16年前のあなたへ
程よく私をまどろみの中から引き戻せるくらいの衝撃が後頭部に響く。
眠気で浮ついた頭を上げて薄目で前を見ると、前に体を乗り出して右手を宙に上げている先生がいた。顔を見ると先生は少しご立腹みたいだ。どうやら授業中に居眠りしようとした私は先生に空手チョップを食らったらしい。
「へへ。ごめんなさい。」
笑いながら軽く謝ると、先生は頬を膨らませて「次は怒るからね。」と言った。もう怒ってはいないだろうかとは思ったけどそれは言わない。
このやりとりが先生との毎回の定番。
先生はこの一か月くらい、私の家庭教師として私に授業をしてくれている。26歳で10才の私よりもはるかに大人だ。長くてきれいな髪を結って肩に垂らすスタイルに、シャツにカーディガンがお決まりの見るからに頭のよさそうでお上品な女の人。大人の女性に憧れる私にとってまさに理想の女性像だ。
実際、先生の授業はすごくわかりやすい。昔先生も同じ単元が苦手だったらしく、その時の家庭教師の先生に懇切丁寧に教えてもらってできるようになったのだと。その先生の教え方をそのまま私にやっているらしい。その先生もすごく頭がいいんだなと私は感心した。
だけど私が先生を気に入ったのはそんなお勉強の話じゃない。先生とは話がよく合う。もうまるで私自身と話しているのかと錯覚してしまうくらい。ゲーム、動画、本、芸能人はもちろんのこと、友達関係、家族の話まで。最初はあまりに話が合い過ぎている気もして違和感を感じたけど、単純な私はその居心地の良さにどうでもよくなって今ではほとんど気にすることもなくなった。
そして何より先生はとにかく優しい。怒ってもほとんど怖くない。これはあたりの先生だと思った。
「こら、ちゃんと問題を解いて。」
先生に怒られてしまった。案の定あまり怒気は感じられないが。先生のことを考えていて手が完全に止まっていたみたい。
私は鉛筆を握り直して再び問題に向き合う。今日の残りは国語の時間。国語は好きだ。普段から本はよく読んでいるし、最近は先生に影響されてさらに拍車がかかっている。字を書くのも好きだから国語の成績はクラスの中でもいい方・・・
「ここ、名前の字間違ってるよ。」
・・・本当だ。私の名前「池田明來」が「明来」になっている。面目丸つぶれだ。私の名前は旧字体というものが使われているのだとお母さんに聞いたことがあるけど、さすがに学校で習わない漢字は書き忘れることがある。この間違いは学校の先生にも気づかれないことの方が多い。両親と先生だけが絶対に気付く間違いだ。
名前を書き直して再び問題に取り掛かる。といっても基本的には国語で躓くことはない。先生も国語の時間は基本的に私が解き進めるのを見守るだけで、たまに間違いを教えてくれる程度。今もお母さんから差し入れされたホットミルクティーのマグカップを両手で持って温まっている。
「先生ってミルクティー好きだよね。私も大好きなんだ。」
「そうだね、ミルクティーが一番好きかも。昔お母さんがよく作ってくれたんだけど明來ちゃんのお母さんが作るミルクティーがその味と一緒なの。だから余計に好きかもね。」
先生はなんだか懐かしそうな顔をして言う。
私はふとさっきの先生と差し入れを持ってきたお母さんの会話を思い出した。先生はさっき母と会話をしているとき涙ぐんでいるような気がした。しかも普段はお母さんのことを下の名前に「さん」付けで呼んでいたのに、今日は「お母さん」と言いかけて普段通りに言い直していた。私も学校の先生を間違えて「お母さん」と呼んでクラスの子たちにからかわれたことがあって、その時は恥ずかし過ぎて泣きそうになってしまった。先生にもそんなことがあるのだろうか。
「先生さっきお母さんと話してるとき泣きそうになってなかった?」
「あー。うん、少し昔のこと思い出してね。うるって来ちゃった。」
「あーやっぱり?うちのお母さんのこと「お母さん」って言ってたし。恥ずかしかったんだね。」
「え?あ、あぁそうなんだよね。昔学校の先生に同じ言い間違いをしたからそれ思い出しちゃった。」
やっぱりそうなのか。先生も私みたいな間違いをするんだと思うと少し嬉しくなった。
少し経って私は時間よりもだいぶ早く国語の問題を解き終えた。やはり我ながら私は国語が得意だ。名前を書く以外は。解いている最中先生の顔が暗い表情になっていく気がしたが、さっきの「お母さん」事件があったので特段触れることはしなかった。恥ずかしいことは触れられたくないのはよくわかっている。
「先生、丸付けお願いしまーす。」
「はい、おつかれさま。」
先生に問題を手渡し丸付けしてもらう。先生はさっきまでと違って温かい顔で丸を付けていく。結果は満点だった。さすが私。
「さすが明來ちゃんだね。」
先生もそう言ってくれた。すると先生は私が待ちに待っていたことを言ってくれた。
「やることも全部終わったし、少し早いけど今日の授業はここまでにしよっか。」
「本当!?やったー!」
先生の授業ではたまに早く終わる日がある。そして終わった後は先生との女子トークに花を咲かせるのだ。
大人の女性に憧れる私にとって先生の話は貴重な情報だった。本当は恋愛についても話したいけど、自分のこととなるとどうしても恥ずかしくて中々話せなかった。
今日は明日友達と出かけるからその時に着る服を選んでもらおうかと思った。先生はおしゃれだからきっとかわいい服を選んでくれると思う。
私がそんなことを考えてうきうきしていると、先生が言った。
「ちょっと私と大事なお話しない?」
そう言う先生の顔は少し暗い。
女子トークはお預けらしい。突然改まってどうしたんだろう。そんなに重大な話なのか?
「急にどうしたの?大事な話?」
私は訝しみながらも先生の話を聞く姿勢を整える。
「明來ちゃん、実は私今日で家庭教師は最後なの。」
「へ?」
私はあまりに突然な先生のカミングアウトに変な声を出してしまった。今までそんなそぶりは一切見られなかったのに。
「え、な、なんで?ど、どうして急に辞めちゃうの?」
「ごめんね、今日まで黙ってて。明來ちゃんと最後まで楽しくいたいなと思ったら最後まで言い出せなかった。」
大事な話ってどんなのだろうかと思っていたら、私が思っていたよりもはるかに大事な話だった。驚きでうまく言葉が出ない
私は本当に先生が大好きだった。だからすぐには事実を呑み込めなかった。大好きな先生がいなくなるなんて嫌だ。
動揺する私を横目に先生は続けた。
「でもね、本当に大事なのはこの話じゃないの。」
私は混乱する。先生がいなくなることよりも大事な話があるのか。
「突拍子のない話をするけど最後まで聞いてくれる?」
私はとにかく頷くことしかできない。
「明來ちゃんは、自分の未来はどうなっていると思う?」
「私の未来?」
私の未来?夢のことだろうか?どうだろう、深くは考えたことはなかったけど、強いて言うならお嫁さんとか小説家だとかそういったものだろうか。
「多分、今の時期の明來ちゃんならお嫁さんだとか小説家さんになりたいと思ってるんじゃないかな。」
ドキッとした。確かに頭の中でそう思ったけど言葉には出していない。心を見透かされているのか、どうして先生は私が考えていることがわかったんだろう。
「なんで考えてることが分かったの?」
「わかるよ。私も昔そう思っていたから。誰か運命の人のお嫁さんになって、子供もいて、売れっ子の小説家さんになるんだって。」
先生は俯きがちに悲しそうな顔で淡々と続ける。先生の真意がわからない。
「でもね、その未来は来ないの。」
先生が突然ひどいことを言う。なんでそんなことを言うんだろう。別に私の未来を見て来たわけでもないくせに。
「なんでって思うよね。見て来たわけでもないのにって。でも絶対に来ないの。これはあなたの努力不足だとか夢が変わったとかそういう話じゃないの。」
「なんでそんなひどいこと言うの?!」
私は机を叩いて声を荒げて先生に抗議した。静かな家に私の声が響く。お母さんは少し前から買い出しに行っていて、私の部屋に様子を窺いに来る人は誰もいない。
先生に何がわかるんだ。大好きな先生に突然未来や夢も否定されて、私は怒りと悲しみの感情でぐちゃぐちゃになって少し泣いていた。
先生は申し訳なさそうにしていたが、言葉を止めることはしなかった。
「わかるの。だって私はあなただから。“16年後”の池田明來だから。あなたの未来を生きているから、だからわかるの。」
先生のあまりにぶっ飛んだ発言に私は耳を疑った。先生が私?先生が何を言いたいのかますますわからない。
「先生が未来の私?さっきから何を言ってるの?」
「証拠と言っていいかわからないけど私、あなたのことは全部わかるの。例えば学校で一番仲のいい友達は同じクラスで、幼稚園から一緒のリカちゃんと小学校に上がってからの友達のチカちゃん。確か三人で明日お出かけをする予定だよね。」
「どうして二人のことを・・・?」
その通りだ。でも確かに二人のことを先生に話したことはあるが、いつからの友達なのかとか明日の予定だとかは話していないはずだった。
「そしてあなたは今同じクラスのシュンくんが気になってる。先生を「お母さん」と呼び間違えて男子にからかわれたのを助けてくれたから。」
なぜそれを知っているのかと私は驚いた。シュン君の話は私の絶対の秘密だ。先生にはもちろん、お母さんやリカちゃんとチカちゃんにも話したことはない。私の心の中にしまっている大事な秘密。
他にも先生は私とその周囲くらいしか知らない話をたくさん出してきた。私が今日お気に入りの消しゴムをなくしたこと、昨日算数のテストの結果を隠したことがばれてお母さんに怒られたこととか。中には先生が知る由もない何年も前のこともいくつかあった。
段々私は先生の言っていることが本当なのかもしれないと感じられてきた。そもそも先生はそんなおかしな冗談を言う人じゃなかった。今もこの雰囲気から先生は真剣に話している。
今まで話が合う、居心地がいい、自分と話しているように感じられたのは、話し相手が本当に未来の自分だったからなのか?
「多分そろそろ信じてきてくれてるよね。それじゃあ話を次に進めようか。」
もう私は先生の話を黙って聞くことしかできない。
「あなたはタイムマシーンって実現すると思う?」
もう訳が分からない。タイムマシーン?実現したら面白いなと思ったことはあるが本当に実現するのかは怪しいものだと思っている。
「今から16年後にね、実現するの。厳密にいえばよく聞くタイムマシーンとは違うんだけど。」
「できるの?タイムマシーンが?」
タイムマシーンの実現はとても難しいと聞いたことがある。それがたった16年で実現なんて本当なのか?でも“よく聞くの“とは違うと先生は言った。どういうことだ?
「そう。でもね、16年後の技術ではまだ自由に過去へ時間を移動することはできないの。未来へ行くのに比べて過去へ行くのは技術的にはるかに問題が多いから。時間の流れに逆らって、しかも膨大な時間の情報を処理するのはまだ難しいの。」
私も本を読んでいてすごく簡単にだけどそういう話は聞いたことがあった。確か浦島太郎とか相対性理論がどうとかいう話だった気がするが、10才の私には少し難しい話だった。多分16年後の私も私の理解力がギリギリ追いつくくらいの簡単な説明をしてくれている。
「それでね、頭のいい人たちは私たちの“記憶“に目を付けたの。私たちの頭の中から”一か月分“の記憶を抽出して時間の流れに照らし合わせるの。そうすればコンピューターは私たちの記憶の中の一か月だけを処理すればよくなって、過去で一か月経過するとシステムが自動的に私たちを現在へ連れ戻すの。これで人類は限定的にだけど過去へも行けるようになった。これが人類初のタイムマシーンの完成。人類が実現を急いだ結果の妥協の代物だけど。時間を自在に行き来する本物のタイムマシーンは私たちが生きてる間に実現はしないって言われてる。」
人の頭から記憶を抜き出すという言葉に私は少し恐怖を覚えた。どうやって抜き出すのかまで16年後の私は話してくれなかった。頭に穴をあけたり、電気を流したりするんだろうか。
科学的な話が好きな私は16年後の私の話に引き込まれつつあり、さっきまでの動揺は知的好奇心に上書きされていた。
「でもね、このシステムは制限が大きいの。まずこのシステムでは最大でも16年前までしか戻れない。そして16年前に戻ってきた私は16年前の私がその一か月に実際に行動した範囲でしか行動できない。記憶の範囲の外に出ようとすると途端に目の前がテレビの砂嵐みたいになって記憶の世界の中に戻されるの。例えばこの一か月の間にあなたがおばあちゃんの家に行ってないのに私だけがそこへ行くことはできないってこと。」
16年後の私は「妥協の代物」と言っていた。だから16年戻れるだけでもみんな大喜びだったんだろう。
そして私はこの一か月間、16年後の私からプライベートな話を特に聞いたことがなかった。いつも話すのは昔のこと。当日や前日、前々日とかの話はしてくれなかった。それは私の一か月から出られないから、16年後の私は何もできなかったのか。
タイムマシーンの話を聞いて私は一つ気づいたことがある。
「もしかして、今日が一か月の最後の日なの?」
「そうなの、察しがいいね。日が沈んだら私は未来に戻されるの。」
やっぱりそうだ。16年後の私が家庭教師になってから今日でちょうど一か月だ。未来に戻されてしまうから、今日で家庭教師を辞めるし私に自分の正体を明かしているんだ。
でも先生の真意がやっぱりわからない。
「でも、先生は私にそんな話をしてどうしたいの?先生が未来の私とかタイムマシーンの話とか、もう信じるけど先生が何考えてるかわからないよ。」
「ごめんね、そうだよね。前置きが長くなったね。そろそろ本題を話そうかな。あなたの未来、私が生きてる16年後について。」
そうだった。突拍子のない話ばかりされて忘れていたが、私はさっき目の前の自分に将来を否定されたばかりだった。私はもう何を言われても驚かないと決めて16年後の私の話を聞く。
「あなたは未来で、そして私には今なにもないの。」
・・・は?
「あなたはこれからの未来で全部失うのよ。家族も友達も好きな人も全部。」
悪い冗談はやめてほしい。さすがに今度こそは嘘に決まってる。
「とてもこんな話信じられないと思う。私も今の自分を信じたくない。でも実際にそうなってしまったから。」
16年後の私は至極真剣な表情だ。とても信じたくない、信じたくないがこれも嘘じゃないらしい。
「・・・私ね、お母さんに会えて嬉しかったの。16年前のお母さんと同じまんまで。ミルクティーの味も変わらない。もう何年もお母さんに会えてなかったら。」
16年後の私は泣いてしまいそうだ。
16年後の私がさっき涙ぐんでいたのは久しぶりの再会だったからで、「お母さん」と呼び間違えていたのも本当に自分のお母さんだったから。何が私と同じなんだろう。知らなかったとはいえ私の浅はかさが嫌になる。
「でもどうしてそんなことに?何が原因なの?どうしたらそうならないの?」
そうだ。16年後の私なら何が原因で不幸な目に会うのかわかるはずだ。私がこれからの未来でそれを回避すればそんな最悪な未来は来ないはずだと思った。
「わからないの。なにも、わからないの。」
「原因がわからない?そんなわけない。未来から来たんでしょ?」
私は自分に捲し立てる。すると16年後の私は重々しく口を開く。
「私もね、実は10才の時にあなたと同じ体験をしてるのよ。16年後から来た私だっていう家庭教師の先生に、いきなり未来を否定されて、タイムマシーンの話をされたの。
そして私もあなたと同じことを考えて、今私が話したことをそのまま16年後の私に言われたの。」
いや、待って。16年後の私も同じ体験?今までの会話をそっくりそのまましてきた?ということは16年後の私が話した16年後の私も同じ経験が・・・ダメだ、考え始めたら頭がおかしくなる。でも、今目の前にいる16年後の私の話の結末になんだかすごく嫌な予感がする。
すると先生はカバンの中から何冊かのくたびれた分厚めの手帳を取り出した。日記帳はすべてデザインが違っていた。今日はやけに荷物が多いなと思っていたけど、それを持ってきていたからなのか。
「これ、読んでみて。」
表紙には「日記」と書いてあった。私は手渡された日記帳にざっと目を通す。
今日から始まる日記にはまさしく今のことが書いてある。そして次の日のページから黒字の文章に赤字で訂正が入るようになる。例えば、明日の三人のお出かけの行き先が黒字では「最寄りのショッピングモール」なのが、赤字で「東京のショッピングモール」に書き換えられているという具合に。東京までは私の家からだと少しかかる。中にはすべて赤字で書き換えられているページもあった。それが毎日欠かさず16年間分。
私はこの日記帳が何なのか大体見当がついていた。これはおそらく、
「これはね私が16年後の自分から引き継いだ日記帳なの。毎日、そこに書かれていることと少し違う行動をするの。時には全く違う行動も。そうすれば未来が変わるんじゃないかと信じて。」
私は日記の最後、16年目の最後のページを読む。そこには黒字で未来の私がすべて失う経緯が事細かに書いてある。そしてその上から赤字で違う経緯で上書きされている。
「私は原因を回避したと思ったの。でもね、すぐに別のことが起こって私は結局・・・。
ねえ、これがどういうことかわかる?」
16年後の私が何を言おうとしているのか理解したくなかった。そんな絶望させられるようなことを聞きたくなかった。
「たぶん、私たちは結局最後には同じ結末に必ず行き着く運命になってるの。例えどうあがいても変えられることのできない、普段みんなが軽々しく言う“運命”とは比べ物にならない牢屋のように閉じられた“運命”。」
血の気が引いていくのがわかった。自分の頭で到底理解のできない無限のスケールに対する漠然とした恐怖を私は感じている。16年後の私の話をそのまま受け止めるなら、恐らくこの連鎖に始まりなんてない。無限に同じことが繰り返されている。私で何人目とかそんな概念の話じゃない。ただ結末に至る原因が少し違うだけ。
「でもね、私諦めきれなくてこれでもその運命から抜け出せないかと努力したの。私が、未来の自分が見落とした何か重大な予兆があるんじゃないかって。だから私は何度もタイムマシーンを使ったの。」
だからタイムマシーンの話をしたのか。
「でも、“私の番“でもなにも見つけられなかった。そうこうしている内に、タイムマシーンの回数制限が来てしまった。タイムマシーンは人の頭に大きな負担をかけるから、あまり使い過ぎるとその人は空っぽになるんだって。だから、私は最後の一回であなたに会いに来たの。」
タイムマシーンに対する私の恐怖はどうやら正解だったらしい。16年後の私は回数制限ぎりぎりまで使ったということは見た目によらずその体に負っているダメージは相当なものなのかもしれない。そうまでして私に会いに来た理由なんて一つしかない。
「たぶん私のことだから大体の見当はついてると思うけど、あなたに大事なお願いがあるの。」
先生が再びカバンからさっきの日記帳同じ冊数の同じデザインの日記帳を出した。こっちの方はまだ比較的きれいだ。中身は黒字の文章だけが書かれている。
「これは私が16年間書き留めた日記帳。あなたに私に代わって未来を変える術を見つけて欲しい。私や、その前の私のように。」
わかってはいたが、いざ聞いてみるとやはりすごく怖い。今まで何人もの私が解決できなかったことが私の番になって解決できる気が全くしなかった。
「ヒントを何も教えてあげられないし、私が直接手を下すことができなくてごめんなさい。私にできることはあなたをそうさせるように仕向けることだけだから。」
多分これもタイムマシーンの制限なんだろう。親殺しのパラドックスのような。多分16年後の私が直接干渉すれば世界が崩壊するとかそんなところだろう。
「本当に無責任なお願いだとは思う。でも、お願い。この世界から私たちを消して欲しいの。あなたに幸せになってほしいの」
16年後の私は最後の希望で私に会いに来たんだ。次の自分に希望を託せば何か変わるかもしれないと信じて。私はこういうのを表すのにちょうどいい言葉を本で読んで知っている。そして16年後の私も同じ。
「私たちのために“呪い“を引き受けて。」
そう、これは無限に続く“呪いだ”。
私はすぐに答えを言うことができなかった。でも16年後の私はそんな私を悲しげだけど温かい眼差しで見ていた。まるで私の葛藤が自分事のようにわかるかのような表情だった。
結局私は答えを出せぬままに本来の授業の終わりの時間が来た。このまま16年後の私を一人で返すのは忍びないと思った私は、先生を近くまで見送ると言って、16年後の私と家を出た。
お母さんは仕方がないという顔で許してくれた。16年後の私は実の母親との最後の会話をかみしめるように大切に言葉を紡いでいた。16年後の私はもう二度とお母さんに合うことはできない。家を出てから先生は大粒の涙を流していた。これが自分の未来だと考えると私は心が張り裂けそうだった。
私は近くのバス停まで私を送る。空は茜色に染まり、もうすぐ日が沈む頃だ。タイムリミットが近い。
私はこの一か月の先生、もとい自分との思い出を振り返る。
「この道を歩くの久しぶりだな。昔と変わらないね。」
「そりゃそうだよ。ここは先生にとって昔でしょ。」
「ふふ、そうだね。」
「でも、私ちょっと嬉しいな。私、大きくなったらそんなきれいな人になれるんだね。」
「ふふ。私でもびっくり。まさかこんな風になれるなんてね。」
デリカシーがないかもしれないと思った。でもこんなことでも未来に希望を持たないと私はつぶれてしまいそうだ。16年後の私はそんな他愛もないとは少し違う会話にも付き合ってくれた。
バス停に着いた。16年後の私はバスの中で未来に帰るつもりらしい。その方がドラマチックだからと。
バスが来るまでもう少しだけ時間がある。
「今日はびっくりする話をたくさんしちゃったよね。」
「本当にね。私もうどうすればいいかわかんないよ。私で何か変えられるの?」
「それはわからない。変わらない可能性の方が高いと思う。」
16年後の私ははっきりと言った。
「でもね、今まで何度も私たちが未来を繰り返してきて、その度に結末までの至り方は少しずつ変わってきてる。未来が曲がりなりにも変化してるの。ということはこれから先、その変化が積もり積もって未来が大きく変わる番が来るかもしれない。だから、私の番で変化を絶やすわけにはいかないの。」
かなり楽天的な考えだと思った。しかも幸せになれるのは自分じゃない。そんなの嫌じゃないのか。
「でも、先生の番じゃ幸せになれないんだよ?」
「確かにね。でも、いつか別の私が幸せになればそれまでの不幸な私たちは消えてなくなる。そうすれば実質私は幸せになれたってことになると思うの。」
消えてなくなる。また怖いことを言う。
「消えてなくなるって怖くないの?自分がどうなるかわかんないんだよ?」
「怖いよ。たぶん、死ぬより怖いかも。」
当然だ。
「でもね、私がどうなるかより、私の大切な人たちが死ぬ方が嫌なの。」
私ははっとした。未来の私たちは確かに自分が幸せになりたいと願った。でも自分の幸せなんて建前でしかないんだ。本当はみんなに生きていて欲しいんだ。お母さんやお父さん、そして未来の旦那さんだとか子供だとか。大事な人たちが確定で死ぬ未来なんて受け入れられない。
私の心は決まった。
「私、やるよ。先生の呪いを引き継ぐよ。」
先生は優しく微笑んだ。
「ありがとう。きっと、私の分まで幸せになって。」
「うん。絶対に幸せになる。」
私が決意を固めるとバスがやってきた。16年後の私はバスに乗り込むとこっちを振り返って、
「それじゃあ、元気でね。」
と言った。おかしな感じだ。未来の私に健康を気遣われるなんて。
「先生も元気でね。」
先生との別れに悲しさはあった。でも将来私が先生になるんだと思うと悲しさも少しはまぎれた。
バスの戸が閉まり発車する。16年後の私は最後まで微笑んでいた。
そして日が沈んだ。16年後の私は未来に連れ戻され、私は現在に取り残された。まだ未来への大きな不安はあったが、私は前を向いて歩きだす。
家への帰り道を少し外れて近所の本屋に向かう。そして私は家に置いてきた、未来の私から引き継いだ日記帳の、日付が今日から始まっていたものと全く同じデザインの新品の日記帳を一冊手に取った。
―16年後―
私は目の前で居眠りしようとする10歳の女の子の後頭部に優しく空手チョップを食らわせた。
カバンの中には16年分の日記帳が2セット入っている。
閉じられた円環