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第21話 静かな場所に行きたくて(美術館編)

静かな場所に行きたくて、美術館に来た。


理由は特にない。

ただ、音が少ない場所にいたかった。


白い壁。

低い照明。

足音だけが響く。


絵はよく分からない。

でも、嫌いではない。

理由がなくても、立ち止まっていい場所だから。


一枚の前で足を止める。


正方形のキャンバス。

中央に、黒い線が一本だけ引かれている。


まっすぐに見える。


――いた。


少し離れた所に、三上灯馬がいる。


首を傾けたまま、動かない。


線ではなく、床を見ているように見えた。


床の継ぎ目。

それから、線を見る。

また床を見る。


何かを測っているみたいだった。


「まっすぐじゃない」


唐突に言う。


「……まっすぐに見えますけど」


三上は絵から目を離さない。


「わずかに傾いている」


わたしには、分からない。


「気のせいじゃないですか」


「意図だ」


即答だった。


わたしは、首から下げていた音声ガイドのイヤホンを耳に入れた。


入口で借りた、小さな黒い機械。

作品番号を押すと、耳元で解説が始まる。


『この線は、完全な水平ではありません』


思わず、もう一度線を見る。


『作者は、わずかに傾けています』


三上は、まだ絵と床を見比べている。


『人間の視覚は、わずかなずれに無意識に補正をかけます』


三上の行動を、解説が後から追いかけてきた。


「解説で――」


「聞かない」


三上は、絵を見たまま言う。


「先に聞くと、そっちに引っ張られる」


「自分の位置が分からなくなる」


わたしの耳には、答えがある。

三上は、それを聞かずに見ている。


「ここには、美しく見える位置があるだけだ」


「でも、傾いているんですよね」


「この線は、ここで引かれている」


「僕の位置は、そこにはない」


「どちらも、まっすぐではない」


三上は絵から視線を外し、歩き出す。


線は、変わらずそこにあった。


まっすぐにしか見えなかった。

わたしには。


解説を聞いても。


「絵でも描いてたんですか?」


「昔描いていた。本気で」


「そのあと、まっすぐを覚えた」


それ以上は、聞けなかった。

聞いても、理解できる気がしなかった。


次の絵の前で、三上はまた立ち止まる。


一歩近づき、少し下がる。

距離を変えながら見ている。


わたしは、イヤホンに触れる。


外すべきなのか、分からなかった。


「外して見るべきなんでしょうか」


三上はすぐには答えない。

一歩だけ動いてから言う。


「どちらでもいい」


「外せば、自分の位置が先に分かる」


「外さなければ、作者の位置が先に分かる」


「順番の問題だ」


わたしはイヤホンを外した。


「わかる気がしませんが」


「二周目で聞けばいい」


「ここは、立ち止まることが許されている」


わたしは、その理由を探し始めていた。


三上は、次の絵の前でまた止まる。


「ここで、作者に変化があった」


見ても、違いは分からない。


同じ線。

同じ色。


「どこが変わったんですか?」


三上は、少しだけ絵に近づく。


「作者は、自分の位置に気づいた」


「理由は、作者にしかない」


「それは、外からは分からない」


ふと、この間のボウリング場での一言を思い出す。


「まっすぐ立ってたつもりだった、って言ってましたよね」


「ああ」


「間違っていた」


「何がですか」


三上は、少し考える。


「まっすぐは、強い」


「正しいほど、壊す」


「合わせられないものを、消してしまう」


「ずれは、そのままにしておくべきだ」


三上は、手にしていたリーフレットの表紙を一度だけ見て、また手元に戻した。


そこには、まっすぐな線の図が印刷されていた。


「ここは、それが守られている」


そして言う。


「ずれは、らしさだ」


「らしさは、そのままでいい」


「らしくないものだけ、戻す」


「僕が」


それだけ言って、三上は次の絵へ進んだ。


わたしは、まだその場にいる。


音声ガイドの一時停止を、押し忘れていたことに気づく。

イヤホンの中では、この線の美しさが、まだ語られている。


線を見る。


まっすぐに見える。


でも、さっきとは同じではなかった。


三上灯馬という男は、日々を壊すんじゃない。

ずれた線の、その先を見ている。

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