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珈琲を飲めば桶屋が儲かる  作者: 弱男三世
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武澤大雅 6


「タイちゃん」


 吐いた息が白く昇り、霜に覆われた光が朧げに射す冬の朝だった。

 手を洗うだけでもかじかむと言うのに、ミサトは布巾でテーブルを拭いて回っている。屋敷は二人で暮らすには余りにも広く、それでも彼女が掃除を欠かしたことはない。


「今日は早かね? どげんしたん?」


 たとえ身重になろうとも、ミサトは変わらない。

 甲斐甲斐しく世話を焼いて回って、一徹明けの大雅に笑顔を見せる。


「ミサ姉」


 対する大雅の声は暗い。居たたまれなさを感じる屋敷と、先日ガラの悪い男から手渡された名刺。渡りに船のようでいて、去るという選択に後ろめたさも感じる。まともに眠れぬ日が続いていたのだ。


「俺がやるから。ミサ姉はゆっくりしてろ」


「なんくるないなんくるない。こう見えても結構」


「いいから。そこにいる奴が一番大事なんだろ? だったら俺なんかに気ぃ使ってんじゃねー」


「あ……」


 大きな腹を見下ろしながら、ミサトから布巾を奪い取る。声色もつっけんどんな物だった。

 ミサトに当たっても仕方がない。そうは分かっていても、大雅にはずっと現実が呑み込めずにいた。


「ごめんね、タイちゃん」


「…………なんで謝る?」


「あれからタイちゃん、がばいおこっとーから」


「そりゃ怒るだろ? むしろミサ姉は何だってあんなクズを庇う?」


 弱ったフリをして家に潜り込んだ政治家。あろうことかミサトの優しさに付け込んで狼藉を働いた。

 その事実は大雅の中でどうあっても覆せない。おまけに捨てることの出来ない跡を、彼女の身に刻みこんだとあれば。


「うちは、それでも好いとーとから」


「…………」

 

 されど思いのベクトルは正反対だ。大雅はミサトの好意が苛立たしかった。ずっと一緒にいた自分よりも、僅かな時間の余所者に向かっているという事実と――それを向けられていながら、彼女を置いて去ったという現実が。


「黙って出ていっただろ?」


「あはは……まぁ、それだけはうちも許せん」


 ミサトは笑いつつ、そして言葉ほど怒ってはいない。緑谷美里はそういう人間だった。冗談めかして誰かを非難することはあっても、心から誰かを憎むことなど一度もなかった。


「タイちゃん。うちは後悔なんて、しとらん」


 だから本当は大雅にも分かっていた。


「うちはしたいようにして、したいように生きただけ」


 赤の他人である大雅を拾った時もそうだった。

 緑谷美里は何一つ捨てることが出来ない。


「なぁんも後悔しとらんよ」


 それが破滅的だなんて、幼心にもずっと分かっていた。

 いずれは拾え切れなくなって、自らの身を滅ぼすのだと――だからこそ支えなければいけないと思いながら――


「…………馬鹿」


「うん。きっとそうやね」


 それが出来なかったからこそ、大雅は歯を噛み締めている。胸の奥から湧き上がった後悔が全身を蝕み、チリチリと目の奥を焼いている。


「でも……そうさねぇ。この子のことだけは心配。せめてこの子が大きくなるまではけっぱらないと」


 言って、ミサトは腹を擦る。かつて大雅に向けられていたものと同じように、そこに宿る命を慈しんでいた。


「勝手なこと、言ってもいいかな?」


 故に笑顔だった。不安も憂いも知ったことかと、そう言わんばかりの向こう見ずを晒け出して――


「うちにもしものことがあったら、この子のことを――」


 それが緑谷大雅の知る、緑谷美里の最期の記録であった。

 どう答えたのかは覚えていない。大雅は次の日の朝に人知れず、この街を出ていったのだから。




「…………あぁ」


 夜空を見上げながら、武澤大雅は呟く。

 気つけば刺すような外気と猫の鳴き声。全身がズキズキと痛みはしたが、死んでもいなければ深手も負っていない。むくりと身を起こして明かりの消えた屋敷を見上げる。


「ミサ姉」


 ボロボロの胸ポケットから、先の曲がった煙草を取り出す。囁きの対象はもうそこにはおらず、昇る紫煙が線香のように思えてしまう。


「ミサ姉……!」

 

 それでも涙は堪えた。

 捨てたのは他ならぬ自身であり、それを今更悔やむ権利などないと思えたから。


「ごめんな……薄情なことばっかしで……!」


 震えた手で煙草を握りつぶす。身体中の引っ掻き傷も、掌に伝わる激痛も、胸を焼く業火に比べれば罰にさえならない。

 大雅はまたしても悔いていた。嫉妬に駆られてこの街を出て、嫉妬に駆られてぶち壊そうとしていたことを、二十年近くの時を経て。


「アニキ」


 そんな大雅の下に弟分が駆けつける。一体いつからつけていたのか、同じような掻き傷を抱え、ついでに毟られたであろう髪の毛が悲愴感を漂わせている。


「昔、アニキに何があったのか分かんねえっすけど」


 大きな十円ハゲを片手で隠しながら、一言一言選ぶかのように。


「…………」


「でも俺、やっぱり思うんっす。こんなのアニキらしくねえって」


 何を持って『らしい』と言えるのか、大雅には分からない。虚勢と暴力によって築き上げてきた今が、何を証明出来たというのか?


「…………偉そうな口利いてんじゃねぇ」


 されど大雅は言ってのける。ぽかりとサブの頭を叩いて、不敵に笑って見せる。

 何せ後悔はもう十分。大雅は阿呆であり、一度そうと決めたら引くことを知らぬ。自分のやるべきことは、既に示されているのだから。


「無防備な若造を殺して何が楽しい? それよりもこっち側の方がずっと面白そうじゃねえか」


 かつての屋敷を背にして、大雅は寝静まった街へと振り返る。

 そこに潜んでいる同業者がどれだけいることか? 故郷の土地を吸いつくそうとしている無法者のことを考えると、昔のように熱く血が滾る。


「喧嘩は華だ。そうじゃなくっちゃあいけねえ」


 一方的にぶちのめすなんざ、それこそらしくもない。

 自らにそう言い聞かせ、大雅は歩み出す。


「アニキ」


 そんな大雅の前に、サブが立ち塞がる。


「お供します。お供させてくだせえ、アニキ」


 何時もの無遠慮さは潜めて、従順な舎弟のように頭を垂れて。

 後藤佐武吉はかつて荒事とは無縁そうな男だった。質の悪い同級生に絡まれることが日常で、袋にされているところを大雅が救った。


「役には立てねえかもしんねっすけど、それでも」


 今になって思えば、ミサトの真似事のつもりだったのかもしれない。自分がかつてそのような存在であったように、自分の手でも誰かを救えるんだと、そう思いたくて。


「期待してねえよ」


 大雅はぶっきらぼうに吐き捨て、それでも拒絶はしない。

 背中を見せることが漢の姿であるのだと、極道者としての矜持を見せつけて。


「サブ! 明日はどんな感じだ?」


「へえ! 叔父貴連中の準備も整ってるみたいっすし、きっと暴風雨になりやす」


「そりゃあ楽しみだ……っつっても、猫はもう御免だがな」


「…………っすね」


「アレに比べりゃあ、弾丸も生易しいもんだろ?」


 四方を見渡し、その姿がすっかり見えなくなっていることに気づく。

 襲撃もそうなら統率もしっかりとしていた。まさしくこの街の支配者だと、虎でさえも肩を竦めて笑う。


『何があったが分かんねーが……一時の気の迷いで全部投げ出すのは、馬鹿のやることだ』

 

 星の瞬く冬空を眺めながら、大雅は自らの発言を思い出す。


『投げ出そうとしてるもんの中には、きっと大事なもんだって残ってんだから』


 つい先日通りすがりに突き付けた言葉だ。考えもなしに並べたものであったが、妙に的を得ているような気がした。


『大雅? じゃあ……タイちゃんでいいかな? 今日からうちの家族やさかい、愛称っていうのも大事やもんね!』


 その答えは記憶の中。暖かくてこそばゆく、今も胸の中で熱を放ち続けている。

 

 不味ったと、ずっと大雅は思っていた。

 どれだけやらかしたかは数知れず、何時からなのかも分からない。少なくとも間違え続けた結果が今の自分に繋がっている。


「とりあえず――」


 そして分かっていることがもう一つだけ。自らの頭を掻くと、指に抜け毛がビッシリついている事実だ。


「俺、今どんな見た目してる?」


「落ち武者っすね。なんで頭にペンペン草生やしてんすか?」


「お前もな」


 酒の代わりにバリカン二つ。かつて馴染みであった理髪店の親父を叩き起こす必要があると、そんなことを考えていた。


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