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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

笑恋(わらこい)  私♀と相方♂は同じ男を好きになった

作者: 猫町鈴


  起

 私たちは勝つ。グランプリを穫る。勝たなければならないのだ。このままだと人気だけで終わる薄っぺらいお笑いコンビだ。


「第10回・お笑い新人グランプリ! デビューから5年目までのお笑いコンビ・グループに出場権が与えられ、本日の決戦大会には、厳しい予選を勝ち抜いた12組がノミネートされ、決勝にはこの4組が勝ち残りました!」この4組の中から、お笑い新人グランプリを手にするのは果たしてどのコンビなのでしょうか!」

 なにわテレビの人気アナウンサーである山下さんの声に続いて、もったいつけた電子音が鳴る。

審査員が5人いて、一人が100点満点で採点をしているので、500点満点である。

決勝戦に残ったのは、4組。女性コンビ『ココナッツ』、動きの多い漫才が人気の『あめんぼあかいな』、もちろん本物の兄弟『黒田兄弟』、そして私たち『大阪キャッツ』。

私たちそれぞれの頭上に得点が表示される電光掲示板があり、まもなく得点が同時に表示されるのだ。緊張を煽る電子音が心臓のドキドキを倍増させる。

私は緊張のあまり気絶しそうだ。顔がビリケンさんそっくりになっていることも、多汗症気味の手が洗ったようにビショビショになっていることもわかっている。でも、自分の意志ではどうすることもできないのだ。

 私は、戸田沙也加(とださやか)。19歳。小さい頃からお笑いが大好きで、おじいちゃんにお笑いの劇場に連れていってもらうことが何よりも楽しみという変な子供だった。

 中学生になったある日、自分が思いついたままのコントをノートに書いて、それをおじいちゃんに見せると、おじいちゃんが『沙也加はお笑いの天才や!』と、うれしそうに頬ずりをして抱きしめてくれた。それで調子に乗った私は、暇さえあればコントや漫才の筋書きばかりを考えていたが、高校に入学した頃、自分でお笑いをやるのが一番手っ取り早いことにやっと気付いた。

 そして、お笑い芸人養成所のオーディションを受けに行った。しかし、思いっきりスベりまくって、やっぱり自分は表に立つキャラではないと半泣きでしゃがみ込んだ時、今の相方が、私の背中をポンと叩いて、「戸田さん、希少キャラやん!」と、微笑みかけてくれた。

 結果的には、そのオーディションには何とか引っかかり養成所には入れてもらった。しかし、私がブサイクキャラ、いや実際にブサイクだったばっかりに、これでもかというくらい男連中から粗末に扱われた。そして、『コイツらを絶対に見返してやる』と私はひそかに誓ったのだ。

 それでも、悪いことばかりではなく、私は最高の相方とコンビを組ませてもらうことになり、思いがけずラッキーなスタートを切った。

 私と相方である吉川秋実(よしかわあきみ)が、お笑いタレント養成所で知り合ったのは、まだふたりが高校2年生の時だった。

 どこにでもある紺色の制服姿で学校帰りに現れる秋実は、みんなの視線を集めた。

 高校生という若さだけではない。ルックスのよさだけでもない。同じ高校生の私から見ても、秋実には何とも言えない独特の魅力があった。

 アイドルみたいにかわいい癖に、お笑いのツボを知っていた。負けん気が強いし、演技力が飛び抜けて素晴らしい上に、秋実には持って生まれたカリスマ性のようなものがあった。

 なんで、お笑いなん? アイドルになったらええやん!

  そう思ったのは、私だけではないはずだ。一方、秋実は私にこう言った。

「戸田さんの顔と体はお笑いをするためにあるんや」

 

 ふたりをコンビにしようと考えたのは、今の私たちの担当マネージャー、月原さんだ。

 あれから、一年半……。月原さんの『このふたりを組ませたらイケる!』という直感が正しかったのなら今、グランプリ受賞者として『大阪キャッツ』の名前が呼ばれるだろう。

 大阪キャッツ……ふたりとも猫が大好きだという単純な理由でつけられたコンビ名だけど、ふたりのお笑いへの想い、コンビ愛のすべてがこの名前に込められているのだ。

「沙也加、もしかして震えてるんちゃう?」

 その秋実の声で、私の数秒間の追想はピタッと停止した。

 私の隣に立っている秋実は、コントで着用した女子高生の衣装のままだ。

 グレンチェックのミニスカートにハイソックス。白いブラウスの上に紺色のベスト、エンジのリボンという服装がとても似合っている。髪は生まれつき少し茶色いさらさらのセミショートで、173センチの私より10センチ以上背が低く、体重だって45キロくらいしかないはずだ。

 それにしても、ミニスカートがとてもよく似合う形のいい秋実の足……。

 私も痩せたら、こんなきれいな足になれるのだろうか。いや、それは無理だ。そもそも私たちは骨組みが違う。なんで、女の私が骨太で男の秋実が骨細やねん!

 女の子だったとしても、最上級のかわいいルックスを持ちながら、なんと、この相方である吉川秋実は私と同学年の男の子なのだ。

 そのかわいい女子高生のそばにいる私はと言えば、コントで高校教師を演じたので、ダサいグレーのスーツに禿頭のヅラをかぶっている。悲しいくらい小汚いが、これぞ私の定番人気キャラだ。

 大阪キャッツのコントは、大半が性別逆転の設定になっていて、秋実が今風の女の子を演じ、私が大阪のオッサンを演じる。そして、コント台本を書くのも、私の役目だ。

 世の中の大人が、今時の若い子たちに感じている不満や驚きを大袈裟にアレンジしてコント仕立てにしている。それが大阪キャッツのウリだ。

漫才もたまにはするのだが、私たちが人気を得たスタートは、このパターンのコントだったので、今回の新人グランプリ決戦大会では、自信作であるコントを演じた。

 いやあ、それにしても、秋実の女装はいつも見事だ。女装というのは意外とむずかしくて、お目々パッチリでくっきり顔のいわゆるイケメンがやっても、ぜんぜんきれいにならない。男性が女装したというのがあからさまで、気持ち悪いだけなのだ。秋実のように奥2重のあまり大きくない目で、鼻筋がきれいで唇はぽってりとした小顔の子が女装には最適だ。彼の場合、それらに加えて華奢で肌がきれいなので、申し分ない。

 私はふと思う。もし、相方が秋実でなかったら、私はこんなに次々とコント台本を書くことができただろうか。いや、無理だ。私は、秋実にイマジネーションをかき立てられ、100本以上のコントを書いた。

 『醜・美』『太・細』と、あまりにも対称的なふたりのキャラだからこそ、月原さんは、私たちにコンビを組ませたのだろう。

 事実、私たちが一年半という短い期間でここまで名前が売れて仕事が増えたのは、私と秋実だったからだ。他の組み合わせでは、これほど売れなかったに違いない。

 今時の女の子にはありえない私の頑丈な体と、絶対に同性からやっかみを受けない私の顔、それとは真逆の華奢できれいな秋実……。

 今日も、秋実目当ての女性ファンが客席には大勢詰めかけ『キャー! 秋実』と黄色い声援を飛ばしている。

 秋実は今、私と同じように死ぬほど緊張しているのだろうか。いや、彼に限って緊張なんてことは一生ない。私は、秋実の表情をチラッと盗み見た。あっ、来てる、来てる、アザトカワイイの神様がおりて来てるわ〜。

「アンタ、もう泣く準備してるやろ?」私が秋実の脇を肘で軽くつつくと、秋実はお茶目な流し目で私を見て、うんうんと頷く。

小心者の私と大胆不敵な秋実。私が19年生きてきて学んだことは、人間のルックスは、その人の性格までも決定してしまうということだ。

 その証明のように、私の隣にいる相方はいつも強気なのだ。美しい分、アグレッシブに生きている。

 まさに秋実は、ステージで脚光を浴びるために生まれてきたのだ。


 電子音と得点が止まった!!

 山下アナウンサーの興奮気味な声が得点を発表していく。

『ココナッツ』の得点は457点『あめんぼあかいな』460点、黒田兄弟は472点、最後は『大阪キャッツ』485点…ということは! 栄えあるお笑い新人グランプリは『大阪キャッツに決定致しました!」

 会場からは大きな拍手はもちろん、叫び声に近い秋実ファンの声援が最高潮に達した。 

 ほんとうに私たちの名前が呼ばれたのだ。私は相方に笑顔を向けた。 えっ!?

 やっぱり泣く準備はできてたんや。さすが、秋実君! アンタはすごい! 

 秋実の目からは、あれよあれよという間に大粒の涙がこぼれ落ちた。そして彼は、私の腕を両手でしっかり掴み、私の肉厚な胸に顔を埋めた。すると、秋実らしいしぐさにファンの悲鳴がホール中に湧いた。

 秋実はどんな時でも、すべて計算し尽くしている。

 私は、男らしくガッツポーズをし、禿げヅラを取って、客席に投げた。「キャー!」

秋実に対してのそれとは種類の違う『キモい!』を訴える悲鳴が、私をわくわくさせる。

 決勝で演じたコントは、今どきの高校生の間違った日本語や略語を国語教師が授業中に正そうとするが、一度生徒の真似をしたことがきっかけで、そのリズムや耳障りのよさに目覚めていく…という筋書きだ。ハイテンポな会話のやり取りを駆使して、見ている人が勢いで笑い続けてしまうように、試行錯誤を繰り返した。

 表彰式が始まる。審査委員長の信太師匠がにこやかに近づいてきた。

「大阪キャッツ、おめでとう!」

 浪速信太師匠……元・人気漫才コンビのツッコミ役である大先輩が、最高の笑顔でガラス製のトロフィーを私に授与し、秋実に握手を求めた。

 信太師匠は、今日の審査委員長でもある。審査員は信太師匠と、この番組を生中継したなにわテレビの伊達プロデューサー、あとは、歴代のグランプリ受賞者3組だ。

 泣きじゃくる秋実がこの信太師匠に抱きつき、ファンがまた『キャー!』という奇声を発した。

 これもきっと、秋実の計算だ。実際、秋実もうれしいのだろうが、そんなことよりも、どうやったら自分が感動しているように見えるかを考え尽くしているのだ。

 審査委員長である信太師匠が講評を始めた。

「ほんま、みんな、それぞれに個性があって、素晴らしかった。大阪キャッツがグランプリに輝いた決め手はただひとつ。今まで絶対になかったお笑いやということです。私たちの若い頃は、男女コンビで売れるのは夫婦くらいやと相場が決まってた。最近では夫婦でない男女コンビも出てくるけど、大阪キャッツのふたりはね、コントの途中で、なんか独特の絆が見え隠れするんです。あれは何やろ? まあ何よりも君たちはふたりとも19歳や。今日僕たちは、お笑いの進化を目の当たりにして、大きな刺激をもらいまいした。それにしても、秋実君は美しいなあ。それに引き替え沙也加ちゃんは……あかんあかん、これは今時言うたらあかんことでした」

 師匠が私たちの顔をまじまじと見比べ、会場に大きな笑いが起きる。

 秋実は指先で涙を拭いながら、他の出演者たちにも会釈した。私もつられて会釈しながら、他の出演者の表情をうかがったが、拍手しているみんなの目が恐ろしく冷たい。

 確かに、顔はひきつりながらも、プロ根性で何とか笑顔を作っている。でも、心の中は無念でいっぱいのはず。なぜなら、彼らは800組ほどの中から決勝戦まで残った強豪なのだ。

 20代半ばの女性コンビ『ココナッツ』のカオルは、くやしさで今にも泣き出しそうだ。彼女たちだって、グランプリを取ってもおかしくないくらい、今、大変な売れっ子なのだ。

 カオルの大きめの鼻の穴がピクピク動いている。普段から私たちに対してライバル心が見え見えで感じの悪い女だから、楽屋に戻ったら、睨み付けられるか嫌みを言われるかのどちらかだ。

 男性コンビ『あめんぼあかいな』は実力もあるし、全国ネットで活躍しているので知名度もある。実際、私は楽屋のモニターで彼らの漫才を見て、涙を流して笑ってしまった。

 サトルにいさんの強く握った拳が、いかにもくやしそうに細かく震えている。

『黒田兄弟』に関しては、2位なのに、私たちとこんなに差が開いたこともショックだったに違いない。

 私たちコンビには、努力の上に、少しだけ運があったのだ。そしてもうひとつ、大きな勝因は吉川秋実のスター性だ。

 実は、秋実はすでに映画の主役にも抜擢され、もうすぐ撮影に入る予定だ。

 その映画は、ベストセラー作家、岩田京の『青い落ち葉』という小説が原作なのだが、私は岩田京の大ファンで、以前から彼の作品を読みあさっている。秋実が演じることになっている主人公は、病的にマゾな娼夫だ。原作を読んだ時、その主人公の魅力に私は萌え萌えになった。

 だから、秋実がその役を射止めるなんて、私も自分のことのようにうれしくて、この映画の完成がとても楽しみだ。何より、若手俳優なんて掃いて捨てるほどいるのに、よりにもよってお笑いの世界から吉川秋実を主役に抜擢した山野監督は天才だ。私が監督だったとしても、絶対に秋実を選んでいただろう。

 他の俳優ではだめなのだ。滑舌がよく、ハキハキ、テキパキと素晴らしい腹式呼吸でそつなくせりふをこなしてもピンとこないし、顔が整って濃すぎてもしっくりこないし、マッチョでもだめだし……。

 そこは秋実のように、華奢で顔のパーツが全部小作りで、それでいてバランスが取れているという男の子でなければいけないのだ。それプラス、声の出し方に儚さやアンニュイさが必要なのだ。

 秋実がその役をどんな風に演じるかを考えただけでワクワクしてくる。

 私に脚本を書かせてくれたら、こんな風に書くんだけどなあと想像の世界をふくらませてみるのも私のひそかな楽しみだったりする。

 ところが、そんな気持ちを仲間内でポロッと言ったら、『沙也加はノーテンキやなあ。秋実だけ売れたら、アンタどうするん?』と、あきれられてしまった。

 たしかに、秋実がお笑い界から俳優の世界に飛び込み、コンビは解散しないにしても、大阪キャッツの活動は今までどおりではなくなるだろう。

 お笑いの世界ではよくあることだが、コンビの片方だけが爆発的に売れて、しかたないのでバラ売りをされ、結局、一人はいつの間にかお笑いの世界から消えている……。

 私もその口だったりして。ああ、こわい、こわい!

 私自身は、表に出るのも悪くないけど、やはりコントやコメディーの脚本を書く仕事をちゃんとやりたいと思っている。小心者でありながら、私なりの野心は持っているつもりだ。

 だから勉強もちゃんとしたいと思っている。今年は志望大学に現役合格ができなかったけれど、今は予備校にも通い、懲りずに来年も大学受験をするつもりだ。

 秋実は仕事に対して貪欲でしたたかなやつだと冷静に評価しながらも、私にだって、それなりの野心はある。お笑い作家としての自分を認めてもらうために秋実を利用してきたのは、この私だ。

 でも、私たちは普通に仲がいい。お笑いコンビは、ほんとうはすごく仲が悪いと、お笑いファンの中でさえ常識になっているようだ。ひどいコンビなんて、お互いの電話番号も知らないし、普段は口もきかないって……。実際、私もそんなコンビを知っている。

 でも、私自身はそんな相手とお笑いをできる人の神経が理解できない。コミュニケーションを取れば取るほど、いいコントや漫才がができるのだと私は信じている。

 秋実と私は、お互いを異性として認識していないからか、仕事以外でもいっしょにいたりする。

 そんな私たちをからかって、他の芸人さんが『君ら、デキてるん?』と、バラエティー番組の中でツッコんでくる。

 ひと昔前の男女コンビは、たいていが夫婦だ。夫婦でなくても、男女コンビには絶対に肉体関係があると、にいさん、ねえさん(大阪のお笑い芸人は、先輩をこう呼ぶ)たちから聞かされている。

 だから、そうではない大阪キャッツは貴重品なのだ。

 バラエティー番組の中では、にいさんたちの『君ら、デキてるん?』は、私にとっては、実においしいツッコミで、私は色気をウリにしているタレントの雰囲気を真似て、目をトロンとさせ体をクネクネする。

「デキてるっていうかぁ、秋実は、グイグイ来るけど、私は秋実みたい子は、悪いけどタイプやないしぃ」と言う。その間、秋実は横で表情ひとつ動かさず、きれいな顔のまま私を凝視しているというリアクションをするのだ。

 そうすると、必ず、そばにいるにいさんたちの誰かが、実にタイミングよく私の頭をはたいてくれるのである。

「どの口が言うてんねん!!」

これもすでに定番になってきていて、その直後、私がカメラに向かって「横浜流星けっこう好き!」という、ぶっきらぼうな返しにスタジオ内で笑いが起きる。

にいさんたちだって、私にツッコミを入れることによって笑いを取れるわけだから、コンビでなくても、お笑いタレント同士、みんなウィンウィンの関係があって成り立っているのだ。

 とにかく、自他共に認める仲良しコンビ、大阪キャッツ。

 たまには仕事のことでけんかはするが、たいてい数分後には、ふたりともけろっとしている。

 お互いに、相手の嘗めたソフトクリームを食べられるし、ペットボトルのドリンクも共有する

 でも、私たちが男女の関係になることは絶対にあり得ないのだ。たとえ私が、とびっきりの美人だったとしても……。

 そのことに、私はだんだん気付かされていくことになるのだ。

「お笑い新人グランプリ」の日を境目に……。


 私と秋実は、ステージを降りて楽屋に向かった。

 すると、楽屋までの廊下に月原さんは立っていた。私たちを売り出し、これまで育ててくれたマネージャーだ。彼は拍手とさわやかな笑顔で私たちを迎えてくれた。

 今日もスーツがピシッと決まり、春らしいストライプのネクタイがこれまたよく似合っている。

 この人は、どんなことをしても、何を着ても絵になる。縁の下の力持ちにしておくにはもったいない程のルックスを持ちながら、性格は静かで控えめ。でも、いざという時の押しは効く。

 月原誠、32歳。独身。東京の有名私立大卒、大学時代にモデル経験あり。私の知る限り唯一、私がハイヒールを履いても、それより背が高い男性だ。

 顔も大好き! 切れ長の目ときれいな鼻筋とピシーッと並んだ白い歯で、清潔感溢れるあっさり系の顔がもろ私好みなのだ。

 ここまで褒めたのだから、全部言ってしまおう。月原さんは、私の初恋の人だ。いや、初恋であり、今もその感情は続いている。とにかく、私が生まれてから今までに好きになった男性は、月原さんひとりだけなのだ。

 最初に会ったのは高校2年生の時だったが、13歳年上の月原さんを見て、胸の中で『ストライク! ど真ん中!』と叫んだ。

 私のストライクゾーンはものすごく狭くて、そこに入ることができるのは、この19年間で月原さん、たった一人だということだ。なんて、偉そうなことを言っているが、まず、私がストライクゾーンに入る男も、そういないだろう。

 あの日から、この片思いが実る可能性なんて、私が車に轢かれて死ぬよりも低い確率だと自分に言い聞かせながら、自分の気持ちが絶対に月原さんにバレないように接してきたのだ。

 もちろん、家族にも相方の秋実にも、こんな気持ちを話したことはない。

 たったひとりだけ、この業界とは全く関係のない友達がいて、その子には、事細かに月原さんのことを話している。予備校で仲良くなった由美だ。 

 ある日、ランチをしている時に、由美はかわいい上目遣いで、私を見ながら言ったのだ。

「私、これだけはわからへんわ。なんで好きな人がいるのにお笑いができるの? それもマネージャーって、必ず近くにいるやん? なんで、好きな人が見てる前で、一番変な自分を見せられるの?」

 いやあ、ごもっとも。ごもっとも。

 由美は、私の忙しさをよく知っていて、私がしばらく予備校を休んでいる時は、LINEで予備校情報やガンバレメッセージをくれる心優しい友達だ。

 ルックスだって、今田美桜にちょっと似ていて、いつだって男の子たちの視線が彼女に注がれている。その上、医学部を目指しているくらいだから勉強もすごくできる。

 ルックスもいい、頭もいい、性格も悪くない、その上、医者の娘……。

 世の中、すべてを持っているヤツっているのだということも、19年生きてきてわかったことだ。

 そんな中で、お笑い以外何もない私は、たくましく生きて行かなければいけないのだ。

「私、月原さんを見てたらドキドキする癖に、いったんお笑いに入ったら、もう、何も見えへんのよ」

 由美にそう答えた。

「お笑いのオニやな、沙也加は。そう、これこそ才能やわ。男でダメになる女は最低やけど、好きな男を笑かせる女は最高や」

 由美はそう言って意外とまじめな表情で私の顔をじっと見た。

 

 大好きな月原さんが近づいてくる。

「おめでとう。こんなすごいメンバーの中で、とにかくすごいよ!」

 月原さんの笑顔は限りなく優しい。

「ありがとうございます。ほんと、ついにやりました!」

 私は、月原さんに深く頭を下げた。すると、ハゲヅラが廊下にコロンと落ち、月原さんが拾って、私に差し出した。さっき客席に飛ばした時にはちゃんとスタッフが届けてくれたが、それを軽く頭に乗せままだった。

「ハゲネタっていうのは、いつの世も確実に笑いを取るんだよね。コンプライアンスコンプライアンスなんて言って、スチュワーデス、看護婦って言葉は使っちゃもダメってことになってるのに、なんでハゲはいいの?って思うけどね」

 まったくその通り! 真面目な月原さんが今日はちょっとおもしろい。

「それにしても沙也加ちゃんのは、何かワンランク上っていうかな。とにかく何回見ても笑えるよ」

 好きな人に『笑えるよ』と褒められる私。いい、それでいい。私の宿命だ。

 その時、何気なく秋実の方に目をやると、月原さんを無視して、楽屋の方に歩いていこうとしている。

「ちょ、ちょっと、秋実、待ってよ!」秋実を呼びながら月原さんの表情を窺った。

「気にしなくていいよ。秋実の気ままには慣れてるから。特にここ一週間ほど、ご機嫌斜めだね」

「でも、こんなおめでたい日に……あの、何かあったんですか? ほんまにここ一週間ほど、秋実の月原さんに対する態度が変ですもん」

「疲れているんだよ、きっと。急に忙しくなったから」

 秋実は、単に忙しすぎて情緒不安定なのだろうか。初体験である映画はまもなくクランクイン。今日は、喉から手が出るほど欲しかった賞が手に入った。まあ、多少は感情の起伏が激しくなるのは当然か。

 私はオッサンの格好で、月原さんと並んで、楽屋に向かった。


 今日の楽屋は、便宜上、出演者みんなが同室だった。

 生放送中に、ライバルの漫才やコントをモニターで見ている他の出演者の表情を撮るために、テレビ局がサブホールを出演者全員の楽屋にした。

 だから、グランプリを取れなかった他のメンバーはすでにその部屋に戻り、帰り支度が終わった頃だろう。そんな中に入っていくのは嫌だ。『おめでとう!』と言って、拍手で迎えるやつが果たしているのだろうか。

 楽屋の中からは、みんながにぎやかに話す声が聞こえてきた。

 秋実の目には、もう泣いた痕跡などまったくなく、彼は楽屋のドアを無造作に開けた。

 その後ろ姿も女子高生そのままだ。

「お疲れさまでした〜」私たちは口々に決まり文句を言いながら、楽屋に入った。

 すると、部屋の空気がピタッと変わった。なんとも言えない嫌な空気だ。だが、そう思ったのはつかの間。秋実が、いきなりみんなを恐い顔で睨み付けた。

「なんでやねん! おれらが入ってきたら、なんで、急にしゃべるのをやめるんや? どうせ、おれらの悪口言うてたんやろ!」

 みんな驚いて、一度にヒイてしまった。私も正直ヒイた。

 月原さんが秋実の耳元で、「秋実、やめなさい」と、静かだが厳しい声で言うのが聞こえた。

 舞台を下りた後の()の秋実が、こんな荒げた声を出すのをみんな初めて見たはずだ。楽屋全部がフリーズしている。

 秋実は一瞬、たしなめた月原さんの目をまるで不良少女のように反抗的に見上げたが、黒田兄弟の弟の方に勢いよく歩いていった。

「ヒトシ! 何言うてたんや?!」 気の弱いヒトシは、秋実の迫力に怯えて、口の辺りをワナワナ震わせている。

「うちの弟が何したって言うねん!」 ヒトシの兄であるサトシが、立ち上がりながら座っていた椅子を蹴飛ばしたかと思うと、眉間に皺を寄せ、恐ろしい形相で秋実にせまった。

 そんな兄に守られて安心したのか、ヒトシがサトシの後ろから顔を出した。

「ああ、言うたるわ! ココナッツのカオルがな、大阪キャッツがグランプリ取れたんは、秋実が伊達プロデューサーと寝たからやって言うてたんや!」

 サトシは言うだけ言って、顔をそむけてしまった。

 すると、サトシの発言に私の心臓がパカパカと音を立て始めた。なんとなく予感していたよからぬことが本当かもしれないと思った時、私の心臓はいつもこんな風にせわしなく動く。

 実は一週間ほど前に、先輩の芸人さんからチラッとその噂を聞いたけれど、まあ、それも大阪キャッツが売れてきた証拠、やっかみ半分の噂だと自分に言い聞かせていたのだ。

 私は、正面にいる月原さんの表情を窺った。月原さんは、ほんの一瞬だが確かに動揺した。彼の黒目がちな瞳が左右に動き、そのあと彼は前髪をかき上げた。しかし、月原さんは動揺している自分を上手にコントロールするかのように、腕組みをし、ドアの近くの壁に軽く寄りかかって、さりげなく視線をそらしていた。

 なんて素敵なんだろう。ファッション雑誌の一ページのようだ。いやいや、今は月原さんを褒めちぎっている場合ではない。

 秋実は私に背中を向けているが、ちょうど鏡があるので、秋実の表情ははっきりとわかる。秋実は片方の口角を少しだけ上げて、意地悪そうな薄笑いを浮かべながらココナッツのふたりを見た。 

 彼は笑顔の時、両方の口角がキューッと上がり、とてもかわいいのだ。しかし、片方の口角だけが上がっている時は要注意だ。

「こら、カオル。よう聞いとけ。おまえらもや!」 秋実はグルッとみんなを見渡した。

 おまえらって、わ、わたしもですか?!

私って、いざという時にまったく役に立たない木偶の坊そのものだ。足がすくんで『やめなさいよ』と相方の喧嘩に割って入ることもできないし『もっとやれ! カオルなんか泣かしたれ!』と応援することもできない。

 月原さんは、こんな風になった秋実に何を言っても無駄だと思ったのか、腕組みをしたまま、言いたいことがあるなら言ってしまえというような表情だ。マネージャーが開き直った?

 もちろん、ココナッツが所属するプロダクションのマネージャーも、月原さんの後輩マネージャーもいる。

 しかし、他のマネージャーたちは誰ひとりとして間に割って入ろうとはしない。まるで金縛りにあったように手も言葉も出ないのだ。そんな中、秋実は続けた。

「こんな世界なあ、どんな手を使っても、勝ったもんだけが生き残ってくんや。体を張るのは悪いことか、カオル? まあ、おまえのその顔やったら、プロデューサーやスポンサー、だーれも誘わんやろ? ほんま、かわいそうに。女に生まれてきた意味がまったくないな!」

 ひえー、恐ろしい。世界一のセクハラ発言。でも相方ながら、あっぱれな悪口。イッポン!

 私は普段からいけ好かないと思っていたカオルが秋実にボロボロにされ、ちょっと、いや、かなり気持ちいい!

「いやぁーーーーー!!」

 このケダモノのような叫びは何かと思ったら、カオルがヒステリックに泣き出した声だった。

 大阪キャッツの晴れの日は、実にドラマティックな?結末を迎えた。


 グランプリ受賞の大げさな記者会見で、大阪キャッツが愛嬌を振りまいた後、劇場で簡単なお祝いパーティーを開いてくれた。

 もう、私はオッサンではないし、秋実も女子高生ではない。私服に着替え、等身大の19歳だ。

 カオルの話に出てきた……秋実が寝た?という伊達プロデューサーも、もちろん出席している。

 彼が秋実に馴れ馴れしく話しかける様子を見ながら『やっぱり、カオルが言ってたことは、ほんまなんやろか?』と、相方を少し疑っている自分が情けない。そのうえ、非情にも秋実が伊達プロデユーサーに抱かれるシーンを想像してしまって、耳の辺りがカーッと熱くなるのがわかった。

 恥ずかしい話だが、私は正真正銘のバージンだ。仕事では、下ネタなんて平気で言ってるにもかかわらず……。だから、キスさえも、いや、プライベートでは男の子と手を繋いだこともない。

 そんな私が、男×男のHシーンを想像すると言っても、ボーイズラブ漫画のワンシーン程度なのだが……。

 ただ伊達さんの秋実を見る目は、確かに特別なのだ。ネバっこいというか、エッチというか、それだけは未熟な私にもわかるのだ。

「沙也加ちゃん、これくらいの酒で酔ってたらだめじゃないか。耳が赤くなってるよ」

 伊達プロデューサーがいきなり私に声をかけた。

 お酒は大好きだが、一応未成年なので、人前ではウーロン茶を飲んでいる。

 耳が赤いのは、アンタがHシーンを想像させたからやん!

「あ、ありがとうございました。伊達さんのおかげで、こんな素晴らしい賞をいただくことができました」

 私は、いきなり空想シーンの主演男優に話しかけられ、ちょっととまどい気味にお礼を言った。

「そりゃあ、君たちの実力だよ。まあ、僕は個人的に大阪キャッツが好きだから、もちろん、大阪キャッツにいい点をつけたけどね」

 大阪キャッツが好き? 秋実が好きなくせに!

 それにしても、秋実がグランプリを取るために、そんなアンフェアなことをしたのかどうかも気になるし、秋実のそういうセクシャリティー……男とヤッたということも気になる。

そして一番気がかりなこと。それは、このグランプリが取れたのは、大阪キャッツの実力ではなく、秋実が伊達プロデューサーと寝たから……ということになってしまうことだ。

 私の中で、猜疑心とモヤモヤ感が行ったり来たりしている内に、お祝いの会はお開きになった。

 終わる頃に、伊達プロデユーサーが月原さんの耳元で何か話している光景が目に入った。

 月原さんがクールな表情で一言二言答えているのが見えたが、なんだかすごく大人の会話をしているようで、私のように体ばっかり大きなお子ちゃまが絶対に聞いてはいけない内容であることは、なんとなく感じ取った。

 

 秋実と月原さんと私の3人が楽屋口から出ると、そこは秋実の出待ちファンで溢れかえっていた。

 いったい何時間、待ってたん、みんな。ほんま、いつもごくろうさんやね。

「秋実〜!!!」

 熱狂的な秋実のファンは、たいてい高校生から30歳くらいまでの、ルックスはいまいちの女の子が多い。

 が、ときどきすごい美人のお姉さんがいるから、びっくりする。彼女たちは、生身の男からいっぱい声をかけられて、その現実がつまらなくて、お笑いアイドルに走るのだろうか?

 ただ、不思議なことに、その美しいお姉さんたちは、秋実に直接声をかけてきたり、自分のアドレスを書いたものを秋実に渡したりというようなことは絶対にしない。夢見るようなトローンとしたまなざしで、秋実を見ているだけなのだ。とにかく、きれいな女が考えていることは私にはわからない。

 厚かましく、秋実に思いっきり触ったり、アドレスやSNSアカウントを書いたものを渡そうとする連中は、絶対男から相手にされていないだろうなというタイプだ。

 そういうタイプの女たちは、私と秋実が並んで出てくると、私の存在など完全に無視するし、ひどい女は、私と秋実の間に体を滑り込ませ、私たちを何とか離れさせようとする。かと言って、私のことをまさか秋実とデキているなんて思う女は、まず一人もいないのだろう。

「秋実、おめでとう!」ファンが口々にお祝いの言葉をかけてくれる。

 99%は秋実のファンだが、中には『沙也加、おめでとう!』と言ってくれる子もいる。

 そんな中に常連の20歳くらいの男の子が3人ほどいて、それがまた、アキバ系の典型なのだ。

 うーん。私の前には、白馬に乗った王子様なんて現れることは絶対ないということを再認識させられる瞬間である。だから、私は数少ない男性ファンであるオタク君たちに愛想よく微笑み、手を振った。

「キャー! 秋実、秋実!」

 まるで悲鳴のような声援に慣れきってしまった秋実は、いつものかわいい笑顔で手をひらひらと振りながら、人だかりをじょうずにくぐり抜けている。そばにいるでっかい私は、月原さんとふたりで秋実をボディーガードしながら駐車場へと向かった。

 これで、今日の仕事はすべて終了。今、私の腕時計は、午後11時になろうとしている。

 最近では、寝るのが夜中の2時、3時というのは当たり前になっているので、そう眠くもない。

「グランプリ受賞の正式なパーティーは、後日開くことになったからね。取りあえず、今夜はふたりとも家に送って行くよ」

 少し前を歩いている月原さんが、私たちを振り返って言った。

「ありがとうございま〜す」私は言ったが、秋実は無言だ。コイツ、態度悪すぎ!

 秋実は、古着らしきジーンズを少し腰パン気味に履き、黒いカットソーの上にこれと言って主張のない白いシャツをはおっている。それだけなのに、どうして秋実はこんなに魅力的なのだろう。

 襟ぐりの大きめのカットソーは、きれいな鎖骨を見せるため? その鎖骨を一段と素敵に見せているのは、シンプルなシルバーアクセサリーで、それとお揃いの指輪が右手の細い人差し指をはかなげに演出している。

「秋実、今日もいい香り…」

 秋実が少し動いただけで、あまり空気がきれいとは言いがたい大阪のド真ん中で、今もここだけは空気が浄化されてされているような気がする。

「沙也加、今日もケツ、でか過ぎ!」秋実が私のお尻を叩く。

「うるさいわ!」 私は秋実の胴体に腕を回して技をかけようとする。

「疲れてるっていうのに、まだやる? ほんと、仲いいよねえ」

 月原さんがあきれたように笑った。

 そう、仲良し。大の仲良し。でも、それは男女のじゃれ合いではない。

「それにしても、秋実、怒ったらヤバいなあ」

 私は、遠回しに楽屋でのことに触れてみる。このまま、楽屋でのことに触れない方が不自然だ。

「カオルのことか? あいつ、前から沙也加に嫌み言うたりして、うっとうしい女やから、ちょっとカツ入れといたった」

「うん、スッとしたわ。それはええねんけど、あんな言い方したら……」

 あんな言い方をしたら『自分は伊達プロデューサーと寝ました』と宣言しているようなものだと私は言いたかったのだけれども、さすがに言葉にはできない。

「なんかこの頃、イライラしててん。そうや、カオルのこと知ってるか? あいつ、黒田兄弟のにいちゃんの方とヤッたらしいし、その前は『あめんぼあかいな』のふたりとも……」

 ウッソー!」私は思わず大声で叫んでしまった。

「ねえ、月原さん、ほんまですよね?」秋実はそばを歩いている月原さんの顔を覗き込んだ。

「まあ、うちのプロダクションの子じゃないしね」月原さんは軽く流す。

「ホンマにカオルはアホや。自分の得にならん相手と寝たってしょうがないやん。おサセって呼ばれておしまいやのになあ」

 秋実は軽く独り言のように言い捨てて、車の後部座席に滑り込んだ。

 普段から、私とけんかをした時などは、今のようなかわいい毒舌を連発している秋実だが、月原さんの前でこんなことを言ったことはなかったような気がする。

 何だかやっぱり今日の秋実はいつもと違う。見方によっては、月原さんを怒らせようと挑発しているようだ。

 ところで、秋実はカオルのことを『アホや』って言ったけど、伊達プロデューサーは、秋実が言うところの『得になる相手』だから、彼と寝たとしても、アホではないという証明が成り立つと言うのだろうか。確かにそうだ。伊達さんは力を持っている。

 ただ……もしかして……何かの間違いで、秋実が伊達さんとそういう関係を持ったのだとしたら、私は声を大にして言いたい。

 そんなことしなくても、私たちは実力だけでグランプリを取れたよ!

 秋実は、自分の後々のことを考えてそんなことをしたのかもしれないけど、今回のグランプリに関しては、絶対に伊達さんのご機嫌取りなんかしなくても取れたよ。

 私は秋実と反対のドアから車に乗り込み、秋実の隣にどっしりと座った。

 秋実はさっきまでの饒舌をすっかり忘れてしまったかのように、急に口をつぐんだ。

 この場所からだと、秋実のマンションの方が近い。月原さんはまず秋実を送り、私の家へと回ってくれるつもりだろう。

 秋実は親の家とはそんなに離れていないところにマンションを借りて住んでいるが、すでに東京にもマンションを借りている。

 秋実は4人家族で、両親と妹が一人いる。お母さんはふたり目のいわゆる継母で、妹は両親が再婚してからできたらしいから、秋実とは腹違いの妹ということになる。

 ほんとうの母親は、秋実を産んですぐに家を出て行ったそうだ。ちょっと、訳ありの家庭なのだ。

 私はいまだに両親との3人暮らしだ。秋実のように一人暮らしをしたいと思ったことはまったくない。

 もちろん、私にも東京の仕事がバンバン来れば、向こうにマンションを借りるという可能性はあるわけだが、親元にいれば、いつ帰ってもおいしい食事があり、すぐに入れるお風呂があり、洗濯も掃除もしなくていいのだから、こんな天国からは出ていく意味がない。

 ところで、月原さん、どのタイミングで秋実に注意をするの? 今夜に限っては、いくら優しい月原さんでも、ちゃんと秋実を叱るべきだと思う。

 もちろん、みんなの前でカオルを罵ったこと自体もよくないが、あんな言い方をしたら、秋実自身、完全に伊達さんとの肉体関係を認めてしまうことになるのだから。

 いや、秋実はそんなアホなやつではない。それは私が一番よく知っている。

 わざと? わざと誤解を招くようなことを言っている……。でも、なぜ? 

 結局、月原さんはまったく、その話には触れなかった。

 私に気を遣って、ふたりだけの時に注意するつもりなのかもしれないが、私にとっては、すごくじれったい。不自然!

 私の頭の中で、同じ質問がぐるぐる回る。カオルたちが言ったことはほんとうなのか? 

 いや、ほんとうか嘘か、それだけの問題ではない。私をいたたまれない気分にさせている何かがある。

 自分の今の感情を冷静に分析してみよう。

 まずは、月原さんへの疑惑…。月原さんがマネージャーとして、秋実と伊達さんとの関係を取り持った、いや秋実に伊達さんと仲良くすることが今後の仕事のためだと教育した。そして、ふたりが会う場所などをお膳立てした。

 いやや。何考えてるの、私。アホ、アホ、最低!

 大好きな月原さんと大切な相方を私が疑っている。でも、私はいつも感じていた。私だけ、かやの外……。私だけが何も知らないような気がしていた、いつも。

 もしかして、月原さんは秋実しか見ていないのではないか。商品価値のある秋実にしか興味がないのではないかという心細さを私は常に持ちながら、ここまでやってきたのだ。

 私は、秋実を売るための台本書きという道具? などと、ひがみっぽくなっている自分に嫌気がさすこともある。

 これから大阪キャッツがバラ売りになったら、月原さんは当然、秋実につきっきりになるのだろう。私はひとりぼっちになるのだろうか。適当に新米のマネージャーをつけられるのだろうか。

 こんなおめでたい日に、私は肝心なことを何も聞けないで、思いっきり落ち込んでいる。

 そして、嫉妬している。秋実の才能に、秋実の容姿に、秋実の大胆さに。月原さんに大切な商品として扱われる秋実に……。

 一5分ほどで、車は秋実のマンションに着いた。

「じゃあ、明日の朝、6時に迎えに来るからね。お疲れ様でした。それから、ほんとうにおめでとう」

 秋実は口角だけで微笑んで、頭をペコンと下げ、すぐに背を向けた。

 黒いボッテガのボストンバッグを持った秋実の後ろ姿は、どう見てもスターだ。

 ありきたりの言い方だが、ほんとうにオーラみたいなものが出ているのだ。

 肩幅はけっこうあるのに、なぜかはかなげな肩、腰、首筋、身長の割に長い腕。

 秋実の後ろ姿がマンションに消えると、車が動き出す。

「沙也加ちゃん、明日の『オクサマンサ』のコント、できてる?」

 月原さんが明日の仕事の話を振ってきた。この人は声まで素敵だ。

 大学を卒業するまで東京にいたから、もちろん標準語を話す。そして、それが彼をなお男前に見せているのだ。

 大阪弁でしゃべって、それが魅力や色気になっている男は吉川秋実くらいのものだ。

 私がコントの中で女の子の役ばかりさせているせいか、秋実の大阪弁は、普段でも柔らかくて優しい。

 ま、今日の楽屋みたいに、キレた時は別だけど。

 私はお笑いの世界にいるくせに、男の大阪弁があまり好きではない。というより、大阪弁をしゃべる男は、男って感じがしないのだ。あくまでも、ナニワのオッサンなのだ。

 秋実は、今回の映画では標準語でせりふをしゃべるらしい。

 それだけでも、ずいぶん雰囲気が変わるだろう。秋実の標準語の演技が早く見たいものだ。

「明日のコントですか。何も考えてません。寝ながら考えます」

「寝ちゃったらどうするの?」「リハまでに考えます」

「ふっ、沙也加ちゃんはすごいね。どんな脳みそしてるんだろう? 頭の中には、きっとネタがぎっしり詰まっているんだろうな。やっぱり僕の目に狂いはなかった。ふたりを組ませてよかった。今日、グランプリを取れたのも、沙也加ちゃんの台本のおかげだよ」

 こうやって、ときどき褒めてくれる月原さんの言葉で、どんな嫌なことも忘れていた私なのだが、今夜はちょっと変なのだ。

「秋実は、ひとりでもじゅうぶん売れてたんと違います?」

 ?? どうしたの、私。

 私はつまらないことを言ってしまって、そんな自分にびっくりした。

「沙也加ちゃんどうしたんだ、こんなおめでたい日に。、疲れてるな。秋実と沙也加ちゃんだったからこそ、こんなすごい賞を、それも最年少でもらえたんだよ」

 月原さんは、私がとんでもないことを口走っても、変わらず優しい。

 大人の包容力とはこういうものなんだ、きっと。しばらく沈黙が続いた。

 もう引き返すことはできない。聞くしかないのだ。私は怖々とおなかの中のモヤモヤを絞り出し始めた。

「月原さん? 秋実はほんとうに伊達さんと……」

 月原さんは冷静に運転をしている風に装っている。しかし、私の気のせいかもしれないが、後頭部から肩の辺りに動揺した空気を隠しきれないでいる。

 2、3秒沈黙があって、月原さんは、ためいきをつくような笑いを漏らした。

 車の中には半透明な空気が淀んでいる。

「ほんとうだったらどうする?」

 月原さんの抑揚はないけれど私の大好きな優しい声は、その質問をまるで自分自身に投げかけているような気がした。

 ほんとうだったら? 秋実を罵るだろうか。軽蔑するだろうか。

 私が返事に困っていると、月原さんは、また私に次の質問を投げかけた。

「沙也加ちゃんは、今から、どうなりたい? どう生きて行きたい?」

「どうなりたいって言われても……」

「沙也加ちゃんは、この道で生きていく決心はできてる? それとも、大学に入れたら適当に勉強して卒業して、結婚でもする?」

 私は何かすごく重要な部分をつつかれたような気がして、また言葉を失ってしまった。

 でも、月原さんが言おうとしている何かが、少しずつ私の体を浸していく。そう、秋実にあって、私にないもの。それは『決心』。

 秋実には、この道で生きていく決心がとっくにある。私にはまだないのだ。

 確かにお笑いが好きだし、仕事も楽しい。でも、どこか学生気分であることは確かだ。

 秋実は高校を卒業して以来、大人の世界にどっぷりと浸かっている。

 その違いが、私たちふたりの日々の言動に大きな差を生んでいるのだ。才能やルックスの違いだけではないと、私は認めざるをえない。

 だから、月原さんはあえて私に『決心』について聞いたのだろう。

 かと言って、この道で生きていく決心がある秋実には何でもアリっていうことにはならないと思う。プロデューサーと寝てもいいということにはならないと思う。私はまだ、執拗にそれにこだわっている。

「月原さん、楽屋でのこと…どうして、秋実に聞かなかったんですか? だいたい、秋実、ここ一週間ほど、月原さんをわざと怒らせようとしてるように見えたんですけど」

「そうだね。そうかもしれない」月原さんは、かなり沈んだ声で肯定した。普段はポーカーフェイスの月原さんも、さすがに今夜は感情を隠しきれていない。月原さんは、マネージャーとして、気持ちの整理ができないのだろうか。真実が何であったとしても、相方である私にどう言えばいいのか迷っているのだろうか。

 この時、私はまだ、単純にそう思っていたのだ。 


   承


 毎朝、思うこと。それは、ああ、一年中寝ていたいということ。仕事がおもしろいからといって、さわやかな顔で起きられるものでもない。

 それなのに、母がやたらかん高い声で『沙也加、もう何日予備校行ってないの? 授業料は一年分、一括で払ってるんやからね』と、3日に一度は同じせりふを繰り返すので、なおさら寝起きが悪くなる。

 私だって、勉強と仕事の両立を実現させたい。わかってるよ。でも理想と現実は違う。

 うちの両親は、取り立てて私のお笑いタレント兼お笑い作家という仕事に反対しているわけではない。それどころか、母は秋実の大ファンで、秋実を一度うちに連れてこい、腕を奮ってごちそうを作るからと、秋実の話になると、やたらご機嫌がよくなるのだ。

 そんな母にとって、娘らしさの欠片もない私でも、一応はひとり娘……。親として心配なのは当然だ。お笑いの世界などに入ってしまった娘に、いい加減に足を洗って大学入試に専念しろとも言えず、かと言ってお笑いに一生を捧げろとも言えない。

 この母だって、娘に対しての『決心』がまだできていないのだ。

「行ってらっしゃい。まあ、何でも両立はむずかしいわ」

 大急ぎで出かける準備をした私の襟元を母が整えてくれる。母は小言を並べた後でも、私が玄関を出る時には必ず笑顔を見せるように心がけてくれているのだろう。

 どんな遅く帰っても、嫌な顔ひとつしないで迎えてくれる母。恥ずかしくて口には出さないけど、感謝してるよ。

「行ってきまーす」私もそんな母に最高に明るい声を返した。

 昨夜も、両親が私たちの受賞をすごく喜んでくれた。朝早くから接待ゴルフに出かけていた父も疲れているだろうに、夜中の一2時をとうに過ぎて帰った私をふたりが拍手で迎えてくれたのだ。

 私は、何かにしんどくなった時、そんないいことばかりを思い起こし、自分を元気づけるようにしている。心の中をアグレッシブバージョンに切り替えると、今朝はいつもよりさらに歩幅が大きくなる。

 私の家は細い路地の突き当たりにあるので、月原さんが運転する車は、いつも大通りに止まっている。

 大通りに出るまでに、最高のモーニングスマイルを作るのだ。笑顔、笑顔! 

「おはようございます!」

 私は昨夜の気まずさをかき消すように、いつもより元気に車に乗り込んだ。

 不思議なことに、どんなに朝が早くても、月原さんの髪が乱れていたりとかネクタイがゆがんでいたりということがまったくない。独身だから、身の回りのことも全部自分でこなしているはずなのだが……。

 そうだ。3ヶ月ほど前、この人は、元グラビアアイドルの女優と噂になったことがある。

『巨乳女優・美島きらら、某大手お笑いプロダクションのイケメンマネージャーと熱愛!』なんて、週刊誌に書かれて、それでも涼しい顔をしていた月原さん。

 そう言えば、あの時、私も秋実も、冗談を言って月原さんをからかうなんてことはしなかった。

 私は腹を立てていた。月原さんは、あんなチチがデカいだけが取り柄の女と熱愛なんてするもんかと。体全体はスレンダーなのに、チチだけがデカイ女に、ろくなやつはいない。私なんか、バストもデカいが、腹も尻もデカい、善良そのものの女だ。

 秋実も、芸人さんたちがその週刊誌を目の前に突きつけても『フン。それがどないしてん』とそっぽ向いて、中身を見ようともしなかった。


 テレビ局に着くと、司会のアナウンサーや先輩出演者の皆さんに挨拶する。みんな、昨夜のグランプリ受賞に気持ちのよい『おめでとう』を言ってくれる。それによって、昨日のわだかまりは一瞬吹っ飛んで、初心に返ってがんばるぞという気持ちになる。

 まずは、ついさっき朝食を食べながら書き上げたコント台本を秋実と読み合わせる。その後はドライ、カメリハ、そして生放送という段取りになっている。

 この『オクサマンサ』は朝の一0時からの生放送で、大阪のオバちゃんが喜びそうな情報が満載されている。月曜日から金曜日までの帯番組だが、私たち大阪キャッツは、月曜日のレギュラーメンバーだ。

 今日のテーマは『女がオバチャンに変わる時・自分では気付かない瞬間』なのだ。

 大阪キャッツは、このテーマに沿ってコントを演じるというわけだ。

 ドライが終わり、リハーサル時には本番の衣装をつける。

「えっー! こんなヅラ被るんー! 朝早すぎて頭回らんって思てたけど、一遍に目が覚めたわ!」 

 部屋の隅っこでメイクさんにオバチャンメイクをしてもらっていた秋実が叫んだ。

 メイクさんは、涙を流してウケまくっている。まだ24、5歳の若くてちょっとかわいいメイクさんだ。今井めぐみさんなので、みんなはメグちゃんと呼んでいる。

 秋実のようすが気になるので、私は自分のハゲヅラメイクを途中でやめて、秋実の様子を見た。

 秋実は、虎の顔がついた変なTシャツにヒョウ柄のスパッツという出で立ちに、クリクリパーマのヅラを被されている。その上、大げさに真っ赤な口紅をベタッと引かれ、ほお紅もわざと野暮ったく広めに塗られている。

「ひゃー、めっちゃ、リアルやん、こんなオバチャンいっぱいいてる、いてる! 」私も思いっきり笑った。

「こんなえげつないコスプレは久しぶりや。メグちゃん、そんな笑っとるけど、こんなおれにしたんは君やでぇ」

 秋実はメグちゃんの目をじっと見て、人差し指でメグちゃんを指さし、お得意の笑顔を投げかけた。

 ああ、また、女の子のハートをひとつ、ゲットやな。

 秋実は、自分のそんな魅力的な言動が女の子にどんな影響を与えるのかをちゃんと計算できているはずなのに、ファンサービスならまだしも、むやみやたらと身近な女性にもそういうことをしてしまう。

 秋実は、自分がやらかした罪には、もうまったく関心はなく、あらためて自分の姿を鏡に映し、あっちこっちの角度からチェックしている。

「なあ秋実。どっかで見たオバチャンやと思ってたんや。そうや、その顔、お母さんにそっくりやねん。まあ、秋実のお母さんは、そんな下品やないけどね」

 私は軽口を叩いてしまってから、いけないことを言ってしまったかなと、秋実の表情を観察した。

 一瞬、秋実はとまどったような顔をしたが、ほんとうに一瞬だった。

「そうかあ? そう言えば、厚化粧した時のお母ちゃんに似てるかもな」

 秋実は私の顔は見ないで、鏡を見たまま言った。

 秋実と秋実のお母さんは血が繋がっていないのだ。それを知っていて、心ないことを言ってしまう軽薄な自分が恥ずかしい。でも似ているのだ、ほんとうに。

 二度ばかり、月原さんの運転で秋実の実家に彼を送っていったことがあって、声も聞いたことがある。

 うちの母なんかと違って、うるさくなくて優しそうな雰囲気を持った人だ。少なくとも、大阪のオバチャンって感じではなかった。

あの人は、前妻が残していった幼い秋実をどんな気持ちで育てたのだろう。

 役所勤めの公務員である融通のきかない父親と秋実がよくもめて、反抗期には母親にもずいぶん嫌な思いをさせたと、秋実から聞いたこともある。

 私はドラマや映画で見る悪いイメージの継母しか知らないけれど、秋実と秋実の母親の間には、少なくともそんなドロドロしたものは感じたことはない。ただ、すぐ近くに実家があるのにひとり暮らしをするということは、やはり家に居づらいのかなと、私は勝手に解釈している。

「カメリハ行きまーす!」ADさんが私たちの楽屋のドアを開けて、顔を覗かせた。「はーい!」

 今回のコントでは、薬局のおじさん役をするために白衣姿に禿げ頭のヅラをかぶった私と、すっかり大阪のヒョウ柄オバチャンになりきった秋実は、声を揃えて元気よく返事をした。 


 私たちがバラ売りされるようになれば、月原さんは当然、秋実専任のマネージャーになるものと思い込んでいた私は何だったのだろう。秋実が東京で仕事をする時は、東京支社の水野さんが担当するということを今日初めて聞かされた。

 水野さんは、今までも大阪キャッツが東京で仕事をする時、ずっとお世話になっている人だ。

 お笑いスターをたくさん育てたマネージャーで、年の頃は45、6ってところかな。

 やせて頬がこけていて目が鋭いためか、とっつきにくい人だというのが第一印象だった。

 ずっといっしょにいると、そのうち慣れてくるかと楽観していたが、やっぱり半端じゃなく怖くて、近寄りがたい人なのだ。

 怒るとすごく怖い顔をして大きな声で怒鳴るので、タレントの間では、鬼のミズノ……鬼水(おにみず)と呼ばれている。ただ大きな怒鳴り声がパワハラだと思われない不思議な威厳がある人だ。

 さすがの秋実も、水野さんと一緒の時には月原さんがマネージメントしている時のようにはいかないだろう。いい機会だ。東京で精神修養をすればいいのだ。

 それにしても、お互いにピンの仕事がぐっと増えた。最新のコマーシャルには、秋実は単独で出演している。

 ふたりで出ていたコマーシャルはと言うと、思いっきりローカルな納豆や豚まんのコマーシャルだったのに、秋実が一人で出ているものは、なんと大手化粧品メーカーが売りにしているヘアワックスのコマーシャルだ。

 これがまた、かっこよく撮れていて、知らない人が見たら、秋実のことをお笑いタレントだなんて絶対に思わないだろう。

 今もコマーシャルへのオファーが2つほどあるらしい。

 そうそう、こんな私にだって、雑誌からの取材が時々あり、写真やコメントが掲載されるのだ。

 初めての単独取材の時なんて、みっともないほどのハイテンションで現場に出かけた。

『大阪キャッツ・戸田沙也加はお年頃の一9歳』というタイトルで記事を載せますからと言われ、スタイリストさんが用意してくれた大人っぽいミニドレスを着せられた。

 その上、セクシーポーズを取らされて、なんかグラビアアイドルの気持ちがちょっとだけわかるような貴重なひとときを味わった。

「沙也加ちゃん、意外ときれいな足してるね。身長も高いし、あと20キロ痩せたら、モデルになれるよ」

 月原さんは変に感心して、無茶な仮定をした。

 そして、私の取るポーズに対しても、月原さんは何度も『いいよ、いいよ』と褒めてはくれたけど、その『いいよ』は、ポーズが素敵とかセクシーとかいうのではなく、要は、周りからどれだけ笑いが取れているかということが基準なのだ。たしかに、カメラマンを初めとするスタッフは、私の動きに笑いっぱなしだったのだから。

 そして、あげくの果てには雑誌記者に『吉川秋実君は、ふだんはどんな男の子ですか?』と聞かれて『結局、アンタもそっちかよ』とツッコミを入れた。みんな、秋実が気になるのだ。

 秋実のことを記事にすれば、確実にその雑誌は売れるのだから、当然だ。私は所詮、秋実の相方。どうでもいいおまけ。

 あかん、あかん、私あっての大阪キャッツ!

 その時だ。まるでアイドルにマイクを向けた時のような質問が飛んできた。お笑いと言えども、私は、毎日のようにテレビに出ているタレントなのだ。

「沙也加ちゃんもお年頃ですが、どんな男性がタイプですか?」

 よっしゃ来た! こういうインタビューを受けたかったんよね。

 ついに私も売れっ子タレントの仲間入りって感じ…。

 タイプはひとつ、地球もひとつ!

 私は月原さんに聞こえているのを計算に入れて、冗談に聞こえるように、ひそかに小さな告白をしたのだ。

「私より背が高くて、包容力があって、紺色のスーツが似合う人です」

 ああ、ついに言ってしまった。

 5メートルほど向こうにいる、私より背が高くて、包容力があって、紺色のスーツが似合う人はまったく動揺しないで、私の方を見て微笑んだ。

 スタッフが一斉に月原さんを振り返り、何とも言えない顔でもう一度私を見た。

 みんな笑わなかった。いや、そこは笑うとこやろ!わろてえな!

 わあ、完全にスベった!

 芸人として、女として…恥ずかし過ぎる! 

 それでも、月原さんは取材が終わった後、私に言ってくれた。

「沙也加ちゃん、今のネタ、ナイスだったよ。沙也加ちゃんの答えを聞いて、スタッフがみんな、微妙なウケ方してたよね。なんか、コント見てるみたいでさ、こっちは吹き出しそうだった。爆笑だけが大ウケってわけじゃないんだよね。やっぱり、君はお笑いをするために生まれてきたんだよ」

 何?? この人は、勇気を振り絞った告白をネタだと思ってる??

 そのうえ、好きな男に『お笑いをするために生まれてきたんだね』と褒められている私は、いったい何?

「私、一生、お笑いを書いてるのかなあ。なんかたまには恋愛もののドラマとかも書いてみたいなあ。…でも男の人と付き合ったこともないから、無理。無理、無理!」

「それは関係ないよ。知らないからこそ、人ごとだからこそ、フィクションは大げさに書けるんだよ。そんなこと言ってたら、ほとんどが恋愛ドラマ書いちゃいけないオバサンだよ」

 優しい顔して、なかなか辛辣なことを言うよな。

「まっ、その内、沙也加ちゃんにも恋人ができるよ。こんなに素敵なんだから」

 月原さんは、ミニドレス姿の私を見ながら言った。

「ええっ? 彼氏を作ってもいいんですか? 普通、タレントのマネージャーはそんなことがないように、目を光らせてるって聞きますけど」

 大好きな人にそんなことを言われて、鼻の奥がキューンと痛くなった。

「君は乃木坂でも清純派女優でもないんだし、別に沙也加ちゃんに彼がいたとわかっても、ファンは怒らないと思うよ。心から祝福してくれるさ。相手が素敵な人なら、イメージが悪くなるわけでもないしね」

「でも、秋実にいたら、困りますよね」

 えっ? またまた、この口は何を言うねん!

 月原さんは何にも言わないで、微笑んだ。

 彼は怒った表情を決して見せない。それがかえって私の心を乱すのだ。

 あーあ、また、私はつまらないことを言ってしまった。せっかく、いい感じで仕事をしていたのに……。私の頭の中は、最近ほんとうにおかしくなっているのだ。情緒不安定は秋実だけではない。

 結果的には、月原さんをチクチクいじめるようなことを言ってしまっている未熟な私。そんな自分が嫌で嫌で、それでいて、相方のことに関しては、ほんとうのことを知るのが怖くて怖くて…一歩も前に進んでいない。

 


 月原さんと私は、東京に向かうのぞみ号の中だ。

 私はずっと台本を読んでいる振りをしていたが、大阪キャッツの今後のことばかりが頭の中を行ったり来たりしている。

 そして、モヤモヤしたままのその気持ちをどうやって月原さんにうまく伝えられるかを考えていた。

「あの、月原さん」「ん、どうしたの?」

 月原さんはスケジュール表をチェックしていたようだが、私に笑顔を向けた。

 ああー、なんでそんなに優しいの?

「あのー、秋実のことはタレントとして、相方として尊敬しているし、人間としても好きなんです。それでも、もう私らは解散した方がええんかなとか、秋実はひとりでやっていけるんやから、私は邪魔かなって思ったりもして……。最近、いったい私と秋実は何やねんやろって思うんです」

 月原さんは紙コップに入ったコーヒーを一口飲んでから、窓側の私に目を向けた。

 そんな仕草だけで、私はドキドキしてしまう。

 秋実とのコンビのことで苦しいのか、月原さんをどんどん好きになってしまうから苦しいのか、それさえもわからなくなるのだ。

「沙也加ちゃん、何言ってるんだよ。うちのプロダクションは、まだまだこれから大阪キャッツで稼がせてもらう計画ばかり立ててるんだよ。まあ、解散があるとしたら、沙也加ちゃんが結婚する時かな」

 月原さんが冗談っぽく言った。

「えっ! 結婚? そんなん、いつのことになるやらわかりませんよぉ」

「そんな事を言ってる子に限って、さっさと結婚してしまうんだよな」月原さんが微笑みながら私の目を覗く。

 あかん、あかん、そんなに見られたら、アホなコントが書けなくなる。

「僕も今までいろいろなコンビを見てきたけど、みんな沙也加ちゃんみたいに悩む時がある。特に、君たちは奇跡の男女コンビだからね。『私と秋実はいったい何だろう』って言ったけど、君たちはお互い相方なんだよ。恋人でも兄弟でも友達でもない、相方という運命共同体なんだ。最近、ふたりが離れて仕事をする時間が多くなってるよね。だから、不安に感じるだけだよ」

 ほんとうにそうだ。今まで、一日中、秋実といっしょだった。家族といる時間よりも長かった。それなのに、もうすでに2週間くらい会っていない。

「今日、秋実も映画の撮りがいつもより早く終わるって言ってたなあ。よし、いっしょに秋実の東京のマンションに押しかけようか」

「賛成!」 私は少し元気になり、次のコントを考えてみようと、外の景色に目を向けた。



「秋実、久しぶり〜!」

「ほんまや、沙也加、会いたかったでぇ!」

 私たちは久しぶりに会った恋人のように熱い抱擁をした。

 と言っても、どこからみてもコント的抱擁で、秋実が私に抱かれている風にしか見えないだろう。

「秋実、また痩せた? 背中がごりごりしてる」「そうか?」

「秋実の体は、ちょっと触っただけで、痩せたかどうかわかるねん」「おれら、いったいどんな関係やねん!」

 秋実がかわいい笑顔を見せた。

「かなり寝不足やからな。そういう沙也加も痩せたやろ? なんか、ちょっと見てないうちに色っぽなったな。まさか恋してるなんてことないよな?」

 秋実はニヤニヤ笑いながら、私の体を上から下まで観察するかのように見た。

「えっ? 恋? うん、そうやねん……な、わけないやん!」

 私は秋実のゴツゴツの肩先をパンと一発叩いた。

「い、痛いなあ、もう! あのな、沙也加がきれいになったら、大阪キャッツは成り立たたへんってことくらいわかってるよな?」

「そうや。私は芸のためにブサイクを維持してるんや」

 私はもう一発、秋実の二の腕に軽く平手打ちを食らわした。

「もう、堪忍してや。おれ、映画で裸のシーンが結構あるねんで。沙也加と一緒におったら、あざだらけになるわ」

 秋実は痛そうに腕をさすりながら私を奥に案内した。

「ああ、そうか。あの原作からすると……めっちゃ裸のシーンあるやん。女に買われる役やもん。きゃー! どこまで脱ぐん?」

「そら、全裸や。もちろん、ココは隠すけどな」

 秋実は、自分の下半身を指さした。

「エッチシーンもいっぱいある?」

 私は興味津々だ。

「あるある。むしろ、そればっかりや! AV男優になった気分や」

「えっ? どんな感じなん? 恥ずかしい? 気合い入れすぎて、あそこが立ったりせえへんの?」

 私は、月原さんがそばにいたらけっして口に出さないような下ネタを立て続けに並べ、秋実を質問攻めにした。

「ほらほら、経験のない女がそんな知ったかぶりしてんと、まあ、その辺に座って」

 秋実がフロアを指さした。

 透明なローテーブルがリビングの真ん中にあって、淡いペパーミントグリーンの大きな4個のクッションが部屋をさわやかなに彩っている。

「月原さんは寄るところがあるから、遅れてくるって」

 私は、腰を下ろした。

「それにしても、東京も暑いなあ。さぞかしビールがおいしいやろね」

「ほんまやで。ビールが最高! おれなんかまだ20歳になってないから、せっかく映画の共演者が焼き肉やお寿司を食べに連れて行ってくれても、あの鬼水が目を光らせてるやろ? そやから、一回も外でビール飲んだことがないんやで。ウーロン茶で塩タン喰って、何がおいしいねん」

 秋実はボヤきながら、2LDKのキッチンにあるアンティークな冷蔵庫から缶ビールを2本持ってきた。

「へえ、ええなあ。映画の共演者って、藤沢さんとかと食事に行ったりするんや」

 私は秋実と共演しているイケメン俳優の名前を挙げた。

 私なんて、たまに食事に誘われても、お笑い芸人さんばかりだ。

「うん。もちろん、藤沢亮さんとか、ほら、原作の中でコールボーイを仕切ってる女が出てくるやん。あの役は澤田レミさんやろ。彼女も食事に誘ってくれるで」

「ええ〜、すごい! そんな人たちとお友達やなんて。なんか秋実が遠い人になってしまう」

 秋実はそれには何も答えず、ビールのプルトップを引っ張った。私もビールを開けた。

 プシュー、プシューと2度続けていい音がした。

「月原さん、ごめん。お先に乾杯!」私は缶ビールを秋実の缶ビールにタッチした。「乾杯!」ふたりは一気にビールを飲んだ。

「うーん、仕事の後のこの一杯、たまらんわ」

 秋実はいつだって、ほんとうにおいしそうにアルコールを飲む。

「一杯やったらええけど、秋実は適当なとこでやめるってことができへんから心配や。ベロベロに酔って、なんか色っぽうなって、誰にでもしなだれかかって行くからな。私もちょっとでええから、その色気を分けてほしいもんやわ」

「沙也加、色気っていうのはな、仕事が欲しい〜っていう気持ちなんや、わかるかなあ」「一年中、仕事欲しい〜って思ってるけどなあ」

「そう思って仕事関係の人と接してたら、自然と色気はにじみ出てくる!」秋実は片肘をついて、肌の綺麗な小さな顔を斜めに支え、流し目で私を見ながら、ビールを飲んだ。

「こんな感じ?」

 私も真似をして、まったく同じポーズを取った。

「プッー!」

 秋実がビールを吹き出した。「相方から笑い取ってどないするねん」

 秋実はティッシュで口やテーブルを拭いた。「秋実は顔がきれいから、何をしても魅力的なだけやん、結局はそこやん!」

「なあ、沙也加はいつ聞いても、付き合ってる人なんかおらへんっていうけど、好きな男くらいおるん違うか? なんか、さっき久しぶりに沙也加見て、そう思うた。どんなんがタイプなん? 沙也加は」

 秋実が身を乗り出してきた。

「そうそう、この前、雑誌のインタビューがあったんや。その記者におんなじこと聞かれたわ」

「そんなことに興味あるやつもおるんやな。いや、興味はないけど、仕事やから興味あるふりをしてくれてるんや」

「何言うてんの! これでも、結構男の子からファンレターが来て、沙也加ちゃんは、どんなタイプの男性が好きですか?って書いてくれてるやで」「そいつら、単なるデブ専やろ」「あのなあ! 私かて、がんばったら、色気くらい出せるわ!」

 私は、腕を頭と腰に当て、この前の撮影で求められたセクシーポーズをしてみた。

「やめろって! 沙也加はな、そんな無理せんでも、かわいいだけのアホ女にない才能があるんや」

 秋実が結構真面目な表情で言った。そして、続けた。

「そうそう、それでその記者に何て言うたん? 好きなタイプの男……」

「えっ? うーんと、背が私より高くて、包容力があって、紺色のスーツが似合う人って」

 なんか一瞬シラーっとなって、秋実の表情が凍り付いたような気がしたが、秋実はすぐに笑顔になって言った。

「それって、まんま月原さんやん」秋実は私をまっすぐ指さした。

 そして、秋実は左側の口角を少し持ち上げて微笑んだ。秋実の要注意表情だ。

「おれといっしょやん、好きなタイプ」「えっ?」と、続きを聞き返そうとしたが、ちょうどピロピロとチャイムが鳴った。

「はーい」 秋実はインターホンで返事をし、エントランスドアの解錠ボタンを押した。

「背が高くて、包容力があって、紺色のスーツが似合う男が来たで」秋実の顔が、ひきつっているように見えた。

 私は秋実に聞き損なってしまった。『おれといっしょやん、好きなタイプ』の先を……。

 秋実はいつだって、言っていることが、どこまでがほんとうで、どこまでが冗談なのかがわからならない。

 でも、それより突っ込んで聞いたら、何だか恐ろしい答えが返ってきそうで躊躇してしまう。そんな不思議な力まで彼は持っている。

「おまたせ」月原さんは、赤ワインを5本も買って現れた。人が見ていないし、あと少しで20歳だと言えども、未成年にワインを飲ませるマネージャーってどうよってことなのだが、秋実にはほんとうに甘い。

 私も赤ワインが大好きなんだけど。

「月原さん、お疲れさまでした。あれっ、月原さん、どうかしました??」

 私が思わずそう聞いてしまうほど、月原さんはいつもになく、眉間に皺を寄せて、何か考えている。

「うん、今、エントランスで秋実の部屋番号をプッシュしてた時、ピカッと光ったんで、そっち見ると、また、ピカッて」

「もしかして、それって、写真?」 秋実が聞いた。「ああ。慌てて逃げて行く人影が見えたから」

 月原さんはスーツの上着を脱いで、壁にあったハンガーにかけた。紺色の上着……。

 ネクタイをゆるめようとする長い指がすごくセクシーだ。

「あっ」私はある不審な車を思い出した。

「そうや。私がこのマンションに着いてタクシーから降りた時、白い車が止まってて、その車に隠れるようにして、私を見てた男がいてたわ」

 変だなと思ったが、秋実に会えることばかりを考えていたので、その男のことなど完全に忘れていた。

「もしかして、写真週刊誌?」

 私が秋実と月原さんとを交互に見ながら聞くと、ふたりは目を合わせて、無言で何かを交わした。確かに……。

 何? 何? ちょっとぉ! 何かが起こっている。秋実と月原さんは知っていて、私は知らない何か。

「うーん、写真週刊誌やったら、秋実のスキャンダルを狙ってるわけか。秋実もスターの仲間入りってわけやね。すごいやん」 

 私はどうでもいいことを言いながら頭の中を整理してみたが、変な違和感だけが胸につっかえたままだ。

「まあ、そんなことは後にして、おなか空いたし、何かデリバリー頼もうな」

 秋実はまるで話をそらすように、スマホで店を探し始めた。

 私はこの日、月原さんが買ってきてくれた赤ワインを3本空けたところまで覚えている。

 翌日になって、月原さんと秋実から聞いた話では、私が泣いたり喚いたりして、挙げ句の果ては寝てしまって、月原さんがタクシーに乗せてホテルに運んだということだ。

『こいつ、重すぎる! 痩せろよ』と、月原さんは確実に思ったはずだ。

 いや、そんなことより私は、酔った勢いで月原さんに変なことを言ったりしなかったのだろうか。



 大事件が起こったのは、それから5日ほどあとだ。

 私が大阪のラジオ局でやっている『キャッツ・沙也加のニャンニャンニャン』という2時間番組が終わった。

 これは、秋実抜きで私がひとりでしゃべらせてもらっている番組だ。

 この番組が終わると、テレビ番組の収録が入っていて、少し離れたテレビ局に向かわなければいけない。

 私と月原さんはふたり並んで、すれ違うスタッフ、タレントさん達に『お疲れさまでした』と挨拶をしながら廊下を歩いていた。

 すると向こうから、うちのプロダクションの木下部長が小走りで血相をかえてやってきた。

「月原、ちょ、ちょっと、えらいこっちゃ!」

 えらいこっちゃは、アンタの頭やないですか!

 木下部長のバーコード頭の髪の毛は、バラバラに解散し、いつもならなんとか隠れている地肌がもろに出てしまっている。その上、地肌から汗が噴き出している。ということは、木下部長が自分の頭のことどころではない大事件が起こったと考えていいのだろう。

 木下部長は、丸めた白いコピー用紙のようなものを持っている。

「月原、知ってたんか? 写真週刊誌にやられたんや。来週発売予定や。この出版社の常務と知り合いでな。前から、うちのプロダクションにやばいことがあったら、必ず知らせてくれって、頼んでたんや。これ見た瞬間は、心臓、止まるかと思うたわ」

 木下部長はハンカチで汗を拭い、右手の指で器用に髪を定位置に戻した。

 月原さんが木下部長の手に握られているものを慌てて取り上げて見た。ゲラ刷りという言葉を聞いたことがあるが、それなのかもしれない。私もとっさに覗き込んだ。

 何と、一枚めに恐ろしい写真はあった。右の写真は、車の中を外から撮ったものだ。

 シートを倒した状態で仰向けに寝ている人間がひとり……。その人間の顔半分が隠れるくらいに覆いかぶさっているもうひとりの人間……。

 なんと、下で目を閉じている美しい顔は、確かに秋実ではないか。

 そして……そして……その覆い被さっている人間は、今、私のそばにいる月原さんに他ならない。

 誰がどう見たって、車の中でのラブシーンだ。仕事のうち合わせをしていたとか、プロレスごっこをしてたとか、そんな言い訳は絶対に通用しない写真なのだ。

 秋実の髪型からして、これは夏以前……そうだ、お笑い新人グランプリを受賞した頃のものだ。

 なんと、記事の見出しまで、できあがっている。『大阪キャッツが売れたわけ』何、それ?

 要は、秋実は自分のマネージャーともデキているゲイで、その性癖を利用してプロデューサーなどと仲良くなり、大きな仕事を取り、お笑い新人グランプリも受賞した……ということを言いたいらしい。

 私はもっと続きをゆっくり読んでみたかったが、月原さんがそれを丸め込んでしまった。

 そして、月原さんはしばらく何かを考えているようすだったが、私を振り返った。

「沙也加ちゃん、今から……明日いっぱいの仕事、一人で大丈夫だね」

「は、はい」私は月原さんの気迫にすっかり負けて、頷いてしまった。

 というより、私の頭は混乱で爆発しそうで、何について返事をしているのかも理解できない状態なのだ。

「部長、僕は今から東京へ行きます。大丈夫です。必ず話をつけてきますから。沙也加ちゃんのスケジュール管理をお願いします」

「ああ、それはだいじょうぶや。そやけど、どうやって……」

 木下部長の話が終わらないうちに、月原さんはあっという間に姿を消した。今から、ほんとうに東京に行くつもりなのだろうか。

 月原さんはいつも秋実ばっかり。秋実を特別に大切にするし、甘いし……と思っていた。

 でも、それは商品として価値があるからだと決めつけていた私。私って、なんてアホなんだろう。どこまで鈍感な女なのだろう。

 ずっとそう思い込んで、仕事上で秋実に軽いジェラシーを感じていた自分がすごく情けなくなってきた。

 秋実は月原さんにとっては、すでに、単なる商品ではなかったのだ。

 私の思考回路は、完全に切れた。

「そんなん、当たり前やん……そんなん。月原さんは秋実を……秋実を。あのふたり、デキてたんや。商品として大切なだけやなかったんや。私、アホやんか!」

 気がつくと、私は涙で顔や手をびしょびしょにし、ラジオ局の廊下に座り込んでいた。

「沙也加ちゃん、しっかりしてや、どうしたんや? アンタに泣かれたら、僕、どないしたらええのやわからんやないか。よしよし、大丈夫やからな」

 大きな私の背中を木下部長は子供をあやすようにさすってくれた。それなのに私は、今までの我慢や不満や不安が一気にあふれ出たかのように泣いた。

「もう、仕事いかへん。仕事なんかやめる〜〜〜!」

 ラジオ局の人が興味津々な顔、びっくりした表情で私たちの横を行き過ぎる。

 もう、どうでもいい。何もかもどうでもいい。自分が今、何が悲しくて、何に怒っているのかもわからない。

 秋実も、月原さんも…アンタら、最低や!

 私はこんなわけのわからない世界から今すぐ足を洗ってやる。普通の女の子に戻るんや!

 私は、追いかけてくる木下部長を振り切って、ラジオ局の玄関を出た。

 そして、タクシーに向かって手を上げた。

 


 習性っていうのは、恐ろしい。

 私は無意識のうちに、タクシーの運転手さんにテレビ局の名前を告げ、ちゃんと次の仕事に向かっているのだ。

 さっきまで『仕事なんかやめてやる!』と泣き叫び、このまま遠いところに行ってしまおうと思ったのに。

 ふと我に返ると、ボーッとした頭のまま、私はメイク室の鏡の前に座っていた。

 タクシーの運転手さんが『大阪キャッツの沙也加ちゃんやね』と、話しかけてきたことは何となく覚えているが、どんな風に答えたのかも記憶にないし、沙也加らしいリアクションができたかどうかも自信がない。

 思ったより早くテレビ局に到着したので、まだ、他の出演者はメイク室にはいない。

 ここは、この前、私たちがお笑い新人グランプリをもらった、例の伊達プロデューサーがいるテレビ局だ。

 私が呆然としていると、メイクのメグちゃんが鏡の中の私の顔を心配そうに覗き込んだ。

「沙也加さん、目が真っ赤だし、まぶたが腫れてますよ。冷やしてからメークしますね」

 メグちゃんは、冷蔵庫の中からよく冷えたジェルシートを出してきて、私の目の上に置いてくれた。

「気持ちいいわぁ。ありがとう」

 少しだが、頭のモヤモヤが晴れていく。

「沙也加さん、最近痩せたし、きれいになりましたよね」

 メグちゃんは、私の元気ないのを悟ったのか、明るい顔でうれしいことを言ってくれる。

「忙しいから寝不足やし、ご飯もちゃんと食べられへん時があるからね」

「ううん、そうじゃなくって、恋をしてるんじゃないですか?」

 私はびっくりしてシートを取り、メグちゃんの顔を鏡越しにじっと見た。

「恋? 私が? ははっ。そんなアホな! 誰と?」

「いえ、それはわかりませんが。まあ、秋実さんでないことは確かですね」メグちゃんは自信満々のようすだ。

「えっ、どうして? ブスと美少年やから、釣り合わへん? まあ、誰でもそう思うかな」

 私がちょっとふてくされた声で言うと、メグちゃんはとんでもないという風に、慌てて首を振った。

「ぜんぜん違いますよ。でも、沙也加さんにこんなこと言っていいのかな…」

 メグちゃんはとまどっている。

「なに? なに? 教えて!」

「ここはメイク室だから、複数のタレントさんがいっしょになるでしょ? そうすると、うわさ話に花が咲くんですよ。この前、黒田兄弟さんや、ココナッツさんがいっしょだった時もそうですけど、もっと年上の芸人さんたちが集まった時も、秋実さんの噂話はよく出てくるんです」

「ふんふん、それでカオルらがまた、つまらんことを言うてたんでしょ?」私はカオルの名前を聞くだけでムカつく。

「はい。うちの伊達プロデユーサーと秋実さんは、ずいぶん前から、その……特別な関係だし、秋実さんにおいしい仕事が舞い込んでくるのは、スポンサーや監督ともそういう関係だからだって。だから、大阪キャッツは超売れっ子になれたみたいな話をしてたんです」

 私はあらためてカツンときた。アンタらに秋実の何がわかるねん?!

 秋実はそんなアホやない! カオルよ、秋実はアンタみたいな尻軽やない!

 そんなことだけで売れるんやったら、私のコント台本はどうやねん!? 私たちの血の出るような練習は何やねん!? 

 私たちの実力は皆無やって言いたいんか?!

「それで……カオルさんたちが『このネタを写真週刊誌がもう掴んでるみたいや』って言ってました」

 メグちゃんは遠慮がちに付け加えた。

 私はハッとした。さっきラジオ局で木下部長が持っていたもの……。あれは伊達さんとのものでなかった。

 写真週刊誌は『お笑い新人グランプリ』の前から秋実を追って、相手は限定しないでシャッターチャンスを狙っていたのだ。

 そして、その中でも一番おいしいネタが、マネージャーとの関係だったというのだろうか。

 そう言えば今頃、月原さんは出版社に向かう新幹線か飛行機の中だろう。何とか出版をやめてくれと、プロダクションの力をバックに脅しを入れるつもりだろうか。

 月原さんが東京に行った意味を自分なりに考え巡らせていた私は、何を血迷ったのか、なぜか自分でも理解に苦しむ演技をメグちゃんの前で始めた。構成・演出・出演は、戸田沙也加。

「はははははっ、それ、笑える噂やねえ。カオルらアホ違うか。そういう雰囲気は、秋実の仕事上のキャラって、わかってないんかな。秋実が努力して、私の台本通りに中性的な、もしかして、男好き?みたいなものを作り出してるわけでしょ? 芸人さんたちにそう思わせるって、すごいよ。ねえ、メグちゃん」メグちゃんは、キョトンとしている。

「なあ、メグちゃん。ええこと教えてあげるわ。実は、秋実にはラブラブのかわいい彼女がいるんよ。いや、その子も、そう長くないわ。うーんと、私が知ってるだけで何人目かなあ。実際の秋実はすっごい女好きやねんから」

 私、何を言ってるんだろう。なんで嘘をつくのだろう。なんで秋実をかばっているんだろう。

 秋実、秋実、秋実、みんな秋実。いいことも悪いことも、全部秋実。大阪キャッツの話に沙也加の名前は出てこない。

 私はそう思って、怒っていたのだ。

 でも、私はこうするしかないのだと、私の中の私がそう叫んでいる。

 情報交換場と言ってもいいメイク室で、メイクさんにこう言っておけば、確実に2、3日うちにこの情報は蔓延するだろう。

 吉川秋実、女たらし情報!

「えっ、じゃあ、私でも可能性あるんだあ」 メグちゃんは何だかうれしそうだ。

「そんなん、大あり! そやかて、秋実はメグちゃんみたいな、かわいい感じやけど、ちょっと年上っていうタイプが大好物やもん」

「えっ、うっそー!」メグちゃんは両手を口元に添え、ピンク色に染まった。

 メグちゃんが以前から秋実に興味がありありだったことには、私でさえ気付いていた。

「ほらほら、この前、メグちゃんに大阪のオバちゃんメイクしてもらって、すごい顔になってる時、メグちゃんに『こんなオレにしたんは、君や』とか何とか言うてたでしょ?」

「は、はい」メグちゃんの瞳は、愛と希望で輝いている。これぞ恋する乙女の表情だ。

「あれは、秋実が気に入った女の子の前で言う、決・め・ぜ・り・ふ」

「そんなー!」メグちゃんのほっぺはピンク色に紅潮し、ほんとうにかわいい。

 メグちゃん、ごめん! 私を恨まんといてな。

 私はやっぱりこの世界でしぶとく生きていく。

 カオルたちには負けたくない。絶対、あんな女達に負けない。

 だから、平気で嘘もつく。

 相方を守るために、自分たちの仕事を失わないために何でもする。

「がんばらなあかん!」

 私は自分に言い聞かせるように声を出してしまったが、メグちゃんは、自分に声をかけられたと思い、かわいいガッツポーズをした。

 私の中には、かなりの罪悪感が膨れあがった。

 その時、メイク室のドアが勢いよく開いた。

「あっ、沙也加ちゃん、ここに来てたんやな。ああ、よかった、よかった」

 そう言いながら、木下部長は、手近にあった椅子に、気が抜けたように座り込んだ。

 すごい息切れと、異常事態のヘアスタイルだ。

「プッー!」私もメグちゃんも木下部長の頭を見て吹き出した。

「何がおかしいねん! 僕がどんな心配したか、わかるか! さっきまでおったラジオ局をトイレまで全部探して……『キャー!』って言われて変質者扱いされて…それでも見つからんから、もしかしてここにいるかと思うて。いや、沙也加ちゃんは、ほんまのプロやから、絶対ここに来てるって信じてた」

 木下部長は、しんみりした口調になって泣き出すのかと思った途端、何気なく目の前の鏡を見て豹変した。

「何や! これ! えらいこっちゃ!」

 木下部長が自分の髪の毛の異常事態に気付き、目を剥いた。

「いやあ、ほんまにえらいこっちゃ、部長。でも、ご安心を。ここにヘアメイクのプロがいますから」

 私がメグちゃんに目で合図をすると、メグちゃんはブラシと櫛を持って、木下部長の髪を直し始めた。

「ごめんね、メグちゃん。えらいきたないもんを触らせてしもうて」

「誰がきたないもんやねん!」

 木下部長がじょうずにツッコミを入れてくれた。さーすが! 人気コンビの元マネージャー。

 私は何だかすっきりして、メグちゃんにきれいにメイクをしてもらった後、軽い足取りでスタジオに向かった。


 

 その日、私のスマホには、秋実からの恐ろしい数のLINEや電話の着信履歴があった。

 でも、私は無視し続けた。

 相方を守り、自分自身も守り抜くと心の中では決めたけれど、でも私は怖くて秋実と話す勇気がなかった。

 私がスマホに応答しないとわかると、秋実は家にまで電話をしてきたらしい。

 電話をとった母は、もう舞い上がってしまって『秋実君としゃべった、すごくいい子!』

 と、完全なミーハーオバちゃんになり、そわそわしている。

 私はこんな自分の母親を見ていて、ふと、秋実の母親のことを思った。

 もし、彼女があの写真を見たら、どうしただろう。血の繋がっていない息子だから平気だろうか。そうだ。お父さんはどうだろう。

 秋実の実母は、夫があまりにも融通がきかないがんこ者だということに我慢しきれず、幼子を置いて出て行ったと聞いている。

 そんな頭ガチガチのお父さんがあの写真を見たら、脳卒中か心臓発作で倒れてしまうのではないだろうか。

 そんなことより、あの写真が世間に出たら、秋実は今の人気を維持することができるだろうか。

 お笑いタレントと言えども、完全にアイドル化されてしまった秋実は、スキャンダルでおしまいになってしまうのではないだろうか。

 あかん、あかん、秋実の心配をしている場合やない! 

 秋実がだめになるということは、大阪キャッツがだめになるということではないか。

 いやや、そんなん!私は秋実とお笑いをやりたいねん。

 秋実のための台本を書きたいんや。



「おはよう。一人にしておいて、ごめん」

 月原さんの何事もなかったようなおだやかな声で、私は我に返った。

 私はきっと、ものすごく怖い顔をして月原さんの車が待つ大通りまで歩いていたのだろう。

 月原さんは、車から降りて、私が歩いてくるのを待っていたようだ。

「お、おはようございます」

 2日間、月原さんと会っていないだけで、なんとなく恥ずかしくて、まっすぐに目を見ることができない。

 何から話せばいいのだろうか。気まずい。沈黙がこわい。月原さん、早く車を出して。そうすれば、外を見ているポーズもできる。

 ところが、月原さんは車を止めたまま後部座席を振り返り、私に一冊の雑誌を渡した。

「あっ、あの写真週刊誌」

「沙也加ちゃんが一番心配してるだろうと思ってね。見てごらん」月原さんは、車をゆっくりと発進させた。

「えっ!??? 何、これ??!」

 なんと、秋実の記事の見出しが『恋多き女優、澤田レミ。今度のお相手は大阪キャッツの吉川秋実! 2一02歳、年の差大恋愛』と書かれ、何枚かの写真が掲載されている。

『澤田レミの車庫からベンツを出し、彼女の車を運転して近所のスーパーに買い出しに行く吉川』と書かれた写真だ。

 確かに秋実だ。

『澤田レミが帰宅しドアを明けると、笑顔の吉川がお出迎え』

 これは服装が違うので、別の日に撮られたものなのだろう。確かに澤田レミと笑顔の秋実。

「なんで? なんでやの?」独り言のように、そして、月原さんを責めるように私は声を絞り出した。

 私、なんで、こんなにも秋実のことを知らんの?

 高校生の時、養成所で知り合い、月原さんにふたりでコンビを組めと言われ、必死にがんばってきた。

 お互いに食べ物の好き嫌いもよく知っていたので、仕事場で出たお弁当は、おかずをトレードしながら食べた。秋実の胸の真ん中に魅力的なほくろがあることも知っていたし、秋実は、私の足のサイズが26センチもあって、なかなか合う靴がないことも知っていた。それなのに、ブラジャーはAカップで、バスト98センチというサイズのほとんどは贅肉だということも知っていた。 

 寝ずに、朝までコントの練習をしたよね。

 アンタのツッコミがヘタや、いいや、おまえの本が悪いって、罵り合った。つかみ合いになって、当たり前のように私が勝った。

 がんばって、がんばって、お笑い新人グランプリを取った。

 プロダクションが開いてくれたお祝いのパーティーで、秋実は『沙也加は、永遠に僕の相方です』って、私を泣かせた。

 私は、秋実を親友以上の存在だと思っていた。

 だから強くなって、秋実を守ろう、大阪キャッツを続けようと昨日決心したばかりだ。

 相方……相方ってそういうこと?

 プライベートは、ほんのうわっつらだけの仲良しで、核心には触れない、言わない。

 恋をしたことも、それが自分のタレント生命を脅かす恋かもしれないことを何にも言わない。それが相方?

「沙也加ちゃん、大丈夫?」

 呆然としている私に、月原さんが怖々と声をかけた。

「秋実はめちゃくちゃです。一人でがんばって、一人で売れて、一人で写真週刊誌にスクープされて。アホやん!」

 私は、一気にまくし立てた。

「そうだ。馬鹿だね、僕も。沙也加ちゃんに嫌な思いをさせて、ほんとうにすまない」

 月原さんは、前方を見たまま、頭を下げた。

「月原さん……」

 私は何て言ったらいいのかわからない。

 この事件の元を作った張本人の一人でもある月原さん。

 私がずっと片思いをしてきた月原さん。でも、月原さんと秋実は、ふたりして私の存在を馬鹿にしている。

「僕が急いで東京に行ったのは、その写真週刊誌の人間と取引をするためだったんだ」

 月原さんの言っている意味がわからない。

「取引って? 結局、また違うスキャンダルを載せられて、何が取引なんですか!? 私は月原さんがこんな情けないマネージャーやなんて、考えたこともなかった。男のマネージャーとデキてる秋実も、親子ほど歳の違う女優とデキてる秋実も……そんなもん、どっちも同じくらい異常ですよ。変ですよ! ファンから見たら、どっちの秋実もドンビキやわ!」

 ついに私は愛する人の前でキレてしまった。

「沙也加ちゃん。僕は言い訳をするつもりはないんだ。でも、僕の話をもう少し聞いてくれるかな?」 

 月原さんは、私を宥めるように、悲しいほど遠慮気味な声を出した。

 私は月原さんのことが好き過ぎて、これまでの私は月原さんの前では、借りてきた猫みたいに、ほんとうに従順な女の子だった。

 仕事以外のことで、月原さんに本音でものを言ったこともなかった。

 今の発言で嫌な女だと思われてしまったかもしれない。ブスの上に、性格まで悪い女だって……。

 でも、もう引っ込めることはできない。

 あれも聞きたい。これも聞きたい。すべて聞きたい。秋実のこと、月原さんのこと……。

「これ、ほんとうなんですか? 澤田レミと秋実とのこと」

「ああ、写真はほんとうだ」

「写真はほんとうって?」

「僕は取引に東京に行ったって言っただろ。あの写真とこの写真を取り替えてもらいに行った。前のものを完全に抹消してもらう取引だよ」

 またまた、月原さんの言っている意味がわからない。

「どんな取引なんですか! 秋実にどんなメリットがあるんですか?! 前の写真もこの写真も、秋実にとっては、ひどいスキャンダルでしょ? 月原さんは正気なんですか!」

 もう、私の頭の中はぐちゃぐちゃだ。

 でも、たったひとつの事実について、それだけはどうしても聞かなければいけない。

 でも、それは一番聞きたくないこと……、秋実と月原さんの関係についてだ。

月原さんの口から出る前に、どうしても自分から聞かなければならないのだ。

 覚悟はできている。それをしないと、私は前に進めない。真実の決心もできない。

 ひとつは、『アンタたちとは、もう付き合ってられへん! ほな、さいなら!』と、秋実とのコンビを解消し、こんなわけのわからない世界から足を洗うという決心。そして、もうひとつの選択……。

 非常識も常識のうち、異常も常のうちと割り切って、この世界にどっぷり浸かるという決心。ふたつにひとつだ。

 そんな私の集中力が最高潮に達した時、私のスマホがにぎやかに鳴った。

 待ち受け画面には秋実の名前が表示されている。

「秋実……」私は思わず声に出した。

「出てやって。ずっと連絡取れないって言ってたよ」

 その月原さんの口ぶりだけで、月原さんへのまだ終わっていない質問の答えが明確になったような気がした。

 秋実と月原さんは、タレントとマネージャーという関係だけではない。

 いや、悲しいけど、断言しよう。月原さんは、秋実を愛している。

 あの写真週刊誌の写真では、まだ曖昧だったものが、ちゃんと形を帯びてきた。

『出てやって』という言葉には、くやしいけれど、何とも言えない愛が溢れ出ているのだ。

 そう言えば、こんな鈍感な私でも、あの時、なぜか違和感を感じた。

 あの日、東京の秋実のマンションに集まった時、月原さんは、ハンガーを探しもせずに上着をかけたりして、今考えれば、何度も秋実の部屋に出入りしていなければ、できることではないのだ。

 それに、写真を撮られたみたいだという話になった時、月原さんと秋実が無言のまま目と目で交わした何か……。

 今思うと、あれは恋人同士のものだったのだ。

 月原さんは一度だって、私をあんなまなざしで見てくれたことなんてない。

 私は思いきって電話に出た。

「沙也加? ああ、やっと出てくれた」「うん……」

「もう、記事を見たやろ? めっちゃ、びっくりした? ドッキリかと思うたやろ?」

 私がぎりぎりのところまで追い詰められているというのに、まるで他人ごとのように暢気な秋実に腹が立った。

「いいかげんにしてよ! どんな大変なことかわかってるんか? アンタ、親子ほど歳の違う女と結婚でもする気か?! キモっ!! アホ! 私ら、今まで何のためにがんばってきたんよ。秋実がこんなだらしない人生を送るために、夜も寝んと台本を書いてきたんやない! 必死でネタ合わせをしてきたんやない! アンタのしょうもないスキャンダルのために、私の人生まで、めちゃくちゃや!」

「ちょ、ちょっと、沙也加、それはな……」

 私はもう勢いを止めることができなくて、秋実の言葉を遮った。

「アンタなんか、あの女とベンツでドライブ行って、トラックとぶつかって死んだらええねん! カオルのこと、おサセとか言うてたけど、アンタはなんやの? あっちこっちでヤリまくりやんか! この淫乱少年! アンタとなんか、もう、コンビ組んでられへんわ。解散や、解散!」

「プッー!」電話の向こうで秋実が吹き出し、笑い続ける。

「アンタ、何がおかしいんよ!」

「よっしゃ! その調子や。沙也加が元気に怒ってくれて、安心した」「何、それっ!」私の怒りは限界だ。

「まだ、真相を月原さんから聞いてないんやな」秋実の声が、なんだかうきうきして聞こえる。

「真相って?」「澤田レミは、おれの血の繋がった母親や」「えー!?」

 この淫乱少年は、私をどこまでびっくりさせるつもりなのか。

「これはほんまや。今から撮影に入るから、悪いけど、写真週刊誌のことは、月原さんに聞いてな」

 電話を切った私はシートに深く沈み込んだ。力が抜けて、手が震えてきた。もう、言葉もため息も出てこない。

「ごめん。沙也加ちゃん。僕自身も、こんなことになったらだめだって、必死で自分の気持ちを押さえてきたんだ。こんな事、初めてなんだ。商品に手を出すなんて…。そう、僕は商品に手を出した碌でもないマネージャーなんだ。秋実と伊達さんとは、何でもないんだ。もちろん、伊達さんは秋実がお気に入りで、僕は伊達さんから、秋実とふたりだけになれる機会を作ってくれないかと遠回しに何度か頼まれた。伊達さんだけじゃないよ。他の局の人間だって、スポンサーだって、今、撮ってる映画の監督だって……」

 えっー!? 私は心の中で絶叫した。シートに沈み込んでいた体がピーンと起き上がった。「山野監督も?」

「ああ。秋実は監督の大抜擢だったからね。マネージャーによってはね、そういう希望は受け入れるやつもいてね。でも、大阪キャッツは、そんなことをしなくても、実力だけで売れる。僕がそうしてみせるって、自信があったし、第一、秋実には……」

 月原さんは、そこで口ごもった。

「愛する秋実には、そんなことさせられませんよね。月原さんは全部断ったんですか?」

「もちろん、断ったよ。この仕事がマネージャーの仕事の中で一番きつい、むずかしい仕事だって、気付いたよ。やんわりと遠回しに断らないと、気まずくなって、あとあとお互い仕事がやりにくいし、彼らが男の子に対してそんな要求をしたことをすっかり忘れましたって顔をして、わざと、きれいなオネエサンがいるお店で接待したり、ソープランドにお連れしたりね。それに相手が乗ってくれたら、そこはお互い、すべて忘れますねという大人の約束成立ってこと」

 へえ、ほんとに大変なんだ、大人の世界は……。っていうか、めんどくさ!

 それにしても、吉川秋実は魔性の少年なのだ。男女かまわず、誰をも夢中にさせる。

「月原さん、どんな顔して、伊達さんとそんな話をしたんですか」

 私の怒りが軽口に変わったのに安心したのか、月原さんはポケットからハンカチを出して、何度も顔の汗をぬぐった。

「それで、秋実と月原さんは?」

 私の口調はまた一瞬で変化し、少し責めたような響きになったに違いない。

 だって、これこそ、一番聞かなければならないことなのだ。

「大阪キャッツがグランプリを取った夜、秋実を送ってから、沙也加ちゃんを送って行ったよね? その後、やっぱり秋実には楽屋でのことをちゃんと叱っておかなければと思って電話したんだ。それで、秋実が部屋から出てきて、車の中で話をしてた。実は、僕自身が秋実と伊達さんとの事を疑っていたし、一番気になってたんだよ。僕は伊達さんの要望をずいぶん前にやんわりと退けたけど、伊達さんがその後、自分で直接秋実を誘って、すでにそういう関係があったんじゃないかって。そんな考えで毎日頭の中が一杯だった。おかしいだろ?」

 嫉妬? 月原さんに似合わない。でも、月原さんに嫉妬される秋実が羨ましい。

 月原さんは、秋実と出会った頃から、秋実を素晴らしい商品として評価しただけではなく、一人の人間として愛し始めていたのだ。

 秋実も……。

 そして、私にとっては、その時が片想いの始まりだったのだ。絶対に報われることのない片想い……。

「秋実を毒牙から必死で守っているのは、僕がマネージャーだからじゃなくて、秋実への独占欲だったんだ。情けないけど…」

 月原さんは今、どんな顔をして、こんな大胆なことを言っているのだろう。

 月原さんの着ぐるみを着た月原さんと話しているような気分だ。

 そのうえ、困ったことに、私はそういう月原さんに嫌悪感を持てないどころか、彼がますます愛おしくなってくる。

「秋実が車の中で眠ってしまったんだ。話の途中だったのにね。家に着いて、すぐにビールを飲んだらしくて、少し酔ってたよ。それで僕が起こそうとしたら、ほんとうは眠ってなかったんだ」

 私はそこまで聞いただけで、あの写真の構図の成り行きが想像できた。

 私の頭から、振り払っても、振り払っても、けっして消えなかった月原さんと秋実のラブシーン。

 あの写真を撮った写真週刊誌の人間は、きっと、いくつかの証拠を集めて回ったのだ。

 だから、東京の秋実のマンションにも現れたというわけだ。

 月原さんが話を続ける。

「秋実が僕の首をいきなり引き寄せて、自分の顔の方に近づけたんだ。そうしたら、もう、わけがわからなくなって」

 ああ〜、お願い。みなまで言うな〜!

 月原さんが、私みたいな小娘に必死で言い訳をしている。

 ちゃんと話すことが、秋実の相方である私に対する誠意だと思っているのだろう。

 なんだか今まで私が思い描いていた月原さんのイメージが変化した。 

 でも、それは幻滅という意味ではなく、人間味や親しみを感じるものなのだ。

 月原さんは、いつもスーツをかっこよく着こなし、清潔感溢れ、仕事をテキパキこなす、私の中では、近寄りがたいサイボーグの王子様のような存在だったのだから……。

 月原さん、私はあなたが好きです。大好きでした。振られたとかという以前の、どうしようもなくつらい初恋でした。

 あなたが相方とそういう関係だと知った今も、やっぱり胸がキューンとなるくらい大好きです。

 苦しいです。涙がドバッと出てきそうです。でも、あなたにそれを告白する日は、永遠に来ないのですね。

 


 秋実の写真週刊誌の騒動は一件落着したかのようだったが、それは私たち身内間のことであって、世間では大変なことになっていた。

 そりゃあ、そうだ。誰も秋実と澤田レミが血の繋がった母子だなんて知らないんだから、親子ほど歳が離れた恋愛……という物珍しいスキャンダルなのだ。いや、母子だとわかったらわかったで、これまた大騒動になるのだろう。    

 とにかく、どこの放送局に行ってもリポーターたちが待ち伏せし、仕事が終わって出る時も、まだ根気よく待っているのだ。

 そのスキャンダルに何の関係もない私でも、相方だというだけで付き合わされてしまうので、いいかげんくたびれてしまう。

 だって、大阪キャッツふたりの時に限らず、私ひとりの時にでも『秋実君のこと、前から知っていたんですか?』と追いかけ回される日が続いている。

 一度でいいから、自分の恋の噂で追いかけられたい。

「沙也加ちゃん、走るよ」

 月原さんのこの合図で、100メートルから400メートルの短距離走を強いられる毎日だ。

「もう! 月原さんのおかげで、毎日走らされて……痩せてまうわ」

 私は不満を言うが、その逃走自体がなかなか楽しくて、スリリングなのだ。

 今日もやっとリポーターやカメラマンから逃れ、タクシーに乗り込んだ。すでに、月原さんの運転で移動はできない状態なのだ。

 乗り込むなり、月原さんは運転手さんにある住所を言った。

 もしかして、それって秋実の実家?

「次の仕事まで時間が空くから、沙也加ちゃんにもいっしょに行ってほしい。秋実のお母さんと会う約束をしているんだ」

 そうだ。私は澤田レミと秋実の写真が出てからというもの、自分が取材陣から逃れることと、月原さんと秋実の関係のことばかり考えていた。思いやりのない自分にハッとする。

 今、秋実の両親はどうしているのだろう。

 女優の澤田レミが秋実のほんとうの母親だということは、秋実の両親は知っているだろうから、どんなに気を揉んでいるだろう。

 だって秋実が、澤田レミを母親だと知らなかったとして、そういう関係になれば……。ズバリ! 近親相姦。

 秋実が実の母だと知らないで恋をしていると捉えているのなら、今、秋実の両親はパニックになっているはずなのだ。

「あの、月原さん。秋実のご両親は、秋実にほんとうの母親を教えていたんですか?」

 タクシーの運転手さんに聞こえたらまずいので、私はなるべく小さな声で聞いた。

 幸い、運転手さんはラジオ番組に夢中のようだ。

「教えたわけじゃないけど、中学生の時、今のお母さんがほんとうの母親じゃないとわかったんだそうだ。それで、親戚を訪ねて行って、自分で突き止めたらしい」

「じゃあ、彼女は知ってたんですか? 秋実が自分の子やということ」澤田レミという名前も出さない方がいいだろう。

「秋実が有名になったからね。彼は本名だから、半年くらい前にわかったみたいだ」

 そうか。澤田レミも撮影が決まった時には、秋実が自分の子だと知っていたのだ。まるで、映画のような話だ。


 秋実の家には15分ほどで着いた。

 庭付き2階建ての白っぽい家。

 玄関横の庭には、カラフルな寄せ植えをしたプランターがいくつも並べられ、玄関ポーチもきれいに掃除されている。

「お忙しいところ、申し訳ありません。私が出向むけばよかったんですが、沙也加さんも有名人ですし、どこかのお店で待ち合わせするのもどうかと思いまして」

 秋実のお母さんは、笑顔を必死で作ろうとしている。

 でも、かえってそれが余計にさびしそうな表情に見えるのは気のせいだろうか。

「いいえ、こちらこそお邪魔いたします」

 月原さんは、いつもと違った緊張した面持ちで、勧められたソファに座った。私も月原さんのそばに並んで座った。

 秋実のお母さんは、すぐに香りのいい紅茶を入れて私たちに勧めてくれた。その後をすり寄るようにミルクティー色と白のコンビの大きな猫がついてきている。話には聞いていたが、何とかわいいスコティッシュフォールドなんだろう。

 名前は確かポン太。うちはアメリカンショートヘアを飼っているので、秋実とはお互い、猫の話もよくする。そもそも『大阪キャッツ』という名前は、猫好きのふたりが付けたものなのだ。

「ポン太、おいで」

 私が指でおいでおいでをすると、ポン太は雄猫らしい少し太い声で『ナオン』と鳴いて、私の膝の上に飛び乗った。

「かわいい。たまりませんわー。この丸さ!」

 私はポン太をなで回し、抱きしめた。

 そんな私に秋実のお母さんは優しいまなざしを向けて微笑んだ。

 こうやって間近で彼女を見ると、以前会った時より頬がこけ、確実に痩せて見えた。

 やはり、秋実のことで気苦労が絶えないのだろうかと詮索してしまう。

 彼女は薄化粧しかしていないが、整った顔立ちが秋実と似ていると思うのは私だけだろうか。

 少なくとも澤田レミより、秋実はこのお母さんに似ている。

 まあ、女優さんは多かれ少なかれ、美容整形で顔をいじっていると聞くし、恐ろしいほどの厚化粧をしているというから、原型はわからない。

 だから、澤田レミと秋実が似ているかどうかについては判定不能だ。

「あの……秋実は、あの写真や記事にあったように、澤田さんとそんなに親しくしていたんでしょうか」

 秋実のお母さんは、やんわりした関西弁を使う。

「ご心配だったでしょうね。先に僕がお母さんにお話しするべきでした。申し訳ありません。あれは、いわゆるヤラセというもので、秋実君の流したくない情報と引き替えに、わざと写週刊誌に撮らせたんです」 

 月原さんの声が、珍しくうわずっている。

「それでは、澤田さんが秋実のために協力してくださったということですか?」

「はあ、協力と言うより、結局、自分自身のためだと思います。一応、世間では名を知られていると言っても、最近パッとした作品がなかったですから、20歳以上歳が離れた、人気上昇中の男の子との噂は、映画の宣伝になりますし、自分の売名にもなりますから。そして何より、彼女にとっ自分の子どもを捨てて大女優になったことをバラされることが一番恐かった……。だから、私たちの提案をすぐに受け入れてくれたんだと思います。秋実君と共演中、ずっとビクビクしていたと思いますよ」

 当然、その筋書きを考えたのは月原さん。木下部長が血相を変えてラジオ局にやって来た時、彼は一瞬でその段取りを考えたのだ。

 うーん、お主、なかなか、したたかな男!

 私は『男が相手でも、オバさんが相手でも、変態度には変わりがない』などと秋実をなじり、間接的には月原さんにも、ものすごく失礼なことを言ったことになるけれど、月原さんは考えて考えた抜いた結果、写真週刊誌の人間に交換条件を提示したのだ。

 そう言えば、うちの母が言っていた。もちろん、私は母にほんとうのことは話していないので、母は写真週刊誌の記事を疑ってもいない。

『秋実君はすごい年上好みやねんなあ。ほんなら、私にも希望があるっていうことやん。40過ぎたオバチャンはみんなそう思って、希望を持つ。もともと秋実君は中年の奥さんにすごく人気があるけど、これでますます人気上昇や』 

 なるほど……。それにしてもオバちゃんは、そんな恐ろしく厚かましいことを普通に考えるのだ。いくら年上が好きでも、アンタは選ばん!

 しかし、母の言うことは、それなりに納得できる。月原さんはきっと、それを見越して秋実と澤田レミの写真を利用したのだ。

「秋実は、やっぱりうれしそうでしたか? ニセものの写真を撮るとは言え、ほんとうの母親といっしょに過ごせて幸せそうでしたか?」

 秋実のお母さんは、とぎれとぎれに、それでも必死になってその質問を絞り出した。

「いいえ。映画を撮っている時と同じでした。大先輩の女優と駆け出しの俳優って感じでしょうか。実にビジネスライクな…」

 月原さんの答えに、秋実のお母さんは、わずかに表情をゆるめたような気がした。

「お母さんは、秋実君がなぜこの世界に入ったか、ご存じですか?」

「はあ、小さい時からお笑いが好きで、それで高校生の時、気がついたら、お笑いの養成所に入っていて……」

 秋実のお母さんは、秋実の子供の頃を思い出したのか、秋実がいとおしくてたまらないという目をした。

「もちろん、それはひとつのきっかけです。秋実君はそれを踏み台に、自分を捨てた女に近づき、何か仕返しをしてやりたかったんです。後悔をさせると言った方がいいのでしょうか。おまえがいなくても、自分はちゃんと生きてきたって…」

 月原さんの言葉に、秋実のお母さんは強い視線を向けた。

「これが仕返しですか? でも、このことで彼女には売名効果があっただけで、何にも失うものはありません。むしろ、秋実が近づいてきてくれて、うれしかったのではないでしょうか」

 秋実のお母さんの声はとても静かだけれど、言いたいことは痛いほど伝わってきた。

「そうです。この先があるんです。秋実君は、あと何日かようすを見て、彼女を血の繋がった母親だと写真週刊誌に情報を流すつもりなんです。もちろん、世間は何も知りません。彼女が子供を産んだことがあって、その子供を捨てて、過去を捨てて、大女優になったことなんて。おそらく、5年前に離婚した元夫も、彼女に子供がいることなど知らなかったと思います」

 その時、秋実のお母さんの顔色がさっと変わった。

 彼女は首を横に何度も振った。

「それは、それはいけません。月原さん、お願いです。それだけはやめさせて下さい」

 すがるように秋実のお母さんは言ったが、どうしてだめなのか、私にはわからない。

 これを発表したら、秋実は、年上の女なんかと寝ていない、あれは実の母親だったということで、元の清純派?に戻れるのに……。

「主人もすごく驚いておりました。こんな仕事をするから、はずかしい思いをするんだと、ものすごく怒っておりました。私もご近所の皆さんの目が怖くて……。でも、そんなことなら、いくらでも我慢できます。でも、でも……もし、秋実と澤田さんが親子だということが周知の事実になれば、本人たちも近い距離にいて、仕事場でいっしょの時間が多いのですから、きっと自然に元通りに……元通りの親子になってしまいそうで、私はそれが一番、一番怖いん……」 

 秋実のお母さんの声は、途中で涙に変わってしまった。

 そういうことだったのか。

 私にもその気持ちが痛いほど伝わってきて、私の目からも涙が溢れて、ポン太の頭を涙で濡らしてしまった。

 物静かな印象の母親の口から、こんな凛とした強い意志が飛び出すとは、思いもしなかった。

 そして、もっと感じたことがある。

 どうして秋実のお母さんは、血が繋がっていない息子をこんなにすごい情熱で愛することができるのかということだ。

 秋実はなんて幸せな子なんだろう。

「わかりました。私もマネージャーとして、考えがあさはかでした。お母さんのお気持ちをもっと深く考えるべきでした。申し訳ありません。大丈夫です。秋実君にはそう言います。人の噂も75日って言いますから、澤田レミとのことも、世間はすぐに忘れますよ」

 月原さんがいつもより明るいトーンの声で、秋実のお母さんに笑顔を見せた。

 私たちは30分ほどお邪魔しただろうか。

 私の後の仕事があるので、私と月原さんはタクシーを呼び、おいとまの挨拶をして玄関を出ようとした。

 かなり気に入られたようで、ポン太が私の足下で頭をずりずりしながらついてきた。そして、帰ってきた家族に『ナオゥ!』と、走り寄った。

 それは、かわいい制服姿の女の子だった。秋実の妹で、確か春花(はるか)ちゃん。高校一年生だったはずだ。

 そうだ。このお母さんには、こんなかわいい血の繋がった娘がちゃんといるではないか。

 それなのに、前妻が産んで捨てた子をなぜ、必死に愛せるのだろうか。

 そして、その時、ふと頭をかすめた、この兄妹の名前……。秋の実と春のお花。秋実と春花。

 秋実の今のお母さんが、お父さんと再婚した時には、すでに秋実という男の子がいた。そして、自分がおなかを痛めて産んだ娘に、その先妻の息子と対になる名前をつけたのだ。

 そんなことを考えていると、また私の涙腺が緩んでくる。

「こんにちは」

 春花ちゃんが、とてもさわやかな笑顔で挨拶をしてくれたので、私は鼻水をすすり上げ、すばやく笑顔を作った。

 ただ、春花ちゃんはテレビでしか見たことのない私が目の前にいることにとまどったのか、私をじっと見たままだ。

「どうしたの?」と聞くと、「は、はい。テレビで見るより、細い……あっ、ごめんなさい。かわいいし」

「あ、ありがとう」うーん、正直でいい子だ。

 もしかしたら、このかわいい妹の春花ちゃんも嫌な思いをしているのではないだろうか。

 学校の友達が、秋実の写真週刊誌のことに触れないはずがない。

 秋実は自分がやらかした軽薄な行動によって、自分を愛してくれる継母と腹違いの妹を苦しめているのだ。

 これからもきっと秋実にはスキャンダルがつきまとい、そのたびに家族を苦しめるような気がしてならない。

 だからと言って、そんな秋実を相方である私が更生させるすべもない。

 第一、秋実が真面目な男の子になってしまったら、大阪キャッツの吉川秋実はいなくなってしまうのだから。

「春花ちゃん、来月、大阪キャッツがナンバの劇場に出るんよ。ほんと、久々に。楽屋口の方からおいでよ。いい席に座らせたげるから」

「ほんとですか?」春花ちゃんの目が輝いた。

 とても仲のいい兄妹だということは、秋実の話の端々から感じ取ってはいたが、やっぱりいい関係が築けていることを確信した。

「沙也加さん、わがままな秋実ですけど、そばにいてやってもらえますか?」

 秋実のお母さんの声がとても心地よく私の耳の中に入ってきた。

 まるで、婚約者の母親に息子をお願いねって言われているみたいで、かなりいい気分だ。

 秋実と澤田レミが写真週刊誌に載った時、秋実のことをめちゃくちゃにけなし、『解散』の言葉まで口に出してしまった自分が情けない。

「もちろんです。わたしこそ、秋実くんに助けられてることばっかりなんですよ。そうそう、来週、彼の20歳にお誕生日ですね。今年はプレゼント、何にしようかな」

 私の言葉に、秋実のお母さんはとてもいい表情で微笑んだ。そして、その微笑みは、最初に私たちを出迎えた時とは違い、とても明るかった。 

「月原さんにもいろいろご面倒ばかりかけて、申し訳ありません。わがままな子ですから、びしびし、叱ってやって下さいね」

「は、はい」月原さんは何とも複雑な感情で秋実のお母さんの言葉を受け取っているのだろう。

 それにしても、秋実のお母さんが月原さんとの関係を知ったら、気絶してしまうに違いない。お父さんにバレたら、場合によっては、月原さんも秋実も殺されるかもしれない。

 私はどんなことがあっても、この秘密を守り通さなければならない。秋実と月原さんの関係を私もいっしょに背負っていかなければならないのだ。お笑いをするために生まれてきたようなルックスのくせに、悲恋の主人公のような…かわいそうすぎる私……。

「あの、月原さん。先ほど、もっと出されたくない写真と引き替えに澤田さんとの写真を掲載したって言われましたけど、それはどういう写真だったのですか」

 なんと、タイミングがいいというか、悪いというか……。

 秋実のお母さんからの質問に、月原さんの体が凍り付くのがわかった。

 笑っちゃいけないけど、いつも冷静な月原さんだけに、そのギャップがたまらなくおかしくて、私は必死で笑いをこらえた。

「い、いえ、それは……」

 月原さんって、やり手マネージャーだと思うけど、自分のことになるとまったくだめな人なんだ。

 あんまりかわいそうなので、私がとっさに思いつきをしゃべりはじめた。

「ある悪い女に罠にかけられたんです。秋実くんが自分の誘いを断り続けるんで、腹を立てたその女が、秋実くんを呼び出して、ふたりでいるところを写真週刊誌に撮らせたんです。ひどいでしょ?! かなり評判の悪いアイドルなんで、こんな写真が世間に出たら、秋実くんのイメージダウンが甚だしいってことで、とっさに月原さんが出版社に話をつけたんです」

 私って天才! さすがお笑い作家。私の素晴らしい作り話に、月原さんが尊敬のまなざしを向けた。

 ああ、私って、ほんとうにお人好しっていうか、バカっていうか……。どうして私が月原さんと秋実のために作り話を考えなあかんの?! 

 外へ出ると、気持ちいい秋風が頬を撫でているにもかかわらず、月原さんはこめかみから汗をしたたらせていた。

 それを見て『ざまあ見ろ! 少しは痛い目に会えばいい』なんて思えればいいのだが、胸がキューンとした後、お腹がグーッと鳴った。


 

 私たちはテレビやラジオの仕事だけではなく、プロダクション直営の劇場にも出る。

 ここではお客さんの反応がその場でわかる。それはとても怖いことではあるが、緊張感があって、私は大好きだ。

 何と言っても、劇場だとオンエアものでは禁止されるようなネタをやることができる。

 だから、ギャラがおそろしいほど安いことなんて、みんなそう気にしていない。

 テレビやラジオでオンエアされる分は、言ってはいけない言葉や使ってはいけないシチュエーションなどがあまりにも多すぎるので、芸の巾が狭まるとでもいうのかな。まあ、その枠の中で、見ている人や聞いている人をしっかり笑わせるのがプロというものなんだろうけど。

 そう言えば、秋実が映画の撮影やバラエティー番組で大阪を離れている時が多かったので、大阪キャッツとしては、今日はほんとうに久しぶりの劇場出演だ。

 秋実にはいろいろなことがあり過ぎた。そのおかげで、私にもいろいろなことがあり過ぎた。

 今現在、ふたりの間にぎくしゃくしたものがまったくないと言えば嘘になる。

 それでもホームグラウンドの大阪に帰ってきた秋実は、水を得た魚のようだ。そんな秋実を見ていると、私はホッとするし、何と言ってもふたりであることの重要性を実感できる。

 東京でいくらちやほやされても、秋実はやっぱり大阪の子や。

 映画の世界で揉まれたせいなのか、恋のせいなのか、秋実は以前にもまして独特のオーラというかフェエロモンを出しまくっている。

 いったい、これは何なのだろう。生まれつきのものなのだろうか。人を惹きつける何かに、秋実はまた一段と磨きをかけた。

 近寄りがたくなったような気もしないではないが、こんなオーラの固まりが私の相方だと思うと、それもまたうれしい。

 ところで、今日のつかみのコントは、タイムリーなもぎたてをお客さんにお届けしようと思っている。もちろん、オンエアはできないネタである。

 私は戸田沙也加そのまま、自分自身の役を演じる。

 大阪キャッツの沙也加が、自分のパーソナリティー番組を終えて、一人でラジオ局を出てきたところからお話は始まる。 

 大勢のリポーターたちをマネキンや背景の絵で用意し、彼らのどよめきや沙也加を呼び止め、いろいろ質問を投げかける声は、前もって他のタレントさん達に協力してもらい録音済みだ。

 秋実は、フワッとしたボブヘアにピンク色のタイトなスカートスーツという出で立ちで登場する。メイクはごく自然に仕上げてもらった。

 今日のコントでは、秋実は女性リポーターの役なのだ。

 しかし、なんでこんなにきれいやの? 控えめな切れ長の目に、スーッと通った自然な鼻。ぽってりとした唇、細いがゴツゴツしていないまっすぐな足。

 さあ、いよいよ本番だ。生の大きな拍手が私たちを迎えてくれる。

 ラジオ局の前で待ち伏せしているリポーター達。リポーター役の秋実が『あっ、戸田沙也加が出てきたわよ!』と飛び出してくる。それに続いて、録音された多数のリポーターのどよめきが流れる。

「秋実〜!」

 と、観客席のあちこちで女性の声が飛び交う。

 そして、私が舞台の下手から出て行く。その沙也加にリポーター役の秋実が近づいてくる。

「あっ、沙也加さん! お疲れさまです。秋実さんが大女優とラブラブの写真を撮られましたよねえ。沙也加さんはごらんになりましたか?」  

 この質問を秋実がしゃべるものだから、お客さんには大ウケだ。

 客席には、小さな笑いが漏れ、それがだんだんと広がっていく。

 マイクをむけられた私は、わざと面倒くさそうに答える。

「見ましたけど、それが何か?」

「彼女の方が22歳年上っていうことですが、沙也加さんはどう思われますか」

「うーん、おかしいですねえ。秋実は同い年くらいで、太めで背の高い女の子がタイプやったんですけどねえ」

「えっ?! それって、相方にセクハラ、パワハラをしてるっていう、かなりブサイクな女のことですか?」

 一気に秋実がツッこむ。

 そこで、また客席が笑ってくれる。

 なかなか、いいスタートだ。

 ん? 気のせいか、中年のおばさんがいつもより多いような気がする。厚かましいオバチャンが集まっているのかもしれない。

 そんなオバチャンたちの気持ちは理解できないが、秋実のスキャンダルに対する母の批評はまんざらでもなかったようだ。

 続いて、秋実扮するリポーターのせりふだ。

「あの、沙也加さん、私、28歳なんですけど。そしたら、秋実君とは9歳違い。これくらいの年の差が限界じゃないですか? 22は離れすぎ! 女優のSさん、44でしょ? はっきり言うてオバハンやん! そんなん、絶対許されへんわ、私〜!」

 と、秋実がくやしそうにハンカチを噛む。そこで、また爆笑と声援が同時に起きる。

 客席がしっかり盛り上がったところで、私、沙也加がキレる。

 私が大阪弁でまくし立てるキャラは、以前からお客さんが喜んでくれるアイテムだ。

「うるさいわ。なんで私がリポーターの愚痴を聞いたらなあかんねん! 私には、私のこと聞いてよ! 秋実、秋実って、本人のことは本人に聞いたらええやん?!」

「はあ、そうしたいのは、ヤマヤマなんですが、秋実さんは事務所のガードが堅くって、何にもインタビューできないんです。それで、いつもマネージャーなしで放置されてる沙也加さんに話を聞こうと思いまして」

「そうや、売れてるんは相方だけや! うるさいわ!」

 チャンチャン!

 ネタ自体は実に単純だったが、秋実と澤田レミのスキャンダルを逆手に取り、お客さんが喜びそうなリアルで新鮮なネタにしたのは大正解だった。

 こんなコントをテレビでは絶対見られないのだ。いくらお金を積んでも見られないレアネタ…。

 このあと、先輩の漫才を挟んで、もうひとつコントをやって楽屋に戻ったが、大先輩の漫才コンビや落語家さんに嫌みを言われてしまった。

「スキャンダルもネタになるんやなあ、売れてる人は」

「今の若い子は、恥ちゅうもんを知らん。おもしろいのと、恥をさらすっていうのは、まったく違うんやで」

 とか……。

 はい、重々、承知しております。こんな時、秋実は場を取り繕うのが、とてもうまい。 

「師匠、いつもアドバイスありがとうございます。もうすぐ、僕が出てる映画が公開になりますので、そちらの方もいろいろアドバイスをお願いします」

 満面の笑顔で言いながら、無料チケットの束を先輩たちに配るのだ。

 これには、師匠たちも強面を緩めて「まあ、がんばりや」ということになる。

 この強靱な神経とその正反対の繊細さを併せ持った秋実は、やはり、芸能界で生きていくために生まれてきたのだなと、つくづく思うのだ。



  転 

 

 大阪キャッツに波風が立たない日はほんとうに少ない。

 しかし、考えてみると、波風はいつも秋実が立てていて、それによって私は怒ったり、とまどったり、悩んだりの繰り返しだ。

 ところで、秋実が出ている『青い落ち葉』は、邦画では久々の好調作品だとネットニュースが伝えている。もちろん、秋実と澤田レミとのことがその理由かのようにも書かれている。秋実の脱ぎっぷりのよさやベッドシーンの一部が宣伝に使われていたことが大きな理由だと私は分析している。

 気が付くと、秋実と澤田レミとの噂のことで週刊誌やリポーターに追いかけられることもなくなった。

 秋実自身が『単なる先輩後輩って感じで、お宅にお邪魔して、食事をごちそうになったりということはありますが、マネージャーがいっしょだったり、相方がいっしょだったりで、一人でお邪魔したことはありません。彼女もぼくのことを子供のようにかわいがってくれてるんです』とコメントし、回りからは、結局映画の宣伝だったのかと言われ、一件落着したのだ。

 そして、秋実のお母さんが切望したとおり、澤田レミと秋実がほんとうの母子であることは封印された。

 でも実際には、澤田レミは秋実の血の繋がった母親なのだ。

 この件に関して、育てのお母さんと、しっかりと話をして安心させてあげられたのかどうかということが気がかりだ。

 そう言えば、月原さんのことも、まだ秋実の口からは何も聞いていない。

 私たちは一日中いっしょだから、いろいろと話をする時間があるのかと言えば、そうでもない。

 常に月原さんがいるし、メーク室でも楽屋でも、ふたりきりになることなどめったにないのだ。

 まずその前に、私はほんとうに怖がりなのだ。秋実から真実を聞くことが怖いのだ。 

 もし、秋実の相手が月原さんじゃなかったら、気楽に恋の相談にも乗れただろうに。

 そんなちょっと気まずい中、実は今夜、私は秋実の大阪のマンションへ行くことになっている。

 久しぶりに飲み会をふたりきりでしようと秋実が言い出したのだ。

 どうも秋実は私に話したいことがあるのだと感じた。

 仕事中は元気いっぱいの秋実なのだが、ふと気がつくと何か考え込んでいる回数が多いなとは思っていた。

 ついに月原さんとのことを私にはっきりとカミングアウトか!?

 私は、しっかりと覚悟をし、秋実が大好きなビールと赤ワインをかかえて秋実を訪ねた。

「さっ、とにかく、飲もう。晴れてふたりとも20歳になったんやし」

 私が部屋に着くなり、秋実は赤ワインの栓を抜き、すごいピッチで飲み出した。

 こういう時はたいてい、秋実は早く酔いたがっている。つまり、何か大きな悩みがあるのだ。

 飲み過ぎて、バタンと寝てしまってもいいように秋実はすでに入浴を済ませたらしく、髪がまだ濡れていて、フェイスラインの髪が頬に張り付いている。

 そして、少しゆったりめの濃い紺色のシルクパジャマが、秋実の華奢な体と色白な肌をいっそう引き立てている。

 そう、このパジャマは、私が秋実の誕生日にプレゼントしたものだ。シルクの中でも、特別に上等なものを奮発したのだ。

 シルクのひかえめな光沢とテロンとした感じが秋実の肩や腿の辺りにまとりついてはすぐ離れるので、秋実の動きがとてもセクシーだ。

 セクシーと言っても、男として魅力が溢れている月原さんとは別物で、ひとことで言えば、私もそんな風になりたいな……という色気なのだ。

 秋実はお酒が強いくせに、すぐに色白の肌がピンク色にほんのり染まり、お酒に弱い子が、みんなに付き合って一口飲んだかのような雰囲気になるのがうらやましい。

「秋実、そのパジャマ、めっちゃ似合うわ」

「ありがとう。すごい着心地ええよ」

「お店で見た時、これ、秋実に着せたいって思ったんよ。実は、お揃いの白を私が着てる……。あっ、今、キモいって、思ったやろ?」

 私は、どうでもいいことを話ながら、時間伸ばしをしている自分になんとなく気付いている。月原さんと秋実に関する話から逃げようとしているのだ。

「あのな、沙也加、あの写真見たんやろ?」

 秋実はアルコールのせいなのか、とろんとした目で私を見た。

「見たよ。母子には見えへんわ」

 私もワインをグイッと飲み干して答えた。

「違うよ、その写真と」

 ついに来た。

「あれ、おれが酔っぱらって、車の助手席で寝てしもうたんや。ううん、寝た振りをしたんや。月原さんが声をかけて起こしたけど、おれが起きへんから、おれの耳の近くて『おい、起きろ』ってな。その時におれはふざけるようにして、そのまま月原さんの体を引っ張って自分に近づけて、キスした。計画犯罪や。そしたら、勢いがついて、ちょっとディープになって、そこを撮られたんや」

 まあ、月原さんの証言とだいたい一致する。ただ、月原さんからは秋実のような生々しい単語は出てこなかったけどね。

 あっ、痛い。胸が痛い。

 その瞬間をアルコールが入った頭で想像してしまった私の心臓はキューンとなり、息が苦しくなってきた。

 私にはきついよ。私だって月原さんのこと、好きだった。いや、好きなんだから。

「でも、でもな、おれはいいかげんな気持ちで、そんなことをしたんやない。最初会った時からずっと、月原さんが気になってしょうがなかった」

 秋実の気持ちはよくわかる。自分もまったく同じ気持ちを抱いて、今日まで接してきたのだから。

 ところで、私は写真を撮られた後の秋実と月原さんの関係についても、何も聞かずにここまで来た。

 あんな関係は、写真を撮られた時、一回きりだったのか、それとも、ずっと関係が続いているのかということも。

 続いているのに決まっている。何度も自分に言い聞かせてきた。秋実からそれを聞かされた時に大きなショックを受けないように、自 分なりに心の準備をしているのだ。

「怒ってる? 沙也加」「なんで怒るん?」「そやかて、沙也加もずっと月原さんのこと、好きやったんやろ?」

「そ、そんな、私はマネージャーとして尊敬してるだけで、そんなんと違うわ」どうして、秋実は何でもストレートに聞けるん?

「沙也加、きれいになったもんな」「秋実は最初からきれいもん」

 秋実が口角を持ち上げて、得意な笑顔を見せた。

 と思った瞬間、いきなり切れ長の目から涙が溢れ出した。

「ちょ、ちょっとぉ、泣き上戸か? やめてよ」

 秋実の嘘泣きは何度も見たことがあるが、もしかして、今夜は本物?

「どうしたん?」私は秋実のそばに急いで座り、肩を抱いた。

「大阪キャッツ、ふたりして大失恋や」

「大失恋やて、アンタら、うまくいってたんやろ? 相思相愛やろっていう意味や」

 秋実は泣きながら、何度も頷いた。

 くやしいけれど、悲しいけれど、私は、月原さんが秋実のことをものすごく愛おしく思っていることはわかっていた。

 3人でいる時はビジネスライクに装ってはいたが、そのよそよそしさが逆にふたりの関係を浮き立たせていたのだ。

「鬼水から聞いたんや。月原さん、結婚するやて!!」

 がーん! うそっー! そんなアホな! 

 どうして、毎日事件が起こるの?!

 私の頭の中では、聞いたことのない音が響き渡り、倒れそうになった。

「う、嘘やろ?」私の体からは、その言葉しか出てこない。

「なんで、鬼水が嘘を言うんや」

 その通り。だいたい、あの人は冗談も言わない。

「そ、それで相手は誰?」一番肝心なことは、それだ。

「うちのプロダクションの社長の孫娘らしい」

 なんやて〜?! がーん、ぼーん、ぴろーん、ひょろー、そんな、あほな!

 私の頭の中で、わけの分からない音がまたまた鳴り響いた。

 秋実とコンビを組んでからというもの、彼の発言や行動には心臓が止まるかと思うほどのびっくりを繰り返してきたが、今夜のこれは群を抜いている。

 私はその場で倒れ込んだ。

「沙也加、だいじょうぶか? ショックやろ? おれたちふたり、立ち直れるんやろか」

 いいや、絶対に立ち直られへん。私は体の骨がとけて、もう、ぐにゃぐにゃや。

「そ、そんなん聞いてへんで……、聞いてへんで」

 私はまるで呪文のように独り言を繰り返した。

「そら、聞いてへんよ。鬼水、誰にも言うてへんもん」

 そういう、『聞いてへん』ではないのだ。

 おじいちゃんから、そんなことは聞いていないということだ。

 ついに私の恐ろしい秘密を秋実に話さなければいけない時がきたのだ。

 もちろん、鬼水も、木下部長も、月原さんも……、うちのプロダクションのタレントも社員も誰も知らない秘密……。

 そう、戸田沙也加は、日本一のお笑い芸能プロダクション、佐伯プロダクション社長・佐伯太郎の孫娘なのだ。

『沙也加はお笑いの天才や!』と、幼い私を抱きしめてくれたおじいちゃんは、佐伯太郎なのだ。母が、佐伯太郎の娘で、父に嫁いだので戸田という姓になった。

 私の父は、まるで畑違いの銀行マンだ。

 佐伯太郎には息子も男の孫も一人もいない。嫁いでしまった娘がふたり、女の孫が3人。ただ、そのふたりの孫は、もう結婚している。

 祖父は、娘婿に跡を継がせようと思ったこともあるようだが、うちの父にしても、叔母の旦那さんにしても、芸能などとはかけ離れた仕事を持ち、その会社ではかなりの重要な位置にいるものだから、後継者問題については、さすがの祖父も言い出す時期を逃してしまったということだ。

 しかし、祖父も78歳。体力、気力、頭脳は高齢者とは呼べないレベルのものだが、取締役達からも、そろそろ後継者をという話が出ないわけがない。

 それにしても、いったい何から秋実に話せばいいのだろうか。

 きっと罵られるに違いない。今まで素性を隠していたこと、そして月原さんの結婚相手だという社長の孫娘は、この私に他ならないこと。

 いや、ちょっと冷静に考えてみよう。まず、その話はほんとうなのだろうか。

 月原さんと私が結婚? そんな、アホな。

 月原さんが、社長の孫と結婚することを悪くないなと考えたとしても、それが私だと知ったら辞退するに決まっている。

 こんなブサイクなお笑いを仕事にしているような女と結婚なんてするはずがない。

 いくら、次期社長の席が用意されていても、私を嫁にするなんて格好悪い選択は絶対にしない。出世のためなら、どんな女でもOKというような出世欲バリバリの人だとも思えない。

 だいたい、月原さんは秋実とデキているのだ。きっと、女が好きではないのだ。まあ、百歩譲って、バイセクシャルとやら……だとしよう。それにしたって、彼は面喰いなのだ。美しいものが好きなのだ。

 秋実がタイプだという人間が、相手が女に変わったからといって、ブス専になるなんて事は絶対にありえない。

 たとえ何かの間違いで、月原さんがすべてに目を瞑り出世の道を選んだとしても、じゃあ、秋実と私と月原さんの関係はどうなってしまうというのか。

 自分の相方の恋人を夫にする私。

 夫の愛人は男。愛する人の相方と結婚する月原さん。妻と愛人はコンビを組んで仕事をしている。

 どう考えても、異常としか言いようのない相関図だ。

 えっ? 何?

 そんな事で頭がいっぱいになっている私の目の前で、秋実が突然フワーッと立ち上がった。

 酔っぱらった足取りでベランダに出て行く。

 秋実がサッシ戸を開けると、晩秋の夜風が部屋を通り過ぎ、ほてった体と顔に心地いい。

「秋実??」

 秋実はあっという間に、ベランダの手すりに片足をかけた。

「アホ! 何するんよ!」

 私は急いで走り、秋実の体に自分の全体重をかけ、思い切りベランダ側に抱き下ろした。

 秋実の石けんのいい匂いがする軽い体が、私の上に落ちてきた。

「痛い!」ふたりいっしょに言った。

「アンタ、何するつもりやの! これ以上、スキャンダルはやめてよ!」

 私は秋実の体を揺さぶった。秋実は私の胸に泣き崩れた。

 秋実の体を抱きしめ、背中をさすっていたら、この部屋が2階で、それも1階のテラス部分の庇が突き出していて、落ちたとしても、かすり傷くらいで済むだろうということに気付いた。

 すると、何だか馬鹿らしくなって、私はすっかり冷静になった。

「中に入ろ。こんなとこを近所の人に見られたり聞かれたりしたら大変や。秋実、また次の映画の話が来てるやん」

 私に引きずられるようにリビングに連れて行かれながら、秋実は静かに言った。

「もう、仕事なんかええ。仕事なんか……」

 私たちふたりが出会って、秋実が初めて吐いた弱音だ。

 私は、秋実を元の位置に座らせて、冷蔵庫のミネラルウォーターを飲ませた。

 そして、自分も喉がカラカラに乾いていることに気付き、ミネラルウォーターを半分以上、一気に飲んだ。

 それにしても、こんな状況の中、私の秘密を告白するなんて、とてもできない。まず、祖父に確認してからだ。

 仕事ができる月原さんと、自分と血の繋がった私を結婚させて会社を継がせる。

 それは悪いアイデアではない。

 経営者としては、まともな考えだと言ってもいいだろう。

 自分の血筋と優秀な社員。

 でも、それは私たち3人のことを何も知らないから思い付いたことで、祖父が、月原さんと秋実の関係を知れば、まさか、そんな男にかわいい孫を嫁がせようとはしないだろう。

「しょうがないんかなあ」秋実がそばでポツンとつぶやいた。

「月原さんが次期社長になれるんやったら、おれも喜んだらな、あかんのかな」

 私は何も言えない。片想いしていただけの私と、実際に愛されていた秋実とでは苦しさの重みが違うだろう。

「でもな、秋実は月原さんの口からは何も聞いてないんやろ?」「うん」

「それやったら、秋実が一人で苦しんでる分、アホみたいやんか。月原さんは断るかもしれへんし。だいたい、社長の娘とか孫いうのは、ブサイクなんが定番やし」何と間抜けななぐさめだろう。

「うん、噂には聞いたことがあるけど、その子、歳は僕らとおんなじくらいで、めっちゃアホやし、とんでもない顔してるらしいで」

 こら、そんなこと、誰が言うたんや!

「おれ、どこかで覚悟はしてたんや。月原さんは32歳。辣腕マネージャー。容姿端麗。いい縁談がないわけがない」

 ごもっともです。

「でも、おれな、ものすごく勝手なこと想像してたんや」

 秋実は遠くを見るようなまなざしで静かに言った。「何?」

「月原さんを他の女に取られるんは、死んでも嫌や。でもな、沙也加やったら……もし、月原さんが沙也加と結婚してくれるんやったら、なんか、ちょっと救われるかな……みたいな……」

 あまりに驚いて、飲んでいたミネラルウオーターが鼻から出てきた。

 それと同時に怒りが込み上げてきた。

「ええかげんにしときよ! 私が相方のために偽装結婚するんか? 秋実のそばに月原さんをおいておくために。私かて、月原さんのことをめっちゃ好きやったのに、アンタを好きやった月原さんと……。アンタと寝た月原さんと私が結婚するやて?! それで私は一生、ふたりの不倫を見て見ぬふりして過ごす。勝手なこと言うのも、たいがいにしときよ!」

 私はミネラルウオーターが入ったままのボトルを壁にぶっつけた。

「ごめん、沙也加! おれ、そんなつもりで言うたんと違う」

 秋実の顔が蒼白になった。

「アンタはずっとそうやった。アンタはきれいで世渡り上手で誰からも愛される。何でも手に入る。根性もある。アンタのおかげで私も売れた。アンタの才能が光ってるから、私の台本も評価される。そうや、その通りや! そんな秋実が泣き寝入りするなんて、おかしいやん! どんなことがあっても、月原さんは誰にも渡さんって、アンタらしくごねてみいな。吉川秋実は売れすぎて、根性なしになったんか?!」

 私はいつのまにか、仁王立ちになって叫んでいた。

 この夜、やはり自分の秘密など話す余裕はどこにもなかった。

 私は家に帰り、自分のベッドで目を瞑り、秋実の言ったことを何度も頭の中で反芻した。

『月原さんを他の女に取られるんは、死んでも嫌や。でもな、沙也加やったら……。もし、月原さんが沙也加と結婚してくれるんやったら、なんか、ちょっと救われるかな』

 月原さんさえ嫌でなかったら、それもありかも。私の頬が自然とゆるんだ。でも、即座に頭を振り、自分に言い聞かせた。

 沙也加! 夢みたいなことを考えてるんやないよ! 月原さんは嫌に決まっている。

 結局は、どんどんみじめな気分になって、私は浅い眠りについた。



 祖父が危篤状態だと知らされたのは、その朝方だった。脳梗塞だという。

 それにしても、どうして私の周りはこんなに騒々しいのだろう。騒々しいなんて言ったら、おじいちゃんに怒られそうだけど…。

 祖父は一代で今の会社を築き上げた。今は亡き、大物漫才コンビをマネージメントし、最初はなかなか売れずに苦労を重ねたが、そのふたりが日本中の人気者になり、それをきっかけに何組ものコンビを育てた。

 よく考えたら、祖父は月原さんと同じ仕事をしていたのだ。そして、私は祖父のお笑い好きを受け継いで生まれてきたのだ。

 私がお笑いに興味を持ち、子供の頃にお遊びで書いた漫才台本やコント台本を見た祖父は、うれしそうに私を抱きしめてくれた。

 そして、高校一年生の時、初めてお遊びではないコント台本を真剣に書いた。

 それをおそるおそる祖父に見せたのだが、祖父は厳しい表情でそれに目を通し、私に言った。

「沙也加は、心底お笑いが好きか?」「うん、大好きや。お笑いをやりたい。あかんかな?」

 祖父は孫の中でも、私のことをなぜか一番かわいがってくれていた。

 他のふたりは私と違ってなかなかの美人だったので、体ばかり大きくて女の子らしくもない私がなぜかわいがられるのか、わからなかった。

「うちの養成所に入って、お笑いをやってみるとええ。でもな、もちろん、わしの孫やいうことは、みんなに秘密や。わしの孫やと知ったら、みんな手加減や贔屓しよるからな。それよりなんちゅうても、沙也加がわしの孫やとみんなが知らん方が、おもしろい人間ドラマが見られるしな」

 祖父が言ったとおり、私は手加減されるどころか、養成所では、講師やお笑い作家の先生たち、先輩からボロクソに怒られ、贔屓されたのは秋実だけという日々を送ったのだ。

 おまけに祖父の予言通り、おもしろい人間ドラマに巻き込まれ過ぎだ。

 とにかく、この世界は厳しい上に変な人も多いし、物事の価値観がズレすぎている。

 今のようにハラスメントがそう取り上げられていない頃、お尻を触られたり、胸をムギュッと捕まれたりすることは『おはよう』代わりだったのだ。

 その上、ベッドを共にすることさえも挨拶代わりになっているカオルのような女もたくさんいる。私がそんな風に誘われたことがないだけのことだ。 

 祖父も、私が女の子として魅力的ではないので、恐ろしい目に会うことがないと確信していたからこそ、この世界に入ることに反対しなかったのだ。

 あっ、そう言えば、あの時、祖父はこう言った。

「沙也加がお笑いの道でそこそこ成功したら、おまえに佐伯プロダクションをやる」

 そうだ。そんなこと、すっかり忘れていた。   

 祖父は思ったことをズバズバ言うし、お金のためなら何でもする人間だと思っている人もいるかもしれないが、私にはずっと、優しくていいおじいちゃんだった。

 おじいちゃん、まだ死ぬのは早いよ。

 私はこの世のすべてに祈りながら病院へ駆けつけた。

 


 病院の廊下を急ぎ足で集中治療室に向かった。

 私が到着するとすぐに、医師から祖父の容態に関する説明が始まった。処置が早かったので命には別状ないこと、祖父はもう個室に移ったとのことだ。

 それを聞くなり、駆けつけた総勢20人ほどの親族や会社関係者は気が抜けて、みんなその辺の椅子に崩れるようにしゃがみ込んだ。

 その時、廊下の向こうから祖父の秘書である小杉さんがやってきた。

「命に別状がなくてよかったです。今は意識もしっかりなさっています。体に麻痺もありません」

 彼は誰にともなく言った後、母に会釈し近づいたかと思うと、耳元で何か言った。

 実は、その昔、男兄弟がいない佐伯家では、私の母が小杉さんと結婚して、小杉さんが佐伯プロダクションを継ぐという話が浮上したらしい。

 しかし、若い頃から自分の意志をけっして曲げることをしなかった母は、学生時代からの恋人であった父と結婚したのである。

 小杉さんもその後お見合いをして結婚したらしいが、小杉さんは、けっこう母のことを気に入っていたという話を祖父から聞いたことがある。

 もし、このふたりが結婚していたら、私はこの世にいないのだ。

 祖母は5年程前に他界し、この50代半ばに見える小杉さんという男性秘書が、会社だけではなく、自宅の方にも毎日のように立ち寄り、お手伝いさんには頼むことができない雑務を引き受けてくれているらしい。

 小杉さんも、元はうちのプロダクションのマネージャーで、小杉さんがすごいマネージャーだったという話は、月原さんから聞かされていた。

 小杉さんは、1980年あたりのあの漫才ブームを作った人なのだ。

「沙也加、ちょっと」

 母にしてはめずらしい物静かなよそ行き声と共に、あまり見たことのないすました表情で私を手招きした。

「沙也加。おじいちゃんから、沙也加に大切な話があるらしいわ」

 話……。それはやはり、月原さんのこと?

 私は、ひっそりと静まりかえった廊下を小杉さんについて歩きながら、祖父から例の月原さんとの結婚話を持ち出されたら、どんな顔をして、どんな答えを出せばいいのかと考えたが、結局まとまらないうちに祖父の個室の前まで来てしまった。

「どうぞ、お入り下さい」

 小杉さんが右手をドアに向かって差し出しながら、私に優しいまなざしを向けた。

「あのぅ……、小杉さんは、私が孫だっていうこと、ご存じだったんですか?」

 私は気になっていたことを思いきって聞いた。

「いえ、社長から伺ったのは、つい最近ですよ。跡継ぎの話になった時です。でも私は、何となく……もしかしてとは思っておりました」

「えっ? なぜですか?」

「なんと表現したらいいのでしょうね。お笑いの才能、いや血筋というのでしょうか。沙也加さんに、そういうものを感じていました」

 漫才ブームの火付け役となったこの小杉さんに『才能』なんて言われたら、天にも昇る気分だ。

「ああ、沙也加さん。たいへん、おこがましいのですが、佐伯プロダクションには、やはり佐伯の血が必要だと私は思います。日本一のお笑いプロダクションを維持していくためには、佐伯太郎の才能を一番濃く受け継いだ沙也加さんが必要です。そして、若くして人脈も豊かで、お笑いタレントの養成にもたけている月原が継ぐのが、もっとも適切かと思います」

 小杉さんはそれだけ言うと、『どうぞ』という風に、再び右手を祖父の個室に向かって差し出した。

 短い時間だったが、私は小杉さんの言葉をしっかりと噛みしめた。そして、軽くドアをノックし、一人で中に入っていった。

 祖父がベッドに横たわっている。

「おじいちゃん、だいじょうぶ? びっくりしたよぉ」

 声を出すと、急に涙もいっしょに溢れてきた。

 祖父が倒れたという事実だけではなく、ここ何ヶ月間のあまりにも騒々しい出来事に対してピンと張った糸が今、プツンと切れてしまったのだろう。

 祖父は、ゆっくりと私に顔を向けた。

「あほか、なんで泣くんや。わしは生きとるわ」

「なんか、安心したら涙が出てきてしもうた」私は指で涙を拭って、ベッドの横に置いてある椅子に腰掛けた。

 その時、ノックする音があり、ドアが開いた。

「失礼いたします」その声は、まぎれもない、私の大好きな月原さんのものだ。

「お、おはようございます」私は、いつもと変わらない声を出そうとしたが、少しうわずってしまった上に、月原さんの目がまともに見られない。

「こら、沙也加。何を照れてるんや。ほんま、わかりやすいやっちゃな。さあ、月原君もここに座りなさい」

「は、はい。失礼いたします。お話しになって、お体は大丈夫ですか?」

 いつものようにお行儀のいい月原さんに変わりはないが、今朝はかなり緊張気味で、仕事の時のようになめらかに言葉が出てこないようだ。

「月原君には、昨日の夕方、話をしたんや。おまえとの縁談の話をな。それから12時間後にこれや。跡継ぎを決めなあかんちゅう、虫の知らせやな」

 縁談……。なんて恥ずかしくて、ワクワクする言葉なんだろう。

「わ、私は、昨日、秋実のマンションに行って……、そこで秋実から聞いてびっくりしたんよ。秋実は、東京の水野さんから聞いたみたい」

「そら、おまえもびっくりしたやろけど、沙也加がわしの孫やと聞いた時の月原君の顔、おまえに見せてやりたかったで」

「社長……」月原さんがいつもの月原さんではない。彼の特徴である落ち着いた雰囲気が、まるでないのだ。

「沙也加と結婚して、うちの婿になってくれへんかて言うた時は、月原君、サーッと顔色が変わって、気絶するかと思うたわ」

 祖父は、さすがに普段通りの張りのある声ではないが、私たちを楽しませてくれる口調はいつも通りで安心した。

「月原君」「は、はい」「沙也加には、ふたりきりになって返事をしたってくれ」祖父は微笑んだ。

「あの、社長。お言葉ですが、たとえ僕がお引き受けしたとしても、沙也加さんの気持ちが」

 沙也加さん……。ああ、どうしよう。いつも『沙也加ちゃん』と、月原さんに呼ばれているから『沙也加さん』なんて呼ばれたら、このまま全身が溶けて液体になってしまう。

 私は秋実のことを知った今も、月原さんへの想いが以前とぜんぜん変わっていないことを自覚した。

 でも、秋実は月原さんが好きで、もちろん、月原さんも。

 私と月原さんは早朝のまだ誰もいないシーンとした廊下を正面玄関に向かって歩いた。

「昨日、遅くに秋実から電話があって、部屋に行ったんだ」

「は、はい。私も10時頃までいたんです、秋実のところに」

 私たちは玄関の薄暗いロビーの長いすに並んで座った。その間隔、約40センチ。私たちの男と女としての距離を表している。

 しばらく沈黙が続いた。

 あの『お笑い新人グランプリ』の発表の瞬間より私の心臓は高鳴っている。

 そして、月原さんの発表を待っているのだ。月原さんの決断を待っているのだ。

『さて、選ばれるのは、秋実でしょうか? それとも沙也加でしょうか?』という山下アナウンサーの緊迫した声が聞こえてきそうだ。

「社長は、あの写真週刊誌の……写真のことは、もちろんご存じなんだ」

「写真っていうのは、本来載るはずだった方の……。要するに、祖父は月原さんと秋実のことを知っているということですね」

 私の口からは、今まではなかなか出てこなかった言葉がとてもスムーズに飛び出し、私の心は、はっきりと現実を認めようとしている。

 そうか。祖父は、すべてお見通しなんだ。

『それがどないしたんじゃ、そんな細かいこと言うな』という祖父の声が聞こえてくるようだ。

 それにしても、祖父には、まったく躊躇がなかったのだろうか。私と月原さんを結婚させることに不安はないのだろうか。

 偽装? 例の月原さんと秋実のラブシーン写真や秋実の男関係の噂を永久に葬り去るために、月原さんを女である私と結婚させるのだろうか。

世間には出ずに済んだが、それでも、あの写真週刊誌の人間の記憶は変えられない。沈黙を守っているという確証はどこにもない。

 ならば、秋実の相手であるマネージャーを秋実の相方である女と結婚させて、あの写真の信憑性を限りなくあやふやにする。

 その前に秋実と澤田レミの噂もあるので、業界内での秋実のゲイ説を打ち消すには、なお有効だ。

 そして何より、祖父には後継者としての月原さんがほんとうに必要なのだろう。月原さんには、他の社員にない祖父のメガネに叶うものがあるに違いない。なおかつ、その月原さんを完全に取り込むために、自分の孫である私と結婚させる。

 一石二鳥? まさに浪速の商人、佐伯太郎。

 ころんでもただでは起きない、ドケチの佐伯と呼ばれ続けてきた祖父が、当たり前にやってのけそうなことである。これからの佐伯プロダクションの大看板・吉川秋実をスキャンダルから守るため、自分の会社を安泰なものにするために、祖父は手段を選ばない。

 かわいがっていた孫さえも、商売のために利用する。いや、かわいがっていたからこそ、私に白羽の矢が立ったのかもしれない。 

 無謀なように思うが、祖父の考え方が祖父らしくて、けっして嫌な気がしないのが不思議だ。

 あっぱれ、じいちゃん! 私は、この佐伯太郎の孫として生まれた。

 お笑いが大好き。この業界のドロドロもある程度見てきた。世間から見れば、祖父のそれは非常識な愛情かもしれないが、私は今、それを温かいものとして受け止めることができる人間になった。

 普通に大学を卒業して、結婚して、まあまあ幸せな家庭を築くことよりも、こんなおもしろい人生を歩む方を躊躇なく選択できる。

 これが決心……。

 月原さんが意を決したように、ゆっくりと私の方に顔を向けた。

 私はどうしようもなく恥ずかしいけれど、月原さんの目をじっと見た。

 今まで生きてきて、一番恥ずかしい。いくら何でも今、月原さんを笑かしてやろうとは思わない。お笑いタレントが、女になる瞬間だ。

「沙也加ちゃん、こんなことになるなんて夢にも思っていなかった。こんな……僕にばかり都合のいいことってないよね。怒ってるだろ?」

「どうしてですか? 私にも都合がいいことばっかりです」月原さんは、えっ?という表情をして、首を少し傾けた。

「そやかて、おじいちゃんが持ってる佐伯プロダクションの株が私たちのものになるでしょ? 大金持ちですよ。男の人に縁のない私が結婚の心配はせんでいいし、秋実と思う存分お笑いができるし、やっと、秋実ばっかりやなくて、マスコミもちょっと私の方を向いてくれるかもしれへんし、なんと言っても……」

 ああ、そんな…もう…恥ずかしいて、言われへん。

「何と言っても、なに?」

 月原さんが、この世のものとは思えない優しい声で聞いた。

「なんと言っても、私より背が高くて、紺色のスーツがよく似合う、包容力のある理想の男性と結婚ができる……」

 ようやくそこまで言うと、私の目の前は涙でかすみ、ひざの上に温かいものがポトポトと落ちた。

 月原さんは私との距離を詰めたかと思うと、私の頭を自分の肩に抱き寄せた後、私の体を抱きしめてくれた。

「沙也加ちゃん、痩せたね。嫌な想いばっかりさせたから……秋実とふたりして」

 私は涙で言葉が出てこないので、必死でそんなことはないと言おうとして、首を何度も左右に振った。

 月原さんはいつも近くにいたのに、こんな風に抱きしめられるのは初めてなのだ。なんて心地いいのだろう。

「秋実が月原さんの結婚話を始めた時、秋実には、言えなかったんです。私が佐伯太郎の孫やなんて……」

「そりゃそうだよね。昨日の夜、それについては、僕が言ったよ。秋実、しばらくの間、ポカンとしてたよ」

「それで?」私の一番気がかりは、やはり秋実の気持ちだった。

 秋実は『月原さんを他の女に取られるんは、死んでも嫌や。でもな、沙也加やったら、もし、月原さんが沙也加と結婚してくれるんやったら、なんか、ちょっと救われるかな』と、昨夜言ったが、それは精神的に参っていたからであって、現実に自分の恋人が相方と結婚するなんてことがわかったら、そんな暢気なことなんて言っていられるはずがない。

「秋実は言ったよ。ほら、あいつがなんかいじわるなこと言う時のいつもの顔でね、『月原さんが佐伯プロダクションの社長になったら、おれは徹底的に月原さんを踏み台にして、やりたい仕事は全部手に入れる』ってね。それから、お得意な笑顔で『沙也加と結婚するなら、許してやる』ってね」

 まったく、秋実が言いそうなせりふだ。さすがや、相方!

「ふん、別れられへんくせに」

 私は月原さんが差し出してくれたハンカチで涙を拭って、言い捨てた。

 その言葉を月原さんに言ったのか、秋実に言ったのか。いや、自分の覚悟を決めるために自分に言ったのだ。



『大阪キャッツの戸田沙也加は、佐伯プロダクション社長の実の孫! 彼女が選んだ祖父の後継者は、イケメンマネージャー!』

 こんな大げさでお尻がむずむずするような記事が10日ほど世間を騒がせた。これも祖父の中では計算済みだったのだろう。

 そのおかげというか、秋実のスキャンダルはどこかにフッ飛んでしまった。

 そして、冬が来て、年が明け、真っ白い雪が珍しく大阪に降る2月……。

 私は、その雪と同じ色のウエディングドレスを身にまとっていた。

「沙也加、ほんまきれいなあ。デビューした頃から、20キロ以上痩せたやろ?」秋実は私の体をじっくりと見た。

「秋実が着たら、もっときれいのになあ」私が本音を言うと、すかさず秋実が言った。

「沙也加、もう次のコント考えてるやろ? おれにウエディングドレス着せたろって。自分の結婚式の日くらい、仕事忘れたらどないや?」

「何、言うてるの。日常が全部ネタになるんやから」

「佐伯プロダクションの次期社長夫人がガツガツするなって」秋実がまたツッコんでくる。

「そうや、私は社長夫人。私は結婚して引退したいのはヤマヤマやけど、相方がおらへんようになったら、アンタ、路頭に迷うやろ」

 私も負けない。

「わかった。わかったから、こんな日まで、ボケとツッコミはしない。秋実は自分の席に着いて、沙也加ちゃんは、笑顔、笑顔」

 すぐそばでスタンバイしている新郎が、いつものように私たちふたりをたしなめた。

 私たちの結婚披露宴なのに、なぜか仕事の延長のような気分だ。

 秋実はちょっと唇をとがらせて、私たちふたりを交互に見て一度だけ大きく頷き、披露宴会場へと消えた。

 秋実の黒いスーツ姿もなかなかのものだ。

 私はついに決心したのだ。いや、3人は決心したのだ。

 私たち3人は運命共同体。これからもずっと一緒だと……。

 狂った世界だと思われようが、私が私の運命の中で選んだ最良の道なのだ。もちろん、月原さんと秋実にとっても、大きな決断が必要だったと思う。

 招待客5百人余り、総費用一億円の披露宴が今始まろうとしている。

 私は、ファッション雑誌に出てきそうな月原さんのタキシード姿の腕に自分の手を添える。そして、夢ではないことを確かめるために、空いている手でほっぺをつねってみる。痛い。確かに痛い。目がうるうるして熱くなる。

 そしてついに、大広間の両開きのずっしりとしたドアが開いた。

「わあ!」というどよめきと同時に、照明とフラッシュが私たちに浴びせられる。そして、大きな拍手が起きる。

 快感!〜〜 取材陣の数がすごい!

 秋実と月原さんを撮ったカメラマンもこの取材陣の中にいるのかもしれない。そのカメラマンが追った秋実の恋人は、相方である戸田沙也加と結婚するのだ。

 非常識でも、バカタレでもドアホでも何でもいい。私は月原さんが好き。秋実が好き。

 ゆっくりと歩いて行くと、親族席にうちの家族がいる。

 お母さん、留め袖が着られて、よかったね。私なんて一生お嫁に行けないに決まっているから、ずっと面倒を見てやろうと覚悟を決めていたのは、知ってるよ。お父さん、お母さん、ほんとうにありがとう。

 おじいちゃんは目を細めて、うれしそうに拍手をしてくれている。おじいちゃん、会社は私たちに任せといて。

 おじいちゃんは、私にすごいプレゼントをしてくれたんだから、この恩返しはきっとするよ。

 友人席には、ひときわ目立つ振り袖美人がいる。

 由美、ほんまにきれい。由美にはほんとうに感謝してる。これからも仲良くしてな。それから、これから大変な入試が待ってるのに、忙しい時に結婚式してごめん。

 早く世間に公表しておかないと、月原さんの気持ちが変わったら、えらいこっちゃという焦りが見え見えで、私らしいと思うやろ?

 私はお笑いの世界にどっぷり浸かる決心をしたから、もう大学受験はせえへんけど、由美は絶対に大阪大学医学部に合格してな。由美はきれいなだけの女やない。人を救う心を持ってる。

 ところで、由美の隣には秋実がいて、さっそく秋実が由美に話しかけている。いかにも美人に興味があるかのように……。

 彼の頭の中には月原さんしかないのは、わかっている。これだって、秋実の計算だ。 女好きに見られるように、これからも努力を惜しまないだろう。

 秋実が月原さんをあきらめていないことなどわかっている。

 それどころか、私たちの結婚が決まってから、秋実はもっと月原さんのことを好きになっている。私の前でもあからさまに月原さんに甘えるようになった。

 月原さんだって、秋実と別れられないことなんてわかっている。

 何と言っても、月原さんと私にはまだ、体の関係がない。

 さっき教会の式で、誓いの言葉の後、軽く唇を触れただけだ。でも、それだけでじゅうぶんだ。

 月原さんのことが好き過ぎて、かえってそういう関係を持つことに抵抗を感じてしまう。子供を授かることさえ望まないなら、一生、セックスなんてしなくていい。

 このまま、月原さんと秋実は、私の目を盗んで、デートを重ねるのかもしれない。

 月原さんが東京へ行く時は、秋実のマンションで密会すると思って間違いないだろう。

 でも、今の私には、それはあまり重要なことではないのだ。ふたりに対して、ジェラシーなどというものは、ほとんど感じない。

 変な女って言われるだろう。そう、私は変な女だから、好きな男の前でお笑いができる。

 幸せの形はみんな違う。それに、先のことなんか誰にもわからない。

 ただ、決心できた心地よさと愛する人と結婚できる喜びにまったくの嘘はないのだから、今はその幸せをせいいっぱい噛みしめていたいと思う。

 もっともっと大人になり、若気の至りだったなあ、なんてことをしてしまったのだろうと思う日が来るかもしれない。

 でも、来るかもしれない不幸におびえながら暮らすなんて、時間の無駄遣いだ。

 もし万が一、そんな時が来てしまったなら、その時は、月原さんと私、そして秋実の3人でまた考えればいいことなのだ。

 それまで、3人で貪欲に生きて行こう。運命共同体として……。



   転々


 結婚して、半年が流れた。

 秋実は相変わらずの売れっ子で、寝る時間もままならないようだ。

 でも、一年ぶりに2日だけ休みが取れるので、近場の温泉にでも行って、ゆっくりしてくるのだと、この前の電話で話していた。

「誰と行くの?」と私が聞くと、「月原さん、違うで!」と笑っていた。

 私はというと、少しだけ仕事をセーブし、世間並みの新婚生活を満喫している。

 子作りに励んでいるのかと、お笑い仲間に冷やかされたりもする。子作り……。

 私はバージンのまま結婚したような今時珍しい女だから、そのことになると、全くと言っていいほど知識がない。だからこそ、困った時にはいつでも由美子。

 由美子は、この春、見事に大阪大学医学部に合格した。

 彼女は勉強好きな女にしては男に関しては開放的で、まるで数学の公式を説明するかのようにセックスを語る。その上、医学の勉強をしているのだから、こんな心強いセックスカウンセラーはいないわけで、不安になると、納得できるまで由美子からアドバイスを受けるのだ。

 まあ、結論から言うと、月原さんと私は、ちゃんとできているようだ。まだ、2回しかないけれど、月原さんも子供をすごくほしがっているので、がんばってくれるとは思う。

 そう、私はいまだに「月原さん」と呼んでしまう。仕事場での担当マネージャーはさすがに違う人に変わったけれど、私の中では、彼はいまだに信頼できるマネージャーなのだ。

 でも実際には、今、月原さんは佐伯プロの専務だ。祖父に何かがあれば、確実に社長になる人である。

 ところで、今日は久しぶりに秋実と一緒に、大阪のワイドショーに出演する。

 秋実が主演している映画が、もうすぐ公開になるということで、要は番宣を兼ねての出演だ。

「おっ、新婚さん、いらっしゃーい!」と、私を見るなり秋実は陽気な声で文枝師匠のものまねをする。

 そして、私の耳のそばで囁くのだ。

「心配せんでも、もう、月原さんとは、個人的に会ったりしてへんからな」

「ふうん。まあ、秋実はおモテになるからねえ。うちの主人なんて、ホンマ、おもしろない男やもんね」

「まあ、オモシロイかオモシロないかって言われたら、オモシロないよな。でも、それが月原さんの素敵なとこやん!」

 秋実が私の右肩を軽く叩いて、相変わらずかわいいとしか言いようのない笑顔を見せた。

「ちょっとトイレに行ってくる」

 秋実が楽屋を出て行き、私は鏡に向かって横顔を写し、マスカラのチェックをした。

 ん?? 秋実が置いたままにしているスマホがテーブルの上でうなった。すぐに切れるかと思っていたが、なかなかマナーモードの震動は止まらない。

 そんなことは今までしたことがない私だけれど、マネージャーも席を外しているし、何気なく秋実の着信画面を覗いてみた。???太郎??

 浦島太郎……桃太郎……金太郎……。

 何を言ってる、私。太郎と言えば、おじいちゃんじゃないか……。私や秋実の周りに、太郎はおじいちゃんだけ。しかし……何か違和感を感じる。

 そうだ。秋実が『太郎』という名前でおじいちゃんを登録していること……おじいちゃんから直接電話をもらうほど、秋実がおじいちゃんと親しいという認識が私にはまるでない。

 私はわずかに罪悪感のようなものは感じたが、思い切って秋実の電話に出た。と言っても、声なんか出さないつもりで……。

 私の心臓がすごい勢いで動き始める。そう、いつもだ。何か恐ろしことが起こりそうな予感がする時、私の心臓はいつもこのリズムを打つ。

「……。もしもし、秋実か?」そんな……。そんな……。おじいちゃんの声だ。秋実か?って、それ何?

「もしもし、伊豆で段取りしといたで。行くのは別々。部屋も別々。もしもし……。電波状態悪いな。また後でかけ直すわ」そこまで言うと、電話が切れた。

 私は、秋実のスマホを元の位置にあわてて戻し、手近な椅子に座り込んだ。

 すると、急に胃が気持ち悪くなり、冷や汗がおでこからしたたり落ちてきた。

 吐きそうだ。自分で自分の感情がわからない。

 これまでも秋実には、散々びっくりさせられてきた。

 それでも相方として最高のやつだと思うから……人間として憎めないところがあるから……と思い直し、ここまでふたりでやってきたのだ。

 おじいちゃん! 何。これ?! 

 私はおじいちゃんが大好きで、おじいちゃんが愛するお笑いを当然のように愛し、おじいちゃんのいう通りに結婚もした。

 いったい、いつから?

 もしかして、おじいちゃんは、私と秋実がコンビを組む前から、秋実と……? 最近になってから?

「沙也加! どうしたん? 気分が悪いんか?」

 トイレから帰った秋実が私の背中を心配そうにさすり始めた。

「沙也加……。もしかして、おめでたと違うん?」

 本来なら、ストレートに耳に入ってくるうれしいはずの言葉も、今の私には、何の意味もない。

「沙也加。病院行って、診てもらわな」

 私はその瞬間、お笑いの鬼ではなく、本当の鬼になりそうな自分に気づいて身震いをした。

「沙也加、寒いのと違う?」

 秋実は自分が着ているジャケットを脱いで、私の肩にかけた。

 そんな秋実の優しい声も表情も、すべてが磨りガラスの向こうにあるような気がして、言葉が出てこない。

 嫉妬?  

 私がこの世で一番尊敬するおじいちゃん。おじいちゃんは、この世で私を一番理解し、愛してくれていると当たり前のように考えていた。それなのに、そのおじいちゃんまでもが秋実の魔性に取り憑かれてしまったのか……。

 秋実と私は月とすっぽんで、秋実を別次元の人間だとずっとずっと思っていた私が、月原さんを夫にできたことで調子に乗り、秋実に嫉妬などという大それた感情を持ち始めたのかもしれない……。

 私はどうしようもなく混乱する頭の片隅で、そんなことを考えられる自分に驚いていた。

 大人にならなければ……。結婚式の日、そう決めたのだから。

 私は鼻から大きく息を吸い込んで、何とか平静を保とうとがんばった。

 秋実は悪魔…。私から何でも奪っていく。結局、月原さんとは結婚できたけれど、それは表面的なもの。秋実は月原さんを独占したいのだ。それができないストレスを佐伯太郎と親しくなることで、心の均衡を保とうとしているのかもしれない。

「妊娠してるんやったら、うれしんやけど……。きっと月原さんもおじいちゃんも、すごく喜んでくれるわ」

 私は、今まで相方に見せた中で、一番大人びた笑顔を作りながら、心の中で呟いた。

 秋実、いくら月原さんに愛されても、アンタは子供を産むことはできへんよ。了





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