東雲悠真 2
「ミミ叔母さん。もう一度聞くけど、ここって喫茶店だよね?」
「はい」
「…………コーヒーは?」
「コーヒー? 何で?」
ミミはさも不思議そうに首を傾げる。
そんな仕草に「あれ? ひょっとして僕は夜行バスの中で異世界転生したのかな?」と悠真は思った。
「うちはコーヒーの代わりにチャーハンです」
無論そんな筈もなく、コーヒーはちゃんと存在している。
この物語は『コーヒーがない世界へ転生したオレ』ではない。その証拠にミミは自信満々に、ない胸を張り上げて主張しているのだから。
「喫茶店だからコーヒーが出る――そんな考えは固定概念ってやつですよ? ユーマ君はもっと柔軟な思想を働かせないと」
「むしろ主役でしょ……っていうか、その心は何処から?」
「コーヒーって不味くないですか? あんなの意識高い系が我慢して飲んでる泥水ですよ」
おいコラ、と悠真は思った。全世界のカフェに謝れとも思った。
「ねぇ叔母さん。ぶっちゃけこの店って大丈夫?」
「大丈夫とは何ですか大丈夫とは」
「いや……だってさ……」
現在時刻は午前九時。モーニング真っ只中の時間帯である。
だというのに客足が寄り付く気配は皆無だ。最初は隠れ家的な店なのかと思っていたが、先のやり取りを契機に雲行きが怪しいことを察する。
「そんなの」
されどミミは肩肘を張って、堂々たる様子で言ってのける。
「火の車に決まってるじゃないですか」
「やっぱりね。自信満々に言える叔母さんが凄いよ」
「えへんっ」
無論、褒めてなどいない。悠真はガクリと肩を起こしながら湯呑を空にする。
如何にもインスタントっぽい、毒にも薬にもならぬ味だった。
「バイト」
「はい」
「今日から……明日からかな? どっちでもいいけどさ。こんな状況で雇える余裕なんてあるの?」
「叔母さんを舐めないで下さい。五百円くらいならちゃんと出せます」
「労基違反」
「私が小さい頃は、三百円のお小遣いでしたよ?」
「しかも一月の給料だった!」
いよいよもって駄目だと悠真は頭を抱える。
思えば最初からおかしな話だった。家族にとっては恥の証拠で、普段から関わりを避けている緑谷家である。それに悠真の兄弟姉妹はいずれもが成果を残しており、放蕩息子の厄介払いと考えれば合点がいってしまう。
そんな画策が見えてしまえば、同時に物理的な粗も見え始める。レトロと言ってしまえば耳当たりが良いものの、あらゆるところに摩耗が見える。テーブルには亀裂が走っていて、窓の隅にはセロテープが貼り付けられ、おまけに柱まで傾いている。カウンター脇に鎮座している皿は雨漏り対策と思われ、その上で寝そべっている一匹は肉玉のようにブヨブヨとしていて――
「なにアレ?」
悠真は指差す。三種の毛色からして生き物であるということは想像出来た。
「うちの看板猫です」
「看板猫」
「名前は利蔵」
「渋すぎる」
名を呼ばれたことを察したのか、不細工な三毛猫――利蔵は呑気な欠伸を漏らす。
ノッソノッソと歩く様は猫にあるまじき遅さであり、ミミの足にすり寄ってみても愛らしさの欠片も感じなかった。
「これでも立派なマスコットです。ほうら見てください。よく見るとつぶらな目で結構――」
とミミは掲げようとしてみせて、
「重い」
放り投げる。
つぶらな瞳など、ちっとも見えなかった。
「あの……叔母さん」
そのまま悠々と外出する利蔵を見送りつつ、悠真は口を開く。既に看板猫でもなくなったと思いながら。
「僕さ他でバイトするから。空き部屋だけでも貸してくれたらいいから」
「何故に? ユーマ君はうちの手伝いに来てくれたのはないのですか?」
「なんでって言われても……ねぇ」
「パッと見アレですけど、うちは福利厚生しっかりしてますよ? 母の遺産だってまだ三割は残ってますし」
「その言葉が既にアレなんだよなぁ……」
全体額がどうあれ、食いつぶし食いつぶしであることには違いない。まとまった金が手に入るまでの拠点程度に留めておくべき算段をするも、
「いやほんと……うちは良いですから」
ミミは離さない。
ジャケットをぐいぐいと引っ張って、能面のような瞳を悠真へと向けている。
「一緒に働きましょうよ。絶対に後悔させませんから」
「…………」
「お試しに。三カ月だけでも。さきっちょだけでも」
「…………はぁ」
色んな意味で間違った勧誘文句に、悠真は溜息を吐く。昔からこういう人だったと思い出したのだ。
一見落ち着いているような言葉遣いを見せながら、その本質は向こう見ず。根拠のない自信を一杯にして、幼き悠真のことを振り回していた。
(ひょっとしたら面倒係だったのかも)
だからこそ追い出した父のことを好意的に解釈してみせる。今も一人暮らしている遠い家族を思ってこそ、悠真を遣わしたのだと、かなりの性善説だと分かっていながら。
「……分かったよ」
「え?」
「分かったって言ったの! この店で働けばいいんでしょ?」
「ユーマ君……!」
そう言うとミミの表情がふにゃっと和らぐ。まるで帰ってきた主人を前にした猫のような上目遣いで。
我ながら甘いと悠真は思った。そんな顔を見ているだけで、先行きの重さを忘れてしまいそうになったのだから。
「でも給料はちゃんとしてよね? 僕だって無一文なんだし、せめて遊ぶお金くらいは少しでも――」
そして半分照れ隠しに、ぶっきらぼうに続けようとした時だった。
「っっっっっらぁ!!」
怒声。
外からビリビリと、古びたガラスを突き破らんばかりの勢いだった。
「あ、ヤバイです」
そこからのミミの動きは早かった。
竦み上がってしまった悠真の傍をすり抜け、入口の錠を掛ける。
「開けろ! 開けろやゴラァ!!」
すかさず施錠されたドアが揺れる。ドンドンと乱暴に叩き、ガチャガチャと取っ手が前後する。声のドス加減はおおよそ常人に発せるものではなく――
「おらクソガキ! いるんだろ!? 今日こそ耳を揃えて返しやがれってんだ!!」
明らかに普通じゃない。
葬式でもないのに黒服を着てそうな『そっちの人』であることが明らかだ。
「しつこいですねぇ」
しかしミミは狼狽えない、というか食傷気味な態度だった。
殴られるドアを前に仁王立ちで、さも鬱陶しそうに腕を組む。
「いずれ返すって言ってますよね? 何回言ったら分かるんですか?」
「今日で合計三十四回目だよ!! もう聞き飽きてんだよコッチは!!」
「む、回数を数えているとは……中々に女々しい男ですね」
「どの口が言ってんだ!! テメーいい加減にしねえとアニキ呼ぶからな!! アニキはな、ヤバイんだぞ!? アニキが来たらお前なんかなぁ……その、こう……すごいんだぞ!!」
「すごいとは? もしや私の身体を卑猥薄本みたいに? なるほど……現役JKに助平の限りを尽くす、エラい奴を呼ぶつもりと」
「お前にみたいなガキンチョにんなことするか!! 鏡見て言いやがれ!」
「なんですと!」
一枚隔てて男とミミが言い合っている。
そんなやり取りを、悠真は部屋の隅で見守っていた。カウンターよりもずっと奥の、厨房スペースからコッソリと。
「いいか? マジで返さねーと、この店を抵当に入れてもらうかんな!! そのへん分かってんのか!?」
「なっ……卑怯ですよ!! 店を人質に取るなんて!!」
「なんとでも言いやがれ!! 覚悟してけよマジで!!」
そう言い残して、男は去っていった。窓から見えた横顔は思ったよりも若い。
しかし苛立たしげに唾を吐く様と頬に走るタトゥーが、真っ当な金貸しでないことを感じさせる。
「ミミオバサン」
それから間もなく――二分ほどの時間をおいて悠真はミミの元へと駆け寄る。何度も何度も窓の外を気にしながら。
「叔母さん」
そしてもう一度言った。
硬くなっていた自分に気づいたらしい。今更そんな取り繕いをしたところで意味はないが。
「はい」
ミミは普通に答える。対照的に大した肝っ玉っぷりで、悠真も勇気づけられる。
これなら大丈夫。何も心配することはないのだと思いながら――
「今までお世話になりました」
「逃がしません」
逃走は遮られた。




