第1話 逃走と密会
今日は満月の夜。
だが、そのまんまると太った姿を拝むことはできない。
なぜなら、空を分厚い雲が覆い隠して、月光を遮ってしまっているからだ。
この周辺一帯では年に1回あるかないか分からないほど珍しい空模様だった。
夜、特に月が空高く上っているであろう深夜の時間帯には、起きている人間はこの街にはまずいない。
なぜかというと、よく晴れた快晴の日でも常に気温が低いこの街では、夜中になると気温が氷点下を軽く下回ってしまうのだ。
そのため夜間外に出ると、普通の綿や布の服だけでなく、羊毛を惜しげもなく使って作られ、防寒機能に優れた厚手の服を着ていたとしても次の日には凍死体として発見されるであろう運命をたどってしまう。
また、極寒のこの街において薪や炭は日常的に大量に使う消耗品である。
確かに家の中は暖房の魔法具で常に温かい気温を保っているが、それで火を使わないことにはならない。
あくまで、魔法具は設定された気温以下にならないようにする効果だけだ。
生活をするためには火が必要不可欠なのだ。
また、光源である松明や蝋燭は貴重品である。だからその消費を抑えなければいけないため夜遅くまで起きていても、いいことはほとんどないに等しいのだ。
結果として、明かり一つ漏れず、物音一つ立っていない暗闇に閉ざされた街はまるで静かな寂しさの漂う廃墟のようだった。
しかし、その物静かな光の無い闇の中を走る足音がどこからか聞こえてきた。
一つは鎧でも着ているのか金属同士がこすれあうガチャガチャとした足音。
もう一つはタッタッタッという丈夫な革靴が奏でる軽やかな足音だった。
だが、なぜかそれらの足音はこの静けさの中で耳を澄ましてようやく聞き取れる程度の大きさだった。
「こっちです」
周りが何も見えない漆黒の世界で、こっちに来てくださいという意味の簡略化された自分を呼ぶ声が聞こえてくる。
視覚が働かない暗闇の中だが、私は迷うことなく声のしたほうへと歩いて向かう。
暗闇の中、音を頼りに歩く練習の成果だ。
父様に最初、自分の身を守るためだからと理由も教えられずに練習させられた時は一体何の役に立つのかと思ったけれど、今役立ってくれているから無駄ではなかったようだ。
「(そういえば、まだ父様の口からちゃんとした理由を教えてもらっていなかったは………)」
父様は私が聞いてもはぐらかしてばかりでまともな理由を教えてくれたことがなかった。
まあ、幼かったあのころとは違って私も成長したので何となく理由は分かるが………。
「あと20歩、歩いたら止まってください」
………彼から次の指示がきたので私は大体20歩のところで歩くのをやめ、その場で止まる。
その横では魔法で抑制された鎧の金属同士がこすれあうがちゃガチャとした音がかすかに聞こえてきた。
彼の装備している鎧の音だ。
年がたつにつれ音も微妙に変わっているのだが、少しでも耳障りな音を失くそうと努力している、彼が私と会っているときの常日頃の音なので簡単に他人か彼か判別できるようになってしまった。
状況は見えないのでよく分からないが、察するにここは曲がり角か何かで、彼はこの先に何かあるか、または何かいるかどうかを調べているのだろう。
相変わらず桁外れに良い目だと感心すると同時に少々呆れてしまう。
確かに、視力をよくする魔法は存在するし、実際に彼にはその魔法を使っている。
だが、視力をよくしたところで目の前の自分の手の平すら見えない程、光が存在していない状況でははっきりいって無意味である。
ただし、それが常人だったらの話だ。
強化系の魔法は元となる人物の能力に完全依存する。
例えば、筋力を単純に2倍にする魔法があったとして、筋力を数値化したときに50と100の二人の人間がいたとする。
この二人にその強化魔法を使うと、数値化した筋力は100と200になる。
確かにどちらも2倍ではあるが、その差は明確である。
最初は50だった差が魔法の使用後では100に増えている。
現実的には等しく同じように強化魔法をかけることはできないが、元となる能力が高ければ高いほどより大きな恩恵を得られるという点は変わらない。
その点でいえば、彼は常人離れしている。
彼は、数年前に近隣で魔物が大量に発生した時に物見櫓に務めている兵士たちよりも先に、この街に迫りくる魔物の軍勢を見つけるほど目が良いので、一時的にだがこの暗闇の中でも問題なく動けるほどのレベルに達している。
現在、私は視力を良くし、簡単な暗視効果も付けることのできる『光属性』の下級魔法【光集・通常】を彼に使っている。
『光属性』の中でも最も簡単な基礎的な魔法だ。だが、簡単とはいっても『光』は他の10属性よりも上位とされている2属性の一つでもあるため、今の私ではこの程度しか使うことはできない。
暗闇の中、先行する彼は周囲を念のために確かめて、視界を確保できない私がそのあとを付いていく。
魔法の効果範囲があるので、私たちは、離れすぎないように一定の距離を保ちながら行動していた。
「問題ないみたいです。このまま、門の前まで移動します」
「分かりました」
この先には何もないと判断した彼が私に再び指示を送る。
私は当然了承する。
そのまま何事もなく私たちは門の手前までたどり着いた。
予想はできていたが、あまりにも私の都合がいい展開に笑ってしまいそうだ。
私はゼイゼイと乱れた呼吸を整える。
本当ならば、白い靄ができた後に細かな氷の結晶に変わるか、肺が凍りついてしまうのだが、私の『火属性』と『風属性』の中級複合魔法【熱制御領域・通常】によって適温に温度調整された空間の中ではそれらの現象が起こることはなかった。
下級とはいえ一部の天才しか使用することのできず、絶対的な魔法の練習量が足りない上に私にはまだ早い『光属性魔法』と中級の『複合魔法』を複数同時に制御しなくてはならない。
その他に、私たちが動いたときに音が立たないようにと使った『風属性』の上級魔法【音抑制領域・通常】を含めた3つの魔法が容赦なく私の残り魔力を喰らっていく。
詠唱者にとってはお馴染になる、身体を削られるような感覚が今はやけに辛い。
『風属性』は私が2番目に得意な属性の魔法で、私の一番得意な属性とも相性がいいため練習時間が他の属性と比べて比較的に長い属性だ。
そのため、魔力の使用量は少なくなっているはずだがやはり上級魔法ともなると消費が激しい。
このままでは大変では済まないような事態に陥ってしまう。
実際、気を抜いたら意識が遠のきそうだ。
だが、私はつらい苦しいといった表情を決して顔には出さないし、もちろん声にもしない。
それよりも先に体力が尽きて倒れてしまいそうだが、それも魔力消費の苦しさと一緒に気力でねじ伏せる。
本当は唇を歯で噛んで、痛みを与えておきたかったがそれをすると彼に確実にばれるので止めておいた。
そんなところを見せたり、聞かせたりすれば彼はすぐさま私を帰らせようとするだろう。そして、その後自分を責めて自ら重い罰を受けようとするだろう。
元々私がこれをやると言い出し、無理矢理押し通したのだ。そんなことを彼にさせるわけにはいかない。
その間にも彼は誰かが来ないか何か怪しいものがないか周りを見張っている。
彼の顔が普段とは違ってどことなく影になっているのは気のせいではないだろう。
大恩のある父様を裏切るような行為。
私の我が儘だから私は当然だと思っているのだが、それを実行するのに私一人が魔法を使い負担が大きい負い目と自分の不甲斐なさへの苛立ち。
などの負の感情が彼を苦しめているのは間違いない。
だが、私が巻き込んだのだから、心を鬼にしてあえてそのことは考えないようにする。
そろそろこの街とお別れだった。
生まれてから今まで過ごしてきた故郷。
そこを離れるということに、覚悟はしていたが悲しさを覚え、もう戻ってこれないかもしれないと考えると、胸がちくりと痛んだ。
私たちは今夜家出をするのだ。
私は彼を連れてこの街を出ていくことにした。
この計画を彼に話し、無理矢理賛同させようとしたときにはかなり渋い顔をされたが、私が諦めずに何度も同じことをするので最終的には彼のほうが折れてくれた。
私は外が見たかった。
旅をしたかった。
知らないものを見て、聞いて、触って、嗅いで、味わいたかった。
生まれつき身体が脆弱だった私はずっと家に療養という名目で閉じ込められていた。
移動は体力を使わないように車椅子での移動がほとんどだった。
私には様々なレッスンや面会などのやるべきことはたくさんあったがほとんど同じように繰り返されるだけの退屈な毎日にはうんざりしていたのだ。
唯一楽しい魔法の練習も体調のせいであまり時間をとることができない。
だが、私の家族は私が外出することを望まないどころか、無理矢理にでも外に出ることを禁止しようとするだろう。
悪意ではなく心からの善意で言っていることが分かり切っていたため断りづらい。
今までよくしてもらってきた家族の顔が不安に歪むのは見たくなかった。
だから私は一応自分の机の上に別れの手紙を置いておいたが、無断で出てきてしまった。
この先どうなるかなんて正直見当もつかないし、今まで閉じこもっていたのでどこか行く当てがあるわけでもない。
だけど、とにかく外に出るしかないのだ。
漠然とそう思った私は行動に移した。
門は、魔物の侵入を防ぐたまにこの街を囲んでいる高い外壁の一部であってそれを超えるのは難しい。
『風属性』魔法の中にある飛行魔法は今の私の状態では使えない。
かといって、今かけている魔法をすべて解除するわけにもいかない。
それに、この街の上空は対空専用の魔法が常時かけられているから、飛んでいったとしてもすぐに撃ち落とされてしまう。
また、無理矢理門を開けると大きな音が立ってしまい、私たちが勝手に外に出ていくことがばれてしまう。
そのため、あらかじめ彼がこっそりと用意しておいた抜け道を使う。
複数の魔法行使で魔力が、ここまでくる間に元々少なかった体力がほとんど尽きてしまった。
それらによって全身に鉛でも括り付けられたかのような倦怠感が襲ってきている。
だが、なけなしの気力を振り絞ってどうにかすることができた。
まさか、引きこもり暮らしだった自分がこれほど頑張れることが不思議だった。だが、今はその理由を深くは考えない。
ただ、私も中々頑張れるんだなと思った。
門の一歩手前から左に歩くこと30歩。そこにあるいくつか植えてある広葉樹のうち妙に曲がりくねった木が一本だけある。その木の根元の辺りが抜け道の目印となっている。
もちろん私は見えないので彼に代わりに捜してもらう。
見つけた抜け道を通り外壁の外に出ても相変わらず真っ暗だった。
だが、数歩歩いてふと後ろ振り返ってみるとなぜだか、外に出た!という気分になった。
そして数歩後、安堵から張り詰めていた気力の糸がプツリと切れる音が聞こえた気がした。
彼が叫びながら、焦ってこちらに寄ってくる所が視界に映る。
まだ、【音抑制領域】の効果が残っているから大丈夫だと思うけど、叫んだら誰かが気が付いちゃうよ。
そんなことを実際に口走ったのか、考えていただけなのかは覚えていないが私の意識はそこで暗転した。
メイドである、リン=ホールンの朝は早い。
太陽の日の出とともに起きて、何時でも部屋を温かくしてくれている魔法具に感謝しながら再び襲いくる眠気に抗えず二度寝しようとして、今度は彼女専用に貰ってしまった目覚ましの魔法具に起こされる。
わたわたしながら今度は目覚ましの魔法具に感謝する。
そして、今度は寝ないぞと部屋にある水瓶からある程度の水をくんで顔を洗う。
その後、いつも通りもう時間だ!と慌てながら給使用の服に着替え、部屋を飛び出した。
彼女たちメイドであったり執事が住み込みで働く、この城は当然ながら広い。
そうすると、必然的に管理が大変になってくる。なので、一日の大半は城の掃除をしなくてはいけない。
それでも、労働環境としてはいい方なのだ。
この街は、かつてこの国を建国した人物の一人が作ったとされる超巨大魔法具【魔峰マッター】がある影響で年がら年中気温が一桁か、零度以下である。
そんな極寒の外で働くことは下手すると命の危険性がある。
だが、建物の中は魔法具で常に温度調整されて温かいのだ。
もちろん、この城も例外ではなく、常に温度管理されている。
給金も生活に不便しないくらい高いし、温かい建物内で働けるのだからこんなに良い労働環境は滅多にない。
更には………
そこまでリンが考えていた時、彼女の嗅覚をいい匂いがくすぐる。
そこは食堂だった。
この城に働く人たちが食事をするための場所だ。
ここは朝早くから夜遅くまで、開いて食事を提供している。
それはもちろん、給使の人たちのためだ。
一日の大半を働くということは、普通の食事時には物を食べることはできないということ。
勤務中に食事はあり得ない。
なので、大体いつ来てもここには何人か人がいる。
彼女は早速、列を作っている人たちの後ろに並んで今日の朝食を受け取る。
食事は日にちごとに決められている。
これは、決められた食事を大量に作った方が費用が安くなるからである。
だが、リンは涎が思わず出そうになってしまった。
この食堂で料理を作っているのは王家仕えの料理人である。
料理に人一倍こだわりのある彼らは一癖も二癖もある変わり者ぞろいだが、使用人相手の料理で大量生産とはいえ絶対に妥協しない。
「誰にどんな料理を出すのかは俺の勝手だが、不味いとは絶対に言わせない」
この城に務める料理長はこんな言葉を信念にしているし、他の料理人たちもそんな料理長の信念に尊敬している。
だから、この城での料理はとにかくおいしい。
料理を十分に堪能したリンは、今日も彼女の仕事をしに行く。
リンの仕事は、体の弱い第2王女アニス=モンクレイトの身の回りの世話をすること。
リンの母は今もこの城に仕えていて、その関係で彼女は幼いころからアニスとは知り合いだった。
今では、親友同然で身分の立場はあるけれど楽しく会話をしている。
最近では、外に出てみたいと言っていたから、どうにかしてあげたいなあと思うのだが彼女にはいい案が思いつかなかった。
今日も、掃除や洗濯を頑張ってアニス様と楽しく会話しようなどと考えながら、アニス用の食事を食堂で受け取って城の4階部分にある、アニスの寝室まで移動する。
扉をノックするが返事はない。
これはいつものことだ。
アニスは身体が弱いせいかは分からないが、朝起きるのが遅い。
だから、いつもリンが朝アニスを起こしているのが現状だ。
だから、彼女は一旦食事を置き、躊躇なく部屋の扉を開けた。
そして、次の瞬間には寒さで身を震わせた。
通路と寝室の間には十度以上の気温差があった。
何故?と考えてみると、魔法具は停止し窓が開いていた。
「アニス様っ!」
慌てて駆け寄ってみるとベッドに寝た形跡はなく、リンが恐れたアニスの凍死はなさそうだった。
だが、アニスは当然この部屋にはいない。
つい最近聞いたことを思い出し、リンはアニスが外に言ってしまったと考えた。
それを理解した瞬間、思考がパニックに陥って、
「大変です、大変です」
と叫びながら、王が寝ている部屋まで走っていった。
「そうか、そうか。ついにあの子がが自分の意志で動いてくれたか」
「しかも、幼馴染で騎士団長であるアサツキ君を巻き込んで出ていくなんて、駆け落ちかしら。ふふ、あの子も隅におけないわね、あなた」
「はっはっは。そうだな。折角だし、今日は祝宴でも開くかな」
「………あのー、王様、お妃様、アニス様を放っておいていいのでしょうか?」
「ああ、別にいいと思うよ。アニスはいつも私たちの言うことを聞いてばかりだったし、このまま政略結婚なんてかわいそうだしね。アサツキ君は私も幼いころから知っていて性格も熟知しているから、アニスと結婚するならそれはそれでいいんじゃないかな。下手な貴族の息子よりも娘を大事にしてくれると思うからぴったりなんじゃないかな?」
「あの、そういうことじゃなくてアニス様は御身体が弱いのですよ。大変じゃないですか?」
「ああ、それは心配いらないよ。アニスは単純に体力がないだけだから旅をしていれば自然に元気になると思うよ。それにアサツキ君なら無理のない計画を立ててくれるだろうから問題ないよ」
「………そうですかって、そうじゃなくて何でお二人ともアニス様とアサツキ様が結婚することを前提に話してらっしゃるのですか!」
「いや、だってねー、君もあの二人の様子を見てればある程度はわかるでしょう」
「ふふ、二人とも鈍感でどっちも気が付いていないどころか、自分の気持ちすら分かっていない所が可愛らしいのだけど同時に焦らしいのよね」
「ああ…………」
急いで王様と王妃様に報告したのだが、二人はリンとは違って慌てていないようだ。
リンが知らせに来た時に、騎士団の副団長が騎士団長であるアサツキ=ペネッシブが行方不明だと知らせていた。
王様たちはこの件から二人が一緒に逃げたのだと判断したようだ。
王様たちから話を聞き、そういえばと思いだすと確かに傍目から見てもあの二人は仲が良かった。
リンだってもうさっさとくっついちゃえばいいのにと何度思ったかわからない。
どうやら自分は予想以上に焦って混乱していたようだ。
もう少し冷静にならなくちゃと自信を戒めて自分の仕事に戻ることにした。
アニスがいなくなってもリンには仕事がまだたくさん残っているのだから。
報告の後、アニスの部屋に戻ったリンは机の上に手紙を発見する。
そこには、2枚の便箋が入っていて、1枚は家族あて、もう一枚はリンに当てたものだった。
家族にあてた手紙をもう一度王様に会って渡した後、リンは部屋に戻って手紙を読んだ、
自身宛の手紙には、リンへの謝罪と心配しないでほしいということが書かれていた。
リンは読み終えて1日中泣いた。
そして、はっと気が付くと冷静になろうと決めた自分への戒めも忘れて「大変です」と慌てて国王の元へと飛んでいったのはご愛敬である。
その後、王家公式の発表で虚弱だった第2王女アニスは病気により死去。
騎士団長だったアサツキは訓練中の事故で亡くなったとされた。
真実を知っているのは王家に仕える者たちだけだが、彼らは黙して話そうとはしないので王女と騎士団長の駆け落ちなどと言う噂は立つことがなく、『氷』の領土の民は美しい王女と勇敢な騎士の死を悲しんだ。
「あっ、そうだいいこと思いついた。リン君心配そうだったし、アニスとアサツキのことを追いかけていってくれない?」
「えっ?」
「いやさあ、ちょっとアニスたちが今どこにいるのかお手紙出してくれるだけでいいからさあ、ね、やってみない?」
「えっ?ちょっと王様それってどういうk………」
「そうかそうか、よかったよやってくれるんだね。そうだなあ、君のお母さんからは君が優秀な詠唱者であることは聞いているから、旅をしている司祭なんて設定はどうだい。この城にも司祭の方々は務めているから裏での根回しは任せてね」
「ええーっ!!」
こうして、リンはアニスたちを追いかけることは決定してしまった。
そこはある部屋。
膨大な部屋がある中の一室。
人が十数人は入っても全く問題ないと思われるほど大きい。とはいっても、この場所においてはそこそこ大きい程度でしかないこの部屋。
そこには、何の種類の木材で作られているのかがはっきりと判断が付かない、平民が日常的に使っている安物の木材を使っているのだろう。
そして、簡素でなおかつ長い年月が経っているのだろう所々がボロボロに傷んでいる背もたれのない丸椅子が一つ。
基礎は大理石のように白く、鋼よりも高い高度を誇る【白珠樫】でしっかりと作られ、背もたれ、肘掛け、腰掛けなどの座るときに体重をかける部分には、『柔軟芋虫』という魔物が3日の間しかその姿をとらないという蛹からしか取れない、柔軟性と物理的防御力が非常に高く独特の美しい模様を持った稀少な糸を惜しげもなく使い作られた貴重な織物を、これまた惜しげなくふんだんに使いその部分を包み込むことで、椅子に座った者の身体に負担がかかることを緩和する効果を実現している。
また、織物の端には金や白金などの貴金属で作られた金属糸で縫われた細かな刺繍が、肘掛けや背もたれの端には金箔を使い、それぞれ火を意味する文様が描かれておりまだ糸のほつれが一つも見つからないくらい新しかった。
そんな先のものとは比べ物にならないくらい、使っている木材の質、座り手に対する細かな気遣い、稀少価値、新しさなどが高くあからさまに身分が違うことを意識させる豪華絢爛な椅子が一つ。
白い大理石を掘り出して作られた大き目の円卓が一つ。
部屋の四隅には台座が設置されており、何故かはわからないがその上にはそれぞれが変わった形の香炉が置いてあった。
それらは、全てが焚いてあって、全ての香がこの匂いなのかそれぞれの匂いが混ざり合った結果なのかは分からないが、変わっているけれど不快には感じない不思議な匂いを放出している。
ジンク=メーンはこの部屋を見て驚愕すると同時に不愉快にも感じていた。
この部屋に置いてあるものは数が少ないが、そのどれもが目を見張るほどに貴重で豪華なものだ。
しかし、自分が座るのであろうぼろぼろの丸椅子が気に食わない。
自分は客人として招かれたはずで、実際にこの部屋まで連れてきてくれた執事もそのように対応していた。なのに、身分の違いをあからさまに強調しているこの部屋の雰囲気を感じて気分を害された。
確かに自分は一介の給使係にすぎず、豪華な椅子に座っている目の前の男とは天と地ほどの身分の差がある。
しかし、ジンクはだからといってこの扱いの違いは酷いのではないかと考えたのだ。
だんだんと気分が悪くなるのを感じながら、仕方なくボロボロの椅子に腰を下ろす。
そして、男に聞かれるがままに、ある時に起こった事件を自身の覚えている限り語った。
それは、ジンクの領土の第2王女と騎士団長が揃ってある日を境に行方不明になってしまったという話。
その話を男はなぜか喜んで聞いていた。
「ふむ、その話は本当のことなのかね?」
暗に嘘だった場合はただでは済まさないと圧力をかけながら、男がそう言う。
瞬間、ジンクは喉を直接押さえつけられているかのように息ができなくなったと感じた。
その圧力に完全に飲み込まれながらも、ジンクは必死に答える。
「………え、ええ、もちろん本当のことです。フライン=レ=ヴァリアンス様」
フライン=レ=ヴァリアンスと呼ばれた男はクククと黒い笑みを浮かべている。
恰好は、この国では珍しい故に権力者に好まれがちな紫の染料で染めた絹で作られた上等な上下の服。
その上に、金糸、銀糸他にも数種類の貴金属糸で所々をあしらわれた、火を連想させる赤色のマントを羽織っている。
所々に白髪が混じり始めているため、それが否応なく目立ってしまう漆黒の髪に、威厳のある厳めしい顔つき。
目は燃えるような赤で、口に立派な髭をこさえている。
身体は、鋼のように鍛えられていて、何処か戦士のように感じる。
ジンクは初めて会った時、自身の住んでいる領の王妃を何となく連想してしまったが、今ではそれは気のせいだったと思っている。
そのフラインはジンクの住む国の『火』の領土の現国王だ。
「そうか、そうか、本当のことか」
フラインは満足げに頷いている。
ジンクの話が嘘だとは一切考えていないようで、微塵も疑いもせずに信じ込んだようだ。
それもそうだろう。人が錯覚で呼吸困難になってしまうほどの圧力だったのだ。
それ程の威圧感を受けて、限りなく一般人に近いジンクでは嘘をつくことなどできはしない。
それを分かっているからこそ、フラインは容易に話を信じたのだ。
「では、フライン様、報酬のほうの話なのですが、ほんのちょっとばかし増やしてくださると私的にはうれしいのですが………」
待ってましたとばかりにそう言いながら、ジンクは卑屈な笑みを浮かべ、声音と仕草を交えて『ほんのちょっと』を強調する。
そう、ジンクは情報を提供すれば金を貰えると言われてやってきたのだ。
ジンクの労働環境はとても良いといっていい。
給金は高く生活をするには十分なほどだし、少しばかり気を付けなければいけない部分があるが命がかかるものではない。
だが、やはり金持ちには憧れるもので、前金として決して悪くないと思っている自身の年給の5年分を出されたら、断ることができなかったのだ。
報酬には前金の2倍、つまり彼の年給10年分が約束されている。
しかし、それでも足りないとばかりに報酬を上乗せしてくれないかと問う。
自分があさましいことを口にしているのはわかっているが、やはり金は貰えるだけ貰った方がいいだろう。
なぜなら、これから自分が楽して人生を謳歌するのに金は多すぎて困るということはないのだから。
「ふむ、そうだな………どうやら嘘をついていないようだし、少し報酬に色目をつけるくらいはいいか」
「(やった!)」
フラインが報酬を上乗せしてくれるということなので、ジンクは心の中で歓喜して、ほくそ笑んでいた。
「では、これを持って大臣に会ってくるがいい。そうしたら報酬を渡してくれるだろう。大臣がいる場所までは部屋の外で待機している執事に連れていってもらえ」
そう言って、懐から真っ白な紙とペンを取出し、さらさらと何かを書いていく。
そして、紙の隅に王家のしるしである文様を魔法で焼き付け、それをジンクに渡す。
王家の紋章は捏造自体が死罪に問われるので、これを押してあるということはそれだけ信用ができるということだ。
ここで、ジンクは粗相がないように椅子から立ち上がり丁寧に紙を受け取った。
受け取り方が適当だったからとかの理由で報酬をふいにされたら困るという心情から咄嗟に出た対応だった。
「ありがとうございます、フライン様。では、私はここから退出させていただきます」
そう言って、ジンクはさっさと部屋から出ていこうとする。
現金なもので、ジンクの心の中には部屋に入ってきた時の不愉快さはもう残っておらず、金が手に入るという嬉しさに変わっていた。
そこには欲望にまみれた男の顔があった。
だから、浮かれているジンクは当然気が付くことなどできない。
フラインが話していた時よりも更にどす黒い笑みを浮かべていたことを。
ジンクは扉を目指して歩いていく。そして、あと数歩でたどり着くというところで意識が一瞬飛んだ。
頭がふらふらっと揺れて倒れこむ。
身体に力が入らない。
胸が苦しい。
そして、さっきフラインに圧力をかけられた時のように息ができないと悟った瞬間、頭の中の混乱はピークを迎えた。
だが、混乱している中にもしっかりと冷静に状況を分析している自分がいて、この状況の原因を確実に知っているであろう同室者、つまり、フラインに聞けという思考がよぎる。
苦しげにフラインのほうを見ると、彼は酷薄な笑みを浮かべてジンクのことっを見下ろしていた。
「ククク、何故だろう?と思っているのだろう?冥土の土産にでも聞かせてやろう。まあ、時間も残っていないことだしな」
そこで口をいったん閉じ、フラインはおもむろに部屋の一角にある香炉の一つを取ってくる。
「これが今、お前を苦しめている原因となっているものでな、名を【火毒】というんだ。流石のお前でも名前ぐらいは聞いたことがあるだろう?」
その問いにやや茫然としながらも、喋ることができないのでこくんと軽く頭を縦に動かす。
【火毒】はこの国の秘宝とされている魔法具の一つだ。
秘宝というだけあって、その形は秘匿されていてどういうものなのかは分からなかった。
だが、効果は広く知られている。
その効果は感じることのできない毒。相手に気づかれることなく、殺すことができるという恐ろしい魔法具だ。
だが、欠点も広く知られていて、魔法で火をつけないと魔法具を発動できないこと、火をつけるにはかなりの魔力を使うこと、効果範囲が広すぎることと効果の対象が無差別なので使用者自身も巻き込まれやすいなどがある。
だから、ジンクは安心していたのだ。まさか、自分が狙われるわけがないだろうと。
だが、結果としては今無様に倒れこんでいる。
「何故だ?という顔をしているな。簡単だよ。お前が信用に足る人物じゃなかったからだ。だってそうだろう?お前は元々は『氷』の領土の国民。しかも、仕事は『氷』の王族に仕える身。なのに、欲に目がくらみ自らが使える主を裏切る行為と知りながらもわしに情報提供したのだろう?そんな、本来の仕事でもないのに金で簡単に動かせるつまらない人間など信用できるか?信用できるわけがないだろう?」
ジンクはそれを朦朧とした頭で聞き、自分でもそんな人物は信用できないと納得してしまった。
ジンクが納得の表情を浮かべたのを見て、フラインはまた話し出す。
「ついでに、もう一つの理由も教えてやろう。それはお前の態度が単純に気に食わなかっただけだ。確か、お前はわしのことをフライン『様』と呼んだよな。だけど、お前は『氷』の王のことを『殿』とか『陛下』と呼んでいるんだろう。それがただ単に気に食わなかっただけだ………さて、そろそろ時間か。では、永遠にさようなら、哀れな情報提供者よ」
そんな声が耳に流れ込むのを感じながらジンクの意識はブラックアウトした。
白目をむいて、苦しそうに喉に手を当てて死んでいるジンクの死体。それを外に待機させていた執事に片付けさせた後、執事が部屋から出ていくのを確認してフラインは【火毒】を停止させた。
この魔法具は王家の中でも一部の人間にしか、正体を明かしていないので執事のいない場所で起動と停止を行わなくてはいけない。
閉鎖空間において危険極まりない気体が部屋に残ったままなので、フラインは『風属性』の下級魔法を使って部屋の中の空気を入れ替えた。
魔法具【火毒】は暗殺向きの魔法具だ。
かつてこの国を建国したといわれている人物たちが残した魔法具の一つで、何故こんなものを残したのかは分からないが空気の操作が可能なら割と便利な魔法具である。
この魔法具に魔法の火を点けて使用すると高濃度の『イッサンカタンソ』または『シーオー』と呼ばれていたらしい、普通にはあまり存在しない気体が生み出される。
この気体を吸ってしまうとさっきのジンクのようになって、あっという間に死に至ってしまう。
危険な気体の処理を終えたフラインは同じ部屋で一人暗い笑みを浮かべていた。
「(ククク、この情報は中々利用しがいがあるというものだな)」
ジンクからもたらされた情報は彼の野望を叶えるうえでは重要なものだった。
「(だが、なるべく民には知られないように気を付けなければな。どこに他の領の密偵がいるかなど分かったものではないし、調査をさせるにしてもこのことを知らせるのは信頼できる人物だけにしよう。特にあの忌々しい『氷』には知られないようにしなければ、いくら権力には無頓着とはいえこちらの動向を調べるための密偵は2,3人は確実にいるだろう。他の王ならいろいろな手段でこちら側に引き込めばよいとしても、あの身内には甘いバカ王には何を言っても聞かないだろう。だから、なるべく知られないようにしなくては………調査させるにしても少数での行動でばれないようにするとなると、数年は確実か………まあ、気長に待つとするかの)」
そう思いながらも、十数年後の未来を思い浮かべフラインは一人不気味に笑い続けているのであった。




