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引きこもり主婦のポンコツな日々  作者: 小日向冬子
17/21

病は気から 前編

この秋に小日向に起こったあれこれを、ご心配ご迷惑をおかけした方々へのお詫びの気持ちとともに。

思いのほか長くなったので、初の前後編にしてみました。

 10月の終わりのことだった。

 朝目覚めると、世界がいびつになっていた。


 音がこもって聞きとれず、まるで水底にいるかのよう。

 なのに耳鳴りだけはピーピージージーやかましい。

 おまけに雲の上を歩いているみたいにふらついて気持ちが悪い。


 壁を伝って歩くわたしに、もうひとりの自分が冷やかに突っ込んだ。


 だから言わんこっちゃない、と。




 それまでの数か月、わたしはこのうえなく疲れていた。

 季節の変わり目のお約束である心身の不調。今年はちょうどその時期に、くらにゃんの病気やら息子の受験のことやら、ストレスフルな問題が相次いだ。


 一日中頭の中でいろんな思考や段取りがぐるぐると渦巻いて、上手く眠れない。

 鈍く重い頭の一部分だけが妙にハイテンションで、疲れた体を無理やりに動かし続ける。


 まずい。

 地に足がついてないこの感じ。

 このまま走り続けたら絶対転ぶとわかってるのに、止まることができない。


 案の定わたしの精神は次第にバランスがとれなくなっていった。


 くらにゃんが病気になったのも家計が赤字なのも風呂場のカビも、わたしの努力が足りないせい。もっともっと、がんばらなきゃ。あれもこれも、わたしがちゃんとやらなくちゃ。


 どんどん自分を追い詰めて、できていないことばかりを見つけてはますます萎縮し、さらに自分を責め続けてしまう負のスパイラル。


 マイナスに流れ始めた思考はもはや止められず、流れが最後に行きつく先は「消えてしまいたい」。


「なにがあったの?」と聞かれても、答えることができない。そもそもが、放っておいたら落ちていくだけのメンタルをどうにかつなぎとめて生きている人間なのだ。些細なきっかけさえあれば、あっという間に下降の一途をたどってしまう。


 とにかく、もう何も感じたり考えたりしたくなかった。


 わたしは何かに憑かれたように、自分自身を削除する代わりに「なろう」にアップしていた作品やらお気に入りユーザさんやらをザクザク非表示にしていった。


 そしてそのまま逃げるようにベッドにもぐりこんだ翌朝のこと。

 目が覚めると――左耳が聞こえなくなっていたのだ。




 断片的な知識から突発性難聴だろうとあたりをつけた。治らないことも多いと聞いていたから、あきらめモードで近所の耳鼻科に向かう。


 が、ひと通りの検査が終わり結果とカルテを見ているうちに、白髪のおじいちゃん先生の顔色がさっと変わった。


「これは……もしかしたら、聴神経腫瘍かもしれないな……いいかい? 紹介状を書くから、市立病院で詳しく調べてもらいなさい。MRIもあそこだったらちゃんと専門的な撮り方してくれるから。わかったね?」


 はい?

 今、けっこうサクッと言ってくれちゃいましたが、腫瘍って……あれですか? どんどんおっきくなって、ときには命に関わったりしちゃう、あれ?


 世界がさらに歪んだ気がした。


 そのあともおじいちゃん先生は、何度も何度もすぐ予約をとるよう念を押す。

 わたしはまるでひとごとのように淡々とうなずきながら紹介状を受け取り、会計を済ませると耳鼻科をあとにした。




 外に出ると、雨が降っていた。


 傘を広げて淡々と歩き始めたわたしを、耳鼻科の会計のおばちゃんが追いかけてきた。


「小日向さん、千円多いわよ!」


 大丈夫? ちゃんと帰れる? おばちゃんはそう言ってお札を差し出し、気遣わしげにわたしの顔をのぞきこむ。


 礼を言ってお札を受け取り、雨の中をふわふわ歩き続けた。


 わたしがいなくなったら、家族はどうなるんだろう。

 息子は大丈夫だ、いざとなったらひとりで生きていけるはず。

 問題はくらにゃんだな……。

 そういえばエンディングノートが書きかけだったっけ。

 日記とか作品とか、パソコンもどこかで処分しないとなあ。


 そんなとりとめもないことを考えながら、なんとか無事に家に帰りついたのだった。




 しばらくして気を取り直したわたしは、たった今聞いたばかりの病名をネットで検索しはじめた。


 そして思わず目を疑った。

 なぜならそこに書かれていたのは――


「聴神経腫瘍のほとんどは良性である」


 おおぉ、先生……それならそうと早く言ってください、生きた心地がしませんでした(汗)


 しかし、良性といっても大きくなると脳幹を圧迫し生命の危険が出てくるために、その場合は手術が不可避らしい。それも、繊細な場所なのでけっこうな後遺症が残る可能性があると。


 そのあたりまで調べた時に、連れ合いから電話が入った。

 結果報告のメールを送っておいたのだ。



『腫瘍っていっても、手術すれば大丈夫みたいじゃない?』


 彼もすでにいろいろ調べたらしく、何でもない口調でそう言ってのけた。だからわたしも精一杯の空元気で答える。


「うん、まあ、ほとんど良性だっていうから、別に問題ないでしょ」


 あっけらかんとした自分の声が不思議だった。

 本当はとてつもなく心細いのに。


 だって、簡単に手術っていうけど、頭骸骨に穴開けるんだよ? 万が一ってこともあるかもしれないし、成功しても聴力は戻らず後遺症が残る人もたくさんいる。今みたいに何もできない状態がずっと続くかもしれない――。



 でもそのときのわたしは、どうしてもその不安を口にすることができなかった。彼があえていつも通りの空気感で会話を続けようとしているのがわかったから。



 最後まで「大丈夫だから」と強がって電話を切ったわたしの手の中には、どうやっておさめたらたらいいかわからない心細さだけがぽかんと取り残されてしまった。

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