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引きこもり主婦のポンコツな日々  作者: 小日向冬子
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父の空手形

 今は亡き父は、大変無口な人だった。

 いつも眉間にしわをよせ、沈鬱な表情でじっと黙っている父親。

 子どもにとってはどうにも恐ろしく、そして近寄りがたい存在であった。


 そんな父が、ごくたまに酔っ払ってひどく陽気になることがあった。

 いつもとは別人のような砕けた雰囲気に、こちらもついつい笑顔になる。


 別人になった父は、大抵こう言い出す。


「今度の正月は、みんなで旅行にいくぞ!」


 時期によってはこれが「今度の夏休みは……」になる。

 とにかく、上機嫌のあまりにぶち上げてしてしまうのだ。


 自慢じゃないが、わたしは子ども時代に家族旅行をしたことがない。日帰りですら、一家そろって出かけたことがなかった。

 今思えば何日も田畑の手入れをしないわけにはいかなかったのだろうし、年老いた気難しい祖父を連れていくことも、また置いていくことも難しかったのだろう。金銭的な余裕もなかったに違いない。


 けれどそれは今だからこそ思えることで、子どものころのわたしにとっては、教室中が「うちは○○に行ってきたんだ」なんて話題で持ちきりになる新学期はとにかく辛かった。身の置き所もないまま曖昧にうなずき、惨めな気持ちでその時間をやり過ごす。

 だから、酔った父の口から旅行ということばが出ると、わたしは無条件で飛び上がらんばかりに喜んだ。


 けれどそんなわたしのようすに、母は必ず渋い顔で牽制する。


「父ちゃんは酔ってるんだから、真に受けちゃだめだよ」


 そんなことないとムキになり、わたしは父にしつこいほどに確かめた。


「ほんとだよね? ほんとに旅行行くよね? 絶対だよ、絶対約束だよ?」


 すると父はにっこり笑って必ずこう言い切るのだ。


「ああ、ほんとうだ。約束する」


 それ見たことかと、鼻の穴を膨らませながら母のほうを振り返る。


「ほんとうだって、言ってるもん。ちゃんと約束したもん!」



 けれど、いざ冬休みが近づくと父のことばはいとも簡単に翻った。


「旅行は、行かない」


 そのときの父は眉間にしわのよったいつもの気難しい顔になっていて、もうどこにも取りつく島などない。


 ――嘘つき。あんなに約束したのに!


 旅行に行けないことも悲しかったけれど、何の謝罪も説明もなく約束を破られることが悔しくて、わたしは猛烈に腹を立てた。

 けれど父は顔色を変えることなく前言を撤回することもなく、最後は結局こちらがあきらめるよりほかなくなるのだった。


 毎年のようにそんなことを繰り返しながら、それでもまだ懲りずに小学生のわたしは父と旅行の約束をした。


「ほんとだね? 今度こそほんとに行くよね?」


 何度も何度も確かめては、またあっさりと裏切られる。

 そんなことが、6年間飽きずに繰り返された。





 遠い日の約束がようやく果たされることになったのは、二十年あまりの月日が経ってからのことだった。

 そのとき母はすでに亡く、息子のハルキが生まれていた。


 以前のように野良仕事もできなくなり田畑の大半を人に貸してしまった父は、暇つぶしで新聞の懸賞にちょこちょこ応募するようになっていた。その年はお正月の一泊旅行が当たり、せっかくだからみんなで行こうと、子どもと孫全員分のチケットを手配してくれたのだ。


 海辺のリゾートホテルは快適だった。

 冷たい潮風に吹かれながら、ひとけのない砂浜をみんなでぞろぞろと散歩した。幼いハルキは海底の魚が見える遊覧船に大はしゃぎだった。

 たくさんの孫に囲まれて、終始笑顔が絶えなかった父。

 それが文字通り、最初で最後の家族旅行となった。


 その数年後に父は逝った。

 それからさらに時が経ち、幼かったハルキはもうすぐ二十歳になろうとしている。




 今年もまたお正月が近づいてくる。

 この季節の空気に促されるかのように父のことをあれこれ思い返していると、唐突にある考えが頭に浮かんできた。


 あのころ毎年のように父が「旅行に行くぞ」と空手形を切っていたのは、ひょっとしたらわたしが喜ぶ顔を見たかったからではなかろうか。


 当時のわたしたちは、お世辞にも仲のいい家族とはいえなかった。

 あの家ではいろんなものがこじれていて、みんなが笑顔になる場面などなかったに等しい。


 それでも祖父や母に対しては表立って反抗できたからまだよかった。父への感情はもっと複雑にくぐもって、わたしは長いこと自分が嫌われているのだと思い込み、どう接していいかわからないギクシャクとした関係のまま長い時間を過ごした。父を喜ばすことができない自分に、どこかで負い目を感じ続けながら。


 でも、大人のわたしはもう知っている、あのとき父が抱えていた葛藤や孤独や愛情を。そして父が、決してわたしを嫌っていたわけではないことも。


 そしてまた今だからこそわかるのだ。わたしが父との関係に静かに傷ついていたように、父もわたしが笑顔を見せないことに傷つき、淋しさをおぼえていたことが。


 小学生の娘にどう接したらいいのかわからず、一瞬でもわたしが舞い上がって満面の笑顔を見せるそのことばを言わずにはいられなかった父の気持ち。



 もしかしたらわたしたち親子は長いこと、同じ想いをこっそりと抱き続けていたのかもしれない。

 だとすれば、なんと不器用な父と娘であることか。


「まったく、バカだよね、ふたりとも」


 思わずそう呟いた視線の先では、写真立ての中の父が少し困ったような顔でうっすらと微笑んでいた。

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