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第9話 お気に入りの店(カフェ編)

大学に入った頃から通っているカフェがある。


課題をやることもあるし、ただコーヒーを飲んで帰るだけの日もある。

ここに来ると、急がなくていい気がする。


外から見ると、いつ潰れてもおかしくなさそうな店だ。

でも、中はきれいに手入れされている。


わたしは、この店が好きだ。


扉を開けると、いつもの匂いがした。

コーヒーと、古い木の匂い。


客は、二組だけだった。

手前のテーブル席に一組。


そして、奥のカウンター席に――いた。


ノートを開いて、店内を見回している男。


……三上灯馬。


どうしてここにいるんだろう。


三上はノートに何かを書き込み、また店の中を見回した。


「……ここも、直すつもりですか」


「まだ、何も言っていない」


何も言っていなくても、もう見抜いているような目だった。


「この店は、大学から駅への動線から外れている」

「意図して来ないと、まず入らない場所だ」


その通りだった。

わたしも、入学したばかりのころ、たまたま迷って見つけた店だ。


「だから、来る人は限られる」


三上はノートを閉じた。


「その代わり、残る人は長く残る」


それなら、別にいいじゃないかと思った。

でも、三上はまだ何か言う顔をしていた。


「……直す必要、ないと思いますけど」


思ったより強い声になった。


古い木のテーブル。

擦り減った床。


カップの形や柄は、全部違う。

でも、どれもきれいに磨かれている。


それが、この店らしいと思う。


「残る人がいる店は、強い」

「でも、残る人だけでは、続かないこともある」


反射的に、むっとした。


「……それでも、わたしは、このままが好きです」


三上は何も言わなかった。


「静かだし、落ち着くし」

「こういう店が一つくらいあっても、いいと思います」


言いながら、自分でもうまく説明できていない気がした。

それでもよかった。


うまく言えなくても、好きなものは好きだった。


「いいと思うよ」


意外な言葉だった。


「好きな場所があるのは、いいことだ」

「だからこそ、なくなると困る」


三上はカップを口に運び、ひと口飲んでから、もう一度だけ香りを確かめた。


「味はいい」

「きちんと設計されている」


少しだけ、ほっとした。

この人は、見ているところを外さない。


「だから、まだ続いている」

「でも、続く理由がそれだけだと、弱い」


三上は店主に向かって言った。


「カップ、かなりありますね」


どこで気づいたんだろう、と思った。

たしかに、ここは来るたび違うカップが出てくる。


店主はいつもの顔で笑った。


「ええ。どれも好きで集めたんです」


三上は席を立った。

会計を済ませ、扉の前で足を止めた。


「そのカップ、並べたほうがいい」


店主は戸惑ったように声を漏らした。


「え?」


「そのまましまっておくのは、もったいない」

「見えるところに置いたら、客は喜ぶと思いますよ」


それだけ言って、三上は店を出ていった。


店主はしばらく、扉のほうを見ていた。

それから、肩の力を抜くように、カウンターに手を置いた。


わたしは残ったコーヒーを飲みながら、さっきの話を思い返していた。


変わらないでほしいと思う。

でも、なくなってほしくはない。


その二つを両方守るのは、きっと簡単じゃない。


それから、何日かして。


次に来たとき、カウンターの後ろの壁に飾り棚がついていた。

見覚えのあるカップが、何段にも並んで、壁一面を埋めていた。

柄も色もばらばらなのに、不思議と落ち着いて見えた。


前より、客が少し増えていた。

でも、店の空気は変わっていなかった。


……このまま人気が出すぎたらどうしよう、とふと思う。


でも、誰も来なかったら、この店はなくなってしまう。


どっちがいいのかは、まだ分からない。

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