私1人でも助けに行くから
締めつける手の強さが増していき、息が苦しくなってくる。
紗枝は狂ったように歌を歌い続けながら楽しそうに私の首を絞め続ける。
腕を何度か叩いても全く怯むことなく、鉄筋なのかと錯覚するくらいに固い。
佳代子はというと、目の前の出来事に気が動転しているのか、ヒューヒューと過呼吸のように苦しそうに息を吸ったり吐いたりを繰り返している。
ごめんなさいごめんなさいと中空に向かって何度も呟く彼女を見ながら、あぁもうだめだと他人事のように思った。
酸素不足で薄らいでいく視界に身を委ねようと意識を傾けかけたその時、教室の扉が勢いよく開き、1人の男子が教室内に入ってきた。
「邪気退散清転昇華(邪気は失せ、清気へ転じたまえ)」
外国語だろうか、彼の放った言葉の意味が分からなかった。
ただそれが魔を払うなんらかの効果があったというのははっきりと分かった。
私の首を締め上げている紗枝の両手の力が僅かに緩んだのだ。
その隙をついて紗枝のお腹を思い切り蹴飛ばすと、あっさりと彼女は首から手を離し、私は床に倒れ込んだ。
息を大きく吸い込むと、朦朧とした意識がはっきりとしていく。
教室の扉の前に立っている男子は、神野八代だった。
八代はなんてことなさそうな顔でこちらを見ながら面倒くさそうに呟く。
「祭火、さっさと教室を出た方がいいぞ」
そう言って親指を立てて廊下側に向ける。
さっさと教室を出ろという指示のようだ。
ありがとうと八代に声をかけようとしたが上手く声が出ない。
思考が乱れているせいで簡単な言語でさえ口に出しづらくなっている。
混乱する私を叱るように八代は私の頭を軽くチョップした。
「こんな悪ふざけはもうしないことだな」
たしなめるように言われ、私は背中を押された。
ようやく教室から出ると、一気に身体が軽くなったように感じた。
廊下に差し込む夕日が鮮やかで、さきほどまで感じていた教室内の閉塞感が嘘のようだ。
教室内がまるで別世界だったんじゃないかと思えてくる。
そういえば、佳代子と紗枝はまだその教室の中に取り残されている。
彼女達は大丈夫かと教室の中の様子を恐る恐る覗き込もうとしたが、八代が私の視界を塞ぐように腕を掲げながら教室の外へ向かって歩いてきた。
教室を出た八代は彼女達2人を歯牙にもかけない様子で扉をあっさりと閉めた。
私は彼の信じられないような行いに唖然とする。
「佳代子と紗枝は…………?2人はなんで助けないの…………?どうして?」
私は八代の肩を掴み、訴えかけるように何度も揺さぶる。
彼女達2人はどうなってしまうのか。
なぜ彼女達のことは見捨ててしまうのか。
しかし、八代は先ほどまでとはうって変わったような冷たい目で私を見据える。
「お前は一体さっきから何を言っているんだ。何から彼女達を助けるって?」
彼の問いかけに私は言葉を詰まらせる。
なぜそんな分かり切った事を聞くのだろうか。
「なにって…………、それはこっくりさんとか、悪霊なんじゃないの?」
半信半疑ながらに答える私の言葉に、八代はハッと呆れた顔で半笑いした。
「幽霊……?そんなものがこの世にいるわけないだろ。あいつら2人ともこっくりさんをしながら馬鹿にしたようにそう言っていたじゃないか。祭火は本気で幽霊なんて信じているのか」
小馬鹿にしたようにも思える彼の態度。
確かに八代の発言は常識的でいて、端から見たら私の発言の方が常軌を逸している。
”幽霊”なんて眉唾な存在がさも実在しているかのような私の発言。
しかし、私も彼女達もそれを目の当たりにしていて、八代は実際にその現場に割って入り、対処したのだ。
私をこっくりさんの手から救い出してくれたのだ。
そんな非現実のような事態に遭遇した直後だというのに、なぜ彼は急に常識の皮を被りだしたのか理解できない。
「私1人でも助けに行くから。そこどいて」
教室に再び足を踏み入れようと扉に手をかける。
腕が激しく震えていて、簡単に開けられるはずの扉が開けない。
そんな私の様子を見た八代はため息をついた。
「祭火はあの2人と違って死者を軽んじるような不遜な発言をしなかったから助けたが、また教室に足を踏み入れるというなら俺は止めない。だが、また俺がお前を助けることはないぞ。それに、その教室に足を踏み入れてもここまで無事に帰って来れるとは安易に考えないことだ。そもそもそこにあるのは教室ではなくなっているからな」
それはどういう意味なのだろうか。
疑問が表情に表れていたのだろう。
八代は私の訝しむ顔を見て面倒くさそうに回答する。
「気になるなら入って確かめたらどうだ。群れて騒ぎ立てて強くなった気になって、正義感を盾にして人を馬鹿にしたり見下すような奴なんて痛い目に遭うべきだと俺は思うが、お前が自分の身を挺してまでそんな彼女らを助けたいというのなら、それでたとえ自身に命の危険が及んだとしても、それはお前自身の責任だ。その責を負う覚悟があるなら、……まぁ頑張れ」
八代はそう言って手をひらひらさせながら廊下を歩き去っていった。
彼の言っていることは大いに的を射ていると素直に思う。
つい先ほどまで教室内で繰り広げていた私と彼女達の会話の内容は聞くに堪えないものだ。
罰を受けるべきと言われても仕方ないだろう。
ただ、悪い部分が多分にあるとはいえ、そんな簡単に友人達を切り捨てられるわけがない。
私は決心して教室の扉に手をかける。
深呼吸をして息を整え、勢いよく扉を開いた。
扉の先は真っ暗闇の空間が広がっていた。
そこには机も椅子も、黒板もロッカーも、人工物と言えるものが何一つない。
廊下へ僅かに吹き込んでくる風は冷たく、木々のざわめく音が聞こえてくる。
よく目を凝らして見ると、そこは真夜中の森のようだった。
……………………なんで教室の中が森?
「そんなとこでぼーっと立ちぼうけしてると引きずり込まれるぞ」
遠くから聞こえる八代の気怠そうな警告に顔の向きを変えようとして、突如、ぐっと身体が引っ張られるのを感じた。
……………………え?
身体がくの字になりながら私は教室の中に広がる、どこぞと知れぬ暗い森に引きずり込まれかと思うと、ひとりでに教室の扉が閉まっていき、やがて扉が跡形もなく消えていった。
両足に感じる冷たい土の感触。
底知れない静けさとどこまでも広がる暗闇。
八代と大きく叫んでも彼からの応答はなく、佳代子と紗枝の名前を呼んでも同じだった。
まるでどこでもドアを使ったかのような現実には起こりえないであろう空間移動。
不幸なのは、移動先であるここがどこの森なのか皆目見当もつかないところだ。
スマホの電波は通っておらず、誰かに連絡することもできない。
それから何度も彼らの名前を呼んだがいつまで経っても返事はなく、私はあてもなく真夜中の山を彷徨い歩いた。
視界がかなり悪く、木の枝に身体のあちこちを引っかかれ、ぬかるみに足を取られ、蚊にいくつもの箇所を刺されて泣きそうになりながらもひたすら歩き続けた。
何時間も歩き続けていると、山道らしきところに偶然にもようやく出ることができた。
夜が明け、視界が良くなると山道沿いに立つ案内板が視えるようになり、案内板の指示に従ってようやく山の入り口に出ることができたのは朝の6時頃。
スマホの電波がようやく通ったのを確認してお母さんに急いで電話をすると、お母さんが
堰を切ったように泣きながら私の安否の確認をしてくれた。
あの日の放課後から忽然と姿を消して1週間も経っていたらしく、家族はもちろん、学校側も大騒動になっていたようだ。
佳代子と紗枝も私と同様に失踪していたようだったが、無事どこぞの山中から見つかったらしい。
2人とも私がいた山とは全く違う土地で、別々に無事発見されたようで大きな怪我は特になかったのが救いではあった。
何があったのかと家族、学校、警察に何度も聞かれたが、事情の説明をしようがないのが本当に困った。
事情を説明しようにも、学校でこっくりさんをしていたら神隠しに遭ったなんて言おうものなら異常者扱いをされるに決まっているからだ。
だから適当に旅をしたくなったと嘘をついた。
もちろん、粉微塵になるくらい怒られた。
佳代子と紗枝は事件のショックで口をきけなくなってしまったようで、事情を説明することすらできない状態だった。
そのおかげで誰にも怒られることはなかったようだが、精神状態に異常をきたしてしまった彼女達を見ていると、誰かに怒られる程度で済んだ私は幸運だったと痛感する。
時折、誰もいない空間を指差しては、物陰からこちらをじっと見ている奴がいるとか、家の前で自分が帰ってくるところを見張られていると言いながら酷く怯える彼女達の様子は
見ていて酷く哀れだった。
……まぁ、自業自得と言われればそれまでなのだが。
もちろん、ストーカーなんていない。
私を除いた2人は失踪事件として扱われたのもあって、警察は熱心に警備や街の巡回など色々対応してくれたみたいだったが、ストーカーや変質者など怪しい人物は特に見つからず、やがて彼女達は学校に来なくなった。
八代曰く、私も、彼女達2人もあの一件から幽世の存在と縁ができてしまったため、彼らの存在が”視えて”しまうようになったんだとか。
彼らは生きている人間と通常交わることはないが、霊力のある特殊な体質の人間や何かのきっかけで一度でも幽世と縁ができてしまった者は、彼らが吸い寄せられてしまうらしい。
「あれを見てみろよ」
体育の授業、体力テストで待機時間の間ぼーっとしていると、珍しく八代から声をかけてきた。
八代が指を差す先は学校の屋上。
1人の男子生徒が手摺を乗り越え、今にも飛び降りようとしているところだった。
しかし、それに今気づいているのは八代と私の2人だけ。
「え、止めないとー―――――――」
……………………あ。
息をつく間もなく、男子生徒はあっさりと屋上から飛び降りた。
私は思わず目と耳を塞ぐ。
人体がアスファルトに叩きつけられる生々しい音が鼓膜に響き、潰れたトマトの様に頭部が真っ赤にひしゃげる様を想像して。
そんな私の肩を八代がポンと叩いた。
「何もいないぞ」
男子生徒が落ちた先であるはずの地面には何もなかった。
なるほど。
つまり、これが縁というもので、”視えてしまう”ということなのだろう。
クラスのみんなは何事も起きていない日常の地平の上で平和にトラックを走り、反復横跳びをして、あるいはソフトボール投げをして、記録に一喜一憂している。
連綿と続く何の変哲もない平和な日常を生きている。
私はもう、みんなとは違う世界の上に立ってしまっているのだ。