重さの正体
朝の街は、約束の匂いがした。
焼きたてのパンの香りや、洗濯物の石鹸の匂いに混じって、
言葉にならなかった言葉たちが、湿った空気の中に残っている。
ユイは橋の上で立ち止まった。
川面は曇っていて、自分の姿はぼんやりとしか映らない。
それでも背中の翼だけは、はっきりとした重みで存在を主張していた。
昨日より、確実に一枚増えている。
理由は分かっていた。
昨夜、港で聞いた声だ。
――明日、迎えに来るから。
そう言った男は、もうこの街にいない。
朝の船で出ていったことを、ユイは知っている。
約束が破られた瞬間、羽が生えた。
それは痛みではなく、理解に近かった。
「……やっぱり、そうだよね」
独り言は、川に落ちて消えた。
*
街の人々は、ユイの翼について何も言わない。
見えていない者が大半で、
見えていても「触れてはいけないもの」として扱う。
例外は、あの少年だけだった。
昨日、路地裏でぶつかった時、
彼は一歩も引かなかった。
「重そうだね」
それは同情でも好奇心でもなく、
事実をそのまま置いただけの声だった。
ユイはその言葉が、
ずっと胸の奥で揺れていることに気づく。
重いのは、翼なのか。
それとも、覚えていることそのものなのか。
*
橋を渡りきったところで、
小さな女の子が泣いていた。
「どうしたの?」
声をかけると、少女は顔を上げた。
「ママがね、
すぐ戻るって言ったのに……」
ユイは息を止めた。
その瞬間、背中がきしむ。
まだ、生えていない。
けれど――予感は、もうそこにある。
「一緒に待とうか」
そう言った自分の声が、
少し震えているのを、ユイは聞き逃さなかった。
少女の約束は、
まだ終わっていない。
だから今日の翼は、
これ以上増えてはいけないのだ。
ユイは空を見上げる。
飛べない翼が、風を受けて静かに揺れた。




