本性がバレた悪役令嬢の私の手を、何故か婚約者様が離してくれない。
かわいい、カワイイ、可愛い。
その言葉はきっと、私のために出来ていると思うの。
だって私は、こんなにもかわいらしいのだから…。
私の名前は、レティシア・フォンディア。
アスタリア帝国の中でも名高い伯爵家の一人娘として私は生まれた。
単刀直入に言うと、私はとても可愛らしく、美しい容姿をしている。
黄金色の装飾が施された豪華な鏡台の前に立ち、私はじっとその鏡の中の自分を見つめた。
鏡台には真新しい化粧品が整然と並んでいる。私はその中から、先日届いたばかりのコーラルピンクの口紅を手に取り、軽く唇にのせた。
伯爵家の令嬢が自ら身支度を済ますの?と思う人もいるかもしれない。
でも、私はこの時間が好きだった。美しい自分をより美しく作り上げることが何よりの楽しみで、世界に誇れるこの姿を、鏡で見る度に心が満たされた。
今日一日は、外出をする予定も、お客様を迎える予定も無いから、シンプルなピンクのドレスを選ぶことにした。華やかさは控えめだけれど、私の顔立ちを引き立てる絶妙なバランス。
ドレスの柔らかな生地が肌に馴染み、ふんわりとしたクリーム色の髪にぴったり合っていた。肌は雪のように白く、瞳はブルートパーズのように透き通る水色。
どこから見ても完璧な美少女。
これは自信過剰なんかじゃない、紛れもない事実だ。
「今日も私はとってもかわいい」
そう言いながら、鏡の中の自分を見つめながら、美しい水色の瞳にささやかな誓いを込めるかのように呟いた。
それは子供がするおまじないのようなもので、特に効果があるわけでもない。ただ毎日の日課となっている習慣のようなもの。
もし、この世界が物語だったとしたら、私は間違いなく「とっても『かわいい』伯爵令嬢様」として紹介されるだろう。
だって、私はこの世界の誰よりもかわいらしく、美しいのだから。
「おはようございます、お父様お母様。」
「おはようレティシア、昨夜はよく眠れたか?」
父の優しげな声が響いた。
「レティシア、そこに寝癖がついていますよ。身だしなみには気をつけなさいといつも言っているでしょう」
「ごめんなさいお母様、私ったらうっかりしていましたわ」
「しっかりなさい、貴女はもう子供じゃないのよ。」
お母様の身だしなみへの注意もいつものことだった。母はいつだって完璧を求める人だから。
私のお父様は伯爵家の一人息子、お母様は地方の成金貴族の娘。
身分の差がある二人がどうして結ばれたか?
そんなのは簡単よ。私のお母様は、お顔がとても綺麗だったから。
「まぁまぁ、いいじゃないか。寝癖のついた娘も愛らしいものさ」
「もう、あなたったら、レティには本当に甘いんですから」
「君に似た僕の子供だから、愛おしいに決まっているだろう?」
お父様の甘い言葉に照れ笑いを浮かべるお母様。こんなやり取りが毎朝続くのが、ちょっとした日常だ。
お母様は美しい容姿をしていたから、伯爵であるお父様と結婚できた。たったそれだけのこと。
でもね、ただそれだけのことで人生は上手くいくの。
美しいお母様と同じ環境で育った、アンリエット叔母様は、中の下の顔をしていた。
別に特別不細工というわけでもない、かといって飛び切りの美人でもない、本当に普通の顔。だから叔母様は同じく地方貴族の男と普通の結婚をさせられたの。
姉妹ですら、美しいか美しくないか。その差で人生は大きく変わる。
「お母様、今日の昼間に出発予定でしたよね。もう身支度は済んでいるのですか?」
「えぇそうよ。もちろん、昨夜のうちに荷物は纏めてあります。レティ、私が居ない間私の代わりをお願いね」
「流石お母様。はい、もちろんです。私にお任せてください」
「明日からは君がこの家に居ないなんてな」
「私も、あなたと離れることが何よりも辛いですわ...」
まるで、永遠の別れのように話している二人だが、お母様はただ二十日間ほど実家に帰るだけ。
何やらアンリエット叔母様が右腕を骨折してしまったようで、妹想いのお母様はそれを聞き居ても立っても居られないといった様子で、すぐにここから遠く離れた実家へ戻ることを決めていた。
「しかし公爵の誕生パーティーに参加できないのは実に残念だな。公爵家の誕生パーティーはいつも盛大だから君も楽しめただろうに」
「えぇ、私も毎年楽しみにしていましたが、怪我を負った妹を放っておいては楽しめることも楽しめませんものね」
「君は妹想いの素敵な女性だな」
「あらあら、昨夜は私が行ってしまうことを悲しんでいたではありませんか。ふふ、強がりな貴方も素敵ですよ」
全く、朝から勘弁してほしいものだ。
両親の中が良いことは、娘の私からしても喜ばしいことなんだろうけど、流石に毎朝ともなるといい加減うんざりだと思ってしまう。
私のお父様は美しいお母様と違い、はっきり言ってぶ男。でも、とっても優しい人なのよ?
そんなお父様がどうして美しいお母様と結婚できたか、理由はとても簡単。
富と名声を持ち合わせていたから、伯爵家当主という明確な権力。
私のお父様とお母様は愛し合っている。
今も昔も変わらずに、フォンディア伯爵の妻と娘への寵愛の深さは周囲の事実だった。
二人は、心からお互いを想い合っていて、お互いへの尊敬を持っている。
お互いに足りない部分を求めて結婚した二人はパズルのように欠けた部分を合わせて、結ばれた。
「公爵様の誕生パーティーにお母様が来られないのは私もとても残念に思います。本当なら私もお母様の実家へ一緒に行ければよかったのに…どうぞアンリエット叔母様に、私がとても心配していたとお伝え下さい」
「レティシア、私に似て美しく彼に似て賢いあなた...そんなあなたの優秀な婚約者に私もお会いしたかったわ」
「彼も、お母様にお会いしたいと言っておりましたわ」
私がそう言うと、お母様は満足気に微笑んだ。
そりゃあもう気分が良いでしょう。
自分の将来の息子が、あのティアルジ公爵の愛児、アナスタシス・ティアルジなのだから。
「そりゃあ公子は将来私の息子になる方ですもの、当然よ。...良い?レティ、ちゃんとご無礼の無いように振る舞いなさいね」
「もちろんですわお母様、このフォンディア伯爵家の名に恥じないようにします」
私のお母様は、本当に美しい人だ。
だが、若さという武器を持った私には到底太刀打ちできない。
そのことを賢いお母様は理解していた。だからこそ、自分の生き写しのような私を自分自身のように見ていたのだろう。
自分にそっくりな私を、自分のように完璧にするために。
お母様は物心が付く前から、「私のように美しく生きなさい。」とか、「賢く自分の武器を使って愛される女になれ」とか、とにかく私に自分の強い思想が偏った教育を施してきた。
自分の知恵と美貌で勝ち上がってきた自分の術を、私に与えようとしたのだろう。
私は、お母様がとってもだいすき。
でも、ごめんなさい。私はお母様にその言葉をかけられた時、笑顔で「分かりました」と返事をする裏で本当はうんざりしていたの。
お母様は非常に美しく、そして賢い女性。美しさだけで世の中を渡っていった人。
私はお母様のようにはならない。そう心に決めていたわ。
だって私は、こんっなにもかわいい伯爵令嬢よ?
私はそれだけじゃ満足しない。
もっと上を狙うのよ。
私は、お母様に似て美しく強欲で、お父様に似て知的な戦略家なので。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「ごきげんよう公子」
「やぁ、よく来たねレティシア」
アナスタシス・ティアルジ公爵令息。
彼は私の婚約者であり、アスタリア帝国の次期公爵だ。
聡明で何事にも優れ、完璧という言葉がこれほど似合う人間は他にいない。
「そうだレティシア、十日後の父上の誕生日パーティーのことなんだが…」
アナスタシスが紅茶のカップを置き、私を見ながら話し始めた。
その瞳には、いつもと変わらぬ優雅さが漂っている。
「はい。私はもちろんのこと、お父様もとても楽しみにしておりますわ」
「嬉しいよ、父上もレティシアが来てくれると知って喜んでいたさ」
「まぁ、本当ですか?公爵様に嫌われていないのでしたら安心いたしましたわ」
「まさか、そんなことはずないよ」
アナスタシスは驚いたように「父上は君をとても気に入っているよ」と続けて話した。
まぁ、言ってみただけよ。本当は分かっている。
公爵は私のことをとても気に入っている。アナスタシスとの婚約を結ぶ時も、後押しをしてくれたのは公爵だった。
お父様が公爵家に行く度に、私も同行して公爵に対して純粋で知的で貴方のお役に立ちますよ!アピール攻撃をした甲斐があった。
あんなにもかわいい私を見せつけてやったんですもの、娘にしたいと思うのは至極当然のこと。
アナスタシスと私は、今から五年前。私が十二歳の時に婚約を結んだ。
次期公爵のアナスタシスにとって、伯爵家の娘の私は結婚相手としても都合がいい。婚約を結ぶことは難しくなかった。
「そうでしたらいいのですが…。それで、その誕生パーティーがどうされたのですか?」
「近頃、令嬢の間でパートナー同士で服装のテーマカラーを揃えるのが流行りだろう」
「そういえば、最近よく見かけますね。」
服装を揃えることだけでなく、アクセサリーや小物までをパートナー同士合わせるのが今のトレンドだ。
それは単なるお洒落の一環だと言われているが、実際の目的は、パートナー同士の仲の良さをアピールするためだ。
令嬢たちは新しいドレスを新調し、その際に男性が女性に送ることでそのドレスの素晴らしさ。つまりその上等さや値段が送った男性の富の象徴を表している。
高価なドレスを贈ることで、令嬢たちはパートナーの財力を誇示するのだ。
豪華なドレスを見せびらかし、互いに「私の婚約者はこんなに素敵なものを贈ってくれた」と誇る。
つまり、爽やかな笑顔の裏で「私のドレスはこんなにも素敵なのよ、お金持ちの彼が買ってくれたの♡アンタのドレスは安そうね、アンタの男貧乏ねー」と、令嬢たちは言い合っているわけだ。
「実は、それを知った父上が来月の誕生パーティーをペア同士テーマを揃えた服装を参加条件に加えてしまってね」
ピュアなティアルジ公爵様のことだ、きっと若者たちが面白そうなことをしている。と、面白半分に企画したんだろう。
...はは、私は公爵様のそういうところが嫌いじゃないですよ。公爵様って、気難しそうな見かけによらず、案外ロマンティックなところがあるのよね。
「まぁ!なんて素敵なんでしょう、私たちは何色にしましょうか」
手を揃えて、顎もとに寄せる。
こてっ、と首を傾げたら、とってもかわいい私がもっとかわいくなる。
「僕も暫く考えたんだが、やっぱりピンクはどうかな」
「…ピンクですか?」
彼の返答は意外だった。
自分の公爵家を何よりも誇りに思っているアナスタシスのことだから、ティアルジ家の家門のシンボルであるサファイアを中心的とした、ブルーを選ぶと思っていた。
私の家、フォンディア伯爵家のシンボルはエメラルド、色味としても似たようなものを選ぶのかと思えばまさかのピンク色。
アナスタシアの好きな色とも思えないし、どうしてピンクなんて。
だが、アナスタシスが「君が一番好きな色だろう?」と言った瞬間、すべてが腑に落ちた。
…なるほど、そういうことだったのね。
確かに、優しいあなたには“婚約者の好みを一番に考える“方がキャラに合っている。
「公子様は私のことをよくお知りですね。はい、私はピンク色が一番好きです。」
嘘。本当は甘いピンク色よりも鮮やかな水色の方が好き。
でも、私の甘い容姿にはピンク色が一番似合うでしょ。だからピンクもまぁまぁ好きですよ。
嘘を付く私も、それなりにかわいいでしょう。
演じて、騙して、こんな汚い私をあなたが知ったらきっと捨てられちゃうわね。
だから絶対に教えてあげない、あなただけにはずっと綺麗なだけの私を見ていて欲しいから。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
それから、あっという間に公爵様の誕生日がやってきた。
「レティシア、今日は父上の誕生パーティーへ来てくれてありがとう」
「公子…公爵様の大切な祝いの日にお祝いすることができるなんて、私はとても幸せ者ですわ」
そう、私はとっても幸せ。
私は幸せを噛み締めるようにして目を細める。だって今、私の中にある承認欲求が満たされているのだから。
目の前に立つアナスタシスは、相変わらず完璧な笑顔を浮かべている。
彼の存在そのものが、私にとっての最高傑作!!
「さぁ、行こうレティシア」
アナスタシスは優雅に微笑み、私に手を差し出す。
その仕草さえも、まるで王子様のようだった。
「お手をどうぞ」
その言葉に、私は迷わず彼の手を取る。
彼に手を惹かれて、会場にいる全員からの視線を浴びて歩く。
この瞬間、あなたが一番素敵に見える。
周囲の令嬢から、冷ややかな目線が私に向けられる。
既に婚約済みだと言ってもアナスタシスを狙っている令嬢はけして少なくない。みんな、私の婚約者が欲しいと考えており、少し隙も見逃さないように狙っている。
あぁ最高、この瞬間が1番好きなの。この感覚は、優越感ってやつかしら。
ピンク色の刺繍が施されたお揃いの衣装。
アナスタシスが贈ってくれたドレスには、ピンクダイヤモンドがふんだんに散りばめられている。
会場の中で、このドレス以上に美しく上等なものを見つけることはできないだろう。
「今日のレティシアは一段と美しいね」
「本当ですか?嬉しい…♡あなたもとっても素敵ですよ公子♡」
「君に褒められるのが一番嬉しいよ」
「ふふ、私もです。私たち、何だか似ていますね」
「そうかい?僕はそうは思わないよ。僕は君のように愛らしくはないからね」
「えへへ、そうでしょうか」
愛らしい少女を演じて、いつまでも完璧に。
私はこのまま、彼と結婚して、公爵夫人になって、最高に幸せに暮らすのよ。
この帝国の誰よりも、私は幸せになるの。
私は公爵令息であるアナスタシス公子のことを心から尊敬している。ただ、それだけでいい。
この結婚に愛はいらない。
私の人生に、私情は必要無い。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「よく来てくれたね、レティシア嬢」
この、本当に成人を迎える寸前の子持ちですか?と聞きたくなるほどハンサムな殿方はイース・ティアルジ公爵様。
アナスタシス公子の実の父親であり、私の将来の義父となる方。
その端正な顔立ちと柔らかい物腰からは、威厳と気品がにじみ出ていた。
築き上げてきたであろう家門の重みを背負いながらも、どこか親しみやすい雰囲気を持ち合わせているのだから、見事と言うほかない。
「公爵様、この度はご招待いただきありがとうございます」
両手でドレスの両端を軽く摘み上げる。指先は柔らかく、裾が乱れないよう慎重に扱われる。動きの全てが計算されているかのように優美だ。
背筋を伸ばし、首筋をまっすぐに保つ。腰を少し引いてから軽やかに片足を後ろへ引くことで、体全体が優雅な曲線を描く。
私はゆっくりと膝を曲げ、上体を滑らかに沈ませた。
まるで一輪の花が風に揺れるように、自然な動作である。視線はさりげなく伏せられ、睫毛がかすかに震えている様子が慎ましさを際立たせた。
この所作は幾度も練習を重ねたものだ。
何度も母に直され、鏡の前で涙を流しながら習得した動作が、今ここで役立っている。
それを思い出すと、微かに唇の端が震えそうになるが、私の完璧な理想はそれすらも許されない。
まるで舞台の上で踊る舞姫のような所作に、公爵は満足げに目を細めた。
「堅苦しい挨拶はよしてくれ、君と私は家族のようなものではないか」
その言葉を受け、レティシアは控えめに微笑みを浮かべた。
「お気遣いの言葉、ありがとうございます公爵様」
内心では緊張が渦巻いていたが、外面には一切の動揺を見せない。それは、長年積み上げてきた”完璧な令嬢”の仮面があってこそのものだ。
「改めて、公爵様。お誕生日おめでとうございます、これは私からのプレゼントです」
私は、慎重に包装された小さな箱を手渡した。ティアルジ公爵は興味深そうにそれを受け取り、視線を私からプレゼントへと移した。
「父上、これは僕からです。」
そして、私が渡したすぐ後に隣に立っているアナスタシスが口を挟んだ。
「先日、レティシアと一緒に父上が喜びそうなものを選んだんですよ。そうそう、彼女は毎年僕に父上が喜びそうなものは何かと相談してくるんです」
「もう、公子!それは内緒にしておいてと約束したではありませんか」
私が怒ったことをアピールするように、可愛らしく口を尖らせると、公爵様は心から楽しそうに笑い声を上げた。
「ははっ、相変わらず仲が良さそうで安心したよ。そうか、二人で選んでくれたのか。それならば、どれほど特別な品か楽しみだな」
公爵様は丁寧に包装を開ける。その仕草からも紳士らしい風格が漂っている。
箱から現れたのは、控えめなグレーの石。
「ほう、これは……?」
一見、ただの石にも見えるそれは、公爵様の表情に好奇心が浮べた。
「これはただの石ではありませんよ。見ていてくださいね、公爵様。」
私は隠し持っていた小さなライトを手に取り、石に光を当てた。途端に、石は鮮やかな青い輝きを放ち始める。
「なんと美しい...」
「これは、サファイアの原石です」
石を持つ公爵様に目を向け、少し自信に満ちた笑みを浮かべる。
「昨年まではブローチやネクタイピンなど、身に着けるものを贈らせていただきましたが、今年は少し趣向を変えてみました。ティアルジ家の家門を象徴するサファイアの未加工の美しさをお楽しみいただきたいと思いまして。」
公爵様は感心したようにうなずき、青く輝く石を手にとって眺める。その目には、確かな満足と喜びが映っていた。
「喜んでいただけたでしょうか...?」
「...素晴らしい、実に君らしい贈り物だな。ありがとう、レティシア嬢。」
アナスタシスが私を見つめながら、静かに微笑む。
彼の視線を感じながら、私はまた一つの完璧な役を演じきった自信を胸に、優雅な微笑みを返したのだった。
「そして、こっちはアナスタシスからか」
「はい父上。僕は父上の好みを知り尽くしておりますから、きっと喜んでいただけるはずですよ.....…」
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「本当に良かったです、公爵様に喜んでいただけて」
「レティシアは気にしすぎだよ。父上は君からのプレゼントなら、例え紙切れだろうと喜んでいたはずさ」
「あはは、そうでしょうか…」
紙切れなんて渡せるわけがないでしょう。
アナスタシスは時々、大げさな言い方をするのよね。そう内心苦笑しつつも、私は微笑みを浮かべ続けた。
「僕からのプレゼントも、一応は喜んでくれたみたいで良かったよ」
「公子が用意したサファイアが埋め込まれたメダルもとても素敵でしたもの。公爵様がお喜びになるのは当然のことですよ!」
「君は相変わらずだな」
「…えっと?」
戸惑った表情を浮かべる私を見て、アナスタシスはいつもの柔らかな笑顔を浮かべると、さりげなく話題を切り替えた。
「レティシア、君の誕生日ももうすぐだったよね」
「あぁ、もうそんな季節になりますか」
「十八回目の誕生日。もちろん僕にも祝わせてもらうからね」
「ふふ、是非ともお願いいたしますわ。公子、今年の誕生パーティーのエスコートもどうかお願いいたしますね」
「もちろんさ。君をエスコートするのは婚約者である僕の務めだからね」
二人のやり取りは、まるで夜会の花が咲き誇るように、その場に優美な空気を漂わせる。
だが、その心地よい雰囲気の中で静かに緊張を募らせている者がいた。
会場の隅、華やかな人々の輪から距離を置いた場所に一人の令嬢が立っていた。
赤いドレスが炎のように輝く中、彼女の目は冷たく鋭くレティシアを見つめている。
手に握る細長いシャンパングラスを、今にも砕けるほどの力で掴んでいた。
「…ほんと、ムカつく」
低く吐き捨てられたその声は、パーティー会場の喧騒に紛れて誰にも聞かれることはなかった。
だが、その怒りは彼女の燃えるような瞳から明らかに感じ取れる。
レティシアとアナスタシスが楽しげに笑い合う姿を見るたび、胸の中で嫉妬の炎が激しく燃え上がる。
彼女はその場を離れることもできず、ただひたすらに二人を見つめ続ける。
その瞳の奥には、何かを企むような不穏な光が浮かび上がっていた。
「レティシア・フォンディア――どれほど着飾っても、わたくしには分かるわ。貴女のその笑顔が偽りだってね」
静かにそう呟くと、彼女はドレスの裾を翻して立ち去った。
だが、その後ろ姿には、ただ怒りを抱えているだけではない、何かしらの決意が込められていた。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
煌びやかなシャンデリアが輝くパーティー会場。
大理石の床に反射する光が舞踏会の幻想的な雰囲気を醸し出している。
私はシャンパンのグラスを片手に、優雅に歩を進めた。視線の先には、数人の令嬢たちが集まる輪。
イース公爵様の手伝いで忙しいアナスタシスとは一度別れ、私は私で令嬢としての務めを果たそうとしていた。
「ごきげんよう、皆様。まぁ、皆様本当に素敵なドレスですね」
声をかけると、輪の中心にいたカトリーヌ・ラヴェル男爵令嬢は自身の真っ黒で長く伸びた髪を揺らしながら振り向き、意味ありげな笑みを浮かべた。
「…あらレティシア様、お久しぶりですね。嫌ですわ、レティシア様のドレスこそため息が出るほど美しいではありませんか」
私の姿に気が付くと、一瞬不満げに眉をひそめたカトリーヌ嬢。
はいはい、私のことが嫌いなのに話しかけてごめんなさいね。
「本当ですか?そう言っていただけるととても嬉しいです。彼の方から私の好きなピンク色を提案してきた時は驚きましたが、皆様に褒めて頂けるとこれで良かったと安心できました、ありがとうございます」
「まぁ!アナスタシス公子様からご提案されたのですか?なんと羨ましい!私のパートナーであるデーモンド子爵は何一つ提案してくれませんの!ほんと、あんな人と婚約なんかしたくなかったわ!」
カトリーヌ嬢はわざとらしく「はあー」と深い溜息を吐いた。
「カトリーヌ様はまだ良いではありませんか!歳が三つしか離れていないのでしょう?私の婚約者なんて私よりも二十も上なのよ…!!」
カトリーヌの隣にいたブロンドの令嬢、エルダン・ボルジア嬢が口を開いた。
他の令嬢たちは互いに視線を交わしつつも、話題を変えようと動き出す。
「本当にレティシア様が羨ましいですわ」
「ふふ、そうかしら」
「そうですよ!!だってレティシア様の婚約者はあの、彫刻のように彫りの深いお顔をされた花公子!アナスタシス・ティアルジ様でしょう」
「凄いのは私ではなく、彼ですから。」
さらりと答えるレティシア。その完璧な態度に、カトリーヌ嬢は少し含みを持たせた口調で話を続ける。
「…ですがあれほどの方を婚約者に持つのは、大変ではなくて? 公子様のように何もかも完璧な方が隣にいらっしゃると、プレッシャーも感じそうですもの。私でしたら耐えきれませんわ」
…そりゃあ、貴女たちみたいな中途半端に人間には無理でしょうね。
私は貴女たちとは違うのよ。
いつだって貴女たちは私の悪口に花を咲かせているものね。そんなことに熱意を注いで、バカみたい。みんな揃って、少し近づくだけで私を避けて行くんだから。
「確かに、公子は非の打ち所がない方ですわね。けれど、そんな方にふさわしい令嬢であれるよう、私も努力することを惜しまない。ただ、それだけですわ」
その言葉に、その場の空気が微妙に張り詰める。令嬢たちが探り合うように視線を交わしていると、一人の女性がふわりと輪に加わった。
「まあ、皆さま、こんなところにいらしたのね」
リアナ嬢が、柔らかい微笑みを浮かべながら近づいてきた。彼女の登場に、令嬢たちは表情を変える。
「…ごきげんよう、リアナ嬢」
リアナ・アンジール男爵令嬢…。私のことが大嫌いなくせに話しかけてくるなんて珍しいわね。
顔見知りと言っても、彼女との仲ははっきり言って良い方ではない。
何故か昔から難癖をつけられ、付きまとってくる面倒な令嬢だ。
「レティシア嬢。本日もお美しいこと。まるで絵画から抜け出したかのようですわね」
「お褒めいただき光栄ですわ、リアナ嬢。貴女こそドレスもとてもお似合いですよ、赤のドレスが貴女の赤の瞳を一層引き立てていますわね」
レティシアはにこやかに応じながらも、どこか突き放したような丁寧さを崩さない。
リアナ嬢はそのまま手に持っていたシャンパンを一口飲みながら、ゆっくりと私を見た。
「リアナ嬢もパーティーに参加されていたんですね?お会いできてとても嬉しいです」
「そういうレティシア嬢こそ。まぁ、レティシア嬢は大の舞踏会好きですものね、婚約者様がいらっしゃるのに、男漁りばかりしてもいいんですか?その図太さ、羨ましいですよ」
冷たい笑みを浮かべる彼女の言葉を受けて、私は一瞬も動じることなく、堂々とした態度で返す。
「嫌ですわリアナ嬢、将来のお父様であるティアルジ公爵様のお誕生日パーティーですもの。参加するに決まっているではありませんか」
リアナ嬢の皮肉は予想の範囲内だ。
私はそれを意に介すことなく、完璧に微笑んでみせた。
「婚約者様以外の男性とお話しするのが得意なんですね?先日も見かけましたが、ウィリアム殿とお話しされていましたよね?婚約者が居る身で、どうしてそんなに男性に囲まれても平然としていられるんでしょう」
あからさまに皮肉が込められた言葉を吐くリアナ嬢に、内心で少しだけ眉をひそめるが、表情には一切出さず冷静に応える。
「ウィリアム殿は公子の大切なお友達ですから。公子に同行しているうちに、ウィリアム殿とも友人になりましたの。私の友人関係をリアナ嬢にどうこう言われる筋合いはないと思いますが...」
楽観的に明るく返事をした。無駄に反応すれば面倒なことになるのは目に見えている。
「そういえばリアナ嬢。あなたの婚約者であるオリバー・フランク子爵ですが、最近やけに他の令嬢と親しくしている姿をよく見かけますわね」
私はわざと少し間を置いて、静かに言葉を続けた。
「....っ、!」
リアナ嬢は言葉を返すことなく、私を睨みつけると、急に目を伏せてオリバーの方へ視線を移した。その姿は、まるで何かを悟ったかのように、顔を強張らせていた。
何故なら視線の向こうに居たオリバーは、婚約者であるリアナ嬢を差し置いて若い令嬢たちと楽しげに会話をしているのだから。
「そ、それより!!…リアナ嬢、お姿が見えないと思っていましたが、どちらに?」
流石にこの空気が気まずくなったのだろう。
カトリーヌ嬢が話の話題を変えるようにしてリアナ嬢に問いかけると、リアナ嬢は一度目を閉じ、ほのかに微笑みを深めて話し始める。
「…そりゃあ勿論、婚約者のオリバー様とご一緒していましたの。彼がどうしてもわたくしを人前に連れ出したいと言うものですから」
リアナは少しだけ恥ずかしそうに頬を赤く染めて目を伏せた。
「まあ、オリバー様ったら相変わらず情熱的ですのね。…それに比べて、レティシア嬢の婚約者であるアナスタシス公子はお忙しいのかしら?」
カトリーヌ嬢の言葉に、リアナ嬢とエルダン嬢の視線が私に向く。悪意はないが、無邪気な質問には微かな揶揄が含まれている。
…なるほどね、貴女たちはリアナ嬢の味方に回るのね。
それならこっちも、その言葉に答えるだけよ。
「今宵のパーティーはイース・ティアルジ公爵様のお誕生日を祝う会。実の父親である公爵のお手伝いをしているのでしょう。私のエスコートをしていただけただけでも感謝しています。何せ、彼は挨拶に回る時間が無いほどお忙しい方なので」
令嬢への挨拶周りが大好きなオリバー・フランクへの若干の嫌味を混ぜて答え、優雅に微笑む。
すると、まるでその場の空気は一瞬にして支配されたかのような威厳が漂う。
「…さ、流石公子様!本当に頼もしいですわね」
「え、えぇ本当に…」
流石に言い過ぎたとでも思ったのか、私の言葉にカトリーヌ嬢とエルダン嬢は慌てたように答えた。
カトリーヌ嬢とエルダン嬢は昔から上辺だけでは私を褒め称え、リアナ嬢が加わったときには時折生意気な態度を見せた。
ほんと、最後までやり切る度胸が無いなら、初めからしなければいいのよ。
「ふふっ、あはは!!」
若干の気まずい空気が流れていると、その空気を一気に壊したリアナ嬢の笑い声。
「…リアナ嬢?」
「ふふふっ、あぁ、ごめんなさい?レティシア嬢があんまりにも面白いものですから!貴女は相変わらずですね」
「相変わらず、とは?」
不愉快な笑いと共にそう言うリアナ嬢に、どういう意味だと聞くと、リアナ嬢はニヤリと口角を上げて話し始めた。
「ふふっ、だって…」
リアナ嬢が口を開いた途端、「おーい!」と遠くからオリバー・フランクが彼女に向かって手を振っているのが見えた。
「あらごめんなさい、どうやらオリバー様が私を呼んでいるようですわ。では、失礼いたしますね。みなさんまたお会いしましょう。」
リアナが優雅に頭を下げると、「それでは私も…」「わたくしも」とカトリーヌとエルダン嬢は続き、レティシアに一礼してその場を去った。
レティシアは一人残りながら、手元のグラスを見つめる。優雅な微笑みは崩さずとも、どこか冷めた感情が胸をよぎっていた。
リアナ・アンジール。
何を言いおうとしていたのかは分からないけれど、どうせまた私に難癖付けようとしたのでしょうね。
…あーほんと、嫌な人。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
ティアルジ公爵の誕生パーティーが始まってから、数時間が経過していた。
外は眩しいばかりの青空がいつの間にか夕暮れに変わり、陽が沈むと共に星の見える美しい夜空が広がっていた。
誕生パーティーは午前と午後の部に分けられていて、午前の部が終わると一度用意された個室の部屋に行き、夜の部に向けての準備が整えられる。
昼間の華やかな雰囲気とは一転、夜になると会場はさらに豪華に、煌びやかに変わった。やはり、公爵家の誕生パーティーは他の貴族のそれとは一線を画している。お金のかけ方、スケール、何もかもが違う。
そんな賑やかな舞踏会の中で、私は手に持ったシャンパンを軽く飲み干し、ふと目に入った一人の男の元へと歩み寄った。
「公子!やはりティアルジ公爵家のお屋敷はとても素敵ですね、何度来てもこの素晴らしさに圧倒されてしまいますわ」
「先程ぶりだね、レティシア。君に気に入ってもらえたなら嬉しいよ、よければ後で一緒に庭園に行かないか?風に当たりながら散歩でもしよう」
「まぁ嬉しいです、公子様がよろしいのでしたら是非♡」
笑顔を浮かべ、あえて少し照れたように言ってみせる。彼の気を引くためならこれくらいは当然だ。
愛想良く、相手に気に入られるように。
笑顔を振りまいていれば、相手は必然的に自分に好意を向けてくれる。
「僕は皇子と話があるから少し待っていてくれるかい?」
「もちろんです、それではあちらのあたりにいるので終わり次第来てくださいね」
「分かったよ、すぐに君の元へ行くと約束するさ。何せ、僕は心配なんだ」
「心配?どうしてですか」
「アスタリア帝国の天使様はとても男性を虜にするのが得意なようなので」
アナスタシスは話しながら、視線を横へずらした。
私もそのまま、同じ方向を見るとそこに居たのは数名の令息たちの姿が。
あぁ、そう言えば何度か言い寄られたことがありましたっけ。鬱陶しいのよね。まぁ、美しい私に惚れるなという方が無茶か。
でも、今回ばかりは貴方たちモブ男たちに感謝してあげるわ。
だって、彼の関心を引けたのだから。
「あら、それは私だって同じ思いですわよ公子」
アナスタシスに好意を持つ令嬢たちの目が、敵意として私に向けられている。
それだけで私の存在が一層輝いているように感じる。
アナスタシスから向けられる好意は何とも心地が良い。
だって、令嬢たちがアナスタシスに向ける好意が、そのまま私にも来ている感覚になるから。
価値のある存在が、私を想っている。それって、最高。
アナスタシスは権力だけじゃなくて、容姿にだって優れている。
花公子、なんて呼び名がつくほど美しい容姿の持ち主。
銀髪の髪に、青い瞳を持つとってもかっこいい人。私と並んでも何ら引け目を取らない。
美しさと力を兼ね備えた存在。それが、彼を魅力的にしている。
美しい令嬢と、かっこいい公子。どう?みんな私が羨ましいでしょ?もっともっと羨んでちょうだい、その嫉妬が私を満たしてくれる。
私は、この世に生まれたその時から百戦錬磨。
美しい容姿に、絶対的権力。私の人生、イージーモード。
それを証明してくれる、薬指にはめられた光り輝く婚約指輪。
容姿が整っていないと、スタートラインにも立てない。そんな人生、ありえないよね?私なら首を吊って死んでやる。
愛されない人生なんて、絶対に嫌よ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「最低っ!!」
その一言が、まるで鋭い矢のように会場を貫いた。
私が目を見開く間もなく、リアナ・アンジールが手に持っていたシャンパンのグラスを振りかけてきた。冷たい液体が私のドレスに浴びせられ、ひんやりとした感触が一気に広がる。
どうしてこんなことになったのか、理解が追いつかない。
…完璧な私が、この小生意気な男爵の娘にシャンパンをぶっかけられなきゃいけないの?
「私のオリバー様を返してちょうだい!!」
必死な叫びが耳に残り、キーンと高く響く音のようにうるさく感じる。
先ほどまでは余裕ありげに私に喧嘩を売っていたのに、突然どうしちゃったのよ。
「どうか落ち着いてくださいリアナ嬢。突然、どうされたのですか?みなさん驚いていらっしゃるじゃないですか」
私は冷静に声をかけた。それでも、リアナの目はさらに鋭く私を激しく睨みつける。
「しらばっくれたって無駄よ!!」
「そう言われましても…」
落ち着いてください、と諭せば諭すほどリアナ嬢は激昂した。
あぁもう、うるさい。私が質問しているのだから、ちゃんと答えなさいよ。
リアナ嬢の叫びに、会場の雰囲気が一気に凍りつく。
周囲を軽く見渡し、公爵様やお父様、アナスタシスの姿はどこにも見当たらないことを確認して少しだけ安心した。年に一度の大事なパーティーで騒ぎを起こしてしまったとなれば、公爵様には顔向けできなくなる。
それに、アナスタシスにはシャンパンで濡れた、不細工な私は見せたくない。
シャンパンで濡れたドレスを見て、また少しイライラが湧き上がる。
せっかく準備してきたのに。でも、アナスタシスが贈ってくれたドレスでなくて本当に良かった。
…だってあれは私の持っているどのドレスよりも高価なものだから。そう、理由はそれだけよ。
だからといって、今着ているドレスが汚れても良いということにはならない。
今日は公爵様の誕生パーティー、普通の舞踏会とはわけが違う。上等なドレスには変わりないし、それに合わせたアクセサリーだって豪邸がいくつも立つほどの値がするものだ。
あぁ、本当に最悪。
「貴女のせいでオリバー様が私と婚約を解消すると言ってきたのよ!」
...はい?それが私になんの関係があるっていうのよ。
「あら、それはまた大変なことになりましたね」
“レティシア嬢がオリバー子爵を?”
“まさか!レティシア様にはアナスタシス様がいるじゃないか”
“いえ、でもわたくし聞いたことがありますわ。”
“レティシア様は、悪女のようなお方だって!!”
周りにいる貴族たちからの陰口が聞こえてくる。
悪女、確かに一部の令嬢たちからはそう呼ばれていると聞いたことがあるわ。
こそこそと憎たらしい、不満があるなら直接言いなさいよ。隠れてこそこそ話すなんて情けない。
「なに他人事言ってるのよ、貴女がオリバー様をたぶらかしたせいでしょ?!」
「はて、何のことを言っているのか私には全く…」
顎に手を添えて、こてん。と、首をかしげてみると。
ひそひそと噂をしていた人々の中の男性たちは“なんてかわいらしいんだ…”と、情けない声を漏らした。
そうです、私かわいいんです。
だから、さっさとみんな私の前から消えて。いつもの都合の良い人間に戻ってちょうだい。
「っ...!貴女の笑顔はいつも作り物!男に媚びてばっかり!その角度も自分がかわいいと思ってやってるんでしょう?!」
「そんなことはけして、」
まぁ正解だけど。
うーん、残念だけど百点はあげれないわね。
半分正解、半分不正解。リアナ嬢、あんたは五十点くらいよ。
笑顔が作り物なのはホント、でもそれ以外は違う。
だって私は、わざわざ意識しなくってもかわいいからね。
”男爵の娘のくせに生意気なのよ、誰が好き好んで子爵の男なんか相手にするわけ?!このブ―――ス!!!”
本当は、そう言ってやりたいけど。
…無理ね、私のキャラじゃないし。
「ですが、リアナ嬢を不快にさせてしまったのなら謝罪いたしますわ。本当に申し訳ございません。...ごめんなさい、嫌だ私ったら、皆様の前で涙を流してしまうなんて」
“レティシア嬢が泣いているぞ!”
“やっぱりリアナ嬢の言っていることは嘘だったんだ”
“なんて可哀想なお方だ”
…同情を誘うのは簡単。
少し涙を見せて、反省したふりを見せれば良い。
真実を覗けば、どちらが悪いかなんて一目瞭然。
でも、今は真実かどうかなんて関係ない。後々正されたって一度人の記憶に残ったものは中々書き換えることはできない。
小綺麗な容姿をした人間が、初対面で好印象を持たれることと同じこと。
大切なのは第一印象、そのあとはどうにでもできてしまう。
その点は私は問題ない。
昔から、私が泣いて怯まなかった人は居ない。
全部計算、計算、計算。
私はいつだってかわいいを演じて見せる。自分の持っている武器を使って、戦うの。
この社交界では、自分の持つ才能をうまく使いこなせる人が勝つのよ。
貴女はそれを理解できていなかった。
理性を失って、感情のままに行動してしまった。
その時点でリアナ嬢、貴女は私に負けているの。
「ごめんなさい、失礼いたしますわ」
目に大粒の涙を溜めて、口元に手を添える。
顔を隠すように見せて、肝心なところは周囲に見えるように。
「ちょっ!待ちなさいよ!」
はい、謝ってあげたんだからもうこれでいいでしょ。
涙を流してこの場を去る、これが私ができる一番の対処。
男性たちからは同情が買えるし、よっぽど馬鹿じゃない令嬢たちからは少しくらい同情してもらえるでしょ。
おしまいおしまい!さっさと家に帰ろう、美味しいご飯食べて甘いお菓子食べてゆっくり寝る!
そうしたらこのイライラも、少しは落ち着くはずよ。
とは言ったものの…
「お父様、まだかしら」
今日のティアルジ家のパーティーにはお父様と来ている。恐らく別室で友人たちと政治の話でもしているのだろう。
馬車は一つしかないから帰ることはできない。かと言って飛び出してきた手前、会場に戻ることもできない。
私はふらふらと歩き出し、パーティー会場の裏にある静かな庭園へと向かった。
暗がりの中、冷たい風が私の頬をかすめる。シャンパンで濡れたドレスが、体にまとわりつき冷たさが身に沁みていく。
庭の一隅にあるベンチに腰を下ろし、ため息をつく。たった数分でこれだけ冷え込むなんて。
会場を去る際、見覚えのある令嬢たちの声がよく聞こえてきた。
「自業自得」だとか、「やっぱりそうだったのね」とか、挙句の果てには「私はわかっていましたの」なんて言っている人も居た。
貴女達に、私の何がわかるっていうのよ…。
心の中で本当にムカつく!と怒っていると。
突然、背後から声が響いた。
「レティシア・フォンディア!!やっと見つけたわよ!!」
声を聞いた瞬間、身体がピクッと反応した。
冷たい空気の中、怒気を含んだその声に、無意識に身構えてしまう。嫌な予感がした。
リアナ・アンジール――あの女の声だ。
私は軽くため息をつき、淡々と答える。
「なにかまだ、私にご用があるのですか?」
リアナは荒々しく足音を立て、レティシアの前に立ちふさがる。その目には、明らかに怒りと憎しみがこもっている。
「なによ、その言い方!」と、リアナはレティシアを怒鳴りつけた。その声のトーンは、まるで子供のようにヒステリックだ。
「なにか問題でも?」
心の中で冷ややかな笑みを浮かべながら、私は彼女の目をじっと見つめ返す。
「っ、あなたは私のオリバー様を奪ったのよ!!返してよ!!」
そう言うとリアナ嬢は手を大きく振り上げて私を指さす。
オリバー子爵が浮気者だということは、周知の事実だ。一人の女性に絞らず、色んな令嬢に手を出す女好き子爵...それが彼の呼び名。それを婚約者である貴女が知らないはずないでしょうに。
「まぁ、私のせいにしておけば楽になれるのでしょうけど...リアナ嬢、いい加減呆れてしまいますね」
もう春だとは言っても、まだまだ外はまだ肌寒い。シャンパンに濡れた体は濡れた衣類で冷え切っている。
寒空の中、数分濡れた状態で居たから、芯から冷え切ってしまっている。
パーティー会場で恥をかかされて、罵倒されて、寒さにも苦しめられて。
…どいつもこいつも、私が何をしたっていうのよ
私はかわいい女の子。
物心がついた時から、誰からにも愛されるような女の子を演じてきた。
伯爵家の令嬢として相応しいように、この綺麗な顔に似合うように。清楚で淑女らしく、優雅に振舞うの。
私はそれをしてきた。だからこそ、私は胸を張って言えるの。
私の人生は、私自身は美しいと。
誰にも汚い部分なんて見せない。いつだって完璧にね。
・・・でも、今日はとても腹が立っていたから。
「…はあ、貴女は本当にうるさいですね」
ついつい、本音が漏れ出てしまった。
冷たく、はっきりとした言葉が口をついて出る。
押さえ込んでいた感情が爆発しそうになっている。普段の私は、こんな風に感情を露わにすることなんてなかったのに。
「しょうがないでしょう?私は何もしていませんよ、それが事実です。貴女たちみたいな人たちに、この私が嫉妬したとでも言うの?はっ、バカじゃないの?貴女。」
長年ため込んでいたものを吐き出すように、鋭い言葉が次々と出てきた。
自分でも驚くほどに冷徹な自分が、眼前の女に対して笑顔を保ちながら言葉を投げかけている。
「レティシア・フォンディア…!ついに本性出したわね…!」
「いやですわリアナ嬢、出したなんて人聞き悪い。隠せない貴女の方がバカなんですよ。生憎、私には他人の物なんていりませんもの。それに、子爵の男なんて私には釣り合わないでしょ?」
分かったら、さっさと私の前から消えなさいよ。
この場にはリアナ嬢と私しかいない。公爵家の裏側の庭園は、滅多に人の立ち寄らない穴場だ。
だからと言って、絶対に人が立ち寄らないかと言われれば、そうでもない。だからこんな言葉遣いをするのはとてもリスキー、それは私も重々理解している。
…それでも私は伯爵家の娘として、誇りとプライドを持っている。このまま言われるだけではいられないわ。
「っ、貴女ねえ…!!」
「本当に自分の立場を分かられていないようですね」
その瞬間、私の口から出た声は普段の甘ったるいものではなかった。自分でも驚くほど、鋭く、冷徹に響いた。
「…どういう意味よ」
リアナ嬢の目がぎらぎらと輝く。今になって焦っているのか。
彼女は本当に、今の状況に気づいていないのだろうか?
「だから、許してあげるって言ってるのよ。」
私がそう言うと、リアナ嬢の表情が一瞬で固まる。まるで凍りついたかのように、顔が青ざめていった。
何を勘違いしているのか分からないけれど、このアホな小娘はさっきから正気なのか。誰が誰に、ものを言っているのかって話よ。
リアナ嬢が因縁を吹っかけてきた時、私は貴女をあの場で責めることも言い返すこともなく去った。
でもそれは、周囲の目を気にしたからだ。私はリアナ嬢に対して、反省の感情など一ミリも持っていない。全ては自分のためのこと。
そもそもの話、私が周囲の目を気にする必要など、初めから無い。
私は伯爵家の娘であり、公爵令息の婚約者。
公爵や伯爵のお父様、アナスタシス公爵令息が居ないあの場でなら身分の一番高い人間は私になる。
身分が全てのこの世界で、上の者が下の者を気遣う必要なんてない。
だから貴女を見逃してあげたのは、私の気まぐれであり、自分自身を美しく見せようと思っただけの話。
けして貴女に恐れたわけでも、自分に非があるとも思っていない。
「っ、なんで、貴女がっ!…上からなのよ、」
リアナ嬢の方へ足を進めると、威勢よく鳴いていた声は段々と大人しくなった。
まるで子犬ね。
小さくて、プルプルと震えて、うるさい。小さい自分を守るために大声でキャンキャンと鳴くの。こういうのをなんて言うんだっけ?
あぁそうだったそうだった、負け犬の遠吠えだ。
まぁ、犬はかわいいけどこの子はブスね。
「ねぇ、なにか勘違いをしていないかしら?私は上よ、貴女の何倍もね。貴女は雑魚男爵の娘で私は伯爵家の娘、レベルが違うのよ。…振られた可哀想な貴女を不憫に思って今回は許してやるって言ってるの。分かる?」
リアナ嬢との距離はわずか三十センチほど
百六十センチの私に比べてリアナ嬢の身長は百五十くらいか、その身長差から目の前に立つと見下ろす体制になる。
「私がやろうと思えば、貴女の家なんて簡単に潰せちゃうのよ。」
「っ!それは……辞め、……ご、ごめん、なさ」
「聞こえないんだけど。散々人を巻き込んでおいて、ごめんなさい?」
「き、聞こえてるじゃないっ!!」
「リアナ・アンジール。…アンジール男爵家、そういえばお父様から聞いたわよ?最近上手くいっていないんですってね。爵位も微妙でおまけに貧乏なんて、大変お辛いでしょうに」
「それは、」
「ねえ、オリバー・フランクは本当に私だけが理由なのかしら?…ただ、貴女に愛想がつきただけじゃなくて?」
私がそういうと、本当にどこか心当たりがあったのか、みるみると顔が青ざめていった。
少し、リアナ嬢が可哀想だと思った。
でも、可哀想って感情はね。あくまで自分の立場が相手よりも上だと理解していて出る感情。
”なんて惨めで、可哀想なんだろう。あぁ、私はこんな子じゃなくてよかった!”
皆、表向きには善人ぶったって心の奥底ではそんなもんよ。
「さぁ、自分の立場が分かったのなら貴女の頼りないお父様に謝ってくることね、私がお父様に言う前に」
それが私からの最後通告だった。
リアナ嬢の震える姿を見て、私は何も感じない。
むしろ、私は今まで抱えてきた重荷が少し軽くなった気がして、満足していた。
「そんな!も、申し訳ございませんでしたレティシア様、謝ります。謝りますから、どうか!」
「気安く名前を呼ばないでくれるかしら。...はあ、もういいわ。疲れたからさっさと目の前から消えてちょうだい」
「っ、!!…はい、」
さっきまでの圧はどこへ行ったのやら。
リアナ嬢は小さく震えながら、私の前から去って行った後ろ姿は背中が小さく見えた。
何だがスッキリしたわね。
異性間のトラブルで令嬢たちから嫌味を言われることは少なくない。
でも、いつもは言い返さずに我慢してばかりだったからこうして、思ったことをいえてとってもスッキリした。
これで、明日からはいつもの私に戻るのよ。
かわいくて、賢くて、淑女な私として演じるの。
そして、私の人生は輝かしいものになる。
いいえ、するのよ。
私が私を幸せにする。自分を幸せにできるのは、自分だけ。
まるで、童話に出てくるようなお姫様みたいに。キラキラしてて、輝かしい未来を目指して。
だって、物語の最後に笑うのは。『かわいい』顔をした女の子だから。
私は、幸せになるの。幸せに…
「…レティシア?」
庭園の静寂の中、突然、私の名前を呼ぶ声が響いた。
聞き覚えのある声。頭を使わなくとも、その声の持ち主が誰かということくらいは簡単に察しがついた。
・・・あぁ、今日は本当についていないみたいね。
「…公子」
顔を上げると、予想通りそこに立っていたのは私の婚約者、アナスタシス・ティアルジだった。
「レティシア…?」
今まで作り上げてきた、私のキャラ。
伯爵家の一人娘、純粋無垢なお嬢様。誰に対しても親切で優しい、かわいらしい令嬢。
アナスタシスの、公爵令息の婚約者として。恥の無いように私なりに、頑張ってきたつもりよ。
他の令嬢から悪女だなんだと言われようが、私は徹底して自分のキャラを崩さなかった。
公爵家の息子の婚約者でいるために。私が幸せになるために。
私が、私でいるために。
…でも、もういいかしら。
だって、疲れたもの。
それに、アナスタシスはとても賢い人だから、今更言い訳したって無駄。
あぁ、私が望んでいたものは本当にこれだったのかしら。
美しい王子様と結ばれるための美しいお姫様役が、こんなにも疲れるものだとは思ってもいなかった。
「どうしてこちらに?」
「…言ったでしょう、あとで庭園を案内すると」
何をどう言っても、今更取り繕っても無駄だと感じさせる冷たい声色…。
私に話しかける時はいつだって甘く優しい声色だったじゃない。
「そういえばそうでしたっけ。あはは、忘れていました、ごめんなさい。」
私は笑顔で応じる。
別に、笑顔を作ろうなんて意識はしていない。きっと、長年彼の前で笑顔を作り続けた名残だろう、その笑顔は意識せずとも勝手に浮かんだ。
「レティシア、君は...!」
アナスタシスの必死な声を聞いても、私の心はピクリとも動じない。
優しい彼のことだから、私がすべてを打ち明ければきっと彼も私を理解してくれるだろう。
だって、彼が私を愛していたことはずっと、感じていたから。
でも、もう全部遅いのよ。
「リアナ嬢の言っていたことは何一つ間違っていませんよ」
アナスタシスの声を遮るようにして、話し始める。
問いただされるくらいならば、いっそのこと自分から自白してしまおうじゃないか。
「公子様、私悪女なんで。自分のかわいさを使って自分の価値を証明したい惨めな女なんですよ。あなたと婚約をしたのも自分のため、貴方のことなんて全く愛していません、ごめんなさい♡ …では、そういうわけなので、さようなら。」
その言葉は、心の中でずっと抑えていたものだった。
ずっと隠し続けていた、私の本当の気持ち。
ようやく、全てを言葉にして放った瞬間、心の中でプツン、と何かが切れた音がした。
はいはい、これでもうおしまい。
バイバイ、私の理想の王子様。
あなたは優しくて優秀だからきっと私みたいな性格の悪い女よりもずっと良い人が見つかるわよ。
恩は感じている、愛は無くても尊敬はあった。
あなたのために、全てを捧げられる忠誠心だって。
…でも、結局私はあなたを利用してきた。
ごめんね、あなたはずっと私を想ってくれたのに。
「待て、レティシア!!」
「…婚約破棄の件ならきちんとお受けいたしますのでご心配なく、公子様」
「婚約破棄だと?一体何を言っているんだ、落ち着いてゆっくり話を...」
何を言っているのか、それはこっちのセリフよ。
私が全て悪いのよアナスタシス。あなたを騙していた、私の責任。
だから私の方からあなたを解放してあげる。
「どうかその手を離してください、迷惑です。」
さようなら、アナスタシス。
あなたの持ってる才能が、大好きでしたよ。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「本日付でお嬢様の専属メイドに選ばれました、エミリーと申します。これからどうぞよろしくお願いいたしますレティシア様。」
エミリーは静かに頭を下げる。彼女の顔に浮かんだ表情は、まるで感情がないように冷たく機械的だ。その目線が私を一瞥しただけで、何の反応も示さない。
「こちらこそよろしくね、エミリー。えへへ、新しいメイドさんなんて少し緊張しちゃうわね」
「お嬢様が緊張されることはありません、私はただの使用人ですので」
よろしくね、と飛び切りの笑顔とぱちーんと愛らしいウィンクを決めてみるものの、メイドの表情は変わらない。
この子はちょっとドライな子みたいだ。
前のメイドみたく嫌われる前に媚でも売ろうかと思ったけど、私の全力の笑顔を振りまいてもその反応は...流石の私でも少し落ち込む。
リアナ嬢の事件から一週間の月日が経とうとしていた。
アナスタシスに腕を掴まれた後、無理やりアナスタシスの手を振り払ってお父様の元へ走った。
「お父様…」
私が小さく呟いた言葉は、無力感が露わになった声だった。
賢いお父様はすぐに只ならぬ状況だと察し、私を連れて馬車に乗り込んだ。急いで伯爵家へと戻る中で、父が見せた真剣な顔つきに、私は何も言うことができなかった。
家に帰ると、すぐに使用人たちが私を気遣って、着替えや温かいお茶を用意してくれた。
それは、この家の主人であるお父様の前だからだ。
「一体何があったんだ」
父は心配そうに私を見つめるが、私はその視線を避けるように俯いた。
「シャンパンをかけられてしまいまして…ごめんなさい、迷惑をかけてしまって。」
「一体誰にだ。」
「…アンジール男爵令嬢ですわ」
明確な名前を言うと、お父様の顔はより険しくなった。
「アンジール…絶対に許せん」
父の声は普段の冷静さを欠き、まるで怒りがこぼれ出しているようだった。私はその姿を見て、何か心の中で温かいものが込み上げてくるのを感じた。
お父様はリアナ嬢への怒りだけでなく、どうして近くに使用人が居なかったのか。どうして誰も令嬢一人を守れなかったのか。と、使用人たちに対しても強く怒っていた。
それは、私に長年仕えてきたメイドたちを一式変えてしまうほどだった。
その話を聞いて長年連れ添ったメイドが居なくなって悲しい、そんな感情は微塵も生まれてこなかった。
両親が私のために動いてくれた、怒ってくれた。そのことについての喜びと、忙しい中私なんかのために手間をかけさせてしまった申し訳ないという気持ちくらい。
そもそもの話、私はメイドたちを気に入っていなかった。
メイドたちもまた、私のことを嫌っていただろう。
話しかけても無視をされたり、お父様とお母様が居ない前では頻繁に雑な仕事をしていた。
恐らく、一般的にいう虐めというものを私は受けていた。
それでも私は気にならなかった。
私はかわいいから、容姿が全てなんだと言い聞かされて育ったから。それ以外のことなんて、どうだってよかったのだ。
「お嬢様、旦那様がお呼びです」
「今行くわ」
そうして、新たにお父様から与えられたのがこの新しいメイドのエミリー。
リアナ嬢の事件の次の日、朝早くからエミリーに呼ばれ、案内されるまま付いて行くと廊下を渡った先に見えた玄関で、お父様の姿を見つけた。
そして、お父様の足元で土下座をする二つの人影が。
「旦那様、お嬢様をお連れいたしました。」
「あぁ、来たかレティシア」
「お父様...」
エミリーの一声でこちらに気が付き、下に落ちていた視線を私の方へずらしたお父様。
「あぁ!!レティシア・フォンディア嬢...!!この度はうちのバカ娘が貴女に多大なる御無礼を働いたと聞きました。誠に、申し訳ございません...!!」
アンジール男爵が地面に額を擦りつけるような勢いで土下座をする。
その横には怯えたように震えるリアナ嬢の姿があった。
二人がここまでして謝っているのは、決して私のためではない。自分たちの家の名誉のためだ。
「その...本当に、ごめんなさ...」
リアナ嬢の声は消え入りそうだった。
二人が必死に頭を下げる姿は、何とも惨めで哀れだった。
話を聞けば、庭園で私と対峙した後、本当に父親にすべてを自白してしまったそうだ。
私よりも先に話せば許してもらえると本気で考えたのか、それとも父親にまだ力があると信じていたのか。
まあ、どちらでもいいけれど。
あまりにも無知で、愚かすぎる。
別に、リアナ嬢を許しているわけではない。そもそも、恨んですらいない。私の恨みは、庭園で返したつもりだったから。だからといって、お父様に話して助けてあげるほど情を持っているわけでもない。しかし人生を無茶苦茶にしてやる、なんて感情はサラサラない。
――でも、そうね…
「リアナ嬢、少しお話いたしませんか?」
「…へ、?」
ニッコリと微笑んでそう告げると、リアナ嬢は明らかに困惑し、何が起きたのか分からないといった様子で私を見つめていた。
「アンジール男爵も、よろしいですよね?少しお嬢さんをお借りしても」
「そ、そりゃあもちろん構いませんが一体何をする気で…」
男爵の声は怯え、私が娘に何か仕返しをするのではないかと恐れているように見えた。
「大丈夫ですよ、リアナ嬢には危害を加えるような真似をするつもりはありません。さぁリアナ嬢!許可も取れたことですし参りましょう」
お父様も心配げにこちらに視線を向ける中、何かを言われる前にさっさと行こうとリアナ嬢の腕を掴み無理やり歩き出した。
「ど、どちらに向かっているのでしょうか」
「付いてきたら分かりますよ」
リアナ嬢は不安げに何度も行先を質問してきたが、適当に流しているとそのうち質問を辞めていた。
「ここです」
私はずっと握りっぱなしだったリアナ嬢の手首を離し、くるりとリアナ嬢の方を振り返る。
「…ここは、」
「ここは我がフォンディア家の温室庭園です。リアナ嬢、私と一緒にお花見でもしましょう♡」
私の言葉に数十秒間ぱち、ぱち、と瞬きを繰り返して上の空のリアナ嬢は、やっと言葉の意味を理解したのか。
「は、はぁ…?」
そう、肩の力が抜けたように声を漏らした。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「こっちがサザンカ、こっちはオオバキリン!南国のお花ってどうもこうして愛らしいのでしょうか。まぁ、私の方が愛らしいですけどね♡」
「はあ…」
「でも何と言っても私のお気に入りはこちらの薔薇!ピンクローズにイエローローズはとってもかわいらしいでしょう?私みたいに♡」
広々とした温室庭園をゆっくりと歩きながら、我が家自慢の美しい花々を紹介していると、リアナ嬢はもう我慢が出来ないといった様子で話し始めた。
「あ、あの!!」
「ん?」
「…そろそろ、本題に入ってください。私を、この使用人が一人も居ない温室庭園に連れてきた理由。」
「理由?」
「覚悟はできています。…私のことを、あそこの斧で殴るつもりでしょう?」
「お、斧?」
予想もしていなかった言葉に、思わず動揺してしまう。
リアナ嬢の目線の先に合ったものは庭師が置いて行ったであろう、南木の傍にかけられた斧。
「出来たら枝の方であってほしいですが…我儘は言いません、これ以上お父様に迷惑はかけられません、ですが流石に死んでしまうのでどうか一発で…!」
自身のドレスの裾を強く握りしめて震えるリアナ嬢の姿は怯えているように見えて、どこか覚悟を決めた様子に見えた。
覚悟ってまさか、私に斧でヤられる覚悟…?
「ふふっ!あはは!いやっ!流石に覚悟決まりすぎでしょ!」
「何故笑うのですか…!」
「あはは!笑わない方が無理ですよリアナ嬢、貴女ったら私に斧で殴られるつもりだったの?」
「…そのくらいのことを私はしてしまったので、」
目を伏せて今にも泣きそうな顔をするリアナ嬢。
「なんだか、面白くないですね」
「…え?」
「いつもの貴女なら、”私の方が貴女を殺ってやるわー!”くらい、言ってくるじゃないですか」
「……それは、」
「別に貴女に復讐しようとも、謝らせようとも思っていませんよ。やり返しなら、あの日の夜に済ませましたしね」
正直、今までの人生でリアナ嬢よりもずっと面倒なことを仕掛けてくる人だっていた。
それにしたらまだ、リアナ嬢は可愛らしい方なのかもしれない。
「それに!私のことを明らか様に避けていくくせに、媚びだけ売るアホな令嬢より。毎度毎度こりもせずに私に喧嘩を吹っかけてくるアホなお嬢様の方が、面白いでしょ?」
「ア、アホ…?それ、わたくしのことですか…」
「貴女以外にいますか?」
私が笑顔でそう言うと、リアナ嬢はふっと目を伏せた。
その仕草にはいつもの高慢さも、喧嘩腰の態度もなく、ただ気圧されたような弱々しさだけが漂っている。
「……わたくし、あの日のことを本当に反省しています」
「ふーん?」
リアナ嬢の言葉に、私はわざと興味がなさそうな調子で応じた。
彼女の反省が本物かどうかなんて、正直どうでもいい。私にとって重要なのは、彼女がこの瞬間私の言葉にどんな反応を見せるかということだけだ。
「ずっと貴女が嫌いでした。貴女が、憎かったんです。」
その言葉には意外なほどの真実味が込められていた。私は少しだけ首を傾げる。
「憎い? 私のことが。」
「ええ、そうですとも。…わたくしは、オリバー様を心からお慕いしておりましたの。そんな彼の口から貴女の名前が出てくるたびに、貴女が憎くって仕方なかった!!」
彼女の声が急に大きくなり、その瞳には激情の光が宿っていた。
いつもの弱々しい令嬢の仮面を剥がし、素直な本音が滲み出る瞬間。
「いつでも完璧で、優雅で美しくて…。」
リアナ嬢は握りしめた手を震わせながら続けた。
「まぁそうですね、私はいつだって完璧だったので」
私はゆっくりと微笑みを浮かべたまま、彼女に一歩近づく。
「貴女が私を憎んでいた? それなら、もっと賢い方法で私を引きずり下ろせばよかったのに」
「……。」
彼女は黙り込むが、その視線は私をまっすぐに見据えている。
「この花たちだって、それぞれに違う色や形があるからこそ、美しいと思うのです。貴女もその一輪として咲けばいい。まぁもちろん♡私よりもずっと醜い草木といったところですけどね♡あ、雑草とかの方があっているでしょうか」
「あ、貴女ねぇ…?」
「でも、あの日の貴女は貴女らしくなかった。貴女は確かにアホな令嬢ですけど、あんなことをするような方ではないでしょ?」
お互いに笑い合うわけでもなく、ただ穏やかな空気の中で視線を交わす。
温室庭園の静けさが、私たちの言葉を包み込むようだった。
「何か、貴女をそこまで感情的にさせる理由があったのかしら。」
私の問いに、リアナ嬢はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開いた。
「オリバー様が、私と婚約破棄をしたいと言い出したの。」
「あぁ、そう言えばそんなことも言っていましたっけ」
「それで、オリバー様がっ、貴女とお付き合いをしているから私と別れたいと言ったのよ…!!」
「…はい?」
この子は今、何と言ったの?
私と、あの浮気野郎子爵が、お付き合いをしている…?
「うわぁあん!何なのよ!わたくしの方がずっとずっとオリバー様を愛していたのに!」
「ちょ、ちょっと落ち着いてください。どういうことですか?私がオリバー子爵とお付き合いをしているという話はオリバー子爵自身がされていたのですか?」
「えぇそうよ!!」
「はぁ?!そんなことはありえません!!」
私はきっぱりと言い放った。
それでもリアナ嬢は私の言葉を聞いていないかのように、涙を拭うこともせずに訴え続ける。
「オリバー様がそうおっしゃったのよ! 貴女に夢中で、わたくしなんか眼中にないって!」
「はぁ……全く迷惑な話ですね。オリバー子爵、あの浮気男に私が惚れ込むとでも?私には、完璧な婚約者がいるというのに」
…まぁ、それももうすぐいなくなるのだけど。
「リアナ嬢、よく考えてください。私が一度でもオリバー子爵と二人きりで話をしたことがありますか?いつだって貴女が居たではありませんか。」
「で、でも……!」
「よく考えてください。オリバー子爵が貴女と婚約破棄したい理由を作ったのは、私ではなくオリバー子爵自身です」
リアナ嬢の目が揺れる。その表情は、混乱と反発とで入り混じっていた。
「そ、そんな…でも、彼が言っていたのよ! レティシア嬢が僕を愛しているからわたくしとは結婚できないって、」
「リアナ嬢、よく聞いてください。彼が私の名前を使って、貴女を傷つける言い訳にしているだけですわ」
「…言い訳?」
「ええ、そうです。それに私、あんな浮気男タイプじゃないわ」
リアナ嬢は目を大きく見開き、私の顔をまじまじと見つめた。
「で、でも…それならどうして彼はそんなことを…」
「それは彼自身が貴女に答えるべきことでしょう。私の美貌に圧倒されたとか、私の立ち居振る舞いに憧れたとか、どうせそんなことを言っていたんでしょ?」
「…その通りですわ。」
リアナ嬢の肩が小さく震えた。その瞳に浮かぶ涙は、これまでの嫉妬や怒りとは違う種類のものだった。
「リアナ嬢、私は貴女を斧で殴るつもりも、復讐するつもりもありません。ただ、一つだけ忠告しておきますわ」
「…忠告?」
私は温室庭園の中央に咲く、見事な真っ赤に染まる薔薇の花に視線を向けながら言葉を続ける。
「貴女は気も強いし、性格も悪いし、本当に腹が立つけれど!…ですがだからと言って、オリバー子爵に人生を滅茶苦茶にされても良い結果にはなりません。惚れた弱みに付け込まれている貴女は貴女らしくない、さっさと婚約を破棄すべきです」
「…ですが、男爵家の私が子爵家のオリバー様に婚約破棄を申し出るなんて、」
「何を言いますか、普段から伯爵家の人間である私に喧嘩を売る貴女なら、そんなことは容易いはずでしょう?貴族の婚約破棄には皇族の許可が居る。その件については私から皇子に話を通しましょう」
「…レティシア嬢。どうしてそこまで良くしてくれるのですか…?わたくしは貴女にあんなことをしてしまったのに」
「うーんそうね」と考え込むふりをして、口を開く。
「だって、貴女が居ない舞踏会はつまらないもの」
考え込んだ結果、私の理由はこれだけだ。
負け犬の遠吠えが聞こえない舞踏会なんてつまらない。ただ、それだけのこと。
「…ありがとうございます、本当に。」
そう言いながら、リアナ嬢は大粒の涙を目元にためて、少しだけ微笑んだ。その笑顔はまだぎこちないけれど、彼女なりの決意が宿っているように見えた。
「リアナ嬢、貴女の舞台はまだ終わっていませんわよ。貴女は悪女らしく、最後まで足掻いてちょうだい」
だって貴女は唯一、私に話しかけてくれる令嬢なのだから。
「応援していますよ、悪女仲間としてね。」
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「お嬢様、失礼いたします」
新しく私の専属メイドとなった、エミリーが控えめに声をかけてきた。
「どうぞ」
読んでいた本に夢中だった私は素っ気ない声で返した。
「お嬢様宛にお手紙が届いております」
「手紙?パーティーへの誘いか何かかしら」
「…いえ…それが、」
私から目線を逸らすと、どこか部が悪そうな顔をしたエミリー。
「...もしかして、送り主はリアナ嬢?」
「えっ、どうしてそれを…」
「はあ...やっぱりそうなのね?みんな私にリアナ嬢の話をする時は同じ顔をするから、嫌でもわかるわよ〜気を使ってくれてありがとう、大丈夫だから渡してちょうだい」
私は少し茶化すように言った。リアナ嬢の話題が出るたびに、周囲の空気がどこか重くなるのは、私も気づいている。
エミリーは、「申し訳ございません」と一言言うと私に手紙を差し出した。受け取ると、それは真っ白のシンプルなデザインだった。
封を開けて、中を読んでみる。その手紙の内容は先日の件についての謝罪文と感謝の言葉であった。
「…ふふっ、彼女は相変わらずね」
そう言いながら、私は少し苦笑いを浮かべる。
手紙の内容は滅茶苦茶で、彼女の感情を詰め込んだような手紙だった。
オリバーに腹が立ってきた、復讐をします、見ていてください。
内容がストレートに伝わってくるその手紙の内容は、とても彼女らしい。
「そうだ、これをお先にお伝えするもりでしたのに...。お嬢様に、嬉しい知らせがありますよ!」
突然、嬉しい知らせがあると言い出すエミリー。
何か良いことがあったのだろうか、と私は少しだけ胸を躍らせる。
「嬉しい知らせ?」
そうエミリーに聞き返すと「はい」と元気よく返事が帰ってきた。
嬉しい知らせってなにかしら。お父様が新しい宝石を買ってくれた? それとも、お母様が新しいドレスをオーダーしてくれたのだろうか?
「アナスタシス公爵令息様がいらしております。勿論、お嬢様にお会いしにですよ!」
その言葉を聞いた瞬間、私の身体が硬直した。
まさか、アナスタシスが? 彼がこの屋敷に? 思わず、自分の顔がひどく青ざめるのが分かった。
アナスタシス…。彼の名前を聞くだけで、心の中に嫌悪感が湧き上がる。何故こんなタイミングで会いに来るのか。
彼だって、私になんて会いたくないはずだろうに。
アナスタシスが会いに来ているだなんて、これっぽっちも期待していなかった。いや、むしろ避けたかったことだ。
「あら?お嬢様、お顔が真っ青ですよ。どうされたのですか?」
「…気にしないでちょうだい。」
もちろん、私が真っ青になっているのは、あの男のせいだ。
だって、彼は私の「今、会いたくない人間ランキング」堂々の一位だから。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「やぁレティシア、会いたかったよ」
…私は会いたくなかったですよ。
無遠慮で手慣れた笑顔を向けてくるアナスタシスは、まるで先日のことなんて無かったかのような雰囲気だった。それが異質で、少し気味が悪い。昔から、その笑顔の裏で何を考えているか全く分からなかった。
「突然訪ねてくるなんて、いくら公子様でも失礼ではありませんか?」
私が冷たく言葉を返すと、アナスタシスは少しも驚かずに、ただ微笑んでいた。
「レティシア、チェスはお好きですか?」
なに、今、私を無視したの…?
まるで、私の言葉が聞こえていなかったかのようにアナスタシスは話題を変えてきた。
その澄ました顔がいつもは素敵に見えていたのに、今は憎たらしく感じてしまう。
「公子様は耳が遠いのでしょうか?とても心配ですわ、すぐに帰ってお医者様の元へ行くべきですね」
もちろん、これはただの皮肉だ。それに気づかないほど愚鈍な人ではないはず。
だが、彼はまるでこちらの挑発に気づいていないかのように、柔らかな微笑みを浮かべながら答える。
「僕を心配してくださるなんて本当にお優しいですね」
「…それほどでもありませんわ」
言葉を交わすたびに、胸の中で苛立ちがじりじりと燃え広がる。
この人は一体何を考えているの?私が何を言おうと、どういう態度を取ろうと、彼の笑みはまるでガラス細工のように崩れることがない。
何なのよ。私の本性を知ってるくせに、どうして私に構うのよ。
「はあ…それで?今日は一体何をしにきたんですか」
いつもならもう少し慎重に言葉を選んでいたはず。だが、彼の存在そのものが私の理性をじわじわと崩している気がした。
彼の微笑みは相変わらず完璧で、穏やかだ。だが、その無垢さがかえって神経に触る。
少し前まではあんなにも甘い声で彼に笑いかけていたというのに。
人生というものは、何があるか分からないわね。
「今日は君とチェスをしようと思ってね」
チェス? それに一体何の意味があるというの? 本当に意味が分からない。
忙しいはずでしょうに、わざわざ私の屋敷まで来てやることがチェスだなんて。
疑問はいくつも浮かんでくるが、私は出来る限り冷静を装って答えた。
目の前にいる彼に向ける言葉とは裏腹に、心の中ではため息が幾度も漏れる。
「それは、命令でしょうか。」
「ふふ、そう言えば君は僕の願いを聞いてくれるのか?」
「えぇ、公子様からの命令でしたら、ただの伯爵令嬢の私は従う他ありませんもの。」
「ならばそういうことにしよう」
彼の目がどこか楽しそうに輝くのを見て、私はますます眉間に皺を寄せたくなるのをこらえた。
部屋の空気は重たく、外から聞こえる鳥のさえずりが妙に耳につく。
窓際に置かれた机と椅子、その上には彼が準備したチェス盤と駒が整然と並べられている。
「言っておきますけど、私結構強いので」
そう言いながら、椅子に腰を下ろす。
だらだらと先日のリアナ嬢との話をされるくらいなら、さっさとチェスを終わらせて帰ってもらおう。
「レティシア嬢のチェスをする姿は何度も社交界の場で目にしたことがありますよ」
「あれは表向きに弱いふりをして相手を喜ばせてるだけです」
私がそういっても、アナスタシスの笑顔は崩れない。
皮肉のつもりで返した言葉だったが、彼の表情は微塵も動かない。それどころか、何か嬉しそうにすら見える。
普通ここはやばい女だとか、悪女だとか、思うところでしょう。
もしかして、公爵家では感情を殺すような教育でもされているの?相手にここまで言われて、笑顔を崩さないなんて。ここまで徹底されていた笑顔は少し気味が悪い。
…まぁ、私が言えたことではないけれど。
「おほん、ところで公子。どうして私とチェスを?」
そもそも、この状況自体が意味不明だ。私を試しているのかそれともただの気まぐれなのか。
「美しいゲームは美しい人とするに限るからね」
「…はぁそうですか」
「謙遜したりしないのか?」
「まぁ、事実ですし」
「やっぱり、面白いねレティシアは」
はい?
面白いってなによ、私が美しいことが面白いってこと?それとも、ただ私を馬鹿にしているの?
「レティシア、君に質問をしてもいいかな?」
静寂を破るように、彼が声をかけてきた。その声には妙な抑揚があり、私の心に警鐘を鳴らす。
「…どうぞ。」
駒を進めながら、私は心の中で答える言葉を探す。だが、次に彼が口にした言葉は、私の想像をはるかに超えていた。
「正直君はこのチェスの試合に勝敗にこだわっていないだろう?」
彼の問いかけに隠された意図を測りかねるまま、私は自分の中にある確信だけを素直に答えた。
「えぇ、だってただのゲームですもの」
「あぁ、その通りだな。それじゃあもしも、これがただのゲームじゃなく、どうしても君が勝ちたい勝負だとしたら。このゲームに勝たなければ死に関わる、ゲームに勝てば喉から手が出るほど欲しいものが手に入る。状況は何だっていい、君ならどう勝つ?」
私がどうしても、勝ちたい勝負…。
その言葉が頭の中を何度も反響する。どうして彼がそんな質問をするのか、私には分からないし、どうしてだと問うほどまでには気になってもいない。
だから私は、その質問にただ答えるだけ。
私は少しの間黙り込んだ。盤を見つめながら、心の中で彼の言葉に想像を重ねる。自分が望むもの、自分が勝たなければならない状況。そんなものが目の前に現れたら…。
そう、私はきっと、何だってするだろう。
どんなに卑劣な手を使っても、誰にどう思われても、自分の目的のために。
私は駒を掴み、次の瞬間、少し乱暴にそれを盤上へ叩きつけた。
その衝撃で、盤の端に置かれていた駒がいくつか散乱する。
「公子、私はポーンの勇気が好きなんです。弱くても前に進む姿が素敵でしょう?」
アナスタシスはその言葉に一瞬目を上げたが、すぐに盤上に視線を戻す。
「確かに、彼らの役割は重要です。しかし、前線で散る運命が多い。」
私はあえてその言葉に反応せず、次の一手を考えるふりをする。
その瞬間、私の指が軽やかにポーンを進めた。だが、その動きはあまりにも大胆だった。
通常なら一歩ずつしか進めないはずのポーンが、まるでクイーンのように盤を横切り、アナスタシスのキングの目前に現れた。
「レティシア、その動きは……」
私は「何か問題でも?」と涼しい顔で愛らしく首を傾げてみせた。その仕草は無垢そのものだが、アナスタシスの眉間には皺が寄っている。
「…ポーンがそんな動きをするルールはありませんよ」
困惑が隠しきれないアナスタシスはそう呟いた。
私はその言葉にすぐ返事をした。
「そうですね、もちろん存じ上げておりますわ。ですが、私なら勝つためならルールだってなんだって破ります。たとえ、それが非人道的なことだとしても自分の目的のためになら私は簡単に破り捨てて見せます。」
どう?ここまで言えば、なんて傲慢な女だって。流石のあなたも引いていくでしょう。
これであなたのその作られた笑みは消え去るはず。
…だが、私の予想とは反して、私の言葉を聞いた途端、アナスタシスの目が輝いた。彼はまるで私の答えが予想以上だったかのように、さらに笑顔を深めた
「レティシア、君は本当に驚かせてくれる。」
静寂が部屋を満たした。アナスタシスは何も言わずに盤上を見つめていたが、次の瞬間、彼はふっと笑った。
「自分の目的のためならなんだってする、か。やっぱり君は面白いね。その振り切った性格は少し羨ましいよレティシア」
何がそこまでツボにハマっているのか。アナスタシスは、くすくすと笑っている。
綺麗な右手を口元に添えて笑う癖は昔から変わらない。
その綺麗な手が私は結構好きだった。色白で羨ましいなんて思ったこともある、だって綺麗だったから。...私は綺麗なものがとても好きなので。
「それでは、私からも質問をしてもよろしいですか?」
「もちろん、君からの質問はなんだって答えよう」
チェスのゲーム中、アナスタシス側から話しかけてくることはあっても、私からは一度も話しかけることはなかった。
それだからか、私が声をかけるとアナスタシスは、それはなんとも嬉しそうな顔をした。
「…どうして、私の本性を知っててしつこく付きまわってくるんですか?」
いつまで経っても彼が言い出さないから、ついに私から切り出してみた。
この曖昧な空気が続くくらいなら、いっそのこと自分から本題に突き進むほうが早い。
「それはまた、酷い言い方をしますね。」
酷い?彼は軽く笑いながらそう返してくるが、普通の感性をしていれば、誰だってそう思うはずよ。
私はあなたを騙していた。それも、けして気づかれないように完璧に。本来なら怒って当然の状況だ。
公爵令息の貴方にここまで酷い言葉使いをして、無礼な真似を働いている。今までの私は全て嘘だった。アナスタシスは、その事にもう気づいている。
こんな騙し討みたいな真似をされて、怒らないほうがおかしい。
それなのに一体何故、まだ私に会いに来たのか。
「あぁそうだ、君に手土産を持ってきたんだ」
...また、話を逸らした。
「...そういうところだけは礼儀正しいんですね、人の話はろくに聞かないくせに。」
「それほどでもないよ」
これは嫌味なんだけど。分かっていてわざとこの対応なの?それとも、本当に気づいていないド天然なの?
一度もぼろを出さないし、何を考えているか分からないし...。
本性を隠さずに話せるから楽だけど、...いや、むしろ疲れるか。
思えば、いつしか私は家族の前でも理想の自分を演じていた。
完璧な仮面を剥がし、この空間でだけ、私は私でいられる。だけど、それがかえって息苦しい。
「どうぞ、召し上がってください」
「…マカロンですか?」
彼が差し出したのは、美しい箱に丁寧に敷き詰められたマカロン。
「いりません。」
「遠慮せずにどうぞ」
「してません、いりません、どうぞお下げください」
断るたび、彼はしつこく差し出してくる。
「レティシア、朝食をとっていないだろう?顔色を見ていたら分かるさ」
その言葉に、一瞬だけ心がざわつく。
確かに最近、食事をきちんと取れていないから顔色が悪いのは事実。
だけど、上から重ねた化粧で完璧に隠している。それなのに、どうして気づいたの?
「…はあ、いいですか公子。ご飯は食べたら太るんですよ」
「そりゃあ知っているとも」
「太った姿は醜い、私はそんな姿になりたくないです」
「それじゃあ体に良くないよ」
断っても何度もしつこく食べろと要求してくる彼に嫌気がさす。
一体どうしてそこまで私に構うのか、善意なのか。それとも嫌がらせのつもりなのか。
私を心配してるっていうの…?
なによ、いい人ぶらないでちょうだい。
あなただって本当は他の人たちと同じなんでしょ。
私の容姿が好きで、美しい私が気に入っている。ただそれだけ。
「だったらなんですか?あなたに関係ないでしょう。」
「いいや、関係大ありさ」
「どうして!」
「だって君は、僕の大切な婚約者だから」
その一言に、胸がざわめく。
「す、すぐに婚約は解消します。そうしたら私とあなたは赤の他人ですわ」
「アスタリアの帝国法では、特別な理由がない限りの婚約破棄は出来ません」
「...あなたの知る私は全て偽物だったんですよ。あなただって、私の見た目が好きで話しかけてくるんでしょう?それとも、そんなことは無いと言い切るんですか?」
「はい、その通りです」
まっすぐな目で、即答されるとこっちが引けてしまう。
なんで、どうして?
子供みたいに泣きつくみたいで、悲しくなる。
これじゃあ、私は惨めで仕方ないじゃないか。
「っ、意味が分からない!…なんなのよあなた。」
アナスタシスは一歩も引かない。その瞳は澄んでいて、その瞳に見つめられると胸が苦しくなる。
まるで、息が詰まるようだった。
「…もういいでしょう、アナスタシス。」
私はこの時初めて、彼のことを名前で呼んだ。
公爵家の跡継ぎ、アナスタシス・ティアルジ公爵令息に対してではない。完璧超人の公子様に対してではない。
アナスタシス、あなた自身に言うのよ。
「私をからかって遊びたいんですか?それとも、今まで騙していたことをお怒りで?それならばあなたの気が済むまで謝罪します、慰謝料だって払います。」
私にだって、プライドはある。
これ以上、あなたのペースに巻き込まれたくない。あなたと話をすると、胸が苦しくってたまらないの。
必死に我慢しているけれど、今にでも涙が零れ落ちてしまいそうなの。
お願い、アナスタシス。もう、終わらせてちょうだい。
「君と婚約解消は絶対にしないよ」
「お断りします。私は、幸せになりたいので」
「僕が幸せにして見せるよ」
「私は、私の本性を知らない相手と結婚したいんです」
「ははっ、それは果たして幸せなのか?」
返す言葉が無い。あなたの言うことはいつだって正しい。
でもね、私の人生に正しさなんて必要ないのよ。
「君が本当に望んでいるのは、それだけじゃないだろう?」
彼の目が私を見据える。その真っ直ぐな視線が嫌だった。
何もかも見透かされているようで、怖いの。
「私はもう、自由になりたいのです」
「自由になるために、僕を君の持ち駒から切り捨てるのか?」
私は彼の言葉に静かに頷く。
必死に感情を抑え込もうとする私に、アナスタシスは微笑んだ。
嫌味でもなく、冷笑でもなく、本当に優しい笑顔だった。それが余計に私を不愉快にさせた。
「レティシア、君は僕にどうして欲しいんだい?」
アナスタシスの声は穏やかで、耳に優しく響く。それが、私の怒りをどこか中途半端なものにする。
「私は…あなたと一緒にいると疲れるんですよ。」
自分でも驚くほど直球の言葉が口をついて出た。
「そうか、それは申し訳ないね」
「そんな簡単に謝らないでください。冗談ではありません、私は本気で言ってるんです!」
「僕も本気だよ。君が疲れているなら、それを少しでも軽くしたい。そう思っているだけさ」
その一言が、胸をざわつかせる。
「…どうしていつも、余裕でいられるのよ」
声が震える。どうして?そう呟いた私の言葉に彼は目を細めた。
「うーん」とわざとらしく声を出して、考える素振りまで見せて。
「君には、僕が余裕に見えているんだね。」
「困ったな」と笑うと、彼は私の方に向かって手を伸ばした。
私の顔に触れる…そう思ったが、数センチ前で彼の手は止まった。
「でも、ごめんね。…僕は君を簡単に手放せるほど、余裕は無いんだ。」
少し寂しそうな声色でそう語るアナスタシス。
どうして、そんな目で私を見つめるの?
「もう帰ってください、お願いします。婚約解消の話はまた後日お手紙をお送りしますので」
「また会いに来るよ」
「聞いていました?もうあなたとはお会いしたくありません。だからあなたもさっさと新しい相手を見つけてください」
「また来るよ、君がわかってくれるまで毎日。それじゃあまたね、レティシア」
そう言うとアナスタシスは私に向かって軽くウィンクを決めて部屋を出て行った。
「また来るよ」という言葉が、胸の奥に波紋を広げる。
その波紋は、どこか心地よいもののようにも思えたけれど、私はその感覚を急いで振り払った。
「…完全に無視ね。…はあ。」
私は体の思うままに机に伏せた。
どうしてアナスタシスは婚約破棄に同意してくれないのか。どうして、私にチェスなんて申し込んできたのか、どうして、私を離してくれないのか。
疑問はいくつも浮かぶが、今私が一番に考えなければいけないことは、これから先どうすればいいのかということ。
今日の私は完璧とは到底言えなかった。
普段ならもっと、冷静沈着に頭を使って試行錯誤できたはずなのに。子供みたいに、なんで、どうして、嫌だ、繰り返しそう言葉を並べてしまった。
やっぱり、私はアナスタシスの前だとどうも調子が狂ってしまう。
チェス盤に置かれたキングとクイーンの駒を見つめ、そっとそれを手に取った。
冷たい駒の感触が手のひらに広がるたび、心の中に湧き上がる感情が押し寄せる。
「王子様と、お姫様…」
強く握りしめた駒を元の位置に戻しながら、笑顔を浮かべてそう呟いた。
けれど、その声はどこか震えている。
「お嬢様、失礼します。…大丈夫ですか?公子様は帰られたようですが」
エミリーの声に顔を上げると、私は精一杯の微笑を作った。
「ええ、少しチェスをしただけよ。公子様ったら急用を思い出したそうなの。」
”さようなら、私の王子様。”
その心の声は誰にも届かない。彼女自身さえも封じ込めて、チェス盤を静かに片付け始めた。
あのね本当はね、アナスタシス。
私、本当は...
「それと…今後アナスタシス様が訪ねてきても、絶対に通さないでちょうだい」
ずっと、あなたのそばに居たかったのよ。
あなたと結婚して、幸せになりたかったの。
...私の、めんどくさくて汚くて、酷い性格は。
あなたにバレてしまったけど。
この感情だけは、絶対、あなたに暴かせない。
だから。さようなら、私の王子様。
あなただけが私を本物のお姫様にしてくれると思ったけど。
私みたいな人間は、あなたのような素敵な人間には釣り合わない。
私にあなたは、あまりにも眩しすぎたから。
∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴ ୨୧ ∴∵∴
「お嬢様、本日も公子様が来られているのですが、」
「…またなのね。悪いけど、いつものようにしてちょうだい」
昼過ぎ、静かな午後のひととき。お茶を飲みながら、私はエミリーの言葉に耳を傾ける。彼女の顔に浮かんだ、申し訳なさそうな表情を見て、内心でため息をつく。
もう、お願いだからそんな顔をしないでよ。私の方が悪いと思っているんだから気にしなくていいのに、そんな顔をされてしまったら私の方が申し訳なくなってしまう。
まだこの家に来て数週間しか経っていないのに、何度もあの笑顔で何考えてるか分からない公子の相手させてしまって本当に申し訳ないと思っている。
「かしこまりました、お嬢様の命令通りにさせていただきます。」
「お願いね。」
アナスタシスは、言っていた通り、毎日私に会いに来た。
公子のくせに暇なの?なんて悪態をつく元気さえ、今の私には残っていない。
彼にはもう会いたくない。
お互いの立場上、社交界の場で顔を合わせることはあっても、二人きりで会うことは今後二度とない。
だから何度アナスタシスが家へ来ようとも、エミリーに指示をしてアナスタシスを謁見室に通し、そのまま帰らすようにした。
そうして彼は毎度「また来る」とエミリーに伝言を残した。
今日もまた、彼の姿が見えるだろう。
…もうすぐ。
…見えるはず。
…見えて、
………あれ?
「何よ、今日はちょっと遅いわね。」
何かあったのかしら、もしかしてエミリーに無理にでも私を呼ぶように言ってたりしないわよね。
…いや、彼ならそんなことはしないはず。彼は誰に対しても優しく、決して強要するようなことはしない人だから。
それなら、どうして。
もしかして彼の身に、何かあったんじゃ…。
心の中で呟いた言葉が、次第に不安へと変わる。
「きゃあぁっ!!大丈夫ですかアナスタシス公子様!!」
その瞬間、一階から女性の悲鳴が聞こえてきた。
「…うそ、なに?」
な、なによ、何があったの。
一体、誰の声?悲鳴…もしかして、侵入者?この警備が厳重な伯爵家に?
…彼は、彼は無事なの。
アナスタシス様は、無事なの…!
考えるよりも先に、体が動いた。
それは、計算をしてばかりの人生だった私の人生で、考える前に体が動くなんてことは初めてのことだった。
急いで一回階の謁見室へ向かい、勢いよく扉を開けるとそこにいたのは地面に座り込んでいるエミリーの姿と。背中を向けて立っているアナスタシスの姿。
「アナスタシス!!…公子?」
言葉が震え、口から出る。
こんな状況で、彼がどうしてこんなにも平然としているのか理解できなかった。私の目の前で、一体何が起こっているの?
アナスタシスは振り返り、いつもと同じ笑顔で優しく微笑んだ。
「やぁレティシア!やっぱり、君は来てくれると信じていたよ!」
その笑顔が、私をさらに混乱させる。彼が一体どうしてこんなにも落ち着いていられるのか、理解ができない。私の心臓が、まだその恐怖と不安で揺れているというのに。
「…どういうことですか、」
私は、必死に冷静さを取り戻そうとする。しかし、混乱の中でただ言葉を発することしかできなかった。
まさか、エミリーが私を騙したのか。
目線をエミリーに向けると、顔面蒼白で何が起きたのか分からないという様子のエミリーが、震えて立っていた。
それなら、今の悲鳴は一体なんだったの?
「少し、怪我をしてしまったんだ」
そういうと、アナスタシスは私に自身の右手を見せた。
彼の右手には赤く染まった血が、少しずつ滴り落ちていた。
傷口からは血がにじみ出て、鮮やかな赤が彼の手を覆っていた。
「…刺したのですか、自分で?」
震える声でそう聞くと、彼はいつものように笑顔を浮かべた。
明るく、穏やかに笑う彼の顔は、まるで物語に出てくるヒーローのように爽やかだった。
彼の見せた右手の甲は、その笑顔に全く似合わない、真っ赤に染まった血。
こんな時、純粋で、優しくて、性格の良い、本物のヒロインならどう声をかけただろうか。
きっと、彼の手を取って支えるのが本物のヒロインの姿だろう。
側だけが美しく、中身が醜い私はただ、彼の血塗られた手に触れることも駆け寄ることもできず、呆然と見つめることしかできないでいた。
「少し、手が滑ってしまったんだ」
その言葉は私をさらに混乱させた。
手が滑った?そんなのありえない、どう手が滑ったらナイフで自分の手のひらを刺すことになるのよ。
傷口は深く、床にぽたぽたと血が滴り落ちていた。その血の音が、私の胸を締めつけるようだった。周囲を見渡すと、無造作に置かれたナイフが目に入る。
…これで彼は刺したんだ、このナイフで自分自身の手を。
………メイドを叫ばして、私を呼ぶために?
「…貴女、もう下がっていいわよ」
「ですがお嬢様、」
「いいから!!」
「っ、かしこまりました」
いつもの能天気なお嬢様とは全く様子の違う主人を見て驚き、エミリーは急いで部屋を飛び出して行った。
「僕を心配してくれたのか?優しいなぁレティシアは」
アナスタシスは、にっこりと笑いながら言った。その笑顔は、まるで何も問題がないかのようだった。だが、私はその笑顔を見て、心の中で怒りがこみ上げてきた。
「…なんで。」
私は思わず声を震わせながら、彼に問いかける。どうしてこんなことをしたのか、その理由を知りたかった。
「うん?」
「なんで!どうしてこんなことをしたんですか!…傷跡が残ったら、どうするんですか、」
私が必死に訴えても、アナスタシスは相変わらずの笑顔で答える。
「レティシアは僕の手を良く褒めてくれていたからね。大丈夫こんな傷、すぐに治るさ」
私が怒っていることにも関わらず、アナスタシスは笑顔で答えた。
どうして、どうしていつも笑顔なのよ。
治るとか、そういう問題じゃない。あなたが今、怪我をしていることが問題なのよ。
「そうじゃなくて!!私を呼び出したかったのなら、なんだって使えばいいじゃないですか。あなたは公爵令息で私はただの伯爵令嬢。呼び出す方法なら沢山あるのに!!」
言葉が次々にこぼれ落ちる。彼がどうしてこんなことをしたのか、理解できなかった。
唇が震えて、上手く声が出せない。
どうしてなの、本当にどうして。
「うん、そうだね。…強いて言うなら、君の愛を確かめたかったから?とか。なんてね」
…なんなのよ。馬鹿じゃないの。
「愛って、なんですかそれ」
その言い方なんて、それじゃあまるで…
まるで…!!
「そんな言い方、まるで、あなたが私を好きみたいじゃないですか…」
もう、勘違いするようなことは辞めていただきたい。
リアナ嬢の件で、この私の本性があなたにバレた時、これでよかったとも思った。
ずっと、あなたを騙していることに対して、心のどこかで罪悪感を感じていたから。
だから、あなたがいっそのこと、騙しやがったなこのクソ女!くらい、言い切ってくれれば。
最低だ。って、みんなのように私を悪女と呼んでくれれば…。
「僕は君が好きだよ」
…あなたを諦めることができたのに。
「…私は嫌いです、大嫌い、あなたのことなんて嫌いです、」
「本当に?」
あなたに心を読まれないように、唇を必死に噛みしめて表情を隠してみても。
きっと、賢いあなたのことだから、私の考えていることなんて手に取るように分かるのでしょう。
私の顔を覗く彼の顔は、いつもと変わらない完璧な笑顔。
作られたような笑顔、私はその笑顔が嫌いだった。
その笑顔は、どこか私と似ていたから。
私と彼の共通点はそのくらいだったかもしれない。
作られた、完璧な笑顔。相手の機嫌を伺った嘘の笑顔。いつだって、その笑顔を崩さない。私も、彼も。
でも、先に崩してしまったのは私だ。だから、私から別れを切り出しているのに。
どうしてあなたは、私の手を離してくれないのよ…。
「ほんと…」
「君は本当に、可哀想な人だ」
“本当です”そう、答えようとしたとき。彼は私の言葉を遮った。
可哀想ですって?この、私が?
「……どういう意味ですか。」
話し出したかと思えば、私が可哀想って言ったの?
…そんなのありえないでしょ。
私は美しい容姿を持っていて、素晴らしい権力を持っていて、それで、親はお金持ちで!…あと、それから、それから…
「そのままの意味さ、レティシア。…いつまでも満たされない、可哀想な人間。」
そういうと、彼はずっと上がりっぱなしだった口角を下げた。
それは、初めて見る顔だった。
その顔は、何を考えている時の顔なの。どうして、そんな顔をするの?
私が嫌いなの?好きだって言ってくれた言葉はやっぱり、私をからかっていたの?
自分の内面が暴かれ、引き裂かれたような感覚。
彼が言っていることが、もはやただの言葉以上のものに感じられる。
「なに、やっぱり、怒ってるんでしょう?」
「怒っていないさ、愛する人と話していて、怒る人間がどこにいる?僕はただ、君に愛を伝えているんだよ」
「…愛?」
さっきから彼は何度も愛だと繰り返している。
愛、これのどこが愛だっていうの…?
愛、恋愛、恋、ロマンス。
どれも素敵な言葉。
昔からお姫様と王子様が結ばれる物語が好きだった。
とってもかっこいい王子様と、とってもかわいいお姫様が結ばれる物語。
主人公の女の子が幸せになる、単純なハッピーエンドの『愛』の物語。
私たちのこんな歪んだ関係は『愛』なんかじゃない。
…いや、そもそも私は、純粋無垢な女の子ではない。
その時点で、私の理想の人生計画は破綻していた。
そのことは遥か昔から気づけていたはずのこと。それを今の今まで、自分の奥に隠しこんで。必死に、純粋無垢なお姫様を演じてきた。
でももう、隠しきれない。
私は分かっているの。自分が、物語のお姫様になれないってこと。
「愛だよ、レティシア。僕たちはお互いを知り、見せ合い、さらけ出したんだ。それこそが愛だろう?」
アナスタシスの言葉には力強さがあり、確信を持ったものが感じられる。しかし、レティシアはその言葉に反応できない。彼女が憧れたお姫様の物語のような「純粋な愛」は、もうここにはない。
彼女が求めていたのは、こんな愛じゃない。
もっと、純粋で、もっと美しい、誰もが羨むような愛だった。
「僕たちは初めてお互いをさらけ出して話せたんだ、こんなにも嬉しいことはあるか?…はるか昔から分かっていたさ、君がひねくれた性格をしているってことは」
「…私の美しい容姿の裏には黒くて汚い本性が隠れていたのよ。それを知った上で、私を愛していたと言っているの?」
分かっていたなんて、どういうことなの。
それはつまり、庭園でのリアナ嬢の件の出来事よりもずっと前から、知っていたということ?
自分の美しさが全てだと思っていたあの頃の自分、その裏に隠していた醜さを知ったうえで、彼は今も愛していると言っているのか。
…そんなのありえないわ。
だって、それなら、どうして私を突き放さなかったのよ。
「あぁ、そうさ。僕の顔色をいつも伺って、その甘い声で甘い言葉を囁く君は本当にかわいらしかったよ」
アナスタシスは少し黙り、真摯な表情で答えた。
話しながら、一歩一歩、こちらへと足を進めていく。
彼が歩み寄るにつれて、私の心はますます動揺を隠せなくなる。
後ろにはもう逃げ場などない。目の前の彼に、全てが見透かされているように感じた。
どんどん近づく彼に、反射的に体が後ろへ下がるが。後ろは扉、逃げ場はもうない。
彼との距離はわずか数十センチ。
「だがやはり、素の君の方が素敵だ。愛されたくて、自分のそばからみんなが離れていくのが怖くて。誰かに好かれていないと意味がない、自分の自尊心が満たされない。そうだろ?」
…その言葉は、正直に言って図星だった。
いや、それよりもずっと嫌な感情。ずっと隠していたものが、曝け出されてしまった。これは羞恥心でも、不快感でもない。初めて感じた感情。
逆切れだ。そう、思われてもいい。
今、彼に言い返さなければ自分が自分で無くなってしまう。
全てを知ってしまう。いや、気づいてしまう。
それはダメよ。私はまだ純粋無垢なお姫様を演じて居たいの…
「うるさい、!!」
その瞬間、手が空を切った。アナスタシスの顔を叩くつもりで振り上げたその腕は、目の前の彼によってあっさりと掴まれてしまった。
「っ、離してください!」
必死に振り解こうとするが、アナスタシスの力は強く、身動きが取れなくなる。
真昼の強い日差しが、二人を包み込んでいた。彼の顔は光の中でぼんやりとしか見えない。その顔が笑っているのか、それとも先ほどの冷徹な表情をしているのか、分からなかった。
「アナスタシス…?」
今、あなたはいつものように笑っているの?
それとも、さっきのように初めて見る表情をしているの?
彼が笑っているならば、それは以前のようなあの温かい笑顔だろう。
そうであって欲しい、そう心から願った。
しかし、今の彼はどこか違う。もっと深く、まるで、私の全てを見透かしたかのような…。
「惨めで、可哀想な君を」
その言葉は、私の心を突き刺すように響いた。
少し黙った後、アナスタシスは再び口を開く。
「…愛しているよ、レティシア」
その時、彼は私の唇へキスを落とした。
アナスタシスの唇が触れた瞬間、世界が静止したように感じた。
そして、その言葉がレティシアの耳に届いた瞬間、彼女は全てを忘れたような気がした。
アナスタシスの腕が腰に回り、頬には右手が優しく置かれている。
その手は傷を負った血塗られた手。彼の血の匂いと、彼が好んで使っていた馴染みのある香油の香りが混ざって鼻を突き、頭がくらくらとした。
彼の手を伝って私の頬にも血がべっとりと付いてしまっており、湿った感覚が気持ち悪い。
…私は、その時気づいてしまったのだ。
いいえ、本当は私、分かっていたの。自分が物語に出てくるようなお姫様じゃないこと。
お姫様を守るかっこいい王子様は、本当の私には居ない。
だから自分で自分を守ったの、自分自身を偽って、完璧なお姫様を演じた。そうしたら、かっこいい王子様のあなたが守ってくれると思っていたから。
長年憧れ続けた王子様とのキスは、理想のとっても甘いキスなんかじゃない。
鉄の錆びた味がする、まっずいキス。
でも、その変な味までも私たちの愛だとあなたは言うのかもしれない。
だって、それが私とあなたの関係だから。
アナスタシスと唇が触れ合った時、自分の中でぷつん、と。何かが切れ落ちる音がした。
いいや、もっと分かりやすく言うならば。
長年張られていた、『純粋無垢なお姫様』を演じる役が降板になった音。と言った方が正しいか。
愛に飢えたレティシアにとって、アナスタシスからの大きすぎる歪んだ愛は大好物。
イかれてるレティシアと、そんなレティシアを愛してやまないアナスタシスは”お似合い”というやつなのかもしれない。
二人の関係は、婚約者。
これから先この関係が変わるとすれば、夫婦という選択しか残されていない。
レティシアは、この世の誰よりも『美しさ』と『かわいらしさ』を求めていた。
そして、彼女の願い通りにレティシアはこの世界の誰よりも愛らしく、美しく、かわいい人だった。
そして、彼女はこの世界の誰よりも、自分の醜さに怯えていた。
これから先の長い人生の中で、レティシアはいつまでも自分が愛されているかどうか。
自分の美しさにまだ価値はあるのか。
自分は、今でも『かわいい』かどうか、不安でいっぱいな人生を送るだろう。
生まれ育った環境や与えられた言葉によって、彼女はこじらせてしまっている。
その病的な感情は、直すことなどできない。
だが、彼女のそばにはこれから先ずっと。
レティシアを愛してやまないアナスタシスが居る。
レティシアが憧れてやまなかった、美しい純愛ラブストーリーとは真逆の歪んだ関係の二人は、とても醜い愛だ。
…でも、この物語は美しい。
何故なら、主人公のレティシアは。
とっても『かわいい』悪役令嬢様なのだから。