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引きこもり主婦のポンコツな日々  作者: 小日向冬子
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スポーツジム四方山話

 争いごとが、嫌いだ。

 なので、基本誰に対しても、愛想笑いを浮かべてへらへらしている。

 もし、ぶつかりそうな空気を感じたら、その相手は全力で避ける。


 何の申し開きもいたしません。

 わたくし、日和見主義のへたれです。

 だってそうでもしないと、このヤワな神経じゃ、とても生きて行けないんです。




 が、ごくまれに、避ける間もなく予想外の相手にぶつかってしまうことがある。




 数年前、わたしは息子の不登校に悩んでいた。


 みんなちゃんと学校に通っているのに、どうしてうちの子だけ?

 不器用で人づきあいが苦手なわたしのせい?

 わたしの努力が、愛情が足りなかったから?

 仕事も家事も子育ても、こんなにも頑張ってきたのに。


 息子を責め、自分を責めて、泣き暮らす日々。


 気づかなかったのだ。自分がしてきたのと同じだけの頑張りを、知らないうちに息子にもゴリゴリと要求していたことに。

 力を抜くことを知らないわたしの生き方こそが、彼を苦しめていたのだと悟るまでには、たくさんの涙と、眠れぬ夜と、苦痛に満ちた朝が必要だった。



 長いトンネルを抜け、やっと少しずつ前を向けるようになった頃、近所のジムに通い始めた。

 ジムと言っても、買い物帰りに30分だけ運動をというコンセプトのお手軽なものだ。もちろん来ているのは、ほぼ中年以降の主婦ばかり。が、何事も手を抜くことが苦手なわたしにとっては、ちょうどいい緩さに思えた。


 そんなある日、たまたま隣になった50代後半と思しきおばちゃんが、マシンを動かしながら話しかけてきた。

「あたしの友達ね、ここですごい頑張って、5キロも痩せたのよ!」

 メガネに付けた金色の鎖が、首の周りでしゃらしゃらと揺れている。

「ああ、そうなんですか。5キロって、すごいですね」

 とりあえずにこやかに相槌を打つわたし。その返事が不満だったのか、彼女はかすかに眉をひそめた。

「すごいですね、じゃなくって。あなたもほら、そんなんじゃダメよ。もっとスピード上げないと」

 ――ううぅ。お願いだから、そういうの、勘弁してくださいっ!

 愛想笑いを浮かべながら、心の中で呻く。

 なにぶんサーキットトレーニングなので、終了までずっと隣同士、離れることができないのだ。

「はあ。そうですねぇ。でもわたし今、あんまり頑張りすぎないようにしてるところなんで……」

 さり気なく牽制してみたが、向こうはそんなことお構いなしだ。

「何言ってるの、あなたなんかまだ若いんだから、もっと頑張らないと!」

 うわ、出た。

 やっぱりこの人、ガンバリ教だ。

「いや、でも……」

 もごもごと口ごもりつつ、腰が完全に引けてしまう。

「あなた、お子さんは?」

 きっちりひかれたローズピンクの口紅が、もはや凶器のようにすら見える。

「は、はあ、中学生の息子が1人」

 彼女はわが意を得たりとばかりに、目を輝かせてまくしたてる。

「じゃあ、なおさらよ! お母さんがいつも頑張ってる姿を見せてあげたら、子ども努力するようになるんだから。うちの息子なんか、すごい頑張っていい学校行って、いい会社入ったわよ!」


 ピッキーン。


 こらえてきた何かが、割れる音がした。


 親が作った借金のためにくたくたになるまで働き続けて挙句の果てに自分も病気になってそれでも働いて、そんな中で必死に育ててきた子どもは不登校になってますが?

 これ以上わたし、何をどう頑張ったらいいんでしょうか?


 わかってる。この人には何の悪気もないってこと。

 彼女が言っているのは一般論だし、わたしが今そんな事情を抱えているなんて、もちろん思いもよらないことだろう。

 が、それでも、正論に傷つく人がいるということに思い至らないその無神経さが、どうしても許せなかった。


 あなたはたった今、善意の笑みを浮かべながら、決して踏んではいけない地雷を土足で思い切り踏んでるんですが。


 怒りで体が震える。こんな感覚は本当に久しぶりだ。気がつくと、口から勝手に声がするすると流れ出していた。

「……わたしは今、頑張り過ぎないように必死に頑張ってるところなんです」

「え?」

 ローズピンクのおばちゃんは、何のことかわからない、と言った風にキョトンとこちらを見返している。

「そうやって正しさを押し付ける親が、子どもを苦しめるんです」

 その言葉に、おばちゃんは憮然とした顔で声を荒げた。

「はあ? どういうこと? わたし、何もおかしなこと言ってないでしょ?」


 わかってる。これ以上この人に、何を言っても無駄なんだ。

 だって――以前のわたしが、そうだった。


 胸の奥に広がる、砂漠のようなやり切れなさ。


 緊迫したにらみ合いが続く中、ちょうどマシンを2周し終えたわたしは、黙ってトレーニングの輪から外れた。

 生乾きの傷口に泥だらけの靴でズカズカと踏み込まれたような不快感を必死に振り切って、ストレッチスペースに向かう。


 間違ってない。

 頑張らなくていい。

 わたしは、これでいいんだ。


 何度も自分に言い聞かせながらも、怒りと興奮で激しく脈打つ心臓はなかなか静まらなかった。



 次の日から、そのおばちゃんと顔を会わせないよう、ジムに行く時間を大幅にずらした。以前にもまして人との関わりを避けるようになったわたしは、和気あいあいと幾つものおしゃべりの輪が咲く中で、黙々とトレーニングをし、さっさと帰途につく。



 やっぱり、争いごとは、嫌いだ。





 そんなわたしだが、そのジムで、見ているだけで元気になれる人がいる。


 おそらくわたしよりずっと若いであろうその女性。

 動作がとても遅くて、人の何倍も時間をかけてじりじりとマシンの間を移動する。

 ほとんど表情が変わらないし、声を出すこともない。

 スタッフがいつも、噛んで含めるようにアドバイスをしているのを見ると、おそらく神経系か、もしくは精神的な問題を抱えているのだろう、と思う。


 いつ頃からだろう、週に何度も彼女を見かけるようになった。そんな体では、通ってくるだけでもさぞかし大変だろうに。


 他のメンバーからしたら、明らかに異質だ。

 でも、彼女はそんなこと構わない。

 その瞳がとらえているのは、目の前だけだ。


 次のマシンに座ること

 そこでトレーニングをすること。


 そうやって、自分が背負っている重い荷物とただひたむきに戦っている姿に、わたしの心はいつしかどうしようもなく震えていた。



 おそらくわたしはこの先も、彼女と言葉を交わすことはないだろう。


 それでも確かに彼女の生きざまは、わたしの中にくっきりと刻まれ続けていくに違いない。


 ジムには、そんな出会いだってある。

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