小さな主人に誓いを(リル視点)
その日は、朝から雨が降っていた。
私の世界は、いつからこんなに灰色になってしまったのだろう。
鏡に映るのは、母譲りの茶色く長い髪と、父譲りの淡い青い瞳。
タレ目で唇は薄く、誰からも「弱々しそう」に見える顔。
けれどその内側には、病弱な母を助けるために必死で培ってきた、鋼のような芯が隠れている。
私の名前はリル。没落貴族、プランタン男爵家の娘だ。
男爵家が壊れたあの日から、母様と二人、逃げるように辿り着いた実家の商家。
けれどそこは、温かな救いの手がある場所ではなかった。
「没落した身で、よくもまあ図々しく……」
商家で働く者たちの、氷のような言葉と視線。
(ああ、ここも男爵家と同じなのね。
…いいえ、あそこに比べれば、まだマシかしら)
男爵家での生活は、地獄だった。
愚かな父が連れ込んだ愛人が家の実権を握り、母様を虐め抜いた。
父は見て見ぬふりどころか、廊下ですれ違うたびに「汚い」「惨め」「早く消えろ」と実の妻子に罵声を浴びせる始末。
愛人は贅沢の限りを尽くし、母様をメイド以下に扱い、他の使用人たちにもそうするよう命じていた。
さらには「虹の広場」にいた見目麗しいエルフの男に、男爵家の金を湯水のように貢いでいたのだ。
そんな生活が唐突に終わったのは、家計が完全に破綻したからだ。
金に詰まった父と愛人が「娘を売ろう」と相談しているのを耳にした私は、泣きながら母様に訴えた。
母様は即座に決断し、夜闇に紛れて私を連れ出し、家を捨てた。
逃げる途中で風の噂に聞いた「男爵家取り潰し」の報に、私は悲しみよりも嬉しさが勝った。
けれど、自由の代償は大きかった。
母様は実家で自分たちの居場所を得るため、体に鞭打って汚れ仕事に身を投じた。
心身ともに削り取られ、母様が糸の切れた人形のように倒れた時。
そして叔父様が卑劣な商人に騙され、すべてを失いかけた時。
私は母様の手を握りしめ、何もできない自分に嫌悪しながら、ただ震えることしかできなかった。
――その時、私の脳裏に、あの時の…鋭い瞳の幼女が浮かんだ。
『なにかあったら、ここにもどってきて。力になるよ』
藁にも縋る思いで公爵家へ走った。
四歳のイザベル様は、門前払いを覚悟していた私を、事もなげに部屋へ招き入れてくれた。
彼女は、優しく抱きしめて慰めてくれるわけではなかった。
冷徹に、私を見つめてこう言ったのだ。
『そしたら……あなたは私に何をくれる?』
脳内お花畑のような、耳障りの良い理想論で誤魔化したりしない。
対等な『取引』を求めてきた彼女の言葉に、私は救われたのだ。
何もない私が、唯一差し出せる『自分自身』を対価として受け取ってくれる。
それがどれほど誇らしかったか。
その後の彼女は、まさに嵐のようだった。
五歳も年下の四歳児とは思えない知能と行動力で、叔父から聞いた商談の矛盾を一瞬で見抜く。
美しいエルザ様を盾に据えつつ、裏で完璧に糸を引く。
あの狡猾なアークトが、震え上がって逃げ出す姿。
私たちがどれほど泣き寝入りしても叶わなかったことが、彼女の数言で覆る。
(イザベル様……あなたは、聖人なのでしょうか!?
それとも、女神様の化身なのでしょうか!?)
イザベル様が慌てて「一生じゃなくていい」「命まではいらない」と引いていたけれど。
あの方が手配してくれた医者によって順調に回復していく「母の命」。
それだけでなく、学ぶ機会と居場所まで与えてくださるというのだ。
そのすべてを、私は彼女のために捧げると誓ったのだ。
しかも、それだけではない。
後日、イザベル様とエルザ様が「叔父の商会には『内通者』がいるだろう」とのことで、叔父と共に内通者の炙り出しをしたのだ。
炙り出しは簡単だ。
護衛について知っていた者たちは四人。
四人全員を一斉に解雇したのだ。
四人にはそれぞれ、イザベル様とエルザ様から派遣された護衛を見張りに付け、それぞれの動向を探ったら一人、解雇直後にアークトの商会へ向かう者がいた。
…それが、叔父の妻だったのだ。
叔父の妻を捕らえ、尋問したことで分かったことは、叔父の妻はアークトの部下と不倫し、部下に頼まれて教えてしまったということだ。
妻は『脅されて教えた』と言っていたけれど、部下と周りの証言と一致しなかった。
その後、叔父は妻と離婚する方向で話が進んでいるらしい。
内通者以外の三人は、事情を伝えたら商会に戻って来てくれることになった。
事情の説明はイザベル様の護衛の方も一緒だったので、理解してもらえるのが早かった。
こうして商会の件は一段落したのだ。
(全てイザベル様が考えてくださった。私なんかのために…。
イザベル様が与えてくださったことに報いるため、私の全てをイザベル様へ捧げたい!)
私は鏡の前でメイド服を整える。
今日から私は、イザベル様のメイドだ。
この小さな主人がこれから何をしようとも、たとえ世界の理から外れようとも…。
(私はあなたの側で、手足となって、イザベル様に忠誠を誓います。)
そう覚悟を決めた私は、四歳の主人が眠る部屋の扉を、そっと叩いた。




