きさらぎ駅 ~井戸の底へ~
生暖かい水と果てしなく広がる暗黒の世界。
井戸の底だったはずなのにそこはまるで深海のようで、前後左右不覚で、上下すら分からなくなっていた。
しかし、不思議なことに息は苦しくない。
私はいつからエラ呼吸可能になっただろう。
魚類に転生した覚えはないが少し心配になったので身体をあちこち触って確かめてみる。
鱗もないしヒレもなく、人間の顔も髪も肌も健在だ。
肺に意識をしてみると確かに呼吸はしていないことに今更気づいた……が、よくよく考えれば私と八代は幽世にいるので、そもそも生きているとすら言えない状態だ。
幽世にいる事実を考えれば、呼吸をしていないなんて些末なことのように思えてしまい、なんだかおかしくて笑みがこぼれる。
このまま現世に帰ったら、私と八代の身体はどうなっているのだろうか。
実は肉体はとっくに死んでいたりして?
もしそうだとしたら、死体になった身体に魂だけが戻ってきて復活するだろうか、それとも、死体に戻った瞬間に死が確定し幽世へまた逆戻りしたりする可能性なんて…………。
不可思議な世界で何一つとして事実が分からない以上結論が出るわけもなく、迷路に迷い込んだ思考を面倒に手放した。
ふわふわと漂う私は今、世界中のどこにもいない。
誰からも認知されない、世界と世界の狭間で穏やかに揺蕩う。
孤独と安らぎが同居するその空間で、私は世界と自分を隔てる輪郭が徐々に曖昧になっていく感覚を覚える。
身体の輪郭が曖昧になり、次第に暗闇の海に溶けていく。
意識もまた混濁していく。
遠くからさざ波の音が聴こえてきた。
深海なのに波の音が響くなんて、おかしな世界だな。
薄らいでいく景色。
眠気の波に誘われて、身を委ねるように意識を手放した。




