事が出来た。


「初めて来た時より大分上手くなりましたね。ようやくお給料を払ってあげてもいいかな、ってレベルです」


 原稿を光に透かしながら、さゆりさんは微笑みながら総評を下した。主人公の前髪に面相筆の筆先を置いてから、もう十五分が経過していた。絵なんてつまらないものだと思っていたが、やり始めると案外時間が経つのを忘れる物だ。


「これでようやくか……先は長いな」


 それでも、何とか彼女のお許しは得られたようだ。


「大丈夫ですよ。印刷したらバレませんから」


 小さく舌を出し、さゆりさんが笑う。悪戯好きの子供みたいで可愛らしかった。


「あぁそうかい」


 赤くなりそうな頬を欠伸で伸ばし、何とか誤魔化す。


「少し休みましょうか。紅茶でも淹れますね」


 スリッパとフローリングが触れ合う、パタパタという漫画みたいな擬音を立てながらさゆりさんが台所へ歩いて行く。


「たまには緑茶が良いかな」


 その背中に、一つだけ注文を付け加える。


「全く、誰の家だと思ってるんですか」


 口では辛辣な事を言いながらも、さゆりさんの声は笑っていた。


「そういえばミアとかアキラは?」


 部屋の中を見回してみても、さゆりさんが台所でお茶の準備をしているだけだった。いつも喧しいミアも、正直いない方が有り難いアキラも見つからなかった。


「アキラちゃんはまだ学生ですからね。大学院の研究で忙しいみたいですよ。ミアちゃんは……新しい味のスナック菓子が買ってくるって言って、それっきりです」

「あいつらしいな」


 子供だな、と俺は思った。

 どうやらあいつが大人になって、ピルクル……なんとか星に帰るのはまだまだ先になりそうだ。


「うーん、クッキーならありますけど、緑茶には合いませんよね」


 戸棚の扉を開け、さゆりさんがお菓子の備蓄を確認する。やたらと美味いケーキも、行列のできる店のシュークリームも、今日は無いみたいだ。


「お茶だけでいいよ」


 いつもが豪華すぎるのかと思い直した俺は、ソファーに移動しお茶請けを断る。


「そうですか?」


 首をかしげて、不思議そうにさゆりさんが尋ねる。きっと彼女の頭の中では、お菓子とお茶は一つのセットなのだろう。


「十分だよ」


 それから、二人の会話は無くなった。

 時計の秒針が動く音や、ヤカンの蓋を持ち上げようとする蒸気の音。


 不安にはならない。彼女の鼻歌が聞こえるから。

 ガスコンロのスイッチを切る音。沸騰したお湯が急須に注がれる音。


 誰かがいる。彼女がいる。


 鳴りやまない生活音が、そんな事を教えてくれた。


「紅一さん大分疲れがたまってるように見えますけど、何かあったんですか?」


 さゆりさんは二つの湯呑みと急須を乗せたお盆を大事そうに持って、さゆりさんが俺の正面に座る。相変わらず地味な服に身を包んだ彼女がそこにいた。


「少し、ね」


 大した事じゃない。落ち込むような事じゃない。誰かに疲れを悟られるほど、嫌な事じゃない。

 その筈、なのに。


「良かったら、お話を聞いてもいいですか?」


 緑色のお茶で満たされた湯呑みが、俺の前に差し出される。


「あぁ……」


 一口飲もうとして湯呑みに左手を伸ばす。


 熱い。


 刺さるような痛みを訴える指先を直ぐに引っ込め、指を擦り合わせ感覚を紛らわす。用心しながら、もう一度湯呑を掴む。今度は、さっきよりも上手く持てた。


「少し……少しだけ嫌な事があってさ」


 本当に、少しだけ。どこかの街で今も起きている、些細な日常の中の出来事。

誰も傷ついていない。

 あの子供の命は失われなかった。


「きっと、誰かが悪い訳じゃない。強いて言うなら、俺が悪いんだと思う」


 あれは事故だ。子供も運転手も、誰も悪くはない。

 だけど、傷ついたのは俺だけだ。

 抉られたのは俺の心だ。


「俺には何も価値がなくて、ただ生きてるだけで……そんな人間に、居場所なんてあるのかなって考え始めたら、止まらなくなって……頭の中を嫌な考えが埋め尽くしていって……そうしているうちに、何にもする気になれなくなって」


 何も無い天井を見上げて、真っ白な色を見つめる。

 模様も絵も、描かれてなんていない。


 何も、無い。


 汚れも、埃も、見当たらない。

 ただ、白い色だけが広がっている。


「俺に、生きる意味なんてあるのかな?」


 何のためにそこにいる?

 何のためにそこにある?

 あの天井に、黒い汚れがついて何になる?


 疎まれ、見下され、ただ洗い流される日を待てばいいのか。


「どこかに居場所なんてあるのかな……」


 どこに行けばいい?

 どこにいればいい?

 あの白い色に馴染めない、この俺は。


 宙を舞う埃みたいなに、風が吹けば消えるのだろうか。


 わからない。

 俺には、何一つ。


「あります」


 沈黙を守っていたさゆりさんが、俺の手を強く握った。

 冷たくて、暖かくて柔らかくて。

 彼女が今、そこにいた。


「生きてる意味は、きっとあります」


 俺の目を見据え、さゆりさんが言う。

 はっきりと、確かな言葉で。

 耳の奥に、もっと深い心の奥に、鐘の音のように響く。


「あなたの居場所はここです。ここにいても、いいんです」


 あぁ、そうか。

 俺は今ここにいて、ここにいてもいいんだ。


「……うん」


 素直な気持ちで、俺は頷く。

 嘘も見栄も惨めな気持も、今ここには必要なかった。


「今度は、私の話をしてもいいですか?」

「いいよ」


 軽くなった肩を竦ませ、俺は答える。触れ合えた手のひらはそのままに。


「私ね、自分の事が大嫌いだったんです」


 笑いながら、彼女は自分の心を開き始めた。

 それを受け止められらたらと、俺は願う。


「何をしても失敗ばかりで、人と話してもすぐに気が動転しちゃって……そうしたら、友達なんて一人もできなくて」


 彼女が自分の失敗も暗い過去も、全部ここにある笑顔で塗りつぶしていく。

 強い人だった。見た目よりもずっと、誰よりもきっと。


「そんな時両親に、カサブランカに……悪の女幹部にならないか、って言われたんです。最初はもちろん嫌だったんですよ? 変な服は着なきゃならないですし、お芝居みたいな台詞も自分が喋るって考えるだけで寒気がして。……だけど、自分が一生変われない事の方がもっともっと嫌で」


 語られる過去は続いていく。

 辛い昨日を教えてくれる彼女の顔に、後悔も翳りもない。


「バッチリお化粧をして、下着みたいな服を着て、ビルの上に立ったら、自然と高笑いができて。気がついたら、いつもの私はどこかへ消えていました」


彼女は笑う。


「引っ込み思案な性格は、そりゃまぁ変わらないですけど。前よりももっと自分の事を知ったら、何だか、自分の事が好きになれました。明日はきっと、今日よりもいい日だろうなって思えたんです」


 笑えるんだ。

 どんな昨日を抱えていても、どんな明日を描いていても。


「恥ずかしがり屋なのは変わらないんですよ?」

「そうなんだ」


 指先からは、もう彼女の温もりはわからなくなっていた。どこからかが俺の手で、どこからか彼女の手のひらなのかはもうわからない。


ただ、混じり合った体温だけが心地よかった。


「だからその……紅一さんにこうしてるのも、結構恥ずかしかったり……」

「わ、悪い!」


 耳を真っ赤にした彼女に言われて初めて、俺は自分が間抜けだった事に気づいた。慌てて手を引っ込めて、彼女に謝る。


「紅一、さん……」


 そんな俺の言葉は聞こえなかったのか、彼女は目を瞑り、顔を近づけてきた。

 突き出された唇の意味ぐらい、俺は知っていた。




 ――少し、迷う。



 いいのかな、なんて幼稚園児みたいな疑問が湧き上がる。

 いいんだな、なんて小学生みたいな結論が下される。


 彼女の頬に、手を伸ばす。

 壊さないようそっと、傷つけないよう優しく。

 指先が触れ、彼女の肩が少し震える。

 親指の腹で少し撫でつけると、彼女の強張っていた表情が柔らかくなる。


 それでようやく、俺の心の準備が整う。


 出来の悪い映画みたいだ、と鼻で笑いながらも、俺は彼女に顔を近づけた。


「ただいまーっ! 激甘ポテトチップスって美味しいのかなーっ!?」


 突然聞こえた、選挙カーみたいにうるさい声。吹き飛ばされたんじゃないのかってぐらい、うるさい扉の音。


 触れ合う事は、無かった。


 焦る。


 心臓の鼓動が何倍にも増していく。

 俺達はあたふたとして、結果として変にもつれあい硬直してしまった。


「どうしたの? 二人して変なポーズして」


 ミアの言葉で我に返った俺達は、急いで離れ合いその場に直立した。


「あ、あれですよね! 紅一さんもそろそろ電話が無いと不便ですよね!」

「そ、そうだな! いやーまいったまいった」


 小芝居みたいな台詞を棒読みしながら、俺達は何とかその場を乗り切ろうとした。


「変なの……あ、もしかして」


 何かに気づいたのか、というかこれで気付かない方が鈍すぎるだろうが、ミアが口元を緩めニヤニヤと笑い始めた。


「ミアちゃん、お邪魔だったのかな? かな?」


 首をわざとらしく傾げ、俺とさゆりさんの顔を交互に見る。ミアちゃん、なんて一人称からも止めどない悪意が感じられる。


「ほら紅一さん、折角ミアちゃんが帰ってきたんだから、お留守番頼んで電話を契約しに行きましょう! ほら、早く早く!」


 俺の手を掴み、さゆりさんが玄関へ向かってずんずんと歩き出す。


「うおっ?」


 いきなりの事で驚いた俺の口からは間抜けな声が漏れる。


「おやおや? お二人してデートですか?」


 ミアのニヤついた顔はますますひどくなる一方だ。


「違うもん!」


 さゆりさんがミアの言葉を大声で否定する。

 違うのかと思うと、俺の気分は少しだけ沈んだ。





「さゆりさん、まだ機嫌悪いの?」


 携帯電話ショップを出た俺達は帰路についていた。二人の行き先が分かれるまで、まだ時間はある。

 できるなら、もう少し明るい話題を振りたいのだが、さゆりさんは俯いてブツブツとつぶやき続けている。そもそもの原因は店員にあるのだが、今の俺にはどうしようもない。


「悪くありません。すっごく気分が良いです。ええ、それはもう行列のできるラーメン屋さんがたまたま空いていた時ぐらい」


 訳のわからない例えで文句を口にする。


「でもまあ、お姉さんか」


 店に入った俺達を見て、女性の店員はまず真っ先に『今日は、弟さんのお電話のご契約ですか?』と聞かれて以来、彼女の機嫌は悪いままだ。

 俺がジャージを着ていたのが原因なのか、単にさゆりさんが大人っぽく見られただけなのかはよくわからない。


「おかしいですよね!? 男女で間違えるならもっと他にもいっぱいあるじゃないですか」

「たとえば?」

「それは……恋人とか、夫婦とか」


 まあ、普通ならそれが妥当ではあるだろう。どうして俺達が姉と弟に間違われたのは、永久にあの店員にしかわからないだろう。


「そっちの方が良かった?」

「少なくとも、お姉さんよりは」


 さゆりさんが大きな溜め息をつく。どうやら余程傷ついているようだ。


「紅一さんって、見た目より年上に見られません?」

「そうだけど」

「ってことは、私は老け顔の紅一さんよりも年上に見られたってことですよね」

「まあ、さゆりさんがそれだけ雰囲気が大人っぽいって事だよ」


 俺は両手を広げて、さゆりさんをフォローしてみる。


「それって良いことなんですか?」

「人によっては」


 訝しそうにさゆりさんが俺を見る。その問いかけには曖昧に答えることしかできなかった。


「それで、明日は何時ぐらいに行けばいい?」


 分かれ道が近くなる。彼女との別れが惜しくなる。


「えーっと……明日はお休みです」


 思い出したように、彼女が言う。その表情が少しだけ暗い。


「そうなの?」

「ええ、明日はちょっと」


 疲れているようにさえ見える。彼女にも色々な事情があるのだろう。


「そっか。昼まで寝てるよ」


 その事を、深く追及したりしない。お互いの事を探り合うほどの仲じゃない。


「あの……」

「何?」


 彼女の呼び止めに、俺は立ち止まる。横にならんだ彼女も歩を止める。

 彼女が俺の目を見て、すぐに逸らす。

 何度も口を動かすが、言葉は出てこない。


「やっぱりいいです。気をつけて帰って下さいね」


 首を傾げ、明るい声で彼女が言う。


「全く、俺は子供じゃないんだから」


 そう言い残し、俺は一人自宅まで歩いて行った。

 一人で進むその道は、いつもより長く感じられた。

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