壁ドンからの「お前はオレだけを見ていればいいんだ」と言われたので、殴りました。
ドンッ、と。
私の顔のすぐ横で、大きな音がした。白い石造りの壁に叩きつけられたのは、男の右手だった。
目の前にいるのは、王宮近衛騎士団に所属するアルベルト・ハインツ様。
整った顔立ちに、鍛えられた長身。艶のある金髪に青い瞳。白を基調とした近衛騎士の制服は、彼によく似合っている。令嬢たちから人気があるという話も、何度か耳にしたことがあった。
そのアルベルト様が現在、私を壁際へ追い詰めていた。なぜ。私は王女殿下のところへ戻りたいだけなのだけれど。
「アルベルト様」
「なんだ」
「退いていただけますか?」
「駄目だ」
にべもなく返される。
「なぜでしょう」
「まだ話は終わっていない」
「私は終わりました」
「リディア」
名前を呼ばれた。ずいぶん馴れ馴れしい。もっとも、この方が私を名前で呼ぶようになったのは今に始まったことではなく、何度訂正しても直していただけないので、最近は諦めていた。
「殿下がお待ちですので、失礼したいのですが」
「またそれか」
「また、と申されましても」
私は王女殿下付きの侍女なのだから、王女殿下のもとへ戻るのは当然だ。だというのに、アルベルト様は不満そうに眉を寄せた。
「お前はいつもそうだ」
「何がでしょう?」
「そうやって俺から逃げる」
「逃げておりません」
ただ仕事に戻ろうとしているだけだ。
「それに、さっきの男はなんだ」
「さっきの男?」
「とぼけるな。あの文官だ」
ようやく何のことか分かった。
「セドリック様でしょうか?」
その名前を口にした途端、アルベルト様の眉間に深い皺が刻まれた。
「……名前で呼んでいるのか」
「お名前を存じておりますので」
「俺の前で他の男の名前を呼ぶな」
どんどん理不尽になっていく。
「なぜです?」
「なぜって……」
アルベルト様が言葉に詰まった。本当に、なぜなのだろう。
私は先ほどまで、王宮の文官であるセドリック・オルブライト様と話をしていた。王女殿下から預かった書類を届け、その返事を受け取った。仕事の話が終わったあと、ほんの少し雑談をした。それだけだ。
ところが、それをどこからか見ていたらしいアルベルト様に呼び止められた。セドリック様とはどういう関係なのか、何を話していたのか、なぜ笑っていたのか。そんなことを延々と尋ねられた。最初は答えていたけれど、さすがに付き合いきれなくなったので、
「殿下がお待ちですので」
と話を切り上げた。その結果が、これである。
「とにかく」
アルベルト様が一歩近づいた。
「もう、あの男とは話すな」
「無理です」
「なぜだ」
「仕事でお会いしますので」
簡単な問答が続く。
「仕事以外では話すな」
次々と条件をつけ加えてくる。
「なぜアルベルト様に、そのようなことを決められなければならないのですか?」
「お前のためだ」
「私のため?」
嫌な予感がする。
「あいつはお前に気がある」
「そうなのですか?」
それは初耳だった。セドリック様から、そのような話をされたことは一度もない。
「やっぱり気づいてなかったのか」
アルベルト様が呆れたように息を吐いた。
「お前はそういうところが危なっかしいんだ」
「はあ」
「俺が見ていてやらないと」
意味が分からない。そもそも、なぜこの方が私を見ているのだろう。
「ご心配いただかなくても大丈夫です」
「また強がって」
「強がっておりません」
「分かってる」
嚙み合わないまま、言葉だけが続く。
「でしたら――」
「分かってるから」
何を。私の言葉を遮ったアルベルト様が、さらに身体を近づけてきた。一歩後ろへ下がると、アルベルト様も一歩進む。
「アルベルト様?」
もう一歩下がる。そして、背中が壁に触れた。
「…………」
これ以上、後ろには下がれない。アルベルト様は私の正面まで来ると、右腕を上げた。次の瞬間。
ドンッ。
私の顔の横に手をついた。なるほど、これが俗に言う壁ドンというものだろうか。エレノア殿下が以前、恋愛小説を読みながら話していた記憶がある。ただ、実際にされてみても、何がよいのかまったく分からなかった。
「アルベルト様」
「なんだ」
「近いです」
「分かってる」
距離が縮まったまま、動かない。
「では、離れていただけますか?」
「嫌だ」
顔が近づいてくる。私は反射的に顔を横へ向けた。するとアルベルト様の顔が、さらに近づいてきた。耳元に吐息が触れる。
ぞわり。嫌な感覚が首筋を這った。
そして。
「お前はオレだけを見ていればいいんだ」
低い声が耳元に落ちた。その瞬間、背筋から頭のてっぺんまで、ぞわぞわぞわっと凄まじい悪寒が走った。
――無理。
そう思ったときには、私の右拳が、アルベルト様の顔面を捉えていた。
◇
どうしてこんなことになったのか。話は三か月ほど前に遡る。
◇
「リディア。今日の予定を」
「午前中にシュタイン侯爵夫人とのお茶会、昼食後に宰相閣下から提出された書類の確認、午後三時から庭園にてサンドラ公爵令嬢と歓談の予定です」
「警備は?」
「お茶会には近衛が二名。庭園には四名配置されます。西側回廊の担当が昨日から変更されておりますが、確認済みです」
いつもの朝の確認事項だった。
「そう」
鏡の前に座るエレノア王女殿下の髪を整えながら、私は答えた。鏡越しに、殿下と目が合う。
「何か気になることは?」
「現在のところは」
「なら任せるわ」
「承知いたしました」
私は王女殿下の髪を結い上げ、最後に小さな髪飾りを挿した。
「できました」
「ありがとう」
エレノア殿下が立ち上がる。私は一歩下がり、ドレスの裾を確認した。これが私の日常だ。
私の名前はリディア。表向きはエレノア王女殿下付きの侍女である。そして、それは別に嘘ではない。
朝は殿下を起こし、髪を整え、衣装を用意し、食事に付き添う。必要ならばお茶も淹れる。他の侍女と同じ仕事は一通りこなしていた。
ただし、私にはもう一つ仕事がある。王女殿下の護衛、それが私の本来の役目だった。正式には王家直属の護衛騎士で、女性であることを利用し、通常の男性騎士では付き添えない場所でも殿下を守る。
だから私が騎士であることは、ごく一部の人間にしか知らされていない。近衛騎士の全員が知っているわけでもなかった。
「リディア」
「はい」
「剣は?」
「いつもの場所に」
侍女服の下、外からは見えない位置に、細身の剣と短剣を隠している。
「あなたって、本当に何でも入っているわね」
「私のスカートを物入れのように仰らないでください」
「あら、違うの?」
「違います」
エレノア殿下が笑った。私も小さく笑う。主君と侍女、主君と護衛騎士。どちらも私たちの関係だった。
エレノア殿下とは長い付き合いになる。公の場では当然、王女と侍女として振る舞うけれど、二人きりのときは、多少くだけた会話をすることもあった。
「では参りましょうか」
「ええ」
扉を開ける。廊下を確認する。異常なし。私はいつもの位置につき、エレノア殿下とともに歩き出した。
このときの私は知らなかった。三か月後、近衛騎士を素手で殴ることになるなど。
◇
アルベルト・ハインツ様と初めてまともに話したのは、その日の午後だった。それ以前から顔は知っていた。近衛騎士なのだから当然だ。王女殿下の護衛配置に入ることもあるし、腕も悪くない。少なくとも近衛騎士として選ばれている以上、一定以上の実力があるのは間違いなかった。
「君」
廊下を歩いていると声をかけられた。振り向くと、アルベルト様だった。
「はい」
「エレノア王女殿下付きの侍女だろ?」
「はい。リディアと申します」
「やっぱりそうか。よく見かけると思っていたんだ」
人懐こい調子で話しかけてくる。
「アルベルト様も殿下の警護に入られることがありますので」
「俺の名前を知ってるのか」
「もちろんでございます」
近衛騎士の名前と顔くらい把握している。護衛として当然のことだ。ところがアルベルト様は嬉しそうに笑った。
「そうか」
「はい」
「いつも殿下について回っているな。大変じゃないか?」
「慣れておりますので」
当たり障りなく答える。
「何か困ったことがあったら俺に言えよ」
「お気遣いありがとうございます」
侍女として微笑む。それだけの会話だった。このときのアルベルト様に対して、特別悪い印象はなかった。親切な方なのだろう。そう思った。
だから翌日、また声をかけられたときも普通に応じた。
「今日も仕事か?」
「はい」
「王女付きは休む暇もないんだな」
「お休みはいただいております」
当たり障りのない受け答えを続ける。
「そうか。なら今度、休みの日にでも食事に行かないか?」
「申し訳ございません。その日は予定がございますので」
「そうか」
アルベルト様はあっさり引いた。
「王女付きじゃ仕方ないな」
「申し訳ございません」
「謝るなよ。また誘うから」
「はあ」
私は軽く頭を下げ、その場を離れた。このときも、特に気にしていなかった。近衛騎士から食事に誘われ、断った。それだけのことだと思っていた。
◇
セドリック・オルブライト様と知り合ったのは、その数日後だった。
「リディア。この書類を財務局へお願い」
「承知いたしました」
エレノア殿下から書類の束を預かり、王宮内の財務局へ向かった。指定された部屋の扉を叩く。
「どうぞ」
「失礼いたします」
中へ入った瞬間、まず目に入ったのは書類だった。机の上、棚、脇に置かれた台。とにかく書類だらけで、その中央に、一人の男性が座っていた。
焦げ茶色の髪、細身、眼鏡をかけている。こちらを一度見て、すぐに書類へ視線を戻した。
「エレノア王女殿下より、こちらをお預かりしております」
「そこへ置いてください」
「受領の署名をお願いいたします」
男性が手を止めた。
「……必要ですか?」
「必要です」
「私が受け取ったのですから、それでいいでしょう」
押し問答が始まる。
「私が殿下へ報告できません」
「あなたが受け取ったと言えば?」
「私が怒られます」
簡潔に返す。
「……それは困りますね」
「はい」
男性はようやくペンを取り、さらさらと名前を書いた。セドリック・オルブライト。
「こちらで?」
「ありがとうございます」
「王女殿下には、確認後に返答するとお伝えください」
「承知いたしました」
一礼して部屋を出る。廊下へ出てから思った。無愛想な方だ。それがセドリック様への第一印象だった。
◇
それから一週間ほど経った頃。私は再びセドリック様のところへ書類を届けていた。
「こちらが先日の件について、殿下からの返答でございます」
「ありがとうございます」
以前より少しだけ対応が早くなった。私は書類を渡し、セドリック様が目を通す。私は返答用の書類を受け取り、そのまま帰ろうとして――。
「……セドリック様」
「はい?」
「こちらなのですが」
私は一枚目の数字を指差した。
「前月分と合わないように思うのですが」
「え?」
セドリック様が書類を受け取り、別の資料を引っ張り出す。数分後。
「……本当ですね」
「やはり」
「計算を一箇所間違えている」
セドリック様が額を押さえた。
「危なかった」
「殿下へお渡しする前でよかったですね」
「ええ。本当に」
そして、セドリック様が私を見る。
「よく気づきましたね」
「殿下がお読みになる書類ですので」
「侍女はそこまで確認するものなのですか?」
一瞬、私は答えに詰まった。
「……少なくとも、私は確認いたします」
「なるほど」
セドリック様は私をじっと見た。何か聞かれるかと思った。しかし。
「助かりました。ありがとうございます」
それだけだった。
「いえ」
「修正しておきます」
「お願いいたします」
部屋を出る。先日とは少しだけ印象が変わった。無愛想だけれど、話は通じる。そんな方だった。
◇
「リディア」
数日後、仕事を終えて王女殿下の部屋へ戻る途中、またアルベルト様に呼び止められた。
「はい」
「今日は時間あるか?」
「これから殿下のもとへ戻りますので」
「その後」
食い下がってくる。
「予定がございます」
「そうか」
「申し訳ございません」
「なら明日は?」
諦めが悪い。
「明日も勤務でございます」
「忙しいな」
「王女付きですので」
「仕方ないか」
アルベルト様は笑った。私は一礼して立ち去る。さらに三日後、また声をかけられた。
「今夜は?」
「予定がございます」
その二日後。
「明日は休みだろ?」
なぜ私の休日を知っているのだろう。
「私用がございますので」
「なら昼だけでも」
「申し訳ございません」
さすがに気になり始めた。何度誘われただろう。私は一度も了承していない。なのに、アルベルト様は誘うことをやめなかった。
そこで次に声をかけられたとき、少しはっきり伝えることにした。
「アルベルト様」
「なんだ?」
「お気遣いはありがたいのですが、今後は私をお誘いいただかなくても結構でございます」
これなら伝わるだろう。そう思った。アルベルト様は一瞬驚いた顔をしたあと、ふっと笑った。
「そんなに遠慮するな」
「…………」
「俺は気にしてないから」
「いえ、遠慮ではなく」
訂正しようとする。
「分かってる」
「分かっていらっしゃらないと思います」
「王女付き侍女という立場があるんだろ?」
「違います」
噛み合わないやり取りに、だんだん疲れてくる。
「いいって。無理するな」
「…………」
私はしばらくアルベルト様を見つめた。おかしい。会話が成立していない。
「では、失礼いたします」
「ああ。またな」
または困る。そう思いながら、その場を離れた。
◇
「それは、あなたに気があるのではなくて?」
その日の夜、私の話を聞いたエレノア殿下は、あっさりそう言った。
「それは分かっております」
「あら」
「私もそこまで鈍くはございません」
これくらいは分かる。
「なら何が問題なの?」
「お断りしているのですが」
「ええ」
「なぜか伝わりません」
エレノア殿下が首を傾げる。
「どう断ったの?」
「『今後は私をお誘いいただかなくても結構でございます』と」
「十分だと思うけれど」
「私もそう思います」
二人して首を捻る。
「それで?」
「『遠慮するな』と」
「……どうして?」
「私が伺いたいです」
エレノア殿下が紅茶を一口飲む。
「変わった方ね」
「はい」
「嫌なの?」
私は少し考えた。
「現時点では、少々苦手です」
「そう」
「できれば、あまりお話ししたくありません」
正直な気持ちだった。
「なら、そう伝えれば?」
「次回はそういたします」
私は本気でそうするつもりだった。このときはまだ、はっきり言えば、さすがに伝わると思っていた。
◇
セドリック様とは、その後も仕事で顔を合わせた。三度目に書類を届けたとき。
「本日は間違っておりません」
書類を差し出しながらセドリック様が言った。
「それが普通なのでは?」
「少しくらい褒めていただいても」
「では、よくできました」
「子供扱いされている気がします」
からかうような口調に、つい肩の力が抜ける。
「褒めろと仰ったのはセドリック様です」
「もう少し心のこもったものを期待していました」
「要求が多いですね」
思わず笑ってしまった。セドリック様も少し笑う。それだけなのだけれど、以前より話しやすくなった気がした。
別の日、昼過ぎに書類を届けると、セドリック様がパンをかじりながら仕事をしていた。
「……それがお昼ですか?」
「そうですが」
「パン一つ?」
「二つ目です」
真顔で返される。
「そういう問題でしょうか」
「十分でしょう」
呆れる私に、セドリック様は涼しい顔をしている。
「身体を壊しますよ」
「昨日、昼食を抜いていた方に言われたくありません」
私は目を瞬いた。
「なぜご存じなのです?」
「昨日、昼頃に王女殿下と一緒に歩いていたでしょう」
「見ていたのですか?」
「偶然です」
しれっと言う。
「そうですか」
「あなたこそ、きちんと食べた方がいい」
「私は必要であれば後で食べます」
「私も同じです」
お互い様だと気づく。
「では私に注意できませんね」
「確かに」
セドリック様が笑った。私も笑った。仕事の話をして、そのついでに少しだけ雑談する。いつの間にか、それが普通になっていた。
◇
対して、アルベルト様との会話は、日を追うごとに苦痛になっていった。
「リディア」
「はい」
「今日、仕事は何時までだ?」
「分かりません」
「待ってる」
「待たないでください」
しつこく食い下がられるたび、うんざりする。
「気にするな」
「いえ、待たないでください」
「俺が好きで待ってるんだ」
「そうではなく」
話が通じない。
「遠慮するなって」
まただ。
「アルベルト様」
「なんだ?」
「私は、あなたに待っていてほしくありません」
今度こそ、これ以上ないほどはっきり言った。アルベルト様は私を見つめる。やっと伝わった。そう思った。ところが。
「俺に迷惑をかけると思ってるのか?」
「…………」
「そんなこと気にしなくていい」
「違います」
「俺が好きでやってるんだから」
駄目だ、この人。私の話を聞いていない。
◇
それから、アルベルト様は本当に待つようになった。勤務を終えて廊下へ出ると、いる。王女殿下の部屋へ戻ると、いる。庭園から帰ると、いる。最初は偶然かと思ったが、三回目から偶然ではないと分かった。
「送る」
「結構です」
「夜だぞ」
「王宮内です」
やり取りは平行線のままだった。
「女一人で歩くものじゃない」
私は思わずアルベルト様を見る。この人より私の方が強い可能性は十分にあり、少なくとも素手で戦って負けるつもりはなかった。しかし、それは言えない。
「警備の方もいらっしゃいますので」
「俺も近衛だ」
「勤務中ではないのでしょう?」
理屈にならない理屈が続く。
「だから送れるんだろ」
「必要ございません」
「強がるなよ」
強がっていない。
「ついてこないでください」
「分かった分かった」
分かっていなかった。普通についてきた。私は歩く速度を上げたが、アルベルト様も上げる。さらに上げても、向こうも上げる。何なのだろう、この時間は。心の底から面倒だった。
◇
「あなた」
ある日、セドリック様から突然言われた。
「はい?」
「以前から少し気になっていたのですが」
書類を受け取ろうとしていた手を止める。
「何でしょう」
「何か隠しています?」
一瞬、身体を強張らせた。
「……どういう意味でしょうか」
「そのままです」
「私が何か?」
「いえ」
セドリック様は私を見た。
「妙だなと思うことが何度かありまして」
「妙?」
「王女殿下と歩くとき、必ず周囲が見える位置にいますよね」
心臓が小さく跳ねる。
「人が近づくと、さりげなく殿下との間に入る」
「…………」
「部屋に入ったときも、最初に窓と扉を見る」
よく見ている。
「それに」
セドリック様の視線が私の手に落ちる。
「侍女にしては、手に妙な硬さがある」
剣だこ。完全には消せない。
「あなた、本当にただの侍女ですか?」
私は答えなかった。答えられない。セドリック様と視線が重なる。数秒の沈黙のあと、やがて。
「まあ、いいです」
「……え?」
「答えられないのでしょう?」
「それは」
言葉に詰まる。
「なら聞きません」
「よろしいのですか?」
「聞いてほしいのですか?」
「いいえ」
即座に否定した。
「では聞きません」
セドリック様は何事もなかったように書類へ視線を戻した。
「人には話せないことの一つや二つあるでしょう」
「…………」
「王女殿下があなたをそばに置いている。それで十分です」
私はしばらく彼を見つめた。
「セドリック様」
「はい?」
「ありがとうございます」
「何のお礼です?」
「さあ」
自分でもよく分からない。
「変な人ですね」
「セドリック様に言われたくありません」
思わず笑った。セドリック様も笑った。そのとき、部屋の外、開いた扉の向こうに、一瞬だけ白い制服が見えたことに、私は気づかなかった。
◇
翌日。私はエレノア殿下から預かった書類を抱え、いつものようにセドリック様のもとへ向かっていた。廊下の角を曲がったところで、見覚えのある白い制服が目に入る。アルベルト様だった。
できれば会いたくない。そう思ったものの、向こうはすでに私を見つけていた。
「リディア」
「……お疲れ様でございます、アルベルト様」
仕方なく足を止める。アルベルト様は私の抱えている書類を見た。
「どこへ行くんだ?」
「殿下からお預かりした書類を届けに参ります」
「どこに?」
「財務局です」
尋問のような調子で続く。
「誰に?」
「担当の方にですが」
「昨日の男か?」
昨日の男。一瞬考えて、セドリック様のことだと気づいた。
「セドリック様のことでしょうか?」
その名前を出した途端、アルベルト様の表情が露骨に険しくなった。
「またあいつか」
「担当でいらっしゃいますので」
「他の奴に渡せばいいだろ」
次第に語気が荒くなる。
「担当者以外にお渡しする理由がございません」
「だったら俺が持っていく」
「駄目です」
「なぜだ?」
「王女殿下から私がお預かりしたものです」
何を言っているのだろう。王女殿下から預かった書類を、内容も知らない近衛騎士に渡せるわけがない。アルベルト様は不満そうだった。
「俺よりあいつの方が信用できるのか?」
「そういう問題ではございません」
「じゃあ、どういう問題だ」
「仕事の問題です」
水掛け論になりかけている。
「俺だって仕事の話をしている」
していないと思う。私は小さく息を吐いた。
「申し訳ございません。急ぎますので」
横を通り過ぎようとする。ところが、アルベルト様が一歩動き、進路を塞いだ。
「アルベルト様」
「昨日、あいつと何を話してた?」
「仕事のお話です」
「それだけか?」
疑い深い目を向けられる。
「はい」
「嘘だ」
「…………」
何が嘘なのだろう。
「笑ってただろ」
「笑ってはいけませんか?」
「俺と話しているときは、あんなふうに笑わない」
当たり前ではないだろうか。最近、アルベルト様との会話で楽しかった記憶が一度もない。むしろ、どうすれば会話を終わらせられるのかばかり考えている。
「お話はそれだけでしょうか?」
「リディア」
「殿下からの使いの途中ですので」
「……分かったよ」
ようやく退いてくれた。
「ありがとうございます」
横を通る。背中に視線を感じたが、振り返らなかった。最近、アルベルト様と話すたびに疲れる。以前は少々苦手だと思っていた。今は違う。嫌いだ。はっきり、そう思う。
◇
「おや」
財務局の部屋へ入ると、セドリック様が顔を上げた。
「今日は少し遅かったですね」
「途中で捕まりまして」
「誰に?」
「近衛騎士の方です」
「ああ」
なぜか、それだけで納得された。
「なんですか、その反応は」
「いえ。最近、あなたの近くでよく見かける方がいるので」
私は書類を机へ置いた。
「ご存じだったのですか」
「何度か見ています」
「そうでしたか」
「恋人ですか?」
「違います」
即答した。セドリック様が目を瞬く。
「ずいぶん早い否定ですね」
「違いますので」
「では、ご友人?」
問答が続く。
「違います」
「知人?」
「それくらいでしょうか」
「なるほど」
セドリック様はそれ以上聞かなかった。いつものように書類を確認する。私はその横で待った。
「こちらは問題ありません」
「ありがとうございます」
「こちらは……少し確認が必要ですね」
「お時間がかかりますか?」
少し身構える。
「十分ほど」
「では、お待ちします」
「座ります?」
「よろしいのですか?」
「立たれていると落ち着かないので」
勧められた椅子へ座る。セドリック様は書類に向かい、ペンが紙を走る音だけが聞こえる。私は邪魔をしないよう黙って待った。
不思議だった。会話をしていないのに、気まずくない。アルベルト様とは、話しかけられるだけで身構えるようになっていたというのに。
しばらくして。
「そういえば」
書類を見たまま、セドリック様が言った。
「はい?」
「あの近衛騎士」
「アルベルト様が?」
「あなたがここへ来るとき、よく見ていますよ」
思わず身を固くする。
「……私を?」
「ええ」
嫌な感じがした。
「以前からですか?」
「少なくとも、ここ半月ほどは」
「そうですか」
私が気づいていたより前かららしい。セドリック様がペンを止めた。
「余計なお世話かもしれませんが」
「はい」
「嫌なら、きちんと嫌だと言った方がいいですよ」
「言っております」
少しむっとして返す。
「……言っている?」
「何度も」
セドリック様が黙った。
「食事のお誘いも断りました。待たないでほしいとも、ついてこないでほしいとも申し上げました」
「それでも?」
「なぜか、遠慮していると思われているようです」
「…………」
セドリック様が眼鏡を外し、眉間を押さえる。
「どうされました?」
「いえ」
眼鏡を戻す。
「思っていたより酷かったので」
「やはり酷いのでしょうか」
「少なくとも、私なら嫌われたと判断します」
「ですよね」
ほっとした。私の伝え方がおかしいのかと、少しだけ心配していた。
「『ついてこないでください』を好意的に解釈するのは、なかなか難しいと思いますが」
「アルベルト様にはできるようです」
「特殊な才能ですね」
思わず吹き出した。
「褒めておりませんよ」
「分かっております」
「ならいいのですが」
セドリック様も笑う。それから、少しだけ真面目な顔になった。
「ただ」
「はい」
「何かあれば周囲に相談した方がいい」
「ありがとうございます」
素直に礼を言う。
「私でも構いませんし」
そこで一度言葉を切る。
「まあ、私では近衛騎士をどうにかできるわけではありませんが」
「お気持ちだけいただいておきます」
「そうしてください」
それだけ。私が頼んでもいないのに、俺が守ってやるとは言わない。嫌なら相談した方がいい、必要なら自分でも構わない、それだけだった。その距離感が、私にはありがたかった。
◇
それから数日、アルベルト様の行動は、さらに酷くなった。
「リディア」
朝、声をかけられる。
「おはようございます」
「昨日、どこに行ってた?」
「昨日?」
「仕事が終わった後だ」
妙に細かく聞いてくる。
「自室へ戻りましたが」
「本当に?」
何を疑われているのだろう。
「本当です」
「あの文官とは会ってないのか?」
「お会いしておりません」
「そうか」
なぜか安心した顔をする。
翌日。
「今日は財務局へ行くのか?」
「予定はございません」
「ならいい」
何がいいのだろう。さらに翌日。
「昼はどこで食べる?」
「決めておりません」
「俺と食べよう」
「お断りいたします」
これで何度目の誘いだろう。
「またそれか」
「またも何も、以前からお断りしております」
「いつまで意地を張るんだよ」
意地。とうとうそんなことまで言われた。
「アルベルト様」
「なんだ?」
「私は意地を張っているのではありません」
落ち着いて言い直す。
「分かってるって」
「分かっておられません」
「リディア」
「あなたと食事に行きたくないので、お断りしております」
さすがにこれなら。そう思った。アルベルト様の顔から笑みが消えた。
「……あいつのせいか?」
「はい?」
「あの文官だよ」
「なぜセドリック様が出てくるのですか?」
話が飛躍していく。
「最近だろ。お前がおかしくなったの」
「私は以前からお断りしております」
「前はもっと素直だった」
私は絶句した。素直だった記憶などない。
「俺が声をかけたら笑ってただろ」
「侍女ですので」
「俺のことを心配してくれたこともあった」
心当たりを探す。少し考えて、思い出した。二か月ほど前、アルベルト様が訓練で頬を切り、血を流したまま廊下を歩いていた。私は、
「お怪我をされていますよ」
と声をかけた。それだけだ。
「怪我をされていたので」
「ほら」
「何が『ほら』なのでしょう」
話が噛み合わない。
「やっぱり俺のことを気にしてたんだろ」
「目の前で血を流している方がいれば、普通は気にします」
「照れるなって」
「…………」
駄目だ。本当に駄目だ。何を言っても通じない。
「失礼いたします」
「リディア」
無視して歩き出した。後ろから名前を呼ばれたけれど、振り返らなかった。
◇
「それはもう、近衛の上官に報告した方がいいのではなくて?」
エレノア殿下の言葉に、私は少し迷った。
「やはり、そうでしょうか」
「そうでしょうか、ではないわよ」
殿下が呆れた顔をする。
「待ち伏せされているのでしょう?」
「はい」
「後をついてくる」
「はい」
一つずつ確認される。
「何度断っても食事に誘われる」
「はい」
「他の男性と話すなと言われる」
「そこまでは、まだ」
「まだ?」
「いえ」
確かに、まだという言い方はおかしい。
「申し訳ございません」
「あなた、自分でどうにでもできるから軽く考えていない?」
図星だった。私は護衛騎士だ。アルベルト様が力ずくで何かしようとしても、自分の身くらい守れる。だから面倒だとは思っても、危険だとは考えていなかった。
「あなたが強いかどうかの問題ではないでしょう」
「……はい」
「それに、あなたは私付きの侍女なのよ」
エレノア殿下の表情が真面目になる。
「近衛騎士が私付きの侍女の勤務時間や行動を、私的な理由で探っているのなら、それは別の問題にもなるわ」
「仰るとおりです」
護衛として考えれば、確かにそうだ。自分のことだからと、少し判断が甘くなっていた。
「次に何かあれば報告しなさい」
「承知いたしました」
「いい? 何かあれば、よ」
「はい」
私は頭を下げた。まさか、その「次」が、あんなことになるとは思っていなかった。
◇
数日後、私はいつものようにセドリック様へ書類を届けた。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
受領書を受け取る。仕事はそれで終わりだった。
「では、失礼いたします」
「ああ、リディアさん」
「はい?」
「この前の件」
「この前?」
思い当たらず問い返す。
「あの近衛騎士です」
「ああ」
「大丈夫ですか?」
「今のところは」
「今のところ、ですか」
含みのある聞き方だった。
「殿下にも相談いたしました」
「それならよかった」
セドリック様がほっとしたように息を吐く。
「心配してくださったのですか?」
「多少は」
「多少」
「非常に心配していたと言った方がよかったですか?」
からかうように返される。
「いえ。セドリック様らしくありません」
「酷いですね」
「褒めております」
「どこが?」
私は笑った。セドリック様も笑う。
「そういえば」
「はい?」
「先日、あなたに言われたので昼食を改善しました」
「本当ですか?」
「見ます?」
急に自信ありげになる。
「なぜ見せるのですか」
「信用していない顔をしているので」
しれっと言われて、言葉に詰まる。
「しておりません」
「しています」
「では拝見しましょう」
「そこまで堂々と言われるとは思いませんでした」
くだらない話だった。本当に、ただの雑談。だから、廊下の向こうから私たちを見ている人間がいることに、私は気づかなかった。
◇
セドリック様と別れ、エレノア殿下のもとへ戻る途中。
「リディア」
声がした。足を止めると、アルベルト様だった。表情がいつもと違う。明らかに機嫌が悪い。
「少しいいか」
「殿下がお待ちですので、手短にお願いいたします」
「さっきの男」
「はい?」
嫌な予感がした。
「あの文官だ」
またか。
「セドリック様が何か?」
「何を話してた」
「仕事のお話です」
「嘘をつけ」
決めつけてくる。
「なぜ嘘になるのでしょう」
「笑ってただろ」
「仕事が終わった後、少し雑談をしておりましたので」
「やっぱり仕事だけじゃないじゃないか」
責めるような口調に、私は眉を寄せた。
「それが何か?」
「何かじゃない」
「アルベルト様」
「あいつとはもう話すな」
とうとう言った。
「お断りいたします」
「リディア」
「なぜ私が、セドリック様と話すことについてアルベルト様の許可をいただかなければならないのですか?」
「俺が嫌だからだ」
「それはアルベルト様のご事情です」
平行線のまま、言葉だけが積み重なっていく。
「お前のためでもある」
「私のためにはなっておりません」
「あいつはお前に気があるんだぞ」
同じ話の繰り返しだった。
「そうなのですか?」
「見れば分かる」
「仮にそうだったとしても」
私はアルベルト様を見る。
「私とセドリック様の問題です」
「なんでだよ」
「なぜ、と申されましても」
「俺がいるだろ」
「…………」
何を言っているのだろう。
「アルベルト様」
「なんだ」
「先ほどから、お話の意味が分かりません」
「まだそんなこと言うのか」
「まだ?」
嚙み合わない会話に、こちらの声も低くなる。
「俺がどれだけお前を想ってると思ってる」
「それは存じません」
「リディア」
「申し訳ございませんが、もうよろしいでしょうか」
これ以上は時間の無駄だ。
「殿下がお待ちですので、失礼いたします」
横を通り過ぎようとする。
「待て」
腕を伸ばされた。私は半歩ずれて避ける。
「触らないでください」
アルベルト様が顔を歪めた。
「……あいつには触らせるのか?」
「セドリック様に触られたことはございません」
「そういうことじゃない!」
声が廊下に響いた。
「アルベルト様」
「なんだよ」
「声を抑えてください」
「お前が分からないからだろ!」
声を荒げるアルベルト様に、私も静かに言い返す。
「分からないのは私ではありません」
「なんだと?」
「私は以前から何度も申し上げております」
もう曖昧にする必要はない。
「あなたと食事には行きたくありません」
一つ。
「待っていてほしくありません」
二つ。
「後をついてきてほしくありません」
三つ。
「そして、誰と話すのかをあなたに決められるつもりもございません」
アルベルト様が黙る。
「以上です」
私は一礼した。
「では、失礼いたします」
歩き出す。
「話は終わってない」
後ろから声がした。
「私は終わりました」
そのまま進むと、足音が追ってきた。
「リディア」
無視する。
「待てって!」
足音が速くなる。私は振り返った。
「アルベルト様、これ以上は――」
一歩、近づいてくる。思わず一歩下がった。
「いい加減、素直になれよ」
「何を仰っているのですか」
また一歩。私も下がる。
「俺がいるのに、他の男に愛想振りまくな」
「意味が分かりません」
さらに一歩、下がる。背中に冷たい感触。壁だった。アルベルト様が目の前まで来る。
「アルベルト様?」
右腕が上がった。そして。
ドンッ。
私の顔のすぐ横、壁に手をつく。
――ああ。ここだ。あの瞬間へ、話は戻る。
◇
「アルベルト様」
「なんだ」
「退いていただけますか?」
「駄目だ」
あのときと同じやり取りだった。
「なぜでしょう」
「まだ話は終わっていない」
「私は終わりました」
「リディア」
名前を呼ばれる。
「殿下がお待ちですので、失礼したいのですが」
「またそれか」
アルベルト様が私を見下ろす。
「お前はいつもそうだ」
「何がでしょう?」
「そうやって俺から逃げる」
「逃げておりません」
「それに、さっきの男はなんだ」
また同じ話に戻る。
「セドリック様でしょうか?」
「……名前で呼ぶな」
「なぜです?」
「俺の前で他の男の名前を呼ぶな」
「ですから、なぜです?」
繰り返し尋ねる。
「お前は……!」
アルベルト様の顔が近づいた。
「もう、あいつを見るな」
「お断りします」
「リディア」
「セドリック様と誰とお話しするかは、私が決めます」
はっきり言い切る。
「お前は何も分かってない」
「何をでしょう?」
「あいつはお前を狙ってる」
「そうですか」
「そうですかじゃない!」
「仮にそうであったとしても、アルベルト様には関係ございません」
その言葉が気に障ったらしい。アルベルト様の顔がさらに近づく。
「関係ある」
「ございません」
「ある」
「なぜです?」
押し問答が続く。
「俺がお前を好きだからだ!」
初めて、はっきりと言われた。けれど、驚きはしなかった。それくらいは、とっくに分かっていた。
「そうですか」
「……それだけか?」
「はい」
「嬉しくないのか?」
淡々とした返事に、アルベルト様の声が尖る。
「申し訳ございませんが」
「またそれだ」
アルベルト様が苛立ったように言う。
「お前はいつも素直じゃない」
「私は十分素直に申し上げております」
「いい加減にしろよ」
さらに顔が近づく。
「近いです」
「分かってる」
「離れてください」
「嫌だ」
顔を横へ向ける。すると、アルベルト様も顔を動かした。耳元へ、吐息が触れる。
ぞわり。嫌だ。近い。気持ち悪い。
そして。
「お前はオレだけを見ていればいいんだ」
耳元で囁かれた。ぞわぞわぞわっ。悪寒が全身を駆け抜けた。頭で考えるより早かった。生理的に無理だった。
だから。
ゴッ。
「ぐっ!?」
拳が出た。私の右拳が、アルベルト様の頬をまともに捉えた。アルベルト様の身体が横へよろめく。私は拳を突き出した姿勢のまま固まった。
「…………」
「…………」
静寂。自分の右手を見て、それからアルベルト様を見る。頬を押さえている。殴ってしまった。近衛騎士を。王女付き侍女の姿で。
「……申し訳ございません」
私は頭を下げた。アルベルト様が呆然と私を見る。
「な……」
「はい」
「なんで……」
「申し訳ございません」
同じ謝罪しか出てこない。
「なんで殴ったんだ!?」
当然の質問だった。私は考える。なぜ。答えはすぐに出た。
「反射的に」
「何をどう反射したら殴るんだよ!」
「耳元でそのようなことを言われた瞬間、悪寒が走りまして」
順を追って説明する。
「悪寒!?」
「はい」
正直に説明する。
「どうやら、生理的に無理だったようです」
「…………」
アルベルト様が固まった。私も黙った。
「せ……」
「はい?」
「生理的に……?」
「はい」
同じ言葉を確かめるように繰り返される。
「俺が?」
「正確には、先ほどの行為が」
少し考える。
「いえ」
訂正する。
「最近のアルベルト様の言動も含めてかもしれません」
「…………」
アルベルト様は顔色を悪くした。殴った場所が痛むのだろうか。
「医務室へ参りますか?」
「なんでだよ」
「はい?」
「なんで俺を殴るんだよ!」
振り出しに戻る質問だった。
「今、ご説明いたしましたが」
「お前、俺のことが好きなんだろ!?」
「…………はい?」
今度は私が固まる番だった。何を言われたのか理解するまで、数秒かかった。
「申し訳ございません。もう一度お願いいたします」
「だから!」
アルベルト様が叫ぶ。
「お前は俺のことが好きなんだろ!」
「いいえ」
即答した。
「一度も」
アルベルト様の口が開いたまま止まる。
「嘘だ」
「なぜ私が嘘を?」
「だって、お前……俺に笑ってただろ!」
「侍女ですので」
「俺の名前も知ってた!」
「近衛騎士のお名前は把握しております」
アルベルト様は次々と根拠を並べ立てる。
「俺の怪我を心配した!」
「廊下で血を流していらっしゃいましたので」
「俺が待ってれば、いつも来ただろ!」
「そこが私の通り道だからです」
一つ挙げるたびに、淡々と打ち消していく。
「誘ったときだって、仕事があるからって!」
「お断りしておりました」
「遠慮してただけだろ!」
まだ食い下がってくる。
「しておりません」
「俺に迷惑をかけたくなかったんだろ!」
「違います」
「じゃあなんで――!」
「全部」
私は遮った。
「全部、そのままの意味です」
「…………」
「『食事には行きません』は、あなたと食事に行きたくないという意味です」
一つずつ、今度こそ誤解の余地がないように。
「『待たないでください』は、待っていてほしくないという意味です」
「…………」
「『ついてこないでください』は、ついてきてほしくないという意味です」
「でも」
「そして」
私はアルベルト様を見る。
「私は一度も、あなたを好きだと申し上げたことはございません」
アルベルト様の顔から表情が消えた。
「そんな……」
「事実です」
「じゃあ」
唇が震える。
「じゃあ、あの文官はなんなんだよ」
「セドリック様ですか?」
「また名前を……!」
過剰に反応する。
「お名前ですので」
「俺より、あいつの方がいいのか?」
私は首を傾げた。
「なぜ、セドリック様とアルベルト様を比べる必要があるのですか?」
「…………」
「セドリック様は友人です」
「俺は?」
少し考えた。
「できれば今後、関わりたくありません」
「…………」
今までで一番、きちんと伝わった気がした。アルベルト様が真っ青になっている。
そのとき。
「何の騒ぎ?」
聞き慣れた声がした。振り返る。
「殿下」
エレノア殿下が立っていた。その後ろには、別の侍女と二人の近衛騎士。アルベルト様の顔色がさらに悪くなる。
「エ、エレノア殿下……」
「ずいぶん大きな声が聞こえたけれど」
殿下の視線が私へ、次に、頬を赤く腫らしたアルベルト様へ、最後に、私の右拳へ向いた。
「リディア」
「はい」
「何があったの?」
「申し訳ございません」
私は頭を下げた。
「アルベルト様を殴りました」
「あなたが?」
「はい」
「どうして?」
私は正直に答えた。
「壁際へ追い詰められまして」
「ええ」
「顔の横に手をつかれまして」
「ええ」
殿下が続きを促す。
「耳元で『お前はオレだけを見ていればいいんだ』と囁かれました」
エレノア殿下の視線がアルベルト様へ向いた。アルベルト様が固まる。
「それで?」
「悪寒が走りまして」
「悪寒」
「はい。生理的に無理だったようで、反射的に手が出ました」
「…………そう」
殿下が口元を押さえた。笑っているように見えたのは、きっと気のせいだろう。
けれど、次の瞬間。エレノア殿下の表情から笑みが消えた。
「アルベルト・ハインツ」
「は、はい」
「あなた、勤務中よね?」
「……はい」
声のトーンが変わったことに、アルベルト様も気づいたらしい。
「なぜ私付きの侍女を壁際へ追い詰めていたの?」
「それは……」
「答えなさい」
「私は、彼女を愛していて……」
言い訳にもなっていない。
「それが何の説明になるの?」
アルベルト様が黙った。
「リディア」
「はい」
「以前話していた件ね?」
「はい」
一つずつ確かめられる。
「待ち伏せされているという」
「……はい」
「何度断っても誘われる」
「はい」
「後をついてこられる」
「はい」
エレノア殿下の顔が冷たくなっていく。
「アルベルト」
「違うんです、殿下!」
「何が?」
「リディアも私を好いていると……」
往生際が悪い。
「私は好いておりません」
「リディア!」
「今のうちにはっきりさせておいた方がよろしいかと思いまして」
「黙ってろ!」
アルベルト様が私へ一歩踏み出す。その瞬間、エレノア殿下の後ろにいた近衛騎士二人が動いた。
「アルベルト」
殿下の声が響く。
「それ以上、私の侍女に近づくことを禁じます」
「殿下……」
「それから」
殿下が近衛騎士を見る。
「彼を連れていきなさい。近衛騎士団長には私から話します」
「はっ」
「待ってください!」
アルベルト様が慌てる。
「私は何も――」
「何も?」
エレノア殿下の目が細くなる。
「勤務中に私の侍女を追い回し、何度拒絶されても付きまとい、とうとう壁際へ追い詰めたのでしょう?」
「それは、恋人同士の――」
「違います」
私が言った。
「私たちは一度も恋人同士になったことはございません」
「リディア!」
「事実ですので」
アルベルト様が何か言おうとしたけれど、近衛騎士二人に両側から押さえられ、そのまま連れていかれた。
廊下に静けさが戻る。私は小さく息を吐いた。
「リディア」
「はい」
「手を見せなさい」
「手?」
聞き返す。
「殴ったのでしょう」
「ああ」
右手を差し出す。少し赤くなっていた。エレノア殿下が呆れた顔をする。
「あなたねえ」
「申し訳ございません」
「殴ったことについては、あとで話しましょう」
「はい」
「それより」
殿下がため息をつく。
「本当に生理的に無理だったの?」
「はい」
「即答なのね」
「悪寒が走りましたので」
「そう……」
エレノア殿下がもう一度口元を押さえた。
「殿下」
「何?」
「笑っていらっしゃいませんか?」
思い切って尋ねる。
「気のせいよ」
「そうでしょうか」
「ええ」
絶対に笑っている。けれど、私も、それ以上追及しなかった。
◇
その後、アルベルト・ハインツ様について、近衛騎士団による調査が行われた。私も事情を聞かれた。
食事に誘われたこと。何度断っても誘われ続けたこと。勤務終了後に待たれていたこと。後をついてこられたこと。セドリック様との関係を何度も聞かれたこと。そして、勤務中にもかかわらず、私を追いかけて壁際へ追い詰めたこと。
私以外からの証言も出たらしい。アルベルト様が勤務中に持ち場を離れている姿を見た者。私の勤務予定について他の侍女へ尋ねていたこと。私がどこへ向かったのか、近衛仲間に聞いていたこと。
本人としては、恋する女性のことを知ろうとしただけだったのだろう。しかし、近衛騎士という立場で、王女付き侍女の行動を、勤務中に、私的な理由で調べていた。当然、問題になった。
◇
「決まったそうよ」
数週間後、エレノア殿下がお茶を飲みながら言った。
「何がでしょう?」
「アルベルト・ハインツの処分」
「ああ」
すっかり忘れていた。
「近衛騎士団から外されるそうよ」
「そうですか」
「騎士そのものを辞めさせられるわけではないけれど」
殿下が言葉を継ぐ。
「では、どちらへ?」
「北方辺境騎士団」
思わず殿下を見る。
「……かなり遠いですね」
「ええ」
王都から馬車でも相当の日数がかかる。魔物も多く、冬は厳しい。華やかな王宮の近衛とは、まるで違う場所だ。
「向こうの騎士団長が、ずいぶん厳しい方らしいわ」
「そうなのですか」
「近衛騎士団長が手紙を添えたそうよ」
殿下がおかしそうに続ける。
「なんと?」
「『騎士としても人間としても根性から叩き直してほしい』」
「…………」
私は少しだけ黙った。
「大変そうですね」
「それだけ?」
「他に何かございますか?」
聞き返す。
「ないの?」
「ございません」
本当に、もう、どうでもよかった。辺境で何をするのか、反省するのか、変わるのか。私には関係がない。
「まあ、いいわ」
エレノア殿下がお茶を一口飲む。
「これで、あなたも静かに仕事ができるでしょう」
「はい」
「殴る相手もいなくなったし」
「殿下」
思わず窘める。
「冗談よ」
「私は普段、人を殴りません」
「護衛騎士でしょう?」
「任務では殴ることもありますが」
殿下がにやりとする。
「では今回は?」
「生理的に無理だったので」
「まだ言うのね」
「事実ですので」
エレノア殿下が笑った。私も紅茶を注ぎ足す。これで、あの一件は終わった。
◇
――はずだった。
◇
さらに数日後。いつもの午後、私はエレノア殿下の私室で、お茶の用意をしていた。窓から柔らかな日差しが入っている。王宮は平和だった。
アルベルト様が辺境へ向かってから、廊下で待ち伏せされることもない。後ろからついてこられることもない。誰と話していたのか尋ねられることもない。実に快適だ。
「リディア」
「はい」
紅茶を注ぐ。
「そういえば」
「はい」
「アルベルト・ハインツ、無事に辺境へ到着したそうよ」
「そうですか」
興味のない話題だった。
「昨日、報告が来たわ」
「それは何よりです」
「初日から相当しごかれているそうだけれど」
「そうですか」
同じ調子で返す。
「興味ない?」
「ございません」
「本当に?」
「はい」
エレノア殿下が私を見つめる。何だろう。
「……何でしょうか」
「いいえ」
殿下が微笑む。嫌な予感がした。こういう顔をしているときの殿下は、大抵ろくなことを言わない。
案の定。カップを置いたエレノア殿下が、何でもないことのように尋ねた。
「それで、文官の方とはどうなの?」
ティーポットを持った私の手が止まった。
「……どう、とは?」
「セドリック・オルブライト」
「存じております」
「最近も仲がいいのでしょう?」
「仕事でお話しする機会が多いだけです」
平静を装って答える。
「仕事だけ?」
「はい」
答えてから、少し考える。
「……おそらく」
「今、考えたわね」
「考えておりません」
「考えたでしょう」
殿下が楽しそうに追及してくる。
「考えておりません」
「では、次に会うのはいつ?」
「明日です」
即答してしまった。エレノア殿下の眉が上がる。
「よく覚えているのね」
「殿下から書類をお預かりする予定ですので」
「そう」
「仕事です」
念を押す。
「ええ」
にこにこしている。
「殿下」
「何?」
「何がおっしゃりたいのでしょう」
「別に?」
とぼけた顔をしている。
「では、そのお顔は」
「どんな顔?」
「面白いものを見つけたお顔です」
「あら。よく分かったわね」
やっぱり。
「リディア」
「はい」
「明日、セドリックに会うの?」
「はい」
「楽しみ?」
不意打ちの質問だった。
「…………」
答えようとして、言葉が止まった。楽しみ。そんなこと、考えたことがなかった。
仕事で会う。書類を渡す。受領書をもらう。少し話す。ときどき雑談する。それだけ。
けれど、明日も会える。そう考えると、嫌ではない。むしろ、何を話すだろう、また昼食をパンだけで済ませていないだろうか、今度の書類には間違いがないだろうか。そんなことを考えている自分に気づく。
「リディア?」
「…………」
エレノア殿下が楽しそうに私を見ている。私は小さく息を吐いた。
「……少し」
「何?」
「少しだけ」
認める。
「楽しみです」
エレノア殿下が満足そうに笑った。
「そう」
「それだけです」
「ええ。今はそれでいいんじゃない?」
含みのある言い方だった。
「今は?」
「何でもないわ」
殿下が紅茶を飲む。私はティーポットを置き、窓の外を見た。明日は晴れるらしい。
午前中に殿下から書類を預かって、それをセドリック様へ届ける。きっと彼はいつものように、
「今日は間違っていません」
などと言うのだろう。そうしたら、
「それが普通です」
と返そう。そんなことを考えて、私は少しだけ笑った。
誰を見ればいいのかなんて、誰かに決めてもらう必要はない。
私が見たいと思った人を、私が、自分で見ればいいのだから。




